モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

Salvia viridis サルビア・ビリディスの花 (Painted sageペインテッドセージ)

2011-03-30 08:38:20 | セージ&サルビア

(写真)Salvia viridis サルビア・ビリディス


初夏の花 サルビア・ビリディス(Salvia viridis.L.(1753))の花が咲いた。

頭部の鮮やかなパープルは、花ではなくて葉で“苞葉(ほうよう)”という。芽や蕾を保護する役割を持った葉だが、この鮮やかさは、それ以上にミツバチを誘うサインを出しているという。
実際の花は苞葉の下にある、上がパープルで下が白色の口唇型のもので、5-10㎜程度と小さい。
頭部の苞葉には、パープル、ピンク、白色もあり、セージ特有の淡い緑色の葉とあいまって日本のガーデンでも最近人気があるサルビアとなっている。

サルビア・ビリディスの原産地は、地中海周辺の南ヨーロッパ、北アフリカ、クリミア半島、イランなどであり、石灰質の荒地に生育する草丈30-50cmの一年草だ。耐寒性は強くないようだが関東以西では屋外でも育つようだ。

個人的には、一年草のサルビアにはこれまで興味を持たないようにしてきたが、花が少ないこの時期に咲いていたのでつい手を出してしまった。

正式な学名はサルビア・ビリディス(Salvia viridis.L.(1753))だが、この花にはいくつかの名前がある。つい最近まではもうひとつの学名があり、Salvia horminum L.(1753)とも呼ばれていた。リンネが別種として1753年に二つの学名をつけてしまったのだからしょうがない。
流通では、Painted sage(ペインテッドセージ)で売られているが、こちらの方が良く知られている。確かに、水彩画で描かれたような味わいのあるサルビアだ。

英国の植物学の草分けジョン・ジェラード
このサルビアが英国のガーデンに登場したのは16世紀のことであり、英国の植物学の父とも言われるジェラード(John Gerard 1545 – 1611 or 1612)の庭にもあったという。以来、庭を飾る装飾物として人気を保ってきた。

ジェラードは、17歳で“Barber surgeon(床屋の外科医)”といわれたところに修行に出され医業にかかわる。
医業と書いたのには多少理由があるので、医療の簡単な歴史を振り返る必要がある。
ギリシャの時代には、医療は聖職者の一部が行い、薬草などはさらに身分が低い薬草採集者(リゾットモス)が野山を駆け巡って採取していた。このリゾットモスが初期のプラントハンターとでもいえるが、医薬は分業でなく階層だった。
これが中世になると、聖職者が出血が伴う手術をすることの論争があり、1215年のthe Tenth Lateran Council会議で聖職者が手術をすることが禁じられ、手術は修道院の管轄に移りカミソリに秀でた床屋が外科手術を行うことになったという。

この痕跡が今日の床屋の看板にある。赤と青の線がねじれるように回転しているが、赤は動脈、青は静脈を意味し、“Barber surgeon(床屋の外科医)”の流れを受け継いでいることを誇示している。
だからか、マフィアのボスが行く床屋は子分にやらせている。寝首をかかれたのではかなわない。こんなギャング映画を見てしまったせいか、床屋でひげを剃るたびチョット心配になる。

ジェラードは、この理容外科医で儲けたようだ。エリザベス女王の時代の偉大な政治家バーレイ卿(William Cecil, Lord Burghley 1521-1598)のテオボルズ庭園の管理を長年やり、自分でもロンドン郊外の小さな村ホールボーンに贅沢な庭園を持った。
1596年にこの庭にある約1000種の植物目録を出版した。庭園で栽培される植物についての初めての出版物であり、これがジェラードの名声を高めることになる。
1597年には、「Great Herball, or Generall Historie of Plantes(植物誌、植物の一般来歴)」を出版した。この本は中世を支配したディオスコリデスの「薬物誌(マテリア・メディカ)」から脱し、自国の植物を母国語で記述した始まりでもあった。
ただ、ベルギーの植物学者ドドエンス(ドドネス)(Rembert Dodoens 1516-1585)の著作の翻訳を下書きにして書いたという批判もある。

軽い逸話としては、エリザベス女王の愛人ともいわれるローリー卿(Walter Raleigh, 1554年-1618年)は、新大陸アメリカに英国初の植民地を築き、また、英国に初めてジャガイモをもたらしたと言われている。

ジェラードの植物誌にはジャガイモが記載されているが、このローリー卿から教えられたものという。

(写真)サルビア・ビリディスの立ち姿
  

サルビア・ビリディス Salvia viridis.L.(1753)

・ シソ科アキギリ属の耐寒性がない一年草。
・ 学名 Salvia viridis.L.(1753)、種小名のviridisは“緑”を意味する。
・ 英名:Painted sage(ペインテッドセージ)間違ってClary(クラリーセージ)とも呼ばれた。和名:ムラサキサルビア。
・ 原産地は地中海周辺の南ヨーロッパ、北アフリカ、イラン
・ 草丈30-50cmで石灰質の荒地に生育
・ 開花期は、6-7月の夏場。
・ 種は秋蒔きか3月ころの春蒔き。
・ 耐寒性がやや弱いので注意。
・ 日当たりの良い石灰質の土壌で乾燥気味に育てる。

コメント

No42:無法地帯を旅したヒントン ②アーサー・ヒルとの出会い

2011-03-22 10:40:52 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No42

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)がプラントハンターになるきっかけは、キューガーデンの園長アーサー・ヒル(Sir Arthur William Hill 1875-1941)から誘われたところから始まる。
いつどこで知りあったかわからなかったが、アーサー・ヒルのキャリアから“類は類を呼ぶ”という感じがする。

アーサー・ヒルとの接点
(写真)アーサー・ヒル
 
(出典)National Library of New Zealand

ヒントンより7才年長のヒルは、彼が32歳のときの1907年に、デイビッド・プレイン卿(Sir David Prain 1857–1944)の下で副園長としてキューガーデンに勤めるようになり、1922年から1941年にキューガーデンのゴルフコースで落馬して死亡するまでプレインの跡を継ぎ園長を務めた。

キューガーデンに務める前は彼自身も探検旅行をしており、1900年にアイスランドの探検、1903年には、ペール・ボリビアのアンデス山脈探検をし、ここで生涯のテーマとなるクッション植物にめぐり合った。

(写真)cushion plants
 
(出典)flickr.com

この気になる“クッション植物”だが、北極や山岳地帯のような、冷たくて、乾燥していて、風が強い地域では、水分と栄養分が少ないため、この厳しい環境に適応するために地中深く根を張り、ゆっくりと成長するのでクッションのように地面にへばりつく形態を生み出した。
植物学的にフロンティア領域なのだろうが、アイスランド、アンデス山中を探検しただけのことはある。

彼がキューガーデンの歴史の中で特筆されるのは、キューガーデンを核として大英帝国の植民地にある植物園とのネットワークを強化し、経済的・商業的に価値ある植物を採取して、適切な植物園で育てて、プランテーションを構築していくという施策を推進したことだろう。
そのために海外にキューガーデンのスタッフをプラントハンターとして数多く派遣することも行った。彼自身オーストラリア、ニュージーランド、マレー半島、ローデシア、東アフリカ、インド、カリブ海の諸島を訪問した。

この施策を実行するためには資金的な裏づけが必要となるが、1926年に設立された大英帝国マーケティング委員会が多額の財政的な支援をしたので、お金を持ってきた園長はエライということになっている。
帝国マーケティング委員会を説得するには、実績・実例が必要だが、フッカー(Sir Hooker,Joseph Dalton 1817 –1911)がキューガーデンの園長だった1865-1885年の時代に目覚しい実績が上がった。

その代表的なのが1876年にブラジル、アマゾン川流域のSantarémからゴムの木(Hevea brasiliensis)の種70,000粒を採取してキューガーデンに送ったウイッカム(Sir Wickham ,Henry Alexander 1846 –1928)だった。

(写真)Sir Wickham ,Henry Alexander
 
(出典)bouncing-balls.com

この種子はキューガーデンで栽培され、芽が出た苗木をスリランカ、マレーシア、バタビア、アフリカなどの植民地に送り、ブラジルを上回るゴムの生産をするまでの大成功をもたらした。
この当時は、ブラジルの法律として採取・輸出は禁じられていなかったので合法ではあったが、後日ブラジルからはバイオ・パイレーツ(生物盗賊bio-pirate)と非難され、一方の英国からはナイト(Sir)の称号が与えられた。

この他にも、バーム油をつくるアフリカのアブラヤシ、エチオピアからのコーヒー、コロンビア、エクアドルからのカカオ、中国からの大豆、東南アジアからのサトウキビなど現代生活を支える経済的にも重要な植物が採取され大量に栽培された。

これが、アーサー・ヒルの活動を支える財政的な支援を得る背景にあった。

ヒントンのプラントハンティング活動
ヒントンは、1931年からプラントハンティングを始めていて、1936年からは、それまでの仕事を全てやめフルタイムのプラントハンターとなった。
アーサー・ヒルとの出会いは1931年以降で、彼のアドバイスと顧客としての経済的な裏づけがフルタイムでプラントハンターになるきっかけになったのだろう。

もちろん、アーサー・ヒルのほうにも英国人のプラントハンターを派遣するよりも、現地人を採用したほうが都合がよい事情があったはずで、それは、自国の資源を保護する意識の高まりへの対処があったのだろう。

ヒントンが旅したところは、険しい山岳地帯で山に逃れた山賊が出没するところだが、それよりも困ったことはメキシコの当局だったようだ。
ヒントン父子の顧客は、キューガーデン、大英博物館、チューリッヒ、ジェノバ、ハーバード大学、スミソニアン、ミズリー大学、ニューヨーク植物園などであり、採取した植物標本を送らなければならない。
この当時のメキシコでは、自国の天然資源を守るための輸出規制があり、同一のサンプルを当局に提出する必要があった。
欧米の顧客に送る植物標本に、提出した以外のものが隠されていないかを検閲するためにしばしば封を切られたという。

このような状態では、プラントハンターを送り込んでも以前のような取り放題のことが出来ない。20世紀ともなると植物資源の権利意識が芽生え、プラントハンターの活動が制約され始めた。当然といえば当然なことが始まった。

1937年にヒントンはマラリアにかかり大量の出血をした。出血が止まるまでアイスを食べ続けたというが、正しい治療法ではなく熱を下げる役割を果たしたことは確かだろう。それでもヒントンは、植物探索の旅を止めなかった。この情熱はどこから来ていたのだろう?

第二次世界大戦が始まっていた1941年には、タスコ銀山で働くために1年間植物採取を中止していて、この間に、これまで採取した標本が虫に食われる被害があった。翌年復帰するが1943年に乗っていたトラックの事故で死亡した。

ヒントンの死後、三男のジェームズ・ヒントンがあとを継ぎプラントハンティングと、父の残した標本などを整理したが、重複も多く実際はどれだけ採取したかわかっていない。
また、ヒントンには残された記録があまりない。これだけの人物なのに写真すら残っていない。後世に足跡を残すという考えがなかったのだろう。科学者の家系でありながら学者的でないところが最後に近いプラントハンターなのだろう。

ただ、数多くのサルビアも採取しているので、未発表のサルビアとの出会いが楽しみだ。

コメント

乾電池が消えた日

2011-03-15 08:14:33 | 街中ウオッチング
3月14日の午後には、店から乾電池が消えた。

乾電池だけでなく、トイレットペーパー、水、パン、インスタントラーメン、米などもなくなった。
緊急時での生活必需品がこれでよくわかる。これにラジオが追加されると最低限の生活が出来る。
豊かさにおごってきた生活を見直すと、実にシンプルな生活必需品が見えてくる。

今回の地震の被災者・関係する方々には心からお見舞いを申し上げたい。
この先どうすればよいのかと思い悩むことも出来ないぐらいの大惨事だと思うが、少しずつ明日を考えるようになって欲しい。

その原動力は、“思いやり”“助け合い”“感謝”なのかもわからない。
自分ひとりではなく、ヒトとヒトがいる社会が成り立ってきた最低限のルールなのかもわからない。

被災地以外では、家族を守らんがための過剰な買占めが起こりかねない。
東京電力の計画停電が発表された翌日の午後には、多くの店から乾電池が消え、電気が使えないことによる代替食料品が消えた。

一人一人が、いま必要でなくてもつい余分に買ってしまうところが累積すると、モノが消えることになる。このモノが消えた現実を目の当たりにすると、防衛本能を刺激するのか、遅れてはいけないと過剰な買占めが起こりかねない。
いまの社会は、家庭に余分な備蓄を持たないで暮らせるように、生産・流通され小売店に商品が届いている。
ちょっと我慢すると欲しいものが手に入る仕組みが出来上がっている。

この仕組みを破壊するのが、大分先に消費する商品を余分に買う“過剰”さにある。
1970年代に起きたオイルショックでいまの60歳以上の方は馬鹿なことをしたと経験済みのはずだが、経験していない人が増えている。

でも、こんな過剰な買占めは、お勧めしたいものだ。
被災地の実家に戻る若者に、炊き立てのご飯でおにぎりを作り、(手が痙攣するくらい握ったそうです。)車につめるだけの水を持たせてやった“思いやり”は、許されてよいと思う。

わが家族を守るためだけに、いつ使うかわからないほどの量を買うのは慎みたいものだ。
“思いやり”も“助け合い”もなく、守ったはずの家族に“感謝”すらされないことになりかねない。
いま教えられることは、“我慢”“辛抱”であり、この期を逃すと“思いやり”“助け合い”がわからないことになってしまう。
電気の消費量を抑えるための薄暗い店は、まるでモノがない倉庫のようでもあったが、人の心から消えていった大切な気持ちを表わしていたのだろう。
コメント (8)

No41:無法地帯を旅したヒントン ①その生い立ち

2011-03-09 08:08:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No41

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、49歳から趣味の植物に道を転じたプラントハンターで、これまで登場した中では異色の人物でもある。
死亡するまでのわずか十数年で16,300品種もの植物をメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取し、その中には300以上の新種と4つの新しい属が含まれていたという。
“プラントハンターのプリンス”と呼ばれた プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)には及ばないが、時代が遅れるほど新種の発見が難しくなる中で、素晴らしい結果を残している。

ヒントンがプラントハンターとして活動した1931-1941年のメキシコは、1810年-1821年までのスペインからの独立戦争の100年後から始まったメキシコ革命(1910-1940年)の時期にあたり、権力闘争と政敵を徹底的に排除するという国民同士が殺しあうという革命の時期にあたる。

こんな危険な時代背景で、まったく違う世界へ飛躍したヒントンは、定年になったら何をしたらよいか惑う会社人間・仕事人間にとって、新たな人生の出発を奮い立たせてくれるヒントがあるかもわからない。

ヒントンの科学者家系
ヒントンは、1882年英国、ロンドンで数学者の父チャールズ・ハワード・ヒントン(Hinton ,Charles Howard 1853 – 1907)と母メアリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole 1856-?)の子供として生まれた。
(写真)ヒントンの父Hinton ,Charles Howard

(出典)rudyrucker.com

(写真)ヒントンの母方の祖母メアリー・エベレスト・ブール

(出典)Agnes Scott College

メアリーエレンの母Mary Everest Boole(1832-1916)は、コンピューターサイエンスの創始者とも言われる有名な数学者George Boole(1815 –1864)と結婚し、メアリー・エレンは5人娘の長女として生まれた。母親の苗字はエベレストだが、叔父George Everest大佐は、そのころ無名の山エベレストの高度を測定したのでこれを記念してエベレスト山と命名された人物であり、数学に秀でた家系のようだ。

父親のチャールズは、メアリー・エレン・ブールのほかにも結婚をしようとして重婚罪で刑務所に1日か3日収監されたようであり、これを契機に1886年に英国を家族とともに出国し、日本に来て東京大学で数学を教えることになる。
主人公のヒントンも3歳から10歳まで日本で生活したことになるが、どんな印象を持っていたのだろう。
7年後の1893年には米国に移住し、プリンストン大学に移籍し、1907年に脳出血でなくなる。

父チャールズは、米国の野球界にも足跡を残し、今では高校野球の練習でも使われているピッチング・マシーンの最初の開発者でもあった。この機械は、火薬の爆発力を使ったので事故があり、プリンストン大学を免職となりミシガン大学に移籍したという。どうもトラブルが付きまとう父親のようだ。
今ではこのピッチング・マシーンは、スクリーンに映し出されたピッチャーと一体になり、まるで本物の投球を体験するところまで来ている。

このヒントンの父は数学者であると同時に作家でもあり、この子孫たちには原子物理学者、中国文化大革命時の中国の生活を書いた作家などを輩出している。しかし、プラントハンターとしてのヒントンは紹介されていない。学者とプラントハンターの価値付けが垣間見えるところでもある。

ヒントンの生い立ち
ヒントンは、目が悪かったという。大学に行く前は自宅で両親に教育され、大学は、ミネソタの鉱山学校、コロンビア大学、アリゾナの鉱山学校、カリフォルニアのバークレー校で学んだ。この学費は、夏休みの間にメキシコの鉱山の検査員として働き自分で支払ったというから偉い。
1907年、ヒントン25歳の時に父親がなくなるが、この後は、弟たちの学費を出したというからなお偉い。

彼はメキシコに恋をし、彼が29歳の1911年に新妻Emily Percival Watleyと共にメキシコに移住する。
そして植物学に全力を投入するまでの25年間は、鉱山の検査官、冶金学者、土木技師、建築家として働き資産を形成したが、1929年のウォール街の株式市場崩壊で始まった世界恐慌の影響を免れることができなかった。

ヒントンが植物の採取に興味を持ったのは、彼が49歳の時の1931年の頃のようだ。
そして、1936年には、これまでの仕事を全てやめてフルタイムで植物のコレクターとなる重大決心をし、3人の息子たちにも手伝ってもらいたいという申し入れをした。

三男のJames Hinton (1915–2006)は、カナダの大学で経済学の研究をしていたが、1939年にこの研究を放棄してメキシコに戻り父親の植物探索を手伝うことになった。

彼ら父子は、5年間ゲレーロ州とミチョアカン州をラバで旅したが、この地域は、山賊・強盗が多く出没し、奥地に分け入る探鉱者・宣教師・兵士すら近づけないところがあった。これが幸いであり、植物学的には未踏のところでもあった。
ヒントン父子は、山の民への贈り物・医療などを通じて信頼関係を作り、彼らの協力と保護で旅することができた。
自然の驚異だけでなく人間が脅威となるところがあったから1930年代でもプラントハンターが入れなかったのだが、メキシコが置かれている騒乱を反映していて、この地域を選択したヒントンの鉱山関係での経験と見識が生きたようだ。

後に昆虫学者となる長男のHoward Everest Hinton(1912-1977)も父親の手伝いをしていてヒントン54歳からはプラントハンター一家でもある。今までにないタイプでもある。

ヒントンがプラントハンターになったきっかけはキューガーデンにあった。以下次回に。

コメント