モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その23:コーヒータイム④ オスマン帝国と出合った運

2008-01-30 12:05:21 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム④ オスマン帝国と出合った運

イスラム圏へのコーヒーの伝播
現存最古の資料は、パリ国立図書館にある通称『コーヒー由来書』のようだ。
この本は、1587年にアラビアのイスラム教徒アブダル・カディーによって書かれ、
迫害されるコーヒーを擁護する本だ。
この本が出るまでに、
1511年 メッカ事件といわれるコーヒー禁止令、
1524年 メッカでのコーヒー店禁止、メジナではコーヒーに重税を課す
1534年 カイロでコーヒー店襲撃事件
などの迫害があり、統治者が禁止したくなるほどの危惧とその普及のインパクトがあった証左でもある。

オスマン帝国とめぐり合った“運”
また、迫害がありながらもコーヒーがアラビアで普及していくこの時期は、
オスマン帝国が、アラビアまで領土を拡大し、1517年にはカイロ、1536年にはイエメンが征服された。
オスマン帝国(1299-1922年)は、アジア・アフリカ・ヨーロッパ3大陸にまたがる領土で、
コーヒーは、更に大きな渦に飲み込まれ、グローバル化する下地が用意された。

オスマン帝国の首都、コンスタンティノープルにコーヒーが伝わったのは、1517年。
1554年には、コンスタンティノープルに世界最初のコーヒーハウスが開店した。

1454年のアデンで、イスラム寺院の門外不出の秘薬“カフワ”が公開された。
ほぼ1世紀で、氏素性がよくわからない“カフワ”が、弾圧などを乗り越え
コーヒー嗜好飲料としての基盤を獲得する切符を手にいれたともいえよう。



コーヒーとタバコ 
コーヒーとタバコは、ほぼ同時期にハイスピードで世界中に普及する。
グローバル社会への登場もほぼ同じ時期だ。
コーヒーとタバコの普及の類似性と違いをみるために、いずれタバコに関しても調べるが、
両者のハイスピードでの普及は、商業主義だけでは説明つかないものがありそうだ。

17~18世紀は、近代化というその当時にはよくわからなかったであろう大革命での
“興奮”と“覚醒”、これに答えてくれる薬が欲しかったのであろうか?
或いは、こころの交換、意思の交換、コミュニケーションを支援する道具が欲しかったのであろうか

コーヒーハウスの誕生
コーヒー・タバコは、ともに、“神との交信”で使われていたようであり、
寺院から飛び出したコーヒーは、寺院に変わる新たな場・入れ物を必要とし、
その場を創出したのは、当時のグローバルNo1オスマン帝国の首都コンスタンティノープルだ。
世界からの貴人(ヒト)・珍品(モノ)・カネ・情報が集まり、
これらを流通・交換する場が必要であった。
それが“コーヒーハウス”だ。

コーヒーハウスは、ヒトが重要な情報を持っている時代の
コンテンツであるヒトを入れる容器でもあり、メディアでもある。
いわば、双方向型のニューメディアでもあった。
ただ、コーヒーが世に普及していく過程で、危機感を抱かれ迫害されたように、
コーヒーハウスも迫害を受けることになる。
この運命は、すでに誕生した時から内在していた。
コーヒーを媒介とした意見の交換は、“興奮”と“覚醒”そして“権力との戦い”へと拡張する。

“近代化”という“知”が求めたコーヒーとタバコ。
最近は、惰性になっており、感動もなくなった。
これは、低カフェ・低ニコチンなど、安全を求めるがゆえの犠牲なのであろうか?

蛇足ではあるが
コンテンツ(であるヒト)を入れる容器、或いは、乗り物をビークルとかメディアと言っているが、
教室とか牢屋などはメディアとはいえない。
何故だろう? いくつか答えを考えてみたが・・・・・
1.権力と戦ってはいけないから
2.コンテンツではないから
3.価値の交換が出来ないから
4.質問の設定が間違っている
5.その他
その他の答えが結構あるのだろうか?

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その22:コーヒータイム③ なぞに満ちたコーヒーの起源

2008-01-28 08:09:46 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム③ なぞに満ちたコーヒーの起源

スーフィと呼ばれる羊の毛を織った白いマントをまとう修行僧は、
8世紀末ごろのメソポタミア・クーファに出現している。
(このクーファは、今では、イスラム教シーア派の聖地の一つとなっている。)

その中で、コーヒーに深くかかわっていたのは、
アル・シャージリーによって開かれたシャージリーア教団のスーフィだ。
この教団は、1258年 シャージリー死後に設立され、神秘主義の教団といわれている。
夜の行を勤めるスーフィたちは、眠気防止のために“カフワ”を飲んでいたという。
ということは、13世紀中頃以降のどこかの時点で、
イスラムの寺院に“カフワ=コーヒーの煮汁”があったということだ。

コーヒー起源での疑問
コーヒーはいまや世界で愛されている飲料となっているが、この発展の基礎は3つに集約される。
この3点がコーヒーの由来の謎そのものなのだ。
Q:コーヒーノキを、原産地エチオピアからコーヒー栽培の地イエメンに誰がいつ持ってきたか
Q:コーヒー飲料はいつ誰が発見したか
Q:焙煎はいつ誰が発見したか
ということだが、謎は埋まらない。ますます謎になる。



欠けた記録を埋める二つの伝説
コーヒーに関する記録が少なく、生い立ちがわからないためか、
“コーヒー起源伝説”として、おおよそのイメージを後世が作ったようだ。
しかも先を見越した2つの説があり、
イスラム教徒オマール発見説とキリスト教徒にも受け入れられるエチオピア高原由来説の2つだ。
オマール発見説は、1258年にオマールが発見し、イエメンのモカがコーヒー発祥の地だと言っている。
この1258年は、冒頭の教団の創設者アル・シャージリーがエジプトに行く砂漠で死亡した年であり、
伝説自体がコーヒー起源を、シャージリーア教団のスーフィを指し示している。

もう一つはコーヒーノキ及びコーヒーの原産地がエチオピアだといっている。

いずれも後付け的な物語で起源がよくわからない。
ちなみに、オマール発見説は、1587年に書かれた『コーヒー由来書』に記載。
エチオピア説(カルディの物語)は、1671年ファウスト・ナイロニ『眠りを知らない修道院』に書かれている。

ノアの方舟伝説
それならば、こんな起源伝説というのも素晴らしいと思うが如何だろうか?

大洪水がおさまった後、ノアの方舟がついたところは高い山頂であり、
船から降りたノアが真っ先にしたことは、ワインのためのぶどう作りだった。(旧約聖書創世記)
イスラムでのワインは“カフワ”と呼ばれ、コーヒーも“カフワ”と呼ばれた。

そして、この高い山にはいくつかの説があり、
・トルコのアララト山(5165m)
・イエメンの古都サヌアの近郊ノビ・チェアッペ山(3760m)。
このサヌアの山麓で、コーヒーの栽培が始まり、
またサヌアは、ノアの息子セムが住んだ街という伝説がある世界最古の街の一つである。
コーヒー伝説は、伝説だからこそ、ノアの方舟伝説までさかのぼっても似合いそうだ。

謎は解けない
このように、
アラビカ・コーヒーノキの原産地はエチオピアだが、
コーヒーは、アラビアのイエメンで飲用されていたようであり、
神秘主義のイスラム球団のスーフィが覚醒の秘薬として宗教儀式で使用し、
秘匿されてきたところまでは良さそうだ。

しかし、コーヒーノキが、コーヒー豆の主生産地イエメンまでに来た動きがよくわからない。
コーヒーノキは繊細で、移植するのが難しい。
それなのに、伝説ではこの点が説明されていず、古文書にも残されていない。
一説では、1470年にエチオピアのアビシニア高原からイエメンに移植されたという。
これではちょっと遅すぎるのではないかと思う。
1454年には、アデンの僧院でコーヒーが公開され、秘密として秘匿することが
出来ない状態になっている。この頃には、コーヒーの需要は急増していると思われる。

コーヒーが最初に記録された歴史への登場は “薬” だった。

(Next)
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本格的なマーボ豆腐を作ってみたい!!

2008-01-27 08:25:48 | 男の料理

京都祇園・原了郭の香辛料を貰った。
一味・粉山椒・更に抜群の黒七味3本もあるので、これは楽しみだと思っていた。

原了郭黒七味・八角竹


子供がマーボ豆腐を食べたいというので、
いただいた香辛料を生かすチャンスなので、本格的な深い味わいのものをつくる気になった。

これまでは、ウ・ウェンさんの『中国家庭料理のおいしい教科書』をテキストとして
レシピ通りに作ってきた。
これも本格的でいいが、原了郭の香辛料を生かせないと思ったので、

COOKPADに載っていた、asaco*Kitchenさんのレシピで作ってみた。
このレシピで優れていると感じたのは、
複数の素材・香辛料を組み合わせたタレをつくり、簡単にマーボ豆腐が作れるところだ。
ひょっとすると、多めにつくっておくと、秘伝のタレとして使い回しが出来そうだ。
そのためには、
香辛料・調味料の組み合わせの味を確かめたかった。

完成・マーボ豆腐


【材 料】5人分
合挽き肉              500g
豆腐                2丁
日本酒               大さじ3杯
ごま油               大さじ2杯
ラー油               小さじ1杯
水溶き片栗粉            大さじ1杯水3杯
薬味用長ネギ            1本
<タ レ>
甜麺醤               小さじ3杯
豆板醤               小さじ大盛1杯
コチュジャン            小さじ大盛1杯
ニンニクおろし           大1かけ
しょうがおろし           大1かけ
日本酒               大さじ4杯
砂糖                大さじ1杯
味噌                大さじ1杯
醤油                大さじ1杯
ごま油               大さじ1杯
白ネギ(みじん切り)          1本
七味唐辛子             小さじ1/2

【つくり方】
1.豆腐をざるに取り、ペーパータオルで水抜きをする。
2.タレをつくる。ボールにそれぞれの材料を入れ、混ぜる。
3.フライパンにごま油大さじ2杯を引き、ひき肉をいためる。炒待ったら日本酒をいれる。
4.引き続き、ボールにあわせておいたタレを入れ、ひき肉に絡ませて炒める。
5.タレがからまったところで、適宜な大きさに切った豆腐をいれ、ふたをして10分ぐらい弱火で煮る。
(豆腐から水分が出るので、水は足さない。)
6.豆腐に火が通ったら、ラー油をいれ、さらに、水溶き片栗粉をまわしいれる。
7.火を止めお好みで薬味ネギをふり掛ける。

【評価コメント】
・30分で出来ます。
・コクがあり、おいしいです。これだけでも結構いけます。
・ただし、やや、辛味が足りなく、後味の辛味はあるが食べた瞬間が辛くないので、
ここを直すのに、原了郭の粉山椒と黒七味をそれぞれ小さじ1/3づつ入れてみた。
・かなり高度な辛味となりました。陳健一さんの四川飯店のマーボ豆腐の辛さは有名ですが、
このレシピ+原了郭の香辛料で、家庭料理としては、なかなかの水準までいった感があります。 
・反省点は、ひき肉が多かったこと。豆腐以上に目立ってしまい主客転倒であったこと。
・今度は、豆腐にこだわりチャレンジしてみようかな~

Asacoさんに感謝です。
あなたのレシピは、味だけでなく、調理の行動が非常にしやすい手順になっており、
料理行動科学賞という賞があれば、差し上げたいものです。

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その21:コーヒータイム② 植物としてのコーヒーノキ

2008-01-25 08:35:08 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム② 植物としてのコーヒーノキ

コーヒーは身近だが、コーヒーノキとその果実は見たことがなく、
温室のある植物園にでも行かないとコーヒーノキを見ることが出来ない。

コーヒーノキの原産地は、エチオピアのアビシニア高原で野生のアラビカコーヒーノキが生えていた。

つやがある濃い緑の葉、ジャスミンに似た香りを放つ白い花を咲かせ、
枝にビッシリとつく果実は、初め緑色だが、熟すると赤身が濃くなりさくらんぼに似る。

コーヒー生育の地図


コーヒーノキの生育環境は条件が厳しく限られる。
地域的には、赤道をはさみ北緯25度から南緯25度の間で、
・年間平均気温20℃で月差がない温暖なところで、天敵の霜が降りないところ。
・年間1500~1600㍉の降雨量があり、開花期と果実の成熟期には必須。
・この条件を備えた谷間の傾斜地に限られる。
高度1000m以下だと暑すぎ、2000m以上では霜の恐れがあるので、限られた場所になる。
また、植えてから実がなるまでに3~5年かかるので、資本力が必要となる。

このように、コーヒーノキは、生育環境を厳しく選ぶだけでなく資本も必要とし、
過保護を要求する繊細な子供のようだ。
“コーヒー文化を支えるのは、ムッシュ資本とマダム大地”といわれる所以だ。

コーヒーノキ
・アカネ科の熱帯性常緑小高木
・学名は、コフィア・アラビカ(Coffea arabica)、和名はアラビカ・コーヒーノキ
・原産地は、エチオピアのアビシニア高原といわれている。
・丈は、6~8mまでなるので、栽培用は2mぐらいに剪定している。
・白い花を咲かせ、果実は初めは緑色、それから数ヶ月は黄色くなり、成熟すると赤味が増し、さくらんぼに似る。
・コーヒーノキの天敵は霜。
・コーヒーノキの種は、10種以上あるが、栽培されているのは、アラビカ種・ロブスタ種・リベリカ種の3種


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その20:コーヒータイム①“イスラムの秘薬カフワのデビューあらすじ”

2008-01-24 10:52:11 | ときめきの植物雑学ノート
そろそろ新たなリメイク曲が出てもいいのではないかと思っている曲がある。
西田佐知子が1961年に歌い、それとともに“琥珀色した飲みもの”に心をとられ、
いまでは、一日5~6杯は飲まないといられない。

2001年には井上陽水もリメイク曲を歌っている。

そう、 『コーヒールンバ』です。

確かこんな出だしだった。
“♪ むかしアラブの~えらいおぼうさんが~ ♪”

ヨーロッパの17世紀は、イスラムからの知識の逆流・ルネッサンスなどによる
知識・科学革命の世紀でもある。
考えるためには、“興奮”と“覚醒”が必要であり、
これを支える“秘薬”が、イスラムの寺院でスーフィー(僧侶)に守られ準備されていた。

アラビヤ語では、カフワ(Qahwa)と呼ばれる琥珀色の飲み物だ。
17世紀にヨーロッパ社会に登場するが、そのデビュー前の物語である。
“カフワ=コーヒー”がなかったら、誕生しなかった或いは誕生が遅れた“近代”があったと思う。

コーヒーは、1454年 イエメンのアデンにあるイスラム寺院で公開されるまで
2世紀もの間、イスラムの僧侶の門外不出の秘薬であった。
コーヒールンバの歌は、核心をついていたことになる。

ヨーロッパへの登場は、1554年に伝わったトルコ経由となるが、
スレイマン2世が統治・繁栄していたオスマン帝国の首都イスタンブールで豪華に磨かれ
1645年イタリアのヴェネチア、1650年イギリスオックスフォードで最初の“コーヒーハウス”が誕生した。
ヨーロッパでは、科学革命の世紀に入る。

世界を魅了するようになった、“コーヒーノキ”“コーヒー”“コーヒーハウス”の
過去を楽しんでみようと思う。
コーヒータイムの時間だ。
最近のニュースでは、女性が1日2杯以上飲むと良くないということが言われているが、
さけ(醸造酒)、タバコ、コーヒーは、アダムとイブの末裔への天からの贈り物だ。
とこれだけは疑わずに楽しんでいる。
ただ、何となく楽しんでいたコーヒーを、意識して飲むようになれればうれしい。
これは、タバコに関してのお医者さんの素晴らしいアドバイスだった。

続く

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ときめきの植物雑学 その19:本草書のトレンド③

2008-01-23 08:50:10 | ときめきの植物雑学ノート
その19:本草書のトレンド③

本草書のナショナリズム。 自国の植物を自国の言語で!

氷河期に南に下がった植物は、氷河期が終わり地球が温暖になっても
アルプス山脈にさえぎられ北上できなかったといわれている。
異なる植物相に気づき、1000年以上も続いたワンパターンからやっと脱しようとする動きが出てきた。
それは、自国の植物を対象にした、自国の言葉でのオリジナルな植物の物語が始まった。
しかも、周縁のところで。
植物画での新しさはないが、植物を見る視線では模倣を脱している。

=本草書は、中心から周縁に拡張=
ピエトロ・アンドリア・マッティオリ(Pietro Andrea Mattioli 1500-1577)イタリア
・1544年 イタリア語で『ディオスコリデス注解』ヴェネツィアにて出版
・チロル大公フェルディナンドのコレクションの館長で医師。
・見事な図版が挿入されているが装飾性を引きずっている。



ウイリアム・ターナー(William Turner 1508 – 1568)イギリス
・1551~1568年 フックスの図を下敷きに『新本草書』を出版
・英語で書かれた初めての本草書。238種の英国の植物を記載。
(注)1568 - Turner, William (author) - Cologne, Germany - Chicago Botanic Garden Library
  ※『新本草書』をクリックした先にある画像は、レア本を拡大してみるページにジャンプします。左下のページ表示したコマを選択・クリックすると拡大画像が右上に表示されます。虫眼鏡で部分拡大などができます。



レンベルト・ドドエンス(ドドネス)(Rembert Dodoens 1516-1585)ベルギー
・1554年 オランダ語で『クリュードベック(Cruydeboeck)』を出版。多くの国で翻訳された。
・1583年 『ペンプタデス植物誌』(全六巻) アントウエルペンのプランティン書店から出版
・ドドエンスの本は、日本に移入され日本の本草学者に大きな影響を及ぼした。
1644年『Herbarius oft Cruydt-Boeck』



ジョン・ジェラード(John Gerard 1545-1611) イギリス
・1597年 ドドエンスの植物誌を下敷きにして『草本書又は博物誌』を出版
・イギリスで最初の園芸書
・草花を専門に育てるアマチュア園芸家の伝統の先駆となる。
・1800種の植物が記載され、ほとんどのハーブが含まれている。



あやふやで不確かな文章、劣化していくビジュアル。
これらは、筆写・写本につき物であり、教祖からの口伝がなければ教科書として使えない。
活字と版画を組み合わせた印刷は、版を変えない限り変質・劣化せず同一性が保てる。
しかも、ナレッジ供給は、早く・安く・大量で・正確に増加させることが出来る。
まるで、1990年代に始まったインターネットのようだ。

16世紀以降のヨーロッパでの知識・科学革命は、
表現の手段としてのBook・印刷が、時代を刺激し、“科学する”という目標を与えたから
起きたとも言えそうだ。
そして印刷メディアが求めたコンテンツとしての本草書は、
画家・アーティスト・職人が、植物をリアルに描くという絵画とは異なる手法を発見し、
身近な植物を写していくという行為からたどり着いた。

ディオスコリデスがローマ軍医として各地を転戦して植物観察をした
この原点にたどり着き、筆写ではない、版画と活字印刷を使った新しい様式に
うまくはまった。というのかもしれない。

しかし、準備をあまりせずに新しいメディアに乗ってしまったので、
ブームを定着させるコンセプトが提起できなかったためか、
17世紀後半からは、薬効の誤りなどを指摘され、本草書ブームは衰退することになる。

しかし、自然を客観的に見つめ、そこにある秩序を求める視線は消えずに残り、
異なるアプローチで発展することとなる。

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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ときめきの植物雑学 その18:本草書のトレンド②

2008-01-22 09:08:29 | ときめきの植物雑学ノート
ときめきの植物雑学 その18:本草書のトレンド②

ドイツで勃興する本草書のブーム

1000年以上も持続した本草学の権威、ディオスコリデスを超えるのは、
一体誰だろうか? これが今回のテーマだ。

レオナルド・ダ・ヴインからジョン・ジェラードまで、わずか1世紀もかからずに
対象としての植物をリアルに認識し、写実的に描くことが実現した。
自然・社会を対象として眺め、写実的に特徴を捉える。
この思考の変革は、劇的であり、身近にある植物でなされたことの意味は大きい。

『本草書の時代』をリードしたのはドイツの草本家で、その後同時多発的に
ヨーロッパ各国で同じ動きが起きる。
印刷技術が改革され印刷工業が勃興したドイツでは、聖書に代わる
コンテンツが欲しいという潜在したビジネスのニーズがあった。
この印刷メディアとコンテンツとの新しい緊張関係が、ドイツで始まっていたということだろう。
そして
新しい視線で植物を捉え焼き付けたのは、画家・アーティスト・職人のようだ。
本草家がコピーと構成の役割を担ったようだが、ディオスコリデスをなかなか超えられていない。
アーティストは、既成概念から解き放たれるのも早く、全体を俯瞰する能力が高いのであろうか?
そしてこのような、人材と環境がそろっていたのは、印刷工業が発展しているドイツ以外なかった。

こんな仮説で本草書出版の歴史ドキュメントが読み込めそうだ。

=千年続いた模写の時代=
デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)
『薬物について(De Materia Medica Libriquinque)』という本草書を、1世紀の頃に書いた。
・1000年以上もの間イスラム・ヨーロッパの世界で権威ある薬学のテキストとして使用される。



=模写の歴史での最後の本草書=
コンラッド・フォン・メーゲンベルク(Conrad von Megenberg 1309-1374)ドイツ
・1475年『自然の書(Buch der Natur)』最初の印刷版がアウグスブルクで出版。
・母国語(ドイツ語)で書かれた最初の本草書。
・注目点は、木版画が本文を補完する意図で作成・印刷された最初の本。



=本草書の時代の開幕=
ペーター・シェッファー(Peter Schöffer 1430頃-1503)ドイツ
・1485年『ドイツ本草書』出版
・ドイツにない植物を描くために、画家をともなって取材旅行し、
・実写での植物図版が初めて登場した。
・グーテンベルグとの共同経営者だが乗っ取りをおこなった。しかし、写実主義を実践した
ことにおいては貢献度が高い。



オットー・ブルンフェルス(Otto.Brunfels. 1488頃― 1534 )ドイツ
・1530年 シュトラスブルクで『本草写生図譜』第一巻を出版。
・シェッファー以降植物の写実性が劣ってきたが、この本で、ルネッサンスの思想である
写実主義・自然主義を復活した。
・1532年 ドイツ語版『図説本草』を出版。本文はディオスコリデスの複写だが、植物図版が優れており、
植物図の歴史に新時代が開ける。
・この図版を描いたのは、ニューハンブルクの画家 ハンス・ヴァイデイツ(Hans.Weiditz)。
画家の目でありのままに実写し、枯れたところまで描いた。
・ハンス・ヴァイデイツは、アルブレヒト・デューラーと同じ派であり、確かな目を持っていた。
・しかし、植物図版として、必要ないところまで描いてしまったので普遍性が劣った。



レオンハルト・フックス(Leonhard fuchs 1501-1566)ドイツ
・1542年 『植物誌』をバーゼルで出版
(注) 1542 - Fuchs, Leonhard (author) - Basil - The Warnock Library(コピーが出来ませんがかなりのページが見れます)
・約400種のドイツ原産の植物、約100種の外国産の植物を記載。
・植物をアルファベット順に記載し、分類は試みていない。
・内容は過去の模倣であり、科学的な価値には乏しい。
・歴史上高い評価を得ているのは、500を超える植物の図版。
・分業体制で植物図版を作成した初めての本。
・実際の植物を写生したのは、アルブレヒト・メイヤー。図解的に書き直し版木に下絵を描いたのは
ハインリッヒ・フュッルマウラー。版木を彫る仕事をしたのがルドルフ・シュペックル。
・実際の植物をリアルに描くのではなく、種としての共通の特徴的な性質・形態を描き、
オットー・ブルンフェルスの画家ハンス・ヴァイデイツが、ありのままの植物をリアルに描いたのとは大きく異なる。
・植物図鑑の図版としてのあるべき描き方を発見し、確定した。
植物図版アネモネ この高精細度の再構成された精密なアネモネの素晴らしさ。



ヒエロニムス・ボック(Hieronymus Bock 1498-1554)ドイツ
・1538年 シュトラスブルクで『新本草書』を出版。
・1546年 フックスの図版の影響を受け、ブルンフェルス、フックスの図を下敷きにして改定
・ドイツに自生している薬草を自分の目で観察して記述した。



<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『本草書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

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ときめきの植物雑学 その17:本草書のトレンド①

2008-01-20 10:31:51 | ときめきの植物雑学ノート
その17:本草書のトレンド①

アートとサイエンスの婚約まで
本草書は美しい。
それが、ビザンティン写本のように写実的でなく現実の植物と似ていなくとも
あるいは、デューラーのように驚くほどの精緻さでリアルに描かれていたとしても
美術書にはない魅力がある。



絵画でもなく科学でもない。或いは、絵画であり科学でもある。
本草書には、この相矛盾するものを内包した魅力がある。

このような意見で安穏としていることが出来るのも、
現代は、カメラというものがあるからだろう。
カメラは、見えたとおりにありのままに近いものを切り取り記録する道具だ。
認識も、表現手法も、記録・焼付けも、気にすることがない。

しかし、植物画の歴史には、
描かれた植物画から、対象である植物の認識そのものの推移を知ることが出来、
アートとサイエンスとの融合もリアリティを持って伺える。

1000年以上も眠っていた中世社会が目を覚まされた。
といっても知識人だけだが。
ルネッサンス期の3大発明といえば、「羅針盤」「火薬」「印刷技術」であり、
自然をあるがままに正確に捉えるという「自然主義」「写実主義」は、
停滞していた科学的思考と芸術的思考を大きく動かす原動力となった。

15世紀中頃に実用化した印刷技術は、
100年をかけてそのハードを生かすソフトが開発された。
常にハードが先行し、遅れてソフトが追従開発されるが、
印刷技術のように劇的であればあるほど社会の基盤に組み込まれ、
後戻りすることが出来ずに、新たな発見・発明競争が加速するのが常だ。

印刷における科学と芸術の結婚、
すなわち植物学者と画家との共同作業により、植物のことを描いた本草書が
他のあらゆる領域に先駆け、試行錯誤の見事な系譜で16世紀中盤に出来上がった。

現在において、“あるがままにものを正確に見る”ということ自体なんら不思議なことはないが、
クラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年)、デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)の時代に
出来ていたことに戻るのに1600年もかかった。

1400年代の後半からの1世紀は、特に1500年代は、 『本草書の時代』といわれ、
ルネッサンスの自然主義・写実主義を実現していく。
行きつ戻りつのそのプロセスを知ることは、目標設定してのその達成のためのアクションの参考となる。


<植物画 アーティストの思考の変化の流れ>
クラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年) 
・写実性の高い植物画を描く。
・ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』でも使用。
・植物画の父といわれる。

想像上の植物マンドラゴラ マンドレーク(1406-1430 コンスタンチノプル製作)
・地面から引き抜かれる時に致命的な悲鳴を上げるということが恐れられました。
・なんと、ディオスコリデスの薬物誌にも掲載されている。
http://www.strangescience.net/stplt.htm

=絵画に科学性を持ちこみルネッサンスをリードしたヒト=
=自然主義、写実主義がルネッサンスの思想=

フィリッポ・ブルネレスキー(Filippo Brunelleschi 1377-1446) 
・遠近法を発見又は再発見した一人ともいわれる。

レオン・バティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti 1404-1472)
・ルネッサンスの天才、『絵画論』で透視図法に幾何学的な基礎を与える。
・職人の世界を科学・学問の世界に近づけ、画家の地位向上に貢献。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)
・ルネッサンスの天才は人体・植物などの観察をデッサンとして残している。
・ダ・ヴィンチは現代からワープしてルネッサンス期に行ったヒトではないかと思うほど視通しているからすごい。

アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 1471-1528)
・ドイツを代表する画家。北方ルネッサンスの口火を切る。
・1490年代に「風景画」を描いており、ヨーロッパで初めて。
精密な植物画・動物画を描き、16世紀中頃に登場する草本書の挿絵図の先鞭をつける。
The Large Turf (5番目の画像)
1503 (180 kB); Watercolor and gouache on paper, 41 x 32 cm; Graphische Sammlung Albertina, Vienna
木版画を芸術の域に高め、グーテンベルクの印刷革命のコンテンツの品質を向上。

<印刷技術の革新>
ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg 1398頃―1468)
・1447年に活版印刷技術(合金製の活字と油性インクの使用)を実用化し、初めて旧約・新約聖書を印刷。
・ルネッサンス期の情報伝達スピードを飛躍的に改革。
・同じ情報が広い範囲に同時的に伝達できることは、写本による誤謬を内在した

アントン・コーベルガー(Anton Koberger 1445-1513)
・中央ヨーロッパ最大の商業都市ニュールンベルクの大印刷出版事業者。
・最盛期には、100名の職人、24台の印刷機を有し、質の高い書籍を出版。
・ここからニュールンベルクが印刷・出版の中心地となる。

【次号に続く】

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『本草書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

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黒い花 ディスコロールセージ

2008-01-18 08:10:52 | セージ&サルビア


気づかないうちにひっそりと花をつけていた。
思わぬプレゼントをもらい、得をした感じがする。

このディスコロールは、日当たりの良い、ひさしの下で
夏から秋の成長期に、伸び放題に広がっていたのを、
冬場対策時に、鉢のサイズに合わせて思いっきりカットした。

この時期は、刈り取られた羊のようにちょっと寂しい感じであったが、
太陽の陽射しで出来る影に溶け込むように咲いていた。
昨年に引き続き、冬場に咲いており、
他の花が咲かない時期に咲くという
生存の競争戦略を実に承知している花だ。

とうぜん、苦手の霜対策のチェックとか、ご褒美とか考えざるを得ない。
6月頃に、さし芽をして増やすことをしてみよう。

ディスコロールセージ(Salvia discolor)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がない多年草。
・学名 サルビア・ディスコロール(Salvia discolor)、英名 アンディアンセージ(Andean silver sage)、ベルビアンセージ。
・原産地はペルー。
・耐寒性が弱いので、霜の降りる場所では越冬できない。軒下、又は室内で管理。
陽に当てれば冬でも開花。
・対暑性は比較的強い。
・草丈は30cm程度だが、つるのように横に広がるのでヒモなどでとめる。
・葉は、薄い鮮やかな緑だが裏側が灰白色。茎は粘着質。
・開花期は、夏場から晩秋だが、日当たりがよいと冬場でも咲く。
・花の色は、黒色に近いダークグレイ。淡い灰緑色の顎と対照的。
・増やす時は、さし芽で増やす。
・花後に思いっきり剪定しても大丈夫。
ディスコロールセージ(Salvia discolor)

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ときめきの植物雑学 その16:1千年以上の時空を越えたディオスコリデス

2008-01-17 05:18:02 | ときめきの植物雑学ノート
その16:1千年以上の時空を越えたディオスコリデス

ディオスコリデス『マテリア・メディカ』
薬学の祖といってもよいヒトがいる。
デイオスコリデス(Dioscorides 1世紀頃)という。
氏素性はよくわかっていないが、小アジアといっていた現在のトルコ、アナトリア半島キリキア地方の出身で、
ローマのネロ皇帝(在位54- 68年)の時代に、軍医として従軍し、各地を旅行して薬物を調査研究したという。

デイオスコリデスは、俗に“マテリア・メディカ”といわれる、
『薬物について(De Materia Medica Libriquinque)』という草本書を、1世紀の頃に書いた。

この本が、ヨーロッパだけでなくイスラムの世界でも、15世紀まで文献として通用し、
16世紀、本草書の時代のNewが出て、普及・浸透するまで使われたというからすごい。

ビザンチン写本(ウィーン本)で時空を超える
また、『マテリア・メディカ』は、現存するものがなく写本が残っているだけだが、
ギリシア語・ラテン語・ペルシア語・ヘブライ語・トルコ語などの書き込みがあり、
西ローマ帝国崩壊後は、イスラムの世界で活用されていた。

写本で有名なのは、512年につくられたビザンチンの画家が写した写本で
ディオスコリデス・ウィーン写本とも呼ばれているが、(Here⇒オーストリア)
1202~1204の第4回の十字軍で、ヨーロッパ側が偶然にこれを手にいれ、
1569年,神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が購入し,ウィーン帝室博物館に収められた。

1492年 フェラーラ大学医学教授ニコロ・レオニチェーノによって
『プリニウス及びその他の著作家が犯した薬草についての記述の誤り』が公表され、
ディオスコリデスと同時代人のプリニウスの『自然誌』が批判された。
ここから、『自然誌』『マテリア・メディカ』への盲目的な信頼が崩れ始め、新しい思考が誕生する。

アートとサイエンスの結合
それにしても『マテリア・メディカ』は、1千年以上も薬物学・植物学のテキストとして権威を保持し続けたが、
その理由・要因を探ってみよう。

『マテリア・メディカ』は、写本によって異なるが、600種ほどの薬の説明があり、
そのうち500種ほどが植物で占められている。
原著は、文章だけと思われるが、前述の“ウィーン本”では、
植物画の父といってもよいクラテウアス(Crateuas 紀元前132-63年)の写実性の高い植物画を使用しており、
この周囲にテキストを配置している。
確かに、優れている。1500年前の作品・本草書とは思えない。

「百聞は一見にしかず」ということわざがある。
音・コピーは創造を刺激する。
ということは、発想を豊かにするので、見たことのないものは、様々な形状と色彩が可能となる。
アートは、生き方を豊かにするのでこれでよい。
科学は、再現が重要であり、そのためには、同じもの異なるものその違いが明確でなければならない。
植物・ハーブが面白いのは、アートとサイエンスと経験とが一体になって動いている。
しかも、他の領域よりも早く動いているところが面白い。

コピーライター・ディオスコリデスとデザイナー・クラテウアスとが優れていたから
千年も超えられた。
ということで終わりにしたいが、コピーライターのコピー作成の考え方をまとめておかないと終われそうもない。

科学は細分化である
『マテリア・メディカ』は、600種もの薬物を区分けし、体系を作りそれを全5巻に記載した。
区分け、体系がここでは重要であり、これまでは、ABC順とか薬効とか利用の仕方で区分けしていた。
ディオスコリデスは、以下のように分類し
1巻:芳香薬・香油・軟膏・樹脂・樹皮・果木・低木・果物
2巻:動物・蜜蝋・牛乳・獣脂・穀物・疎集・香辛料・毒草
3巻:日常的に使われ薬草になる根・汁・苗・種子
4巻:以上でふれていない草・根
5巻:ぶどう酒・その他の酒・酢・金属・鉱物

個別の薬物に関しては、名称・産地・形態・性質・効用・使用法について記載した。

16世紀までは、新しい知識の追加もなく、薬草だけが植物としての関心であり、
ディオスコリデス以上の分類が考えられるのは、18世紀のリンネとなる。
15世紀以降アメリカ大陸などからの珍しい植物などが増加し、これらを理解するための道具が必要になった。
従って、薬草だけでなく植物自体の分類に関心が向いていき、また、自然の理解の仕方も大きく変わることになる。

蛇足:古代ギリシャの医薬分業
一朝一夕で素晴らしい成果を出せるものではない。
その時代までの社会に存在しているナレッジの水準が高かったので、
これらの集大成と統合の切り口がよかったのだろう。

この時代の医者と薬剤師に当たる者とは、分業体制にあり、
身分の高いヒトを見る医師は神殿の僧侶であり、
世俗の医師・薬剤師的なリゾトモス(rhizotomos)は、大工と同じ様に身分が低い職業であったようだ。
リゾトモスは、野山を駆け巡り、薬草・根などを採取するので“草根採取人”ともいう。

このリゾトモス・世俗の医師・神社の僧侶などの薬草と効果に関してのナレッジ水準の向上
そして薬草園の薬草育成などに1000年以上も貢献したというからすごい。



<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
⇒Here ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点【その16】
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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