モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その84:ボタニカルアートの始まりの一点。「ルーヴル美術館展」

2009-05-05 08:59:25 | ときめきの植物雑学ノート
アンブロシウス・ボスハールト『風景の見える石のアーチの中に置かれた花束』

また1枚の絵葉書が来た。
何とルーヴル美術館展に展示されている絵ではないか!
という出だしにしておこう。

サクラの時期にこのルーヴル美術館展を見に行ったがすっかり忘れていた。
フェルメールの『レースを編む女』だけで十分かなと思っていたが、実は2点ほど気になった絵があった。

1点目は『大工ヨセフ』(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1642年頃の作)で、
大工仕事をするヨセフの手元をろうそくを持った孫かと思われる子供が照らしている絵で、解説では使徒ヨセフがイエスのための十字架を作っているという絵で宗教画として説明されている。
これよりは、ジイ様と孫が明日生きるために助け合って勤労している絵であり、生きる喜びを感じるし、勤労の美しさが伝わる写実的な風俗画として受け止めたい。

カソリック国家フランスでは、宗教画以外売れそうもないのに、オランダ同様に風俗画或いは写実主義的な絵を描く画家がいたので感心した絵だった。

解説を見ると、生前はやはり評価されずに苦労した画家のようだ。この画家がフランスでなくオランダで活躍していればフェルメールと並ぶ評価を得ることが出来たのだろう。
イエスキリストにこじつけなくとも、このあるがままの絵は実に素晴らしい。


気になった2点目の絵が、絵葉書でもらったものだった。

『風景の見える石のアーチの中に置かれた花束』
(絵葉書)
アンブロシウス・ボスハールト(Ambrosius Bosschaert 1573−1621年)
1619-1621年作、油絵、23×17cm、ルーヴル美術館蔵

この絵は、作品的には素晴らしいとは評価したくないが、記念碑的な絵であることは間違いない。何が記念碑かというと『花』が主役になっている或いは『花』を主役にした絵画が誕生した記念碑的な画家であり作品だからだ。

それまではボッテイチェリのプリマヴェーラ(春、1477-1478年頃、ウフィツィ美術館)のように、ヴィーナスの周囲に多くの草花を背景として描く程度だった。
花を主役にした絵画を「花卉画」というが、その始まりは17世紀の初め頃であり、16世紀を代表する画家ピーテル・ブリューゲルの次男ヤン・ブリューゲル(Jan Bruegel the Elder)
が描いた『木桶の花束』(1603年)が最初の「花卉画」のようだ。

ヤン・ブリューゲル、アンブロシウス・ボスハールトとも「花卉画」という新しい絵画の領域を生み出したパイオニアであり、「花卉画」を専門に描けるほど花の絵の需要がある環境になったということだろう。何しろ信じられないほど高いので記憶に残しておく価値があったのだろう。
「花卉画」の誕生の背景、絵画に描かれた花はいくらぐらいの値段だったのだろうかなど以前に書いたモノがあるので興味があればお読みいただきたい。

ときめきの植物雑学 その1 花卉画の誕生
ときめきの植物雑学 その2 花の値段
ときめきの植物雑学 その3 17世紀の絵画の値段

アンブロシウス・ボスハールトの『風景の見える石のアーチの中に置かれた花束』には、ユリ・バラが描かれていて、描くに値するほど高価であったようだ。
バラの種類としては、1600年代のこの頃には、中国のバラも日本のバラもまだ伝わってきていないのでヨーロッパ・中近東伝来のオールドローズたちのようだ。
白いバラがロサ・アルバ、ピンクの八重咲きのバラがキャベツのように巻かれているキャベッジ・ローズとも呼ばれたロサ・ケンティフォーリア、赤と黄色のバラが、1542年にイスラム圏からオーストリア経由で入ってきたロサ・フェディダと見た。
とわかるほど写実的に描かれている。

興味があればシリーズ「バラの野生種」で確認していただきたい。
バラの野生種:オールドローズの系譜③
バラの野生種:オールドローズの系譜④


上野西洋美術館で開催されている「ルーヴル美術館展」は6月14日に終了となるが、この展覧会は17世紀のヨーロッパの画家の作品が集まって展示されていて、記憶に残らない作品と鮮明に思い浮かべることが出来る3点の落差が大きかった。
17世紀はヨーロッパが中世から決別し、温暖な地中海から寒く厳しい自然環境の辺境へと発展し、これを支えた科学技術と粗野・野蛮が新しい世界を切り開いた世紀とも言えそうだが、それらがルーブル美術館展には入り混じっている。
好き嫌いはおいておくとしても見ておいて損はなさそうだ。

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その83:江戸を歩く ⑦ 素晴らしい『旧古河庭園』

2009-04-17 08:04:07 | ときめきの植物雑学ノート
いくつか庭園・公園を見て回ったが、『旧古河庭園』は素晴らしい。

「六義園」の明るく詩的な庭造りにも感心したが、この『旧古河庭園』はハイカラな聡明さが感じられた。
施主と庭師などのチームによる総合芸術の勝利であることは間違いない。

この聡明さを伝えるのに、1枚の絵或いは写真で切り取れないもどかしさがあるが、設計・デザイン・施工・庭で使う植物や石などの素材などの組み合わせに“理”が貫かれているのだろうと思う。

(写真)駒込から王子までの周辺地図 (中心が旧古河庭園) by google


『旧古河庭園』の場所的な位置
幕末の1860年11月に江戸に来たイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンも歩いたという、団子坂、染井、王子は、江戸の大名屋敷、裕福な商人、庶民などに植木・花を提供するセンターであり、江戸城から日光に向かう本郷通りで貫かれている。

この道筋には、「後楽園」「六義園」『旧古河庭園』「渋沢庭園」「飛鳥山」などいまでも残っている。

『旧古河庭園』は、JR駒込駅から徒歩で15~20分、ここから「飛鳥山」へは徒歩で15分もかからない。
東京で40年以上も暮らしていたが、この一帯に足を踏み入れたのは初めてであり、お互いにこんなに近いとは思いもしなかった。
江戸は徒歩圏内だということが実感できた。

『旧古河庭園』の由来

江戸時代には、この地に植木屋仁兵衛が造った植木御用庭園「西ヶ原牡丹屋敷」があり、
徳川吉宗時代からのこの一帯は、将軍家の鷹狩りの場であり、狩で使う殿舎や動物を飼育する厩舎、庭園などがあったという。植木屋仁兵衛は、染井村の植木屋というのをどこかで読んだ記憶があるが、その確認は出来なかった。

明治になって元勲の一人で日清戦争時の外務大臣、陸奥宗光がこの牡丹屋敷を購入し別邸として使い、公園の入り口である小高い丘に洋館を建て、その前面と斜面に西洋庭園、低地に日本庭園を作った。直接は関係しないだろうが陸奥宗光の家紋は仙台牡丹のようだ。

洋館は結構大きいが、お茶を飲むだけなら一階の喫茶室に入れるが、全体を見る場合は事前に予約をしなければならない。(ということで見れませんでした。)

この洋館を設計したのが、英国のジョサイア コンドル博士(Josiah Conder 1852~1920)で、御茶ノ水にあるニコライ堂などを設計し、日本の建築家を育成した人だ。このニコライ堂の鐘の音は素晴らしいとタクシーの運転手さんが言っていたが、一度聞いてみたいものだ。

日本庭園を造園したのは、近代日本庭園の代表的な造園家である七代小川 治兵衛(おがわ じへえ、1860-1933)で、京都の平安神宮、円山公園なども手がけている。

さらに、この明治時代に成功した古河・住友・三井・岩崎・藤田などの財閥家の庭園も手がけており、新しいパトロンが大名庭園とは異なる新しい庭園を創る作家を育てた時代でもあった。

「小石川後楽園」、「六義園」などの大名庭園には直線がないが、『旧古河庭園』には直線と自然な曲線が上手に組み合わされていた。

(写真)『旧古河庭園』園内マップ


庭園入り口を入ると洋館が正面となり、その洋館周辺にはフランス幾何学庭園が小さく作られていて、5月頃にはバラが見事のようだ。
この洋館の左手は、10mは段差がある階段下となるが、ここに起伏のある地形を利用するイタリア式庭園が作られ、一番下に日本庭園が作られている。

(写真)「洋館」(ジョサイア・コンドル設計)    洋館前のフランス式庭園
 

(写真)段差を利用したイタリア式庭園        池を中心とした日本庭園
 

(写真)素晴らしい日本庭園


自然界には直線というものがないという。「フランス幾何学式庭園」は、自然を統治する国王の権威を直線の組み合わせで表現した。この庭園へのアンチが「イギリス風景庭園」であり、より自然界を庭に取り入れようとした。
日本庭園は、前方後円墳から直線を多用することなく「小石川後楽園」、「六義園」などの大名庭園にも直線がない。
『旧古河庭園』には直線と曲線が上手に棲み分けていて、江戸から明治への“開国”“近代化”の息吹きが感じられ、施主、陸奥宗光のセンスの良さを感じた。

お奨めの庭園です。

補足:<江戸を歩くシリーズ>は、
ロバートフォーチュン『幕末日本探訪記―江戸と北京』(講談社学術文庫)に刺激され、彼の足跡をたどってみました。
ここには、英国人が見た当時の美しい日本が描かれており、忘れつつある文化とか価値感を見つめなおすことができ、とても参考になった日本のガイドブックでした。
次はイサベラバードを読もうかな? など思っていますが水遣りで旅行できない時期になったので、朝帰り程度で済む圏内でしばし我慢し「庭園」を追っかけて見ます。

その73:江戸を歩く ① 小石川御薬園跡地、小石川植物園
その74:江戸を歩く ② 江戸の庭園、六義園(りくぎえん)
その75:江戸を歩く ③ 江戸の『出島』長崎屋
その76:江戸を歩く ④ 日本の名庭園「小石川後楽園」
その77:江戸と同時代のヨーロッパの庭園、『フランス式庭園』
その80:江戸を歩く ⑤ 江戸の育種園『染井村』と「ソメイヨシノ」
その81:江戸を歩く ⑥ 飛鳥山の花見

その83:江戸を歩く ⑦ 素晴らしい『旧古河庭園』

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その82:『 ソメイヨシノ 』の謎とシンボル操作

2009-04-03 08:50:42 | ときめきの植物雑学ノート
上野公園の花見
遠くまで頭の黒が敷き詰められたような上野公園。サクラは人の心をときめかさせ財布の紐を緩めさせる。このときばかりはうかれなければ損。
(写真)上野公園、花見の人ごみ



『ヨメイヨシノ』発見まで
花といえば平安時代から梅に代わりサクラになった。
この理由は、中国から伝わった梅ではなく、日本にも自生種(原種)があるサクラが望まれたという政治・文化の動きに連動している。一般的には国風運動といわれているが、直接的には結びつかないが、遣唐使の中止、梅をこよなく愛した菅原道真の大宰府への左遷なども同じ時期に起きている。

サクラのなかでは、近畿地方に多い「ヤマザクラ」が平安時代の代表のようであったが、鎌倉時代になると伊豆半島の自生種である「オオシマザクラ」が注目され交雑が進む。
江戸時代になると五代将軍綱吉の元禄時代にはこの二種の交雑と品種改良が急速に進みサクラの品種も増え、繁殖の技術である“つぎ木”がかなり高度化したようだ。

「ソメイヨシノ」は、このような歴史を土壌として誕生した銘花銘木のようだが生まれに謎がまだあるという。

この「ソメイヨシノ」が発見されたのは、上野公園でだった。
発見者は、藤野寄命(ふじのきめい)で、精養軒の付近で見慣れないサクラに気づいたという。この桜木の出所は“染井”(現在の駒込あたり)であり、染井から来た吉野桜という意味で『ソメイヨシノ』と命名した。

藤野は、現在の国立博物館に勤めており、日本のサクラも近代的な分類が必要と思った田中芳男男爵が上野公園でのサクラの調査を計画し、藤野はこの調査中に発見した。調査時期は1885~1886年(明治18~19年)だった。

(写真)ソメイヨシノの花


『ソメイヨシノ』の謎
「ソメイヨシノ」は、伊豆半島が生息地の「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交雑種といわれており、江戸時代末の染井村で誕生したという以外良くわかっていない。先日染井界隈を探索したが、染井吉野誕生イベントを行っていた。

この「ソメイヨシノ」は、花弁が5枚で、白に近い淡い紅色で、葉がでる前に開花し、上野公園では、3月末に開花し4月上旬に満開となる。そして満開になると花色は白色に近くなる。
エドヒガンの花が葉より先に咲く性質と、オオシマザクラの大きくて整った花形を併せ持った品種である。

「ソメイヨシノ」の謎の一つは
いつどこで生まれたかわからないということだ。 「ミツバアケビ」の命名者で京都帝大教授の小泉源一が1939年に韓国・済州島の王桜との類似を指摘して済州島が自生地であるという起源説を唱えた。
この説は否定されているようだが、そのほかにも、伊豆半島起源説、染井村起源説などがあり、それだけロマンがある花なのかもわからない。サクラ同様日本人のルーツも諸説あるが、芯が不明なところが良く似ている。

「ソメイヨシノ」の謎の二つ目は
“パッと咲いてパッと散る”ことに疑問を持ったことがあるだろうか?
この謎がわかった。つまり、F1=一代雑種で、一本のソメイヨシノの木からつぎ木で殖やしているので、同じ遺伝子を持つというのが要因のようだ。同じ性質を持っているため、いっせいに開花し、いっせいに散っていくという。

しかし我々は、“花はサクラ木、男は武士”ということで散りぎわを美化することなく、いっせいに散る必要はないということだろう。元が違うのだから多様性があるので一律になることはないと思う。

「ソメイヨシノ」の謎三つ目は
由来が良くわからいサクラが、どうして日本中にあっという間に広まったのか?という謎だ。
これは、原型が吉宗公のサクラ植樹にあるが、日本の公園の始まりと、太平洋戦争の戦後の復興があるという。
人心を鼓舞するものは“サクラ”が共通している。

日本の公園の始まりは、伊達藩仙台の躑躅ヶ岡(つつじがおか、現在の榴ヶ岡公園)が最初のようで1695年に出来たという。ここもサクラの名所で懐かしいところだ。
明治になって神戸・横浜(山手公園)などの外国人居留地に遊歩道・公園の要望があり作られたが、日本初の公園といえるものは、1873年(明治6年)の「明治6年太政官布告第16号」での公園設置からはじまる。

このときに指定されたのが、東京では上野寛永寺、浅草浅草寺、芝増上寺、富岡八幡社そして飛鳥山だった。いずれもサクラの名所でもある。

戦後の復興は、“ぼろは着てても心は錦”ではないが、日本人の心を束ね高揚する役割としてサクラが植樹され、また、昭和天皇の即位などでも植樹された。
この植樹されたサクラの多くが「ソメイヨシノ」だった。だから急速に全国区のサクラとなり、今では桜前線での開花予想のサクラとなっている。
為政者の困った時のサクラ頼み。というのが歴史的に広まった理由だった。

最後の謎は、これから起きることでもある。
「ソメイヨシノ60歳寿命説」というのがある。戦後植樹された「ソメイヨシノ」は樹齢60歳を越えるようになる。
サクラの名所は、いつまで名所でいれるかという瀬戸際に来ている。
そして、吉宗公は増税後の江戸の庶民の気分を変えるために“サクラ花見”を活用したが、消費税を増税したい政府与党には、樹齢60歳を越える「ソメイヨシノ」が花見をさせてくれない可能性もあり、気分転換というわけにはいかないこともあり、怒りが直接ぶつかるかもわからない。
ということがおきそうだ。シンボル操作に使えないから要注意だね!

という先まで考えることなく、いまは大いに花見を愉しんでおいたほうが良さそうだ。

(考え込んではいけません、花見だ、花見だ~)
           

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その81:江戸を歩く ⑥飛鳥山の花見

2009-03-30 11:25:07 | ときめきの植物雑学ノート
飛鳥山を語るには、1720年の江戸に戻らなければならない。この年に八代将軍徳川吉宗により飛鳥山に桜の木が1270本も植えられた。
何故桜の木が植えられたのかという謎解きをしておこう。

(写真)東京の名所 飛鳥山公園の桜花見(3月28日)


花見の背景
徳川幕府を長持ちさせたのは八代将軍徳川吉宗の享保の改革があったからだといわれている。
吉宗は二代将軍秀忠の男子直系が死に絶えたので御三家紀州藩主から将軍となり、五代将軍綱吉を尊敬し、自ら一日二食で一汁三菜と質素倹約を旨とし、武芸復興を行い鷹狩を復活させた。自らが先例に則らない生い立ちなので先例に則らない『改革』を行った。

余談だが、ということは大化の改新、明治維新など先例のないことを起こさないと『改革』が出来ないという事例でもあり、今年9月までにある総選挙での我々国民の覚悟の参考となる。
この鷹狩の場に桜の木を植えさせたのが吉宗だったが、享保の改革と無縁ではなかったようだ。

ガタがきていた幕府の統治能力を立て直すために、①税の改革、②公務員制度の改革、③新規事業による総需要の創出、④裁判制度のスピードアップ改革、⑤民意を吸い取る目安箱制度創出等を行った。

それぞれを簡単にレビューすると、
①税の改革では、米の出来高に応じて年貢を納める(検見法)のではなく、過去年度の収穫高の平均で年貢を納める定免法(じょうめんほう)を1722年に導入し幕府収入の安定化を図った。豊作のときは農民に余剰が出、凶作のときは厳しい事態となった。また1728年には年貢を五公五民制(徳川家康が制定した四公六民制)に増税した。これにより、豊作遊興による都市文化の発展と凶作による一揆が同居することになる。

②の公務員制度の改革は、役職と禄高がリンクしていたこれまでの制度を改革し、南町奉行大岡越前守などの下級旗本で能力ある人材を登用した。いわば、役職手当をつけることでこの問題を切り抜けたが、既得権益化し固定化・保守化する人事に新しい血が入る仕組みを生み出したともいえるし、新政策を実行するには、ヒトを変えなければ出来ないという現実もある。

今日まで残る悪習慣がある。それは、江戸期の官僚に作られた“贈収賄”である。体制が変わらない安易性とお上意識が利権をむさぼる温床となり、ロバート・フォーチュンの「江戸と北京」でも、“こいつらが”というほどの汚い日本人と蔑んでいる。この役人の贈収賄の取締りを行った初めての将軍だったが、今でも続く悪習は、倒産・失職もなく責任をとらない江戸期が続いているからなのだろう。

③新規事業による総需要の創出は、米本位制の江戸時代には「新田の開発」であり、江戸初期の全国の米生産量が1800万石だったのが江戸中期には2500万石まで4割近い伸びを示し、関が原合戦の頃の日本の総人口推定が1200万人に対して、江戸時代には3100万人まで増加したと見られている。この著しい人口の増加は、食糧生産の増加によって支えられていることはいうまでもない。税収も当然増加し新事業の育成・開発は政府の重要な役割でもある。
道路を作る財源を産業創出に振り向ければ、雇用の創出と税収の増加が出来るのにと思うのは私ばかりだろうか?

このように幕府財政を改善するために基本政策として“倹約”と“重税”化したので、庶民には当然不人気となる。この不人気をカバーする政策が、“花見”であり無料の赤ひげ診療所“小石川養生所”でもあったと思う。

(写真)江戸名所 飛鳥山花見乃図(歌川広重1853年作)


飛鳥山のサクラと花見
飛鳥山のサクラが庶民にも開放されたのが増税後しばらくたった1737年頃といわれる。この年は、桜の木を植えた鷹狩場を王子権現に寄進した年でもあり、植えてから17年もたっているのでさぞや見事に育ったことだろう。

何故飛鳥山に桜を植えたのかという疑問は、王子権現にあった。この王子権現は、郷里の熊野権現信仰であり信仰上の特別な思いがあったという。

「サクラ」の語源には、イネの神が宿るという説を桜井満が唱える。「サ」は、早苗・五月雨などの「サ」であり穀霊を意味し、「クラ」は神楽、神座(かくら)であるという。サクラの花にはイネの神が宿るということを将軍吉宗が知っていたとしたらさらに納得であり、その木の下で酒宴を行い豊作を祈願する『花見』は非常にわかりやすい。

この頃の桜の名所は、家康を守り神にした上野の寛永寺境内であり、花見の酒宴などもってのほかであった。
そこで、飛鳥山の花見は、吉宗自ら酒宴を行い範を作ったから庶民の格好の憂さ晴らし・行楽の場となり、飲めや歌えや仮装などの現在まで続いている『花見』の原型が作られた。

基点となる神田錦町から日光街道に接続する将軍家の御成通りであった本郷通りを北上し1時間でたどり着く圏内にあり、江戸庶民の健全な娯楽スポットとなった。この人気取りの都市環境整備政策は、ヒトを動かし、財布を開けるということを含めても大成功といっても良さそうだ。

飛鳥山で出来上がった『花見』は、日本独特の文化となり。豊作を祈願する場から、いまでは健康をテストする或いはタレント性を誇示する場となり、救急車とサクラより奇抜な装いに目を奪われたりしてしまうハレの場になってしまった。

しかし、理由はどうであれ、一瞬の季節感を愉しむ『花見』は、いいものだ。
憂さも忘れるので、『定額給付金』よりは気分がスッキリするし財布も開けてしまう。消費拡大は、徳川吉宗の政策に学びたいものだ。
(ただし、税率アップは、やることをやってから!)

現在の飛鳥山公園は、王子駅に隣接し交通便利なところにあるが過日の香りもなく整った公園になってしまっている。茶屋などを探したがそれも見当たらず、早々に退散してしまった。

(写真)東京名所 明治末から大正初期の飛鳥山の花見(飛鳥山博物館)

(写真)平成の花見、飛鳥山公園のサクラ

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その80:江戸を歩く ⑤江戸の育種園『染井村』と「ソメイヨシノ」

2009-03-29 17:29:49 | ときめきの植物雑学ノート
底冷えがし春爛漫とはいかないが、最も見慣れているサクラの代表「ソメイヨシノ」がもうじき満開になるがいまはまだ2分咲き程度だ。

(写真)染井の里「ソメイヨシノ」の花


この「ソメイヨシノ」の誕生したところ、『染井』に行ってみた。
場所的には、JR山手線の巣鴨と駒込、そして王子あたりを結んだ三角形の中にあたり、神田錦町からスタートする本郷通りがこの中心を貫いて日光にいたる日光街道に合流する。

(地図)染井村界隈 by google


JR駒込駅を出ると本郷通りを越えたところに大国神社がある。この脇を通り染井通り
にはいる。染井霊園まで一直線の染井通りは、幕末の江戸に来たイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンの著書「江戸と北京」にも「そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル(1,609m)以上も続いている。」と書かれている。この染井通りがフォーチュンの通った道のようだ。

フォーチュンが日本に来た目的は、「日本の首都、江戸の郊外には商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分のある人々は、全ての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂・王子・染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さずたずねることにした。」というように江戸の東北にある染井村は有名であったことがわかる。

現在の染井には、世界でも有数の苗木園があった面影は今はまったくない。
染井という名前すら消えつつあり、わずかに、六義園の駒込駅よりの入り口に“染井門”というのが残っている。

現在の染井を探索したが、丁度時期でもあり、地元のプロジェクトとして『ソメイヨシノ祭り』が開催されていた。
門と蔵のある広場で表彰式と記念植樹が行われ、西福寺の正面の広場でイベントが開催されていたが、西福寺までの道路の両側には「ソメイヨシノ」が花開いていた。

(写真)門と蔵のある広場

(写真)イベント広場


仕上げには、この時期にしか発売されない限定酒、芳醇辛口『染井櫻』を手に入れ、味わうこととした。

(写真)期間限定酒・芳醇辛口「染井櫻」

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その79:マリー・アントワネットの庭園 ②プチ・トリアノン庭園のコンセプト

2009-03-28 00:41:54 | ときめきの植物雑学ノート
マリー・アントワネットはプチ・トリアノンという隠れ家を手に入れた。

小さな正方形のプチ・トリアノン離宮にはあまり手を入れずに、庭の改修に力を注いだ。王権を誇示する広大で人工的なベルサイユ宮殿の庭とは異なるより自然な庭造りを目指した。

プチ・トリアノン離宮の右手にイギリス式風景庭園を作り、劇場を作り、1793年からは子供達と田舎の農園生活を味わうために自分たちが住む田園の村(アモー)が欲しくなりこれを作った。

そのモデルとなったのは、画家ユベール・ロベールのデッサンだった。



ユベール・ロベール(Hubert ROBERT l733-1808)は、フランスの風景画家であり“廃墟のロベール”とも呼ばれた。イタリアの古代遺跡・庭園・噴水などを描き、この絵の中に人物を描きこむ独自の手法を創った。
彼の絵画のユニークさは、建築物を縮小させる遠近法、計算された空間構成、巧みな色彩にあり、この特色はディズニーランドを表現する時にも同じように言われるはずだ。

人工的なアミューズメントパーク、ディズニーランドとマリー・アントワネットのプチ・トリノアン庭園が似ていると思うのは、基本コンセプトを創った画家ユベール・ロベールにあるのかもわからない。

(写真)田園風庭園の農家

(リンク)田園風庭園の風景写真

実際に作られた田園風庭園を見ると、コピーに近くデッサンが再現されている。プチ・トリアノン庭園は、建築家リシャール・ミックが建設しているが、画家・デザイナーが建築家のポジションを超えた瞬間でもあった。


プチ・トリノ暗離宮には図書室があるという。しかし、マリー・アントワネットは生涯数冊の本しか読まなかったといわれている。
王権を顕示する『フランス幾何学庭園』から離れるには、コンセプトを明確にして建築家。庭師などに指示をしなければならない。“自然に近い庭造り”といわれてもその当時はピンと来なかったのではなかろうかと思う。

本を読まなかったアントワネットに影響を与えたのは、『イギリス風景庭園』であり、概念としてはルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)だといわれている。
この二つに関しては、別途取り上げてみたいが、最初に造ったイギリス式庭園がアントワネットのイメージと違っていたのだろう。自然を取り込んだが、風景としてみる自然でありそこには人がいない。主人公のアントワネットと大事な子供が登場しない。ということに気づいたのかもわからない。

田園風庭園、アモーの建設は、アントワネットの『演劇での自然と演劇での生活』という庭園を作り出したオリジナルであり、画家ユベール・ロベールとの共作なのかもわからないが、その血を引き継いだ名園はやはり『ディズニーランド』だと思う。

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その78:マリー・アントワネットの庭園 ①プチ・トリアノンの由来

2009-03-26 08:39:48 | ときめきの植物雑学ノート
いつか書こうと思ってから時間がだいぶ経過し、やっとマリー・アントワネットの庭園にたどり着くことが出来た。
マリー・アントワネットの庭園は、プチ・トリアノン庭園と言っても良いが、自然を庭園に取り込むことでは『日本庭園』に近く、自然が全く取り込まれていない舞浜のディズニーランドとも近い感じがしている。『日本庭園』的でもありディズニーランド的でもあるというこの矛盾が前から気になっていたことだ。

プチ・トリアノン庭園が出来るまで
ルイ十四世は、絶対王権を確立するためにベルサイユ宮殿を作りその象徴としての庭園作りに生涯をかけて作り続けた。ベルサイユの庭園は、1667-70年頃 ル・ノートルによる造園が出発点にあり、宮殿の方は主な部分の設計はマンサールとル・ブランが行い1682年頃完成した。
ル・ノートル、ル・ブランは『フランス幾何学式庭園』の代表作ニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)を作ったメンバーであり、ルイ十四世がフケ卿から略奪した天才達でもある。

広大なベルサイユの庭園には、グラン・トリアノンという離宮をルイ十四世が1670年に作り、ルイ十五世がさらに愛人のために1768年にプチ・トリアノン(le Petit Trianon)を建設した。

(写真)ベルサイユ宮殿・庭園とトリアノン宮殿・庭園の地図 by google


地図を見てもらってもわかるように、右下にベルサイユ宮殿があり左上の方に広がる定規を使って出来上がった部品が組み合わされているかのような幾何学的な庭園が広がる。この広大なスペースには驚くほどだ。中央上にあるトリアノン離宮と庭園はかわいいほどのスペースだ。そして、庭園は定規を使った感がなく直線ではなく曲線で描かれていることが見て取れる。

マリー・アントワネットがベルサイユ宮殿の裏手にあるプチ・トリアノン宮殿を夫であるルイ十六世から贈与を受けたのは1774年で、庭園と有名な田舎風の離宮アモーが完成したのがフランス革命が勃発する2年前の1787年だった。
わずか13年で『フランス幾何学式庭園』を超える新しい様式の庭園を完成させたことになる。
日本と較べると、柳沢吉保の『六義園』が完成したのが1702年なのでこれよりも85年も後のことになる。

(写真)プチ・トリアノン宮殿と庭園


庭園とは関係ないが、マリー・アントワネットが手に入れたプチ・トリアノン宮殿には、世界初のエレベーターがあったそうだ。このエレベーターは、階下の調理室から料理を載せた食卓が人手を介せずに直接上のフロアーまで昇ってくるので密会の饗宴にはもってこいの発明であり、必要が発明を生み出した典型的な代物だ。

このプチ・トリアノン宮殿は、ルイ十五世がポンパドゥール夫人など愛人との密会のために建設した宮殿だが、総建築費73万6千リーヴル、エレベーターの特別費用として発明者のレポレロに1万2千リーヴルを支払ったという。
快楽にはお金を惜しまないということだろうが、マリー・アントワネットもプチ・トリアノン宮殿と庭園の改修には164万9千5百29リーヴルを使ったという。

これまでの歴史では、マリー・アントワネットの浪費がフランスを食いつぶしたといわれていたが、最近では、たいした浪費がされていないという風に変わってきており、改修されたプチ・トリアノン宮殿・庭園などは今でも通用する新しさを持つアーティスティックな作品であると再評価されるようになって来た。

このアーティスティックな原点は何だったのだろうか?
漠然とした思いに形を与える或いはバックボーンとなったものは何だったのだろうか?
これを知ることによって『日本庭園』的でもあり、ディズニーランド的でもある矛盾が解決するような気がする。
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その77:江戸と同時代のヨーロッパの庭園、『フランス式庭園』

2009-03-24 07:17:41 | ときめきの植物雑学ノート
江戸時代初期の日本の庭園を二つほど見たが、1600年代同時代のヨーロッパの庭園はどんな考えで作られていたのだろうか? というのがチョッと気になった。

水戸藩の『小石川後楽園』(完成1636年)と柳沢吉保の『六義園』(完成1702年)の中間頃に、ヨーロッパでは『フランス幾何学式庭園』が登場する。日本式庭園とは対極的な考え方に基づいていて文学と数学ほどの違いがありそうだ。

この『フランス幾何学式庭園』を創りだしたのは、アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)という庭師だった。

17世紀中頃に作られたヴォー・ル・ヴィコント城の庭園
ル・ノートルが最初につくったのが、ルイ十四世の財務相をしていたニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)の庭園で、1655-1661年にかけてつくられ完成した。『フランス幾何学式庭園』の最初の庭園で最高傑作といわれている。
リンク先:ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)

(写真)ヴォー・ル・ヴィコント宮殿と庭園


『フランス幾何学式庭園』の特色は、建築の図面と植物の刺繍文様を足し合わせたような左右対称の整然とした構成にあるといえそうだ。
宮殿の上階から見た秩序正しい構成は、長い直線の運河が左右にあり、中心には刺繍花壇が置かれハーブや花、ツゲなどを使って模様が描かれている。その先には芝生が張られ、さらにその先には水が張られるなど城を出発点により人工的で手がこんだ美しいものを配置し、遠ざかるに従い森などを配置するようにだんだんと簡略で自然なものを配置するという階層的な考え方でつくられる。

この左右対称、階層的な構成は、イタリアの庭園で生まれたが、作法・様式として公式化したのが『フランス幾何学式庭園』であり、庭師のル・ノートルであった。

(写真)幾何学模様の美しさ


ヨーロッパの庭園の源流
簡単にヨーロッパの庭園の考え方とその様式の流れをおさらいすると二つの流れがあり、その源流は、古代エジプトと古代オリエントにあるという。

古代エジプトの庭園は、死後の楽園をイメージするものであり、四角い池・あずまや・規則正しく整列した樹木などが左右対称に配列されており整形庭園とも呼ばれている。

もう一つの流れの古代オリエントの庭園は、庭園と動物園(あるいは狩猟園)から構成された庭園で、山から水を引いて灌漑をし、ブドウ・リンゴ・西洋杉などの樹木を植え、遠方には自然の森あるいは植林をして柵で囲いライオン・鹿などの狩猟動物を住まわせていたという。

15世紀の後半には、フィレンツェで始まったルネッサンス運動により庭園にも新しい風が吹いた。それまでの都市は外敵と自然の猛威を防ぐために城壁で囲んだために、狭く、暗く、汚いという場でもあった。
健康で余暇を愉しむためにも古代ローマの別荘をモデルに、郊外に別荘と庭をつくり文化的な生活をすごすという提唱がされた。
この提唱をしたのが、ダ・ヴィンチと並ぶルネッサンス期の天才アルベルティ(1404-1472)だった。

古代の庭園の様式を受け継ぎ新しい息吹きを吹き込んだのがイタリア・ルネッサンスの庭園だが、ここにはその後に登場する様々な庭園様式の基本があったというので、後日深堀りすることとするが、文化・芸術といえども政治と切り離せないという事例を書きとめておく。

(写真)アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)


天才は政治と無縁ではいられない
ニコラ・フケ卿のヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)庭園は、あまりにも素晴らしかった。この完成祝宴に招かれたルイ十四世は、自分が持っていないものを持ってしまった部下を妬み、理不尽にも逮捕し牢獄に入れ獄死させた。

フケ卿は優れた人物のようであり、三人の天才を発掘しヴォー・ル・ヴィコント建設を任せた。庭師ル・ノートル、画家・装飾家のル・ブラン、建築家のル・ヴォーであった。しかしながら、優れたフケ卿といえども持ち得なかった才能があった。それは“野蛮”であり、これを持ち得たルイ十四世はフケ卿の生命・財産と三人の天才を奪ってしまった。さらにヴォー・ル・ヴィコント庭園の樹木・石・置物などを奪い、天才とともにベルサイユ宮殿の造園に使ったという。

ル・ノートルの『フランス幾何学式庭園』は、人工的で壮大であり秩序・調和が取れている美しさがあり、これが絶対君主制を誇示する表現形式であることをルイ十四世は見抜いていたようだ。だからこそ自分が最初に持たなかった庭園を持ったフケ卿が憎かったのだろう。

ルイ十四世は、権力を誇示する道具としてその後たくさんの庭園を作り、『フランス幾何学式庭園』は世界に広まる。
約1世紀後のマリー・アントワネットは、『フランス幾何学式庭園』を嫌い、ベルサイユ宮殿の庭園のそばに異なる考えの庭園を作る。

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その76:江戸を歩く ④日本の名庭園「小石川後楽園」

2009-03-22 16:52:51 | ときめきの植物雑学ノート

1時間も持たなかった『小石川後楽園』。
日本庭園の名園でもある。
何故持たなかったのかを述べる前に、作られた由来を簡単にレビューしてみる。

(写真)小石川後楽園の庭園地図


『後楽園』対『六義園』
現在地は、後楽園にある東京ドーム球場に隣接した場所にあり、
水戸徳川藩の中屋敷に1629年に作られたいわゆる大名庭園に該当する。二代目藩主光圀(水戸黄門)の代に中国風の改修がされ『後楽園』と命名され完成した。この庭園は、池を中心にその周りを回遊して風景を愉しむ「回遊式泉水庭園」の代表的な庭でもある。

柳沢吉保が作った『六義園』はこの『後楽園』の後に作られるが、明るく開放的な『六義園』に対して重々しい理屈っぽさを感じる対照的な庭園となっている。その造園の思想的なバックグランドは、明の儒教に対して古今和歌集があるという。

いつの世も、先進国から学びそれを取り入れて熟成させ我が物を作るという時間の流れがある。我が物をつくろうとする運動はルネッサンスもそうだったが古に回帰する。

『後楽園』の光圀は、先進国中国の儒学・朱子学を持って秩序を作ろうとした。柳沢の『六義園』は、中国文化を離れて独自の日本文化を目指した平安時代の国風運動期に戻り、その時に誕生した紀貫之などの古今和歌集をモデルに意図的に『六義園』を作ったのだろう。

一方が教養が必要な難解な漢詩、一方は「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」で始まる土佐日記を書いた紀貫之のかな文字とこのスタンスの違いが明らかに感じられる庭園となっている。天下の副将軍に対抗した政治家柳沢吉保の骨っぽさが感じられた。

(写真)園内の景観


『小石川後楽園』のいま
入り口の門を入ると、庭園の中心にある池とその周囲を取り巻く築山が目に入る。
その周囲を回遊することになるが、もうこれだけで十分という気になる。見るモノがなさそうな予感がするから恐ろしい。

この嫌な予感が当ってしまった。

日本庭園は、世界で評価されているが、自然に対する考え方の違いがその評価の違いとなっているようだ。自然は恐く危険なものなのでこれを克服・超越しコントロールするという考え方に対し、自然をあるがままに取り込みそれと調和していくというのが日本庭園の考え方にある。

平安時代以降は自然の景観の素晴らしいところに別荘・庭園を造るという時代もあったようだが、自然を縮尺して庭園に取り込むという技法が作られ、池を掘り大海と見立て、池中に土を盛り島を作り、山を作り、河を作るなど宇宙をも取り込んだのだろう。
この点で自然に思いっきり手を入れ幾何学的なフランス式庭園とは大きく異なる。

だが率直に見るものがないということは、この自然の縮尺がお金がかかったことは理解できるが、美しくない。ということに尽きる。ミニチュアで作るジオラマの方が魅力がありそうだ。

むしろ感動したのは、借景とでも言うべき『小石川後楽園』を取り囲む高層ビル、東京ドームに覆われた異空間にあった。
高層ビル群は人工的であり、庭園も人工的であり、まったく日本庭園が考えていない人工世界が目の前に広がっている。自然を模した人工空間が目線を高くすると感じられる。

(写真)高層ビルに取り囲まれた小石川後楽園



とはいえ、都市にこれだけの緑の空間があることは素晴らしいことなので残して伝えていく重要な財産であることは間違いない。

また、『後楽園』は、人生の後半を楽しく暮らすには若い時に苦労しろ。とでも言ってもよいだろう。だが、今の時代は人生の後半も制度改悪でいじめられ、人生の前半にある若者は社会の入り口を狭められはじき出されているから、是非とも『後楽園』というコンセプトを大事にするか、入り口を広げるために我々が納めた税金を使って欲しい。
官僚と与党の政治家で納めた税金は俺達のものという身内だけでの“花見酒”をやり「後楽園」天国を愉しまないで欲しいものだ。これでは自分の身を食う蛸足になっているので、そのうち税金が縮小する最悪の結果になってしまいそうだ。

なお正しくは、「士はまさに 天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(明の儒学者、朱舜水)からつけられているが、私訳もそうずれていないと思う。

江戸の名庭園を二つ見たが、正直に感じるのは、庭園は器であり、器に入る“み(実、味、美)”がないようだと気づいてしまった。“み”は器にある自然なのだろうが、自然がなかったのかもわからない。改めて、自然というものを考えることになった。

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その75:江戸を歩く ③ 江戸の『出島』

2009-03-16 09:04:14 | ときめきの植物雑学ノート

江戸にもオランダの『出島』があった。
その名を『長崎屋』という。

17世紀初めに長崎から江戸に出てきた長崎屋源右衛門が開業し、1630年代にはカピタン宿として江戸の開国まで営業していたようだが、開国によって長崎の『出島』同様に寿命が尽きてしまった。
また、江戸は火事が多く長崎屋も何度か火事で焼けてしまい、記録となるものが存在しない伝説の江戸の『出島』のようだ。

本来の『出島』は、鎖国政策を取った幕府がヨーロッパ人を管理するために長崎の港に埋め立てて作られた人口の島で1635年に完成した。1641年からは平戸のオランダ商館をここに移し、1855年の開放令で自由に出歩けるようになるまで220年間閉じ込められた海外だった。
この『出島』は、長崎の有力者の出資で埋め立てられ、オランダ東インド会社に年間一億円程度で貸出したという。幕府も民間の資力を活用し小さな政府を心がけていた。

植物史的に見ると、1869年にスエズ運河が開通するがそれまでは、江戸→長崎出島→喜望峰→ヨーロッパ(オランダ)が世界に通じる道であり、この逆を通ってオランダ商館の医師としてケンペル(1690-1692年滞在)、ツンベルク(1775-1776年)、シーボルト(1823-1829,1859-1862年)が日本にやってきた。
日本の開国・スエズ運河の開通までがロマンのある植物史だと思う。

フランシス・マッソンとツンベルクは喜望峰で一緒にプラントハンティングを行っており、個人的には、喜望峰からツンベルクと共に長崎までくる予定でいたがなかなかたどり着けないでいた。何故かというと資料が豊富になり読みきれていないことと先人の研究で埋め尽くされているから手を出せないでいた。

ちょうど、柳沢吉保が作った六義園が綱吉の時代であり、ケンペルは五代将軍徳川綱吉と面会しているので、ここから始めてみるチャンスと思った。まずは手探りでそろそろと進んでみることにした。

(写真)長崎屋跡地に当たる場所


『長崎屋』は江戸本石町三丁目にあり、現在の中央区日本橋室町四丁目二番地にあたる。いまは、JR総武線新日本橋駅出口とその横に駐車場があるだけで、影も形も残っていない。
このあたりを歩いてみたが、立地としては、神田から新橋まで日本橋・銀座を通るメイン道路“銀座中央通り”に面した一角にあり、すぐ横の室町一丁目には日本橋三越、その裏側に日本銀行があり、またこの界隈は三井系のビルが結構多い。
かつての繁華街日本橋もだいぶ寂れてしまったが、丸の内を三菱グループが再開発しているように、日本橋は三井グループが再開発に取り組んでいるかのようだ。

『長崎屋』は、旅籠とばかり思っていたがそうではなかった。
江戸幕府御用達の薬種問屋であり、後には、韓国以外の唐人参、最後には輸入蘭書の独占販売権を持たせるなどの見返りを渡している。だがそれでも事業として維持できなかったので『長崎屋』は消えていってしまった。

参勤交代・江戸参府などは、大名・東インド会社・『長崎屋』などに体力を使わせる果てしない無駄の経済政策としてとられていたことはいまさらいうまでもないがちょっと確認をしてみよう。

(写真)高速道路に覆われた道の基点となる日本橋


カピタン(甲比丹)の江戸参府
1633年から年1回の江戸参府が始まった。(参勤交代制は1635年から始まる。)あまりにも体力とコストを使うので1790年からは4年に1回になった。ツンベルクはこの前に日本に来ていたので、運よく江戸に行くことができ、途中の箱根での植物採取や『長崎屋』での日本人学者との交流が出来、多大の影響を残しまた自分の研究の成果を強化することが出来た。
どのぐらい大変だったかを測るデータが多少残っている。

ケンペルは、2回江戸に来ているが、その1691年の第一回の旅程を見ると、
2月13日長崎発、3月13日江戸着、3月29日将軍綱吉に拝礼、4月5日江戸発、5月7日長崎着と83日約3ヶ月も旅行した。サクラの咲く頃にカピタンが江戸にやってきたことになる。
しかも総勢100名を超える大所帯で移動しているので、1日100万円かかったとしても1億円以上のコストがかかったことになる。

日本からの主要輸出品は銀であり、オランダ東インド会社にとって初期の日本貿易は魅力があったようだが、銀の輸出規制と輸入の規制が強まり、魅力ないものになっていったことは間違いなさそうだ。
“郷に入れば郷に従え”とはいえ、当時のヨーロッパの中で合理的なオランダ人がよくもこのようなルールに従ったものだ。競争のない独占には合理性というものさしが不必要なので、当事者はうれしいが、ライバルにとってはねたましく邪魔なものかもわからない。

しかも『長崎屋』などを含めた『出島』は、オランダに治外法権があるわけではなく、幕府の主権下で監視され、外出は出来ない、人と会うことも出来ない(許可が要る)という軟禁状態にある。
ケンペル、ツンベルク、シーボルトとも日本の旅行記・博物誌・植物誌を書いているが、江戸参府がなかったら後世に残るものとなったか疑問があり、彼らだけには意義のある江戸参府だったのだろう。

ケンペルが帰国後に著した『日本誌』(1727年)の中に彼が観察した日本があるので紹介しておくと、
「すべての技芸および手工業・商業その他の工業は繁栄しているが、非常に多くの安逸をむさぼる役人や僧侶らの存在が、この国のどんな地方よりも、すべての物価を一段と高くさせる原因となっている。」

これは1691-1692年の江戸の観察であり、いまではない。
役人はいまも昔も必要にして不要という問題を抱えていて変わっていないということがわかる。
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