モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

中国原産 「ホソバヒイラギナンテン」

2020-05-01 20:33:01 | その他のハーブ
植物、或いは、花との出会いは不思議なものがある。
特に意図していない時の出会いは振り返ってみると何かの意思が働いているのかもわからないと思える時がある。

(写真)ホソバヒイラギナンテン


この常緑小灌木は、ヒイラギナンテンと似ていて葉が細いので「ホソバヒイラギナンテン」と名付けられたが、
その元となるヒイラギナンテンは、遠くから見るとナンテンに似た葉と果実の付き方をしているが、葉の縁にヒイラギのような棘(トゲ)があるので「ヒイラギナンテン(Berberis japonica)」と名付けられたという。

こんなややっこしい説明関係にあるが「ホソバヒイラギナンテン」 「ヒイラギナンテン」 「ナンテン」とも中国が原産地で、
<ナンテンについて>
日本への渡来は「ナンテン」が最も早く、鎌倉時代の公家、藤原定家の日記である明月記の1230年6月20日にナンテンのことが書かれている。
庭木・薬用として我が国に入ってきており、葉に猛毒のシアン化水素が微量含まれるのでお赤飯・弁当等の飾り・防腐剤として今でも使用されている。

このナンテンをヨーロッパに紹介したのは、1690年から2年間オランダ商館付き医者として長崎・出島に滞在したケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651‐1716)で、1712年に『廻国奇観』(かいこくきかん)でナンテンをヨーロッパへ初めて紹介した。
学名は、長崎出島のオランダ商館付き医師として1775年に赴任したツンベルク(Thunberg 1743‐1828)によって1781年にNandina domestica Thunb.と命名された。
<ヒイラギナンテンについて>
一方、「ヒイラギナンテン」は、徳川綱吉時代の天和・貞享年間(1681‐1687)頃には渡来していた。
これは、現在の駒込にあたる染井の植木屋伊藤伊兵衛三之丞・政武父子が執筆した『地錦抄』付録にヒイラギナンテンが記載されている。

しかも命名者はツンベルクであり、1784年発表の『Flora Japonica』でIlex japonicaと命名したが、
1816年にブラウン(Robert Brown 1773-1858)によってBerberis japonica (Thunb.) R. Br.(1816)と修正された。
種小名にjaponica(日本)が入っているが、ツンベルクが命名した種小名を直すところまではいかなかったのだろう。

本命の「ホソバヒイラギナンテン」については後述するが、明治時代初め頃に渡来したと言われている。しかし根拠は確認できなかった。
長崎出島の三賢人の二人がかかわり、ホソバヒイラギナンテンも植物が重要であった時代の発見の物語がきっとあるのだろう!

ホソバヒイラギナンテンとの出会い
大学を出て社会人となったスタート地点が私の場合は神田錦町だった。
今ではそこに大正時代の建築物を保存する意味で本社社屋の外観レリーフが新しい建物に張り付けられて残されている。
だからか、街の変わり具合を見るためについでがあると神田神保町の古本屋街、錦町を歩いてみたくなる。

コロナウイルスが騒がれ始めたとある日
神田錦町からお茶の水駅に向かうのだが、ちょっと遠回りして神田駿河台のグルメ小路を歩いてみた。
ここには 和食の「面(おもて)」 、フランス料理の「土桜(におう)」、牛タン焼の「牡舌亭(ぼたんてい)」という味だけでなくネーミングにも凝った三姉妹店があり、健在かどうかを見ておきたかった。

小川町から駿河台に向かう最初の店が「牡舌亭(ぼたんてい)」だったがそのスペースは空き店舗となっていた。
おや!潰れたかな!!コロナの影響がすでに出たか??
他の姉妹店は?

「面(おもて)」、「土桜(におう)」、 あったあった。
と安心したその先に、何と「牡舌亭(ぼたんてい)」があり、三店そろい踏みとなっていて、願った配置フォーメーションが出来上がっていた。

よしよし、夜の外出がOKになったら来てみよう!
ということで、懐かしい店の探索を終了し、御茶ノ水駅に向かう。

ふと路傍の植木で気になるものがあった。
それが、 ホソバヒイラギナンテンだった。

(写真)ホソバヒイラギナンテン全体


最初に気になったのは、
街路樹は、車、人の通行の邪魔にならない規律正しいものが多い中で、正反対の自由奔放に伸びている雑然とした樹木をよくぞ植えたな!
という常識破りと青い実の印象が強かった。

(写真)植物紹介ボード


次に気になった点は、
近くにあった樹木の紹介ボードで、和名:ホソバヒイラギナンテン、学名:Mahonia fortuneiと知り、種小名にフォーチュンが入っていたので調べる欲求が刺激された。

ロバート・フォーチュン(Robert Fortune、1812-1880)といえば、紅茶と緑茶は同じ茶の木の葉から作られていることを見つけ出し、中国が国外持ち出し禁止をしていた茶の木をインドに持ち出し紅茶生産の道筋を作ったことで著名な英国のプラントハンターで、
しかも鎖国政策を取っていた中国、日本両国の開国に立ち会った数少ない西欧人でもあり、路傍で餓死・凍死することなく印税収入で余生を送った稀有なプラントハンターでもあった。

(写真)ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)

(出典)Kew Gardens

ホソバヒイラギナンテンの発見者は!

アヘン戦争で敗れた中国・清王朝が英国と南京条約を結び、香港の割譲、広東など5港の開港をした1842年に、フォーチュン30歳の時、ロンドン王立園芸協会から清国に派遣され、1843年2月26日に英国を出発し7月に香港に到着した。
この時のミッションは、青い花の牡丹、バラ、ツツジ、お茶の木、ミカン、皇帝の庭にある桃など、英国未知の植物を採取し健全な状態で持ってくるよう数多くの植物名が書かれたリストを渡された。
フォーチュンは3年間滞在し1846年5月に帰国したがこの間にキク・ユリ・ラン等東洋の代表的な観葉植物を当時の最先端道具ウオードの箱(Nathaniel Bagshaw Ward (1791–1868)が開発した植物輸送のガラスケースの箱)で乾燥させた標本ではなく生きたままの植物を英国に送った。
当時の中国は開国したとはいえ、鎖国日本同様に外国人が自由にどこへでも旅をして歩けることは禁止されていた。また、治安が悪く旅は危険そのものだった。
フォーチュンは、北京語を覚え、頭を剃り中国服を着て、遠方から来た片言しか話せない現地人になり済まし、英国のほとんどの人が知らない中国の今を調査し、主目的のプラントハンターの仕事を3年間行った。

ホソバヒイラギナンテンは、やはりフォーチュンが上海の南方に位置する浙江省(せっこうしょう)で1846年に発見・採取し、ロンドンに送っていた。
命名したのは、バンクス卿の秘書から出発しロンドン大学・ケンブリッジ大学の植物学教授になったリンドレイ (John Lindley1799~1865)で、ロンドン王立園芸協会の情報誌でベルベリス フォーテュネイ(Berberis fortunei Lindl.(1846)と命名し発表した。

(写真)ホソバヒイラギナンテン


ホソバヒイラギナンテン
・ホソバヒイラギナンテン(細葉柊南天)は、メギ科メギ属の常緑低木。樹皮を煎じて洗眼薬にしたことから「目木(めぎ)」の名前になった。
・学名は、ベルベリス フォーテュネイ(Berberis fortunei Lindl.(1846))。1846年に英国、ロンドン大学の教授リンドレイ(John Lindley 1799‐1865)によって命名された。
・属名のBerberis は、この仲間がberberine(ベルベリン)というアルカロイドを含むことに由来する。これには殺菌や抗菌作用が知られ、目の炎症を抑えるため、材を煎じて目薬にするので和名をメギ(目木)という。
・種小名のfortuneiは、この種を発見採取した英国のプラントハンター フォーチュン(Robert Fortune、1812‐1880)に献じられている。
・原産地は中国。明治初期に日本に伝来している。
・葉はヒイラギナンテンよりも細長く棘がなく冬にも色づかない。
・花は9月から11月頃にかけて、黄色いつぶつぶの花が咲く。(ヒイラギナンテンは冬に咲く)

コメント

縄文時代からのハーブ、サンショウ(山椒)の花

2019-05-15 15:02:59 | その他のハーブ
【山椒は小粒でもぴりりと辛い】
とは言われるけど、何だったっけ~ この意味! 
というのが今のサンショウの位置づけかもわからない。

意味が良く分からない諺だけが有名で、土用の丑の日にうなぎを食べる時におもむろにサンショウをかけて食べる。
これ以外でサンショウの出番は少ない。
(実は、香辛料の七味唐辛子の中にはサンショウがたっぷり入っているのだが~~一味の唐辛子しか意識していない。)

ところが、サンショウは利用できないところがないほどの有能な植物で、しかも日本原産の数少ないハーブでもある。

若芽は木の芽として食用、料理の付け合わせとしてのツマとして使われ、
実(ミ)は香辛料サンショウとなり、
果皮は漢方の生薬として健胃薬になり、
は硬くて丈夫なので擂り粉木(スリコギ)となる。

棘(トゲ)は、さすがに使い道がなさそうだが、イヤイヤどうして、嫌な奴を寄せ付けない道具として使えそうだ。

(写真)サンショウの花(雌株の花)


この宇宙ステーションの組み合わせのようなものがサンショウの花で、これは雌花に当たる。
サンショウは雌雄異株(シユウイシュ)で サンショウの実を実らせようと思うのならば雌株と雄株の2本を植える必要がある。
我が家にある山椒は雌株なので、近くに雄株がないと受粉できないことになるが、木の芽としての香りの利用なので実らないでも特に困ることはない。

雄しべと雌しべが同じ花にあるのが普段目にする花の形態で、これを雌雄同株(シユウドウシュ)と呼んでいる。
これに対して雄しべと雌しべが違った株にあるものを雌雄異株(シユウイシュ)と言い、同じ遺伝子同士での子供が誕生しない仕組みとなっているが、家庭園芸フアンにとっては、違いを識別して二本買うかどうかを考えないといけないので厄介なことだ。
イチョウの木が雌雄異株として有名で、街路樹に使われるイチョウは果肉から臭い匂いがする実がならない雄株を使っている。
くさや、ギンナン、沖縄の豆腐よう等臭いものは敬遠されがちだが、臭いものはおいしいというのが分かるまで時間がかかる。

(写真)サンショウの葉


サンショウ(山椒)の歴史

(1)魏志倭人伝
三世紀末(280-297年)に西晋の陳寿によって書かれた中国の歴史書(後に正史となる)『三国志』の中に、『魏志倭人伝』として知られる部分がある。
ここには、倭国の地理・風習などが書かれ、サンショウ・ミヨウガ・ショウガ等が日本でも栽培されているが、美味しさを知らないと書かれている。

<原 文>
「出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・櫲樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獼猴・黒雉。」

<訳 文>
「真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。
薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。 また、猿、雉(きじ)もいる。」

ショウガ(生姜、生薑、薑)は熱帯アジア原産、ミヨウガ(茗荷、蘘荷)は東アジア原産で、日本には中国大陸経由で2~3世紀ころ伝わったと言われる。
魏志倭人伝が書かれた頃に日本に伝わり、肉類の臭み消しとして中国と同じような香辛料・調味料として使用していないためなのか “美味しいのがまだ分かっていない” と評価されたようだ。
サンショウの使い方はいまだにまだ十分に分かっていないのだから当然かもしれない。!

(2)日本書紀(681-720完成)、古事記(-712完成)
原産国、日本でのサンショウの記録はと言えば、720年に完成した日本初の歴史書『日本書紀』及び同時期に書かれた『古事記』にも同じ歌が載っていた。
8世紀初めの古事記、日本書紀の頃には、生垣にサンショウ(山椒)を植え栽培植物としての定着が伺える。
しかし、どう使っているかというレシピ的な記述はまだ見られないので、薬味・薬としての使い方なのだろう。

【原 文】
『みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮(カミラ=ニラ)一本 其根が本 其ね芽繫ぎて 撃ちてし止まむ
と歌をお詠みになり、さらに、
みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒(ハジカミ) 口疼く 我は忘れず 撃ちてし止まむ』(日本書紀 巻第三 長髄彦)

【訳 文】
(天皇の御稜威(神や天皇の御威光)を負った、来目部の軍勢の、その家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(カミラ=ニラ)が一本ある。その韮の根本から、芽までつないで《抜き取るように》、賊の軍勢をすっかり討ち破ろう)
と歌をお詠みになり、さらに、
(天皇の御稜威(神や天皇の御威光)を負った、来目部の軍勢の、その家の垣の本に、植えた山椒(ハジカミ)は、口に入れるとヒリヒリするが、《それと同じように、賊の攻撃は手痛いもので、》朕は今もって忘れない。必ず、討ち破ろう)

(3)縄文時代初めには山椒が使われていた痕跡が見つかる
文字を使った記録は中国で三世紀末、日本では八世紀からとなるが、
縄文人の生活の跡、遺跡からサンショウのこん跡が発見されていて、
日本原産のサンショウは、縄文の初期から(栽培され?)食され、縄文中期以降になると地域的にも広がりを示し数多くの遺跡で使用のこん跡が発見されている。

時間軸で発見された場所をみていくと次のようになる。
滋賀県大津市にある粟津湖底遺跡のクリ塚から縄文早期初頭の山椒のこん跡が見つかったのを初めとして、
石川県七尾市の三引遺跡(ミビキイセキ)の貝塚から縄文早期~前期の頃の山椒のこん跡、
縄文時代の遺跡として有名な青森市の三内丸山遺跡では、縄文前期末の遺跡から見つかっている。

この遺跡は野球場を造ろうとしていたら発見され、今では遺跡観光として注目されているという。

(写真)サンショウの立ち姿


サンショウ(Zanthoxylum piperitum)
・ミカン科山椒(サンショウ)属の落葉・芳香・棘のある低木。
・原産地は日本、北海道から屋久島及び韓国南部に生育する。
・学名は、ザントキシラム・ピペリィトマ(Zanthoxylum piperitum (L.) DC.(1824))で、1824年にスイスの植物学者ドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778‐1841)によって命名された。
・属名の“Zanthoxylum”は、黄色い木を意味し、種小名の“piperitum”は胡椒のようなを意味し、実がピリ辛からくる。
・日本名は、山椒(サンショウ)。古名は、ハジカミ(椒)。こちらの字を書いた薑(ハジカミ)は、ショウガの古名。
・雌雄異株で4~5月に開花する。雌の花は5㎜の大きさの黄緑色の球形で果実・コショウとなる。雄の花は、花サンショウとして食することができる。
・種を取り除いた果皮は、乾燥させすり潰して粉山椒となり調味料として利用する。
・果実を取り除いた果皮は日本薬局方では、生薬・山椒(サンショウ)としていて、健胃、鎮痛、駆虫作用があるとしている。
・葉は互生し縁は鋸歯状、その谷のところに油点があり、葉を揉むとこの油点が壊れて芳香成分が発散する。
・枝には鋭いとげが2本づつ付く。
・サンショウは、夏の日差しに弱く半日蔭の湿った所を好む。

(付録)学名命名までの経緯 推測

日本原産のサンショウは、1759年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)によってファガラ・ピペリータ(Fagara piperita) と命名されていた。
しかし、スイスの大植物学者で、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出したドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)により
1824年に“胡椒のようなピリ辛な味がする実を持つ黄色い木”を意味するザントキシラム・ピペリィトマ(Zanthoxylum piperitumと命名され、今ではこの学名が国際的に認められている。

変わって認められるには根拠が必要で、日本でサンショウを採取した植物標本などのサンプル等が必要となる。
誰が採取したのだろうか?という疑問が残る。
日本の開国は、1854年3月31日に締結した日米和親条約からなので、1824年は鎖国中になる。
鎖国中に日本に来れるのは長崎出島に拠点をもつオランダしかない。
長崎出島を根城に日本の植物及び情報を収集し、命名者ドウ・カンドールがこの情報に接する可能性がなければならない。

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)か、
ツンベルク(Carl Peter Thunberg , 1743-1828、長崎出島滞在期間:1775年8月-1776年12月)になるのだろうが、
ツンベルクよりも後に来日したシーボルト(長崎滞在期間:第一回1823年8月-1829年12月)も1823年に長崎に到着しているのでギリギリの可能性があることが分かったが、1日で行き来出来る飛行機の時代ではないのでシーボルトの植物標本などをみて命名したのではなさそうだ。

だとするとツンベルクの可能性が高くなる。
ツンベルクは、日本滞在1年半と短いが、1784年に発表した『Flora Japonica(日本植物誌)』には、約812種の日本の植物を記載し、新属26、新種418を発表している。
そして、その中にサンショウの標本もあり、名前は、師匠であるリンネが1759年に命名したFagara piperita (ファガラ ピペリータ)を踏襲していた。

(植物標本)ツンベルクの植物標本、サンショウ

左がイヌサンショウ、右がサンショウ
(出典)Thunberg's Japanese Plants

ドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)は、ツンベルクの『Flora Japonica(日本植物誌)』をみて、学名を修正した可能性が高そうだ。

ちなみに、サンショウが属していたミカン科Fagara属には185の植物で構成されているが、1つを除く184の植物は名前を正式に認めてもらえない状態にあり、リンネが命名し、ツンベルクが追認した日本原産のサンショウの学名、Fagara piperita (ファガラ ピペリータ)も未承認のままになっている。

な~んだ、という結論だったが 学名の変更には、リンネという偉大な師匠の弟子という立場と、リンネの体系そのものを修正しようという立ち位置の違いが出てしまったのだろうか?

コメント

桜 の 盆 栽

2019-04-17 19:54:56 | その他のハーブ
桜前線は大分北上し岩手、秋田まで行っているようだが、やっとブログを書く気になった。

もう、1か月も前になるが、3月中頃に、桜の苗木を買ってきた困った者がいた。
庭の隅にでも植えようものなら、将来隣近所に迷惑をかけるほどの大木に育ってしまう恐れがある。(その頃には生きていないと思うけど…。)
過去に大木になった桜の木を切る羽目になった苦い経験を持ちながら、桜の苗木を買うなんて困った奴だ!

と思いながらも、
桜は日本人の情緒を刺激し、気分をワクワクさせるものがある。
捨てることなど絶対できない!

しばらくしたらつぼみを持ち、一輪開花しそうだったので
植木鉢に植え替え、鉢物として育てることにした。

(写真)植木鉢に植え替えた桜


この桜は何という名前の桜だろう?

特徴は、“淡いピンク色、八重咲き、3㎝前後の花”で探すと
候補としては、八重紅彼岸(ヤエベニヒガン)という品種が浮かび上がってきた。

この品種は、 “江戸彼岸”と“豆桜” の雑種と推定されるコヒガン系の八重咲きの品種のようだがいまいち決め手がない。

開花するとこのようになる。

(写真)開花した桜


(写真)満開になった桜




満開になるとゴージャス、バタ臭くなり、
散り際が美しい桜の風情とは縁が遠くなる。

こんなミニ桜を 盆栽桜 と言い、春先ギフトの人気アイテムになっていると言う。
知らなかった~。

鉢物の桜の育て方

盆栽には一生縁がないものと思っていたが、こんなことから手を出す羽目になってしまった。
初めての体験になるので調べてみたが、桜の場合はそんなに難しいことはなさそうだ。
気をつけるのは枝をカットする際に、消毒に気をつけ清潔を旨とすることだろう。

(写真)桜盆栽


(出典)盆栽エンパイア

将来、こんな姿になるのでしょうか?
苦労の跡はわかるけど、いまいち価値観が分からない。

コメント

南アフリカの花、ツルバギア・ビオラセア (Tulbaghia violacea)?

2019-04-03 19:30:59 | その他のハーブ
ブロック塀に密着するように植えた覚えのない植物が花を咲かせていた。

(写真)枯れた芝草をかき分けたらこんな植物が出現


風で飛んできた種がブロック塀にぶっかり落下して定着したのだろうか?
ブロック塀に止まった鳥が糞をし、未消化の種から芽が出たのだろうか?

人間がかかわったらこんな隅っこには植えないはずなので謎解きの有力な切り口はこの二つとなる。

それにしても、この植物は何という名前なのだろうか?

花の色・形、葉の形状などを頼りに植物図鑑で調べたら
南アフリカ・東ケープ原産のツルバギア・ビオラセアのようだ。

植物の生態に疎い飲み友にこの話をしたら、
五反田にあるケニア料理店『マシューコウズバッファローカフェ』に1ヶ月前頃に一緒に行ったので、それで服に種がついてきたのでは?
という大胆な仮説をおっしゃっていました。
ケニアも南アフリカもアフリカに変わりがないし、1ヶ月でこんなに大きくならないことはないし、春だから目くじらを立てるのは止めにしました。

ツルバギアは、開花期間が長く、スレンダーな立ち姿が美しいのでハーブガーデンの植物として近年人気が出てきているという。
また、ハーブとしての効用があるようであり、過去には咳・風邪・肺結核の薬として使用され、又は、腸内寄生虫の駆除にも使用されてきたという。
最近では、食道癌・高血圧治療薬としての可能性が研究されているようだ。
ニンニク、ニラ系の匂いがある植物なので、抗菌効果はあるのだろう!

南アフリカでツルバギア・ビオラセアを採取したプラントハンターは?
ツルバギア・ビオラセア(Tulbaghia violacea Harv.1837 )は、1837年にアイルランドの植物学者&プラントハンターのウィリアム・ヘンリー・ハーヴィー(Harvey, William Henry 1811-1866)によって命名され、カーティスの『Botanical Magazine』で発表された。

この植物を採取したプラントハンターが誰かは明確でないが、
命名された1837年以前に原産地の南アフリカケープ地方にいて植物採集を行っていた人物ということになるが、該当する人物として2名ほど候補がいる。

採取者の有力候補は、命名者のハーヴィー(Harvey, William Henry 1811-1866)、  及び、南アフリカの植物地理学の父と呼ばれるヨハン・フランツ・ドレージュ(Johann Franz Drège 1794-1881)の二名だ。

(写真)ハーヴィー(Harvey, William Henry 1811-1866)
 

命名者のハーヴィーは、15歳ですでに藻類・コケ類に興味を持ち、彼が24歳の時の1835年に兄のジョセフと南アフリカに渡り、財務・会計的な植民地管理の仕事を行なった。
翌年の1836年ジョセフの死後、兄の職責を引き継ぎ1842年まで南アフリカに留まり、仕事以外の時間は朝から夜遅くまで植物採集とその標本作りに没頭した。

この間に収集した植物標本をもとにオットー・ゾンダー(Otto Wilhelm Sonder)と共に『ケープ植物誌』("Flora Capensis")を執筆するが出版されたのはハーヴィーの没後だった。
こんな人物なのでツルバギア・ビオラセア (Tulbaghia violacea)を採取し、自ら命名した最有力候補となりそうだ。

二番目の有力な採取者は、ユグノー教徒でドイツに移住したヨハン・フランツ・ドレージュ(Johann Franz Drège 1794-1881)だ。

(写真)ドレージュ(Johann Franz Drège 1794-1881)
 

ケープタウンの薬局で働いているドレージュの兄のところに1826年に弟と共に旅行し、兄は動物、ドレージュは植物を採取するプロのコレクターとなった。
ドレージュは、1826年8月からケープタウン周辺からプラントハンティングを開始しているので、この時に採取している可能性がある。
また、1840年には南アフリカで同属のTulbaghia violacea var. robustiorを採取した記録があるので、採取していないはずはなさそうだ。

(写真)Tulbaghia violacea var. robustior
 
(出典)Tulbaghia.com

プロのプラントハンターとしてのドレージュ、後にダブリンのトリニティカレッジ大学の植物学教授となったハーヴィー、どちらが最初に採取したのだろう?

(写真)ツルバギア・ビオラセアの花
 

ツルバギア・ビオラセア(Tulbaghia violacea)
・ネギ科ツルバキア属の球根または宿根多年草。球根と宿根の中間的な植物。球根を掘り上げ乾燥貯蔵もできる。
・学名は、ツルバギア・ビオラセア(Tulbaghia violacea Harv.1837 )。英名はwild garlic, society garlic。野生のニンニク。
・属名のツルバギア(Tulbaghia)は、オランダ東インド会社のケープ植民地総督でリンネに南アフリカの植物標本を200種以上送ったRyk Tulbagh (1699-1771、南アフリカ在住期間1717~1771年、ケープ植民地総督期間1751~1771年)に献じて名づけられた。種小名のビオラセア(violacea)は“菫色、スミレ色”を意味する。
・和名はルリフタモジ(瑠璃二文字)。茎、葉を折るとニンニク或いはニラの匂いがするところからつけられた。が、これではわからない。奈良時代720年に完成した日本書紀では、ネギを“岐(き)”と書き、ニラは“爾良(にら)”と書く。つまりネギは“一文字”、ニラは“二文字”なので、ルリフタモジ(瑠璃二文字)は、瑠璃色をした花が咲き、ニラの匂いがする植物を意味する。
・原産地は、南アフリカ、東ケープ地方に自生。
・草丈30~50㎝、
・葉は根元から生える緑色の線形肉厚、折るとニンニクの臭いがする。
・花は茎の先にいくつかの枝がでてその先に花が一つつく散形花序。
・花色は、紫色で花弁は6枚、花冠は無し。
・開花期は、4月~10月頃までと長く楽しめるという。

コメント

ジギタリス・プルプレア(Digitalis purpurea)の花

2018-12-14 09:08:56 | その他のハーブ
(写真)Digitalis purpurea (ジギタリス プルプレア或いはパープル)の花


切り戻しておいたジギタリス・プルプレアが12月というこの時期に開花した。

ジギタリスは(詳しくはこちら) 、二年草、あるいは短命の宿根草と言われているが、
記憶の限りでは今年は三度咲きのはずだ。5月頃に咲き、切り戻しで晩夏に咲き、そして12月に咲いている。

(写真)5月ころ咲いていたジギタリスパープル


茎の数、花の数とも5月頃の最盛期よりは著しく減少し、わずか1本の茎だが力強く咲いている。

旬を逸しているということでは季節外れだが、自らの遺伝子を残そうとする意志の表れなのだろうか?
しかし、蜂たちが寄っている気配がないので、季節外れの花は受粉するのだろうか?
という疑問がある。

来春に芽を出すかどうか分からないが、今年がそうであったように、こぼれダネで違った場所から芽を出す可能性に期待しよう!

このジギタリス(Digitalis)という名前を付けたのは、ドイツの本草学者レオンハルト・フックス(Leonhart Fuchs 1501-1566)で、1542年に出版した『植物誌』に記載した。

(写真)フックスの植物誌での Digitalis_(Foxglove)

(出典)commons.wikimedia

※ フックスの植物誌の位置づけ
ギリシャの医者・植物学者のペダニウス・ディオスコリデス (紀元40年頃-90年)が紀元1世紀後半に書いた『薬物誌(マテリア・メディカ)』が中世でも薬草のバイブルとして活用されていた。

フックスの植物誌は、1500年以上も通用してきたディオスコリデスの薬物誌にとらわれず薬草以外の植物も取り上げ近代植物学のスタートをきずいた。
1542年に出版した植物誌では、アメリカ原産のトマト、トウモロコシも書かれており、コロンブス以降の新大陸の植物の普及の様子がうかがえる。



ジキタリス・プルプレア(Digitalis purpurea)
・ゴマノハグサ科キツネノテブクロ属の耐寒性がある二年草。
・学名は Digitalis purpurea L.。属名のジキタリス(Digitalis)は指を意味するラテン語digitusから来ている。
・英名はFoxglove(キツネの手袋), Fairy caps(妖精の帽子)、和名は狐の手袋。
・原産地は英国を含む西ヨーロッパ。陽のさす森の中や、林の縁に生える。
・草丈60-100㎝程度と高く、根元から葉が出るロゼット状に表面にしわがある大きな葉が出る。
・その中心から花序が伸び、釣鐘型の花が下向きに咲く。
・開花期は、6-9月
・酸性土壌が適地。(日本の場合はほとんど問題ない)
・強心剤として使われるが、毒性があるため素人は絶対食しない。
コメント

メダカの水草 カボンバ(Cabomba caroliniana)の花

2018-09-28 19:06:38 | その他のハーブ
(写真) カボンバの花


金魚、メダカなどの水草としてポピュラーになったカボンバ、水中での葉は注目されているが、花は鑑賞の対象として注目されていないようだ。
確かに際立ったものは感じられないが、水面に顔を出し咲かせる1㎝~1.5㎝の大きさの白花はシンプルで可もなく不可もない。

このカボンバの原産地は、北アメリカ東岸の広いエリアでの河川に生息し、カロライナ・ファンワート(Carolina fanwort、カロライナ州の水草)と呼ばれている。
今では全世界に広がり、日本には1929年に小石川植物園に導入され、後に野生化したと言われている。
黄色い花を咲かせるカボンバもあるが、これは、南米ブラジル原産になる。

(写真)カボンバ カロリニアナ(Cabomba caroliniana)


カボンバ カロリニアナ
・ハゴロモモ科ハゴロモモ属の多年生水草。
・学名は、カボンバ カロリニアナ(Cabomba caroliniana A. Gray 1837)、1837年にアメリカの大植物学者アーサ・グレイ(Asa Gray 1810-1888)によって命名された。種小名のcarolinianaは、米国カロライナ州を意味する。
・原産地は米国東側の諸州の河川で、ファンワート(Fanwort)、カボンバカロリーナ( Cabomba caroliana)と呼ばれる。
・日本には1929年小石川植物園に初めて導入され、金魚の水草として普及し、販売店では属名のカボンバ或いは金魚藻として売られている。
・カボンバは1~3mの深さの水中で根を下ろす多年生の水生植物で、茎は長さ10mまで成長するという。
・葉は、明るい緑色で 全体の形は半円形~円形、茎に対して対生でつき、基部から5つに分かれ、それぞれの先は3つ程度に箒状に分かれる。これが水中で浮遊する状態が美しいと感じさせる
・花は、6-9月頃大きさ1.5㎝ぐらいの白いを咲かせる。雄しべが黄色なので清楚だが気品を感じる。
・水道の水でも十分に育つが、カボンバが増殖した場合は枝をカットする。捨てる時には川などに捨てずに、生ごみとして処理する。(河川汚染の原因となるので。)


【付録:メダカを飼育している瓶】
(写真)カボンバの栽培環境 ⇒ 紹興酒の瓶


庭でメダカを飼っている。

メダカは生命力が強く、暑い夏を生き延び、氷が張る冬には泥の中に潜り越冬し、春になって水面が波立ちし生き延びてきた証しとしての動きを見せる。
春を感じる感動の一瞬です。

それまでは放り投げておいてもいいぐらい手がかからないので10年以上もメダカを飼うことが長続きしている。

メダカを飼い始めた当初から 3個の瓶を庭に入れ飼育している。
この水瓶3個は、大きな火鉢、江戸末期から明治初期頃に水屋で使われていた水瓶、そして紹興酒の瓶で、古道具屋の倉庫を物色して選んだ。
(この時、餅をつく臼も有ったのでこれも購入し、ガラス屋で丸テーブル用のガラスを切ってもらい花などを置くテーブルとして今でも使っている。)

2018年の夏は、40度近い高温が数日続き、頭が痺れるような異常な夏でした。
ふとメダカの瓶をみると、水草が茶色に変色し枯れているではないですか!
さらに、大きめの黒メダカ(2~3年生存しているメダカ)が数匹死んでいました。

淀んだ瓶の水と枯れ死した水草を入れ替え、瓶底の土をきれいにし、10匹ほど新しく緋メダカを入れました。

ある日、緋メダカは元気かなと瓶をのぞいたら、水草(カボンバ)の花が咲いていました。
水草も定着し、緋メダカも元気なようで、芽出度し目出度しというところですが、黒メダカと緋メダカの未来はどう決着がつくのだろう?
というのが来年の関心です。

(写真)クロスする黒メダカと緋メダカ


コメント

昼咲く、イブニング・プリムローズ‘アフリカン・サン’(Evening primrose 'African Sun')の花

2017-06-21 19:37:26 | その他のハーブ

(写真)鮮やかな黄色、イブニング・プリムローズ‘アフリカン・サン’の花


イブニング・プリムローズ(Evening primrose)の園芸品種‘アフリカン・サン’(Evening primrose 'African Sun')は、日が沈んでから咲くのではなく、昼に咲く。
イブニングではなくモーニング・プリムローズという名前のほうがふさわしいが、出自が分からなくなるので親の名前を使ったのだろう?
親との違いはまだある。親は真上に伸び草丈1mにもなるが、アフリカン・サンは60cm程度で横に広がりグランドカバーに適する。
しかも暑さ・寒さ・水不足に強いとなるとかなり楽になる。

アフリカン・サンを開発したブリーダーは、オランダ、ボスコープのW.M. van Nieropという。
ブリーダーのことはこれ以上分からなかったが、ボスコープという町は花卉産業が集中したところのようで、個人及び企業が1000ぐらいあるという。
日本で言えば植木屋が集中している埼玉県川口市の安行などが近いかもしれない。

Googleでボスコープを見ると、碁盤の目のように整理された町割りが見えるが、これを拡大すると、長方形に囲まれて道があるように見える。しかしこれは道ではなく全て運河で、泥湿地を開拓して出来た“島”が農場になっている。

アフリカン・サンは、耐寒性・耐暑性も強いのでパテントがなければ道路を整備した広大な敷地に利用されるのだろうが、オランダの花卉産業のパテントを破ると厄介なことになる。

(写真)開発者の居住地、Boskoop Nederland




アフリカン・サンの親とイブニングプリムローズの話
アフリカン・サンの学名は、エノテラ・フルティコサ‘アフリカンサン’(Oenothera fruticosa 'African Sun')で、エノテラ・フルティコサ(Oenothera fruticosa)が親となる。和名ではキダチマツヨイグサという。
原産地は北アメリカ東部で、乾燥した森林、岩の多い荒地、道端などに生息する。

一方、英名で「イブニング プリムローズ」といえば、黄色の美しい花を夕方から朝方まで咲かせるアカバナ科マツヨイグサ属の植物を総称して使われるが、種としては、学名Oenothera biennis のことを言う。

(写真)Oenothera biennis イブニング・プリムローズ植物画

(出典)ウイキペディア:Otto Wilhelm Thomé 「Flora von Deutschland, Österreich und der Schweiz 1885, Gera, Germany」

和名では、“メマツヨイグサ”と呼ばれるが、竹久夢二の作詞による流行歌「宵待草」が大正時代にヒットした影響で“ヨイマチグサ”と誤解されるようになる。

又、月見草とも混同があるが、月見草は白花の別種で、学名Oenothera tetrapteraという。メマツヨイグサの繁殖力に負け生息地を奪われ、めったにお目にかかれなくなった。

注意することは、“イブニングプリムローズ”で検索すると、健康食品・サプリメントが数多く表示されるように、昔は「cure-all king(万能薬の王様)」のハーブとして使用されていた。しかし、効果・効能は疑問視されるモノが多いので注意が必要だ。

エノテラ・フルティコサ(Oenothera fruticosa)を採取したプラントハンター

アフリカン・サンの親、エノテラ・フルティコサ(Oenothera fruticosa)を最初に採取したのは、英国の植民地ヴァージニアに父に従って1715年に移住したジョン・クレイトン(John Clayton 1686-1773)のようだ。
クレイトン29歳の時で、その後5年間何をしていたのか記録がない。
植民地アメリカでの最初のクレイトンの記録は、1720年に現在のニュージャージ州グロスター郡の書記官で登場し、以後50年間今で言えば土地家屋調査士、司法書士のような仕事を続けた。
いかにも謹厳実直が取り得の貧乏な生活というイメージを持つが、450エーカー(1エーカーを 4047㎡とすると約55万坪)のタバコを栽培するプランテーションを所有し、30人の奴隷を使っていたという。

クレイトンに植物学の影響を与えた人間がいる。
マーク・ケイツビー(Mark Catesby、1682-1749)で、父親が死んで充分な遺産を受け取った彼は、アメリカ植民地バージニア州の長官と結婚した姉とともに1712年にアメリカに渡った。
西インド諸島や、バージニア植民地に住んだ後、1719年にイギリスに戻り、この間に採取した植物標本・種子等を英国で著名なガーデナー、フェアチャイルド(Thomas Fairchild ? 1667 – 1729)に送った。

クレイトンは、このマーク・ケイツビーから植物学の素晴らしさを学んだようだ。
確認は出来なかったが、クレイトンが何をしていたのか分からない5年間(1715-1719)は、ケイツビーとクレイトンは一緒にプラントハンティングをしていたのではないだろうか? と思うほど植民地バージニアで接近していた。

クレイトンは、彼が49歳の1735年からオランダの植物学者で、リンネの2命名法の守護者を自負するグローノビウス(Johan Frederik Gronovius 1686-1762)などに採取したバージニア原産のハーブ・果物・木等を編集したカタログ及び植物の種子と標本を送っていた。

グローノビウスは、このカタログをラテン語に翻訳して「Flora Virginica(1739-1743)」として出版した。本の表紙にはクレイトンの名前が入っているが、断わりなしの無断借用だった。今なら著作権侵害で学者生命を絶たれるが、この時代でも許されることではなかった。
クレイトンは、ヒトが良すぎるのか抗議をしなかっただけでなく追加の植物標本なども提供した。

しかし、これで懲りることなく1746年にはカナダでの植物採取、1747~1748年はミシシッピー川以西での植物採取、そして1758年には、オランダの植物学者グローノビウスに盗作された「Flora Virginica」の新改訂版を書き上げ、今度は親交がある英国の園芸家として著名なピーター・コリンソン(Peter Collinson 1694 – 1768)に送った。

この原稿の植物画は当時最高の植物画を描くゲオルグ・ディオニシウス・エレット(Georg Dionysius Ehret 1708-1770)だった。

その作風を感じてもらうために以下に掲載させてもらった。

(植物画)Selenicereus grandiflorus (夜咲くサボテンの女王) by Ehret. Plantae selectae. Ionnes Elias Haid filius. Tab. 31

(出典)Botanical Art & Artists

残念なことにこの新改訂版は出版されず、クレイトン死亡後の1787年に原稿を保管していたオフィスが火災で焼失し、この時に燃えてしまった。
エレットの植物画がなくなったことも残念だ。

ここまでは、クレイトンを実りのない人生を送ったと思ってしまうだろうが、クレイトンを評価するヒトは多く、英国の植物界を世界レベルに引き上げた立役者、サー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks, 1st Baronet 1743 −1820)は、1794年にクレイトンがオランダの植物学者グローノビウスに送った数百もの植物標本を手に入れ、ロンドンの自然史博物館にクレイトン標本館を作った。

アフリカン・サンの親、エノテラ・フルティコサ(Oenothera fruticosa L. 1753)は、1753年にリンネによって命名されている。1735年からリンネと親交があるオランダのグローノビウスにバージニア原産の植物標本を送っているので、採取したのはクレイトンであることが確信できる。

気になる採取者がもう独りいた。時期不明でアンドレー・ミッショー(André Michaux 1746-1802)の名前が登場した。
彼は、1785年11月にニューヨクに到着し1796年にフランスに戻るためにアメリカを去ったので、この間に採取しただろうから植民地バージニアのプラントハンターとして知られているジョン・クレイトン(John Clayton 1686-1773)が最初の採取者となる。

ミッショーについては“マリーアントワーネットのプラントハンター”アンドレー・ミッショーとして記載しているので過去の作品を参照していただきたい。

(写真)匍匐して広がる黄色の花Evening primrose 'African Sun'


イブニング・プリムローズ‘アフリカン・サン’(Evening primrose 'African Sun')
・アカバナ科オノテラ属(マツヨイグサ属)の耐寒性がある多年草
・学名はエノテラ・フルティコサ‘アフリカンサン’(Oenothera fruticosa 'African Sun')、英名がイブニング・プリムローズ‘アフリカン・サン’(Evening primrose 'African Sun')。
・属名の‘Oenothera エノテラ’は、ロバの捕獲者を意味するギリシャ語の“onos therasオノス・ザラス”、又は、ワインシーカーを意味する“oinos theras オイノス・ザラス”に由来するという。又、ラテン語での“oenotheraオノテラ”は、“汁が睡眠を引き起こす可能性のある植物”を意味する。種小名の‘fruticosa’は、“低木状の”を意味する。
・原種エノテラ・フルティコサ(Oenothera fruticosa)の原産地は、メキシコ北東部からアメリカ合衆国のテキサス州にかけての地域が発祥の地と考えられている。
・‘アフリカンサン’('African Sun')のブリーダー(生産者)は、オランダ、ボスコープのW.M. van Nieropという。オランダは、花卉産業が優れていて有名だが、ボストークには数多くのナーサリーがあり、日本で言えば埼玉県川口市の安行のようなところのようだ。
・‘アフリカンサン’は、葉は濃い緑色、細長い槍状で、草丈60cm程度で横に広がり、開花期は初夏から秋と長く、ラッパ状の黄色の花を昼間に咲かせる。陽が沈んでから咲くイブニング・プリムローズの特色を昼に持ってきた園芸品。

コメント (2)

フランネル・フラワー‘エンジェルスター’(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)の花

2017-05-02 19:23:08 | その他のハーブ
(写真)アクティノータス・ヘリアンティ‘エンジェルスター’


アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、葉や茎に細かい毛が密生し、手触りが優しくフランネルの生地のような感触があるということで「フランネル・フラワー(flannel flower)」と呼ばれる。

同様な手触りが優しい葉の感触から「フランネルソウ」と呼ばれるモノがあるが、これは南欧原産で日本には1850年頃中国から入ってきたスイセンノウ(Lychnis coronaria/酔仙翁)で別種となる。

アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、オーストラリア、シドニー市があるニューサウスウェールズ州沿岸の砂岩等がある荒野が原産地で、
こんな荒野・ヒースランドに草丈30~50cm、細かい毛が密生していて切れ込みがある灰緑色の葉、そして7~12㎝の大柄な白色の花が咲き乱れている光景を想像するに、さぞや美しいだろうな~と思う。
その美しさは、原色の鮮やかさではなく、艶消しされた下の写真のような光景なのだろう。

(写真)ニューサウスウェールズ州のヒースランド光景

(出典)オーストラリア政府観光局

この花を最初に発見し採取した人間がいるはずだが良く分からない。
学名は、フランスの生物学者でオーストラリアの植物の権威、ラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)が1805年命名している。

ということはこれ以前に発見・採取していることになる。
ひょっとしたら命名者ラビラディエレ本人が採取していないかどうかを確認したら、面白いドラマが開幕した。

ラビラディエレは、フランネル・フラワーを採取する機会・可能性があったか?

(1)ラビラディエレは、1805年以前にオーストラリアに行くチャンスがあったか?
ラビラディエレ(Labillardière)は、1791年にアントワーヌ・ ブリュニー・ダントルカストー(Antoine Raymond Joseph de Bruni d'Entrecasteaux 1737 – 1793)の南太平洋探検隊のナチュラリストに任命された。

(地図)ラ・ペルーズ探検隊のコース(ボタニー湾を後に消息を絶つ)

(出典L'EXPÉDITION DE LA PÉROUSE

ダントルカストー探検隊の目的は、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵及びその探検隊の生存確認と救出というフランス国民の熱望を実現することで、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議された。

ということで、ラビラディエレは、フランネル・フラワーの原産地オーストラリアに行くチャンスはあった。ということになる。

但し、この立憲議会の意思決定は、投資・リターンを追求することなく人道的な目的での探検隊の派遣であり、世界史の中でも初めてに近い稀有なことのようだ。

最も、この時期のフランスは、フランス革命の革命支持派、反革命派の妥協でフランス初の憲法(1791年憲法)が制定され立憲君主制(つまり国王の権力は神から与えられたという王権神授説が否定され、王は国民の代表として法律に基づき歳費と役割が規定される立憲君主制)に移行するという重要な局面であり、国民に人気がある政策を必要としていた時期でもある。

どうも、この人気取り政策が3年前に行方不明となっていたラ・ペルーズ探検隊の救出劇のようだ。
結果はどうであれ、スタートすることが重要な政策の実行当事者は、成果が定義されないためにこの成果を計る物差しがなく、モチベーションを維持することが難しく悲惨な結末を迎えることが多い。

(2)ラビラディエレ(Labillardière)は、オーストラリアで植物採取したのだろうか?
ダントルカストー探検隊は、オーストラリア・南太平洋に派遣すると決議した年の1791年9月28日にフランス第二の軍港ブレストを出航した。
1792年1月17日、南アフリカ・ケープタウンに到着し、そこでフランスの軍服とベルトをした人間がパプアニューギニアのアドミラルティ諸島(the Admiralty Islands)でカヌーを漕いでいたという話を聞いた。
ダントルカストー隊長は、このアドミラルティ諸島に直行するために、オーストラリア南方海上にある現在のタスマニア島にあたるヴアン・ディーメンズランド(Van Diemen's Land:この島を発見したオランダ人のアベル・タスマンが当時のオランダ東インド会社の総裁の名前を付ける。)に向かい、1792年4月23日に湾に碇を下ろした。

ここで乗組員に休息と新鮮な水等を補給するために5月28日までの5週間滞在した。
もちろん調査探検も行ったので、オーストラリア南部タスマニアの植物採取なども行った。
探検隊には、ラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット(Étienne Pierre Ventenat 1757 – 1808)、探検帰国後にナポレオンの前妻ジョセフィーヌが運営するマルメゾン庭園の主任庭師となるフェリク・デラヘイ(Félix Delahaye 1767‐1829)が乗っていて植物採取の役割を担っていた。

(地図)ダントルカストー探検隊の足跡(橙ピン:実績、黄ピン:予定)

オレンジのピンが立っているところがダントルカストー探検隊が寄航したところで、赤の楕円形で囲われたオーストリア東岸がフランネルフラワーの生息地を示す。

このプロットを見ると、最初で最後のチャンスはオーストラリア本土の南海上にあるタスマニア島にあった。
しかしフランネルフラワーの生息地はオーストラリア東海岸沿いのクイーンズランド州及びニューサウスウェールズ州(赤線で囲った辺り)なのでタスマニア島に生息していたかどうか分からない。

仮に、タスマニア島でフランネルフラワーを採取出来たとした場合、採取者はラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット、庭師のフェリク・デラヘイという3人が候補となり、プラントハンターの役割を持つ庭師のフェリク・デラヘイの可能性が高まる。

フランス革命の余波 と 命名者ラビラディエレ(Labillardière)の意地

仮に、庭師フェリク・デラヘイが1792年5月頃にタスマニア島でフランネルフラワーを採取したとすると、ラビラディエレは1805年に命名しているので、この時間的には問題がなかったか?
ということを検証してみると意外な出来事があった。

(地図)ジャワ(赤丸のところ)でオランダ当局に拘束


1793年7月21日にダントルカストー探検隊の隊長が壊血病で死亡した。
この辺りから本国フランス革命の影響が南太平洋上の探検隊にも出始め、勤皇派(=王室支持、高級船員)、佐幕派(=共和制支持、下級船員)に分かれて覇権争いが始まった。

現在のジャワ(Surabaya)に入港したダントルカストー隊長の後任(勤皇派)は、フランス本国が王政から共和制(1792年9月21日)に代わったことを知り、1794年2月18日に船・探検の成果物等全てをジャワのオランダ当局に手渡し、共和国の利益とならないようにした。
というからよく理解できない行動を取った。敵(フランスの共和党派)の敵(オランダ)は味方(フランス王党派)ということなのだろうか?

さらに驚くことは、この船をジャワからヨーロッパに回航中、1795年4月、南アフリカ・テーブル湾で停泊中に共和党派支持の下士官が船を乗っ取り出航したが、今度は英国に拿捕され戦利品として探検の成果物が英国にわたってしまった。

まるで絵に描いたような“おばかちゃん”をしているようで、教訓一杯のストーリで呆れてしまう。

たまらないのは、ラビラディエレを初めとした科学者達で、3年以上にわたる成果が無になってしまった。

しかし、英国にはサー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks 1743− 1820)という強力なコネをラビラディエレが持っていて、科学的な成果物をフランスに返還するというロビー活動をしてもらい、ラビラディエレのコレクションは1796年に返還された。

これらを元に1804~1807年の間に出版されたのがニューオランダ(=オーストラリア)の植物相を初めて紹介した「Novae Hollandiae Plantarum Specimen, the first general description of the flora of Australia」(ニューオランダの植物採取とオーストラリアの植物相の初めての一般的な説明)だった。

出版の元になった標本を確認すると、ラビラディエレ彼自身が集めた標本、探検隊の仲間で鉱物・鳥類・無脊椎動物を担当したクロード・リッシュ(Claude-Antoine-Gaspard Riche 1762 – 1797)の遺品標本、及び、ラビラディエレとは異なる探検隊ニコラス・ボーダン(Nicolas Thomas Baudin 1754‐1803、)のオーストラリア西海岸及び南部海岸の探検(1800-1803)で集めたこれも遺品となる標本を元に出版している。

こうしてみると、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は命名者ラビラディエレの周辺にいる人間であることは分かったが、誰が採取したのか決定打がないというのが現時点の結論だ。
オーストラリア西海岸及び南海岸を調査探索したニコラス・ボーダンを除外したいところだが、彼は1802年に英国植民地であったフランネルフラワーの原産地でもあるシドニーに寄航・停泊しているので除外も出来ない。むしろ本命かも分からない。

ルイ16世は、1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。
彼が断頭台に登るとき『ラ・ペルーズ伯のニュースは何かありますか?』と聞いたという。
ラ・ペルーズ伯とは、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵で、ペルーズ伯の生存確認と救出をフランス国民が熱望しており、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議されダントルカストー探検隊が派遣された。

ルイ16世は、この探検隊の成果を死に行く身で気にしていたという。
革命の狂気がはびこっていたフランスで、ラ・ペルーズ伯を按じていたのはひょっとするとルイ16世だけだったのかもしれない。

ましてや、探検隊のその後の船の中というコップの中での嵐の顛末を聞かないで死んでいったことは幸いだったかもしれない。

<参考>
アレクサンドル・デュマ( Alexandre Dumas, 1802‐1870)は、ルイ16世処刑当日の様子を次のように記述する。
『朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい』。

(写真)フランネルフラワーの花と葉


フランネルフラワー(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)
・セリ科アクティノータス属の耐寒性が弱い多年草。
・原産地はオーストラリア、ニューサウスウェールズ沿岸とクイーンズランドの砂岩荒野で生育する。
・学名、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は、1805年にフランスの生物学者でオーストラリアの植物相の著作で有名なラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)によって命名された。
・属名の“Actinotus”は、ギリシアの茎aktin-/ακτινで、「光線」または「車輪のスポーク」または「太陽光線」に由来し、「光線が備わっている」を意味する。種小名の“helianthi”は、Helianthus(ヒマワリ)との類似点に由来する。
・流通での名称は、細かい毛が密生して手触りがフランネルに似ているのでフランネルフラワー(flannel flower)と呼ばれている。
・草丈30~100cm、切花として適する。日当たりが良いところを好むが耐暑性が弱いので夏場は半日陰が良い。
・開花期は春と秋で、花径7㎝程度の白い花が咲く。白い花びらに見えるモノが苞葉で先端が緑色を帯び、中心のボンボリみたいなところが花になる。これを繖形花序(サンケイハナジョ)という。
・灰白色の葉は白妙菊のような切れ込みがあり、細かい毛が密生している。
・水はけがよい酸性の土を好むので、酸度無調整のピートモスと鹿沼土を半量ずつ混ぜた用土が適する。
・根が繊細なので植え替えのときは鉢底の土を崩さないように植え替える。又、極端な乾燥に弱いので水切れさせないよう注意する。
・鉢の場合は、風通しの良い雨の当たらないところで管理し、冬場は室内に取り込む。

コメント

カランコエ(Kalanchoe blossfeldiana)の花

2017-04-14 16:41:42 | その他のハーブ
(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの立ち姿


あるところからこのカランコエを頂戴した。

最初は、よく出来た造花だな~と、最近の造花作品のリアリティとレパートリーの広さに感心した。
特に、肉厚の葉はゴムのような感触で手触りも良く、自然界には見慣れない程光輝いている。
本物に似せて作る素材の進化はすごいモノがあると感心した。

丁度、上野・合羽橋(カッパバシ)の道具街に食品サンプルの店があるが、そこで見る本物そっくりの食品のサンプル、或いは、100円ショップにある造花コーナーで色鮮やかな造花が際立っていて、本物よりも魅力を感じる瞬間がある。
こんな気分だった。

(写真)寿司のサンプル(本物ではありません)

(出典)JAPAN TRAVEL WEB MAGAZINE MATCHA

初めてのカランコエは、こんな強烈なインパクトを与えてくれた。
これがカランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana)というマダガスカル原産の植物の園芸品種だと分かるのにちょっと時間がかかった。

バオバブの木があるくらいだからマダガスカル原産の植物には日本の園芸常識では計れないモノがあるのだろう! と納得した。

(写真)バオバブの木

(出典) 「ぱんさのマイナー植物園/バオバブ王国」

(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの葉・・・どう見ても良くできた造花だね!


カランコエ・ブロスフェルディアーナの歴史

カランコエは、ベンケイソウ科の1属で、この中には分類方法にもよるが約140種が含まれ、マダガスカル、アフリカ南西部、熱帯・亜熱帯のアジアに分布する多肉植物で、わが日本でも園芸品種が結構販売されているという。

カランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana)の原産地はアフリカ東側のインド洋にあるマダガスカルで、島の北部の都市アンツィラナナ(Antsiranana)のツァラタナナ山中で1927年に発見・採取されたというから植物の世界ではつい最近発見されたことになる。

発見・採取したのは1896‐1933年まで37年間マダガスカルの植物を調査研究してきたマダガスカルの植物のスペシャリスト、フランス人のジョセフ・マリー・ヘンリー・アルフレッド・ペリエ・デ・ラ・バシィー(Joseph Marie Henry Alfred Perrier de la Bâthie 1873 – 1958)という長い名前を持っているヒトだった。
名前にマリー(Marie)がはいっていたので女性かと思ったが男性だった。

ペリエ・デ・ラ・バシィーは、この原種を1927年にパリに送り、ドイツ・ポツダムで育種業をしているロバート・ブロスフェルド(Robert Blossfeld 1882–1945)によってハイブリッドされ、1932年に室内植物のカランコエ(=Kalanchoe blossfeldiana)として売り出された。日本でも第二次世界大戦前に導入されたという。

学名のカランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana Poelln.(1934))は、ドイツの多肉植物の権威、ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)によって1934年に命名された。
リンネの二命名法では、属名+種小名で生物の名前を付けるが、種小名のブロスフェルディアーナ(blossfeldiana)は、カランコエのハイブリッドを開発したRobert Blossfeldを記念してつけられた。

一方、属名のカランコエ(Kalanchoe)は、中国語の“落ちて育つもの”という意味の「加籃菜」( jia lan cai )の音読みによるという説がある。
何故かというと、カランコエの仲間は、葉の鋸歯部分に生長点を持っているので葉が脱落すると、ここから発芽し新しい個体になるのでこの特長をさしている。

最近の言葉ではこれを「ハカラメ(葉から芽)」と呼び、葉を水に浮かべて沢山の芽を出させるので「マザーリーフ」とも言っているようだ。

まるでこのような名前の展開は、赤提灯の定番ホルモン焼きのホルモンの語源の一つである、「大阪弁で捨てる物にあたる“放るもん”」に良く似ている。

本題に戻ると、この属名をつけたのはフランスの植物学者でリンネに対抗する植物の分類体系を発表したMichel Adanson(1727-1806)で、1763年に命名されたというから二名法初期の頃だった。

ところで多少気になることがあったが、ドイツの学名命名者ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)とカランコエの園芸品種の作出者で学名の種小名に名を残すブロスフェルド(Robert Blossfeld 1882–1945)は、二人とも1945年に死亡している。
ブロスフェルドは確認できなかったが、ポエニーズは彼の家族とともに連合国の爆撃の犠牲となった。戦争というものはこのような現実をいくつも作って来たということに気づかされてしまった。

(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの花


カランコエ(Kalanchoe blossfeldiana)

・ベンケイソウ科カランコエ属の小さい潅木のような多年草。
・原産地:アフリカ東側のインド洋にあるマダガスカルが原産地。
・学名:カランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana Poelln.(1934))は、ドイツの多肉植物の権威、ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)によって1934年に命名された。
・英名でのコモンネームは、flaming Katy,Christmas kalanchoe,florist kalanchoe等で、日本でカランコエの名で最も多く流通しているのは,マダガスカル北部のツァラタナナ山脈に生育するKalanchoe blossfeldianaの園芸品種である。
・草丈15-80cmの低木で、多肉質の葉を持つ多年草。
・短日植物である。つまり、連続した暗期(夜)が一定時間より長くなると花芽が形成される植物なので、この性質を使い花を開花させる時期をコントロールすることが出来るので1年中販売されている鉢物になっている。
・花弁は5枚でやや反り返っていて星の形に開花する。開花時期は秋から春。花色は、白、黄色、ピンク、オレンジ等豊富。クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーなどのイベントでのギフトとしても重宝。
・耐寒性はあまりなく12~15℃の温度で育てる。冬も5℃以上に保つ。
・多湿を嫌い、排水のよい用土に植え,日当りのよい場所で育てる。
・繁殖は挿木によって行われる。

コメント

中国原産のミントバーム(Elsholtzia stauntonii)の花

2016-10-26 20:04:46 | その他のハーブ
(写真)ミントバームの花


細長い葉から強烈なミントの香りがするのでミントバームと呼ばれているが、四方八方に枝を伸ばす特性を捉え英名ではmint-shrubと呼んでいる。
開花期は9~10月で、紫が入ったピンクの小花を10cm程度の花序に沢山咲かせる。ミントの強い香りの割には可憐な花でアンバランスの妙を感じる。

原産地は中国。
ヨーロッパ人でミントバームを最初に採取したのはスタントン(Sir George Leonard Staunton 1737-1801)で、1793~1794年ごろに中国で採取して英国に持って帰り、1833年に英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によってスタントンの栄誉を称え、エリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.)と命名された。

スタントン(Sir George Leonard Staunton)と中国の関係

(写真)左側:George Macartney、右側:George Leonard Staunton

(出典)ウイキペディア

スタントンは、生涯の盟友マッカトニー(George Macartney 1737-1806)が中国への使節団のトップとして指名された際に随行員の中心として1792~1794年まで中国に同行した。

このマッカトニー使節団の目的は、茶・陶磁器・絹の輸入増で英国の対中国貿易が大幅な赤字となり、この解消を図るために産業革命の成果である綿製品などをもっと自由に輸出したいという貿易交渉だったが、中国側は、偉大な皇帝のお恵みで下々の属国と貿易をしているという意識が強く、長崎出島のような広東一港に限定した管理貿易・朝貢貿易を採っていたがこれを是正することすら出来なかった。
途中を省略し結論を急ぐと、マッカトニー使節団の目的は達成されず、貿易不均衡の解決は阿片の密貿易、1840年から2年間のアヘン戦争となり英国の目的を武力で達成することになる。

マッカトニー使節団は目的を達成できなかったため失敗であったかというと、そうでもなかった。
それは、スタントンが帰国後に使節団の記録をまとめて1797年に『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China(グレートブリテンの国王から中国の皇帝への伯爵マカートニ使節団の真相)』を出版した。

(作品)『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China』1797年 ロンドン


この本は、当時の中国の実情(政治・軍事・地理・経済・文化・生活・・・・)などの情報を収集・分析し、一流の画家William Alexander (1767-1816)によるビジュアル入りで解説してあり、これにより西洋と異なる中国の思考・行動の違いが理解できるようになり、交渉相手の中国の謎を解き明かす手がかりを獲ることが出来た。
これが高い評価を得ることにつながり、英国初の中国への使節団、及び盟友マッカトニーの評価を高めることになった。

又、画家アレキサンダーの作品は、史上初で最高のイメージ・レポーターと評され、確かにこれまでの画家の絵画作品と一線を引くものがある。

(ビジュアル)William Alexanderの作品 中国の兵士


(出典) 「artnet 」William Alexander (検索に画家名を入力)

また、ウイリアム・アレキサンダーを使節団メンバーに手配したり、この報告書を取りまとめることに関わったのは当時王立協会理事長でキュー王立植物園のアドバイザーとして世界各地にプラントハンターを派遣して世界中の新しい・珍しい植物を収集させたプラントハンターの元締めバンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820)だった。
なるほど、バンクス卿が絡んでいたのか! ということで後述するが一つの謎が解けたかもしれない。

中国の植物を採取したスタントンのキャリア

外交官、中国の現状をまとめて出版する力量がある政治・経済・文化人類学者ということは分かったが、スタントンは今で言えばマルチ人間で幾つもの顔を持っていた。
医者、その延長での植物学者、全く関係がないが成り行きで法律家、行政官、東インド会社社員などで、最初は医者として彼が26歳の時の1763年から西インド諸島で開業をし、財を築きグレナダに地所を購入し、1770年にはイギリスに戻った。このグレナダは1762年にフランスから奪い英国領植民地にしたばかりで英仏の争いがある地域に飛び込んでいった覇気ある若者だった。
1779年彼が42歳の時には行政官に転じカリブ海にある西インド諸島グレナダの司法長官になり、1787年にはインド南部ベンガル湾に臨むマドラス(現在はチェンナイChennai)のサルタンとの平和交渉にマッカトニー卿に同行した。
産業革命後の英国が西に東に膨張していく時期の最先端を歩み、政治家・軍人のマッカトニーに対して文人を貫いたのがスタントンのようだ。

スタントンはミントバームをはじめ約400種の中国の珍しい植物を英国に持って帰った。マッカトニー使節団の中にはプラントハンティングに必要な植物がわかる人間(庭師2人)、植物画がかける人間を同行させ、この手配はやはりバンクス卿のようだ。

スタントンが集めた植物の中で、最も興味深いのは中国のバラ2種だ。
何を集めたかはこれまで分からなかったが、“インディカ(Rosa indica)”、花色がピンク色で香りのある“パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)”の2種のようだ。

パーソンズ・ピンク・チャイナに関しては、現在のバラを生み出す交配親となる重要なバラであり、バンクス卿が紹介したバラということしか分からなかったがスタントンが広州で採取したバラのようだということが分かった。

(写真)パーソンズ・ピンク・チャイナ

(出典)Rogue Valley Roses

(参考)バラの野生種:オールドローズの系譜⑦ 中国からのバラ

『1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が英国に入る。英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)、中国名:桃色香月季、学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、イングランドのパーソン(Parsons)の庭にあったチャイナ・ローズで、伝来のルートはよくわからない。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。』

(写真)ミントバームの花と葉


ミントバーム(Elsholtzia stauntonii)
・シソ科ナギナタコウジュ属の耐寒性がある落葉小木。
・学名はエリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.(1833))、英名はmint-shrub、和名はきだちなぎなたこうじゅ (木立長刀香需)。
・原産地は中国で、生息地は岩が多い乾燥した山肌。
・この植物を採取したのは英国の医師・植物学者・外交官で中国清王朝への初めての使節マツカートニ大使に秘書官として随行したSir George Leonard Staunton(1737-1801)で、採取時期は1793ー1794年頃。
・命名者は英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)で1833年にこの植物を中国で採取したStauntonを称えてElsholtzia stauntonii Benth.(1833)と名付けた。
・属名のElsholtziaはロシアの自然主義者エルショーツ、ヨハン・ジギスムント(Elsholtz, Johann Sigismund 1623 –1688)を称えて1790年にドイツの植物学者Carl Ludwig Willdenow (1765–1812)によって名付けられた。
・樹高は120cm程度でグリーン色の葉は細長い披針形でミントの強い香りがする。
・開花期は9-10月、ライラック・ピンク色の花が10cm程度の穂状に咲く。
・日当たりの良い水はけの良い土壌で乾燥気味に育てる。

・ナギナタコウジュ属の植物は、中国で風邪、頭痛、咽頭炎、熱、下痢、消化障害、リウマチ性関節炎、腎炎と夜盲症の治療のために使われました。
・ちなみに、ナギナタコウジュの名前の由来は、秋に枝先に咲く花穂が、薙刀(なぎなた)のように片面だけに付く様子と、芳香がシソとハッカを合わせたような香気があり、中国の香薷(こうじゅ)という薬草に似ているので、和名がナギナタコウジュと呼ばれるようになったとされています。

コメント