モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

サルビア・エレガンス(Salvia elegans)の花

2019-10-18 11:14:22 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・エレガンスの花


透きとおった上品な赤とはこの色のことを言うのだろう。
秋の終わりに咲き始めるサルビアは数少なく、今シーズンのフィナーレを飾る赤色の花の一つとなる。
葉からはパイナップルの香りがするので「パイナップルセージ」 とも呼ばれる。

また、花の形は、花粉を運んでくれる誰にでも好かれる形状ではなく、特定の昆虫・鳥にだけ好かれるようにできている。
空中に停止する飛行(ホバリング)が出来ないとご褒美の蜜が吸えないようになっており、わが庭では、ホシホウジャク(蜂雀、humming‐bird moth)が毎日巡回飛来し、蜜を集めている。
このホウジャク、蜂の種類かと思うほどだが実際はガ(蛾)の一種なのだ。

(写真)ホシホウジャク

(出典)虫の写真図鑑、スズメガ図鑑

原産地は、メキシコの標高2000-3000mの高地に自生していて、鳥の仲間のハチドリ(humming bird)が蜜を吸うために空中に停止し、花粉を運んでいる。

パイナップルセージ、命名の歴史

この素晴らしい花のために用意された学名は、「サルビア・エレガンス(Salvia elegans)」であり、
1804年にリンネの使徒の一人でもあるファール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749‐1804)が命名した。ファール55歳で亡くなった年でもある。
(写真)Martin Vahl
 
(出典)ウイキペディア

命名者 ファールは、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者であり、
ウプサラ大学でリンネに学び、ヨーロッパアフリカなどの探索旅行をし、アメリカの自然誌をも著述し、彼が最初に記述したサルビア(Salvia tiliifolia)などもある。

しかし、この素晴らしい花を誰が発見したか良くわかっていない。
記録に残っているサルビア・エレガンスの命名の歴史を振り返るとヒントが隠されていた。

ファールが命名する4年前の1800年に、スペインの大植物学者 カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745‐1804)によってメキシコ原産のパイナップルセージは、「Salvia incarnata」と命名された。
種小名の“incarnata”は、ヒガンバナのような赤色だが、“肉色”の赤を意味する。
だが、この名前は認められなかった。

(写真)Cavanilles, Antonio José
 
(出典)ウイキペディア

理由は、ドイツのニュールンベルグにあるFriedrich-Alexander・Universityで21歳になったエトリンガー(Etlinger, Andreas Ernst 1756‐1785)が、
博士号を取得するためのサルビアをテーマとした論文で1777年に 「Salvia incarnata」 という名前をすでに使用・発表していたので、カバニレスの命名は認められなかった。

エトリンガーが「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)と命名した植物は、
実際は違ったサルビアで、正式な学名は「Salvia fruticosa」(フルーティなサルビア)という。
下の写真のような淡い色合いのサルビアに、「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)というような名前を付けるだろうか?
御覧の通り大分大きな勘違いがあったようだ。学生だからしょうがないか! と言えばそれまでだが・・・・・。
(写真)Salvia fruticosa

(出典)ウイキペディア

本来ならば、パイナップルセージの原産地(メキシコ)の宗主国、スペインの方が組織的に植物のサンプルを収集し、母国のマドリード王立植物園に集めていただけに、
また、その園長を務めていたカバニレスの方が分が良いはずだが、どこかで手違いがあった。

パイナップルセージのコレクターの歴史

記録に残っている最初の採取者は、1841年にメキシコの1000mのところで採取されているが採取者の名前はわからない。
1891 年には「サルビア・レウカンサ」などメキシコの美しい花を採取したプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838‐1911)も採取している。

カバニレスが命名したパイナップルセージを採取したのは、
マラスピーナ探検隊(期間:1786 to 1788、1789 to 1794)に植物学者として参画した ニー(Née, Luis 1734-1801) だった。
1791年10月にメキシコ中央北にあるケレタロで採取し、この標本をカバニレスがニーの自宅で見た。ということが分かっている。

・※マラスピーナ探検隊とは、スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真)Née, Luis (1734 - 1803)

(出典)Australian National Herbarium

しかし、カバニレス程の大学者が命名ミスをしてしまったが、他国の大学の博士論文まで目が行き届かなかったのだろう。ましてや見た目から想像できない名前までチェックできなかったのだろう。
カバニレスは、玄人・プロが陥るわなにはまってしまったようだ。

更に気になる学名があった。
『Salvia longiflora Sessé & Moc. 1887.』だった。
1787‐1803年までの16年間に及ぶセッセ探検隊の、
セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)がパイナップルセージに「Salvia longiflora」 (longiflora=長い花)と命名していることだ。

メキシコ到着の時期からみても、ニー(Née, Luis)よりも早く到着し探検していたセッセ達がおそらく最初の採取者だったのだろう。
ただ残念なことにセッセ探検隊の成果は、歴史の谷間に沈み込み、再発見された1887年に発表されたので正式な学名として認められなかった。

パイナップルセージは “elegans(優美な)” が最も似合うサルビアだと思う。
カバニレスの“incarnata(肉色)”、セッセ達の“longiflora(長い花)”でなくて良かったと思う。 

スペインの大植物学者 カバニレスにとっての邪魔者エトリンガーは、パイナップルセージにとって最高の働きをしたと思うがいかがだろう?
彼がいなければ、パイナップルセージは “肉色のサルビア”になっていた。

園芸市場に出現したのは1870年の頃といわれていて、今では世界の秋をエレガントに魅了する花となっている。

育て方は夏場の水切れと冬場の霜対策が厄介だが、これ以外はいたって簡単で育てやすい。

(写真)サルビア・エレガンスの葉と花


サルビア・エレガンス(Salvia elegans)
・シソ科アキギリ属の半耐寒性の常緑低木。
・学名は、サルビア・エレガンス(Salvia elegans Vahl, 1804)、英名・流通名がパイナップルセージ(Pineapple sage)。
・原産地はメキシコ。標高2000~3000mの高地に生息。
・丈は成長すると1m前後。鉢植えの場合は、摘心して50cm程度にする。
・耐寒性は弱いので、冬場は地上部を刈り込みマルチングするか軒下などで育てる。
・耐暑性は強いが乾燥に弱いので水切れに注意。
・開花期は、晩秋から初冬。短日性なので日が短くならないと咲かない。
・花は上向きにダークが入った濃い赤で多数咲くので見栄えが良い。
・葉をこするとパイナップルの香りがする。
・茎は木質化するまでは非常にもろく折れてしまいやすいので、台風などの強い風の時は風を避けるようにする。

【付録 ハチドリ】
新大陸アメリカでは ハチドリ(Hummingbird) 、オセアニア・旧大陸では タイヨウチョウ 、日本では、ホウジャク(蜂雀、 humming‐bird moth)が、毎秒50回以上の高速羽ばたきをし空中に止まるというホバリングをし、大好物の花の蜜を食べる。
このホバリングする鳥、蜂、蛾に最適な蜜を吸いやすい構造に進化したのがサルビア・エレガンスの花の形態だ。

そういえば、ペルーのナスカの地上絵にもハチドリの絵が描かれている。

(写真)ナスカのハチドリの絵

(出典)ウイキペディア ナスカの地上絵

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サルビア・レプタンス(Salvia reptans)の花 と 命名者ジャカンの時代

2019-09-30 08:17:01 | セージ&サルビア

(写真)サルビア・レプタンスの花


「サルビア・レプタンス」は、英名では“コバルトセージ(Cobalt Sage)”と呼ばれ、
コバルトブルーのような色合いの花が咲く。
この濃いブルーの色はなかなかない。渋めで重いようなブルーであり、冬の海を連想するほど重い。

この“コバルト”という金属元素は1737年に発見され、ドイツ語で“地の妖精”を意味する“Kobold”に由来するという。
顔料としてガラスの原料にコバルトを入れるとブルーに染められるが、コバルトの量が多いほどブルーの色が濃くなるという。
なるほどという納得がいくネーミングだ。

原産地は、テキサスからメキシコの2000m前後の高地で石灰質の乾燥した荒地であり、
細長い葉の先に花穂を伸ばし1㎝程度の口唇型の小花が下から上に向かって多数咲きあがる。
匍匐性のものもあるようだが、これは立ち性で、摘心しなかったので1mぐらいまでになってしまった。

この花に、「サルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq.)」という学名を1798年につけたのが
オランダ・ライデンで生まれ、神聖ローマ帝国の首都ウィーンに移住した医者・植物学者のジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)だった。

日本ではまだ珍しい品種でもあるが、1800年代初頭には、園芸品種としてヨーロッパの庭に導入され普及し始めたようだ。

命名者ジャカンの時代 : ハプスブルグ家とリンネとモーツアルト
オランダ・ライデンで生まれたジャカンがウィーンに行ったのは、
直接的には中部ヨーロッパを支配したハプスブルグ家の財産を相続したオーストリアの女帝マリア・テレジア(Maria Theresia 1717-1780)から宮廷の医師兼教授の職を提供されたので、1745年に移住することになった。
彼が18歳の時なので、早くから才能を認められていたようだ。

フランス革命でギロチン刑にあったルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette1755-1793)は、このマリア・テレジア女帝とその夫である神聖ローマ帝国皇帝フランツ一世(Franz I. 1708-1765 )との15番目の子供にあたる。

この二人は当時としては珍しい恋愛結婚のようであったが、
ハプスブルグ家の財産を引き継いだマリア・テレジアが頑強に政治を主導したので、気の優しい夫であるフランツ一世はうしろに引き、財政・科学・文化・芸術などに傾倒し、
ウィーンのシェーンブルン宮殿の庭造りなどをも趣味としていた。
現代でも婿養子は同じような構造のようでもあるが、王家の家臣からは主人として扱われず客以下でもあったようだ。

ジャカンはこの庭でフランツ一世と出会い、1755-1759年の間、カリブ海の西インド諸島及び中央アメリカに植物探索の旅に派遣され、植物・動物・鉱物などの膨大な標本を収集した。
ジャカン28‐32歳の時だった。
「サルビア・レプタンス」との出会いはこの探検旅行であったのだろう。

リンネ(Carl von Linné、1707-1778)は、この探検のことを聞きおよびお祝いの手紙を出し、ここから生涯のメール友達となった。
もちろん、未知の植物を知りリンネの植物体系を完成させるだけでなく自分の体系を普及する戦略的な意義もあったのだろう。

ジャカンは、1768年にはウィーン植物園の園長、大学教授となり、1774 年にナイト爵に叙され、1806年には男爵になり名誉だけでなく豊かさも手に入れた。

モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)との出会いは1780年代で、
ジャカンの娘のピアノ教師としてジャカンの邸宅に出入りし、ジャカンの息子Emil Gottfried (1767–1792)とは友人でもあり彼のために二つの歌曲(K520、K530)を作曲したが、版権を売るほど貧乏をしていたので“ゴッドフリートの名で出版された。
また、かなりの作品をジャカン家に捧げたという。

モーツアルトには毒殺されたという謎があるが、“でる釘は打たれるという” 諺どおりに才能のわりには恵まれず35歳という若さで死んだ。
天才少年と誉れ高かったモーツアルト6歳の1762年に、ウィーン、シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジアの前で演奏をし、
この時7歳のマリー・アントワネット(正しくはマリア・アントーニア)と出会い愛をささやいたという早熟なエピソードがある。

フランツ一世、モーツアルトとも“妻”という存在に悩んだようだ。
夫のほうから見るとこれを悪妻というが、ここから逃れるためにか功績を残すことになる。
フランツ一世は、ハプスブルク家がもうちょっと長持ちする財政基盤と文化・芸術そしてジャカンを残し、
モーツアルトは数多くの楽曲を残した。

(写真)サルビア・レプタンスの葉と花
        

サルビア・レプタンス(Salvia reptans)、コバルトセージ(Cobalt Sage)
・ シソ科アキギリ属の落葉性多年草で半耐寒性。
・ 学名はサルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq. )、英名がコバルトセージ(Cobalt Sage)、別名はWest Texas cobalt sage。
・ 原産地は北アメリカ、テキサスからメキシコの乾燥した荒地。
・ 草丈は、80-100cmで、花が咲く前に摘心をし、丈をつめ枝を増やすようにする。
・ 開花期は、9~11月で、美しいコバルトブルーの花が咲く。
・ ほふく性と立ち性のものがある。これは立ち性。
・ やや乾燥気味でアルカリ性の土壌を好む。
・ 関東では、冬は地上部が枯れるが腐葉土などでマルチングをして越冬できる。
・ さし芽、或いは、春先に株わけで殖やす。

命名者:
Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von (1727-1817)、1798年
コレクター:
Harley, Raymond Mervyn (1936-)
Reveal, James Lauritz (1941-) 1975年10月13日採取

        

「サルビア・レプタンス」発見の不思議
キュー植物園のデータベースでは、「サルビア・レプタンス」は、1975年10月にメキシコで発見されている。
発見者は二人で、一人は、キュー植物園の Harley, Raymond Mervyn (1936~) と
もう一人は、メリーランド大学の教授を経てメリーランドにあるNorton Brown 植物園の名誉教授 Reveal, James Lauritz (1941~) となっている。

これが公式なのだろうが、 「ウエストテキサス・コバルトセージ」と呼ぶほどテキサスの花としての誇りを持つ人たちは、自国の発見者ストーリを展開している。

発見時期は明確ではなかったが、「サルビア・レプタンス」を発見したのは、
テキサス生まれのパット・マクニール(Pat McNeal、Native Texas Plant Nursery)で、西テキサスにあるデイビス山脈(the Davis Mountains)で発見したという。

デイビス山脈のマニアのサイトを読んでいると、多様な植物相を持ちえる気候環境化にあり魅力的と感じた。
ここなら、もっと様々なセージなどの目新しい植物があるのではないかと思う。

(写真)デイビス山の光景
 
(出典)ウイキペディア
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世界初の旅行代理店 トーマス・クック 破産宣告 !

2019-09-27 10:33:19 | 街中ウオッチング
2019年9月23日、イギリスに本社がある世界初の旅行代理店トーマス・クック(Thomas Cook Group plc.)が破産宣告をした。
誕生したのは1841年頃とすると178年の歴史にピリオドをうったことになる。

(写真)トーマスクック強制清算


世界初の旅行代理店誕生のポイント
最初のスタートはこんな感じだったらしい。
創業者トーマス・クック(Thomas Cook, 1808-1892)は、厳格なバプティストの家に生まれ、志はバプティストの布教と禁酒運動の活動であり、収入は、家具職人・印刷業のパートなどで得ていた。

(写真)創業者、トーマス・クック
 
(出典)ウイキペディア

時代的には、蒸気機関車を使った鉄道の誕生から発展の時期と同一であり、
1840年代には鉄道によるネットワークが英国で出来上がり、緊急・ビジネス以外での不要不急の需要、
今でいう観光需要の開発が必要になってきた。

旅行代理店業を創出するアイディアのきっかけは、
禁酒運動の大イベントに参加する時に、参加者が個別に徒歩、馬車、或いは鉄道で現地集合するのではなく、団体で移動できないか?
ということなので、トーマス・クックの熱狂的なパッション・イデオロギーは、違った世界を見つけ出すことに繋がった。

また、鉄道ネットワークの形成は、乗客をまとめて持ってきてくれる人・事業者を求めるビジネス環境が形成されつつあり、
集客営業を代行する代理店ビジネスが鉄道業に必要となっていた。

トーマス・クックは、1841年7月5日、鉄道会社に臨時列車を出してもらい、
乗客が往復運賃と食事込みで1人1シリングの費用で日帰り旅行できるツアーを実施した。
これが国内団体パッケージツアーの始まりだった。

この1シリングは今の貨幣価値でいくら位なのだろうか推計してみると、
1840年代の1ポンドは現在価値で6.5万円とすると、1ポンドは20シリングなので、1シリング3,250円となる。
現在の日帰りバスツアーからみると安いかもしれないが当時としては価格破壊的なインパクトがあったのだろう。

10年後の1851年には、ロンドン万博を契機に事業を拡大させ旅行代理店ビジネスを定着させるに至る。
この万博には600万人を超える入場者があったが、そのうち4パーセントに当たる人々がクックのツアーで見学したという。

トーマス・クックが世界初の旅行代理店として発展し、今日まで生き延びてきたのは、禁酒運動の大イベントでの割引団体旅行を考えたところにありそうだ。
そしてビジネスとして拡大させたのは、旅行したいという欲求を作るイベントを見つけ、或いは、なければ作るという着眼点と、
顧客がその旅行に行ってみたいという気持ちを具体化させる商品化及びコストパフォーマンスをつくりだしたので今日まで寿命を持たせたのだろう。

しかし、命運尽き果てこれまでのままでは生き残れなくなった。
世界初の旅行代理店を作ってきたトーマス・クックのビジネスモデルでは生き残れないことが明確になってしまった。

今起きているのは、“世代交代”ではなく“新旧交代”
旅行業界だけでなく様々な業界で “世代交代”ではなく“新旧交代” という現象が起こっている。

“世代交代”は、同じ土俵の上でバトンを引き継いで人だけが交代していくイメージだが、 
“新旧交代”は、土俵もプレーヤーもまったく異なることを意味している。

なぜこのようなことが起きているのだろうか?
しかも、遅いか早いかの違いはあるが、数多くの業界で起きる可能性を秘めている。

インターネットが日本ではじまってもうすぐ30年
1991年、インターネットの住所番地(IPアドレス)と屋号(ドメインネーム)を割り当てする機関が誕生し、日本でのインターネットの商用化がはじまった。

しばらくは、何の役に立つのか理屈先行でリアリティーがなかったが、携帯電話とインターネットが結びつくことによって様々なものが変わってきた。

ネット通販
ネット銀行
ネット予約(旅行、ホテル、レストラン、レンタカー、劇場、・・・・・)
等など枚挙に困らない。

旅行での新幹線、飛行機、ホテル等の予約は個人でもできるようになり、旅行代理店を通す必要が減ってきており、このことが、旅行代理店ビジネスの縮小となり事業者数・店舗数自体も減少している。

トーマス・クックの破産宣告は、インターネット対応への遅れではなく、
インターネットの革新性・革命的なインパクトに気付いていても動けなかったことに尽きるのだろう。
何故か? 既存ビジネスからみると効率が悪く収益性が悪いので、わかっていても手が出せない。
手を出した時には時すでに遅しということなのだろう。

キリスト以前をB.C.( before Christ )、キリスト以後をA.C.と呼称するように、
ビジネスでは、インターネット以前と以後で格段の違いがある。
これを表記するとしたら次のような区分けがされるようになるだろう!

B.I.(Before The Internet)を 従来型・オールドビジネス
A.I.(After The Internet)を オンライン型・Newビジネス

そして、化石化するオールドビジネスよ頑張れとエールを送りたい。
化石化するオールドビジネスは、人肌感覚があり やさしい!
このようなサービスは、高級・高額化して生き残るのだろう。
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5:プレ・モダンローズの系譜-2

2019-09-03 14:15:26 | バラ
(4):ブルボンローズの誕生
レユニオン島の住人A.M. Perichonは、1817年以前に島にあるバラとは異なる品種を発見し、それを育てて生垣用として配った。
島では、耕作地の垣根をバラで囲っており、中国原産のコウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)とダマスクバラが植えられておりこれらとは異なる品種だった。
コウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)は、アメリカ・チャールストンでノアゼットローズの片親となった重要なオールドローズだ。

レユニオン島の説明が必要だが、アフリカ、マダガスカル島の東のインド洋上にある島で、現在は、フランスの海外にある4つの県のうちの1つで、コーヒーノキのオリジナル種ブルボンがあることで知られる。
この島は、大航海時代の1507年にポルトガル人が発見したがこの時は無人島だった。
1645年にフランス東インド会社が入植を開始し1714年からコーヒー栽培を行った。
この島でのコーヒーの栽培はシンプルだけに面白いので、興味があればUCCコーヒーのサイトで、<strong>「幻のコーヒー ブルボン・ポワントゥ」をご覧いただきたい。

コーヒーノキも同じような背景があるが、隔離された島であり二つしかないバラから生まれた第三のバラが誕生した。
レユニオン島の植物園長として1817年に着任したフランスの植物学者ブレオン(Jean Nicolas Bréon 1785‐1864)は、このバラに興味を持って調べ、
ダマスクバラの“オータム・ダマスク”と中国産コウシンバラの変種“パーソンズ・ピンク・チャイナ”との自然交雑種であると考え、1819年にこのバラから得た種と苗をフランスのルイ・フィリップ王のバラ園で働く友人のジャックス(Henri-Antoine A. Jacques 1782-1866)に送った。

ジャックスは、1821年に初めて開花させ1823年にはフランスの育種家に苗木を配布した。
この種が、「ブルボン・ローズ」と呼ばれるもので、ローズピンクで半八重咲き芳香がある。

このブルボン・ローズは、バラの画家ルドゥテにより1824年に最初に描かれていることでも知られており、
ルドゥテは、絵の素晴らしさだけでなくバラの歴史の貴重な資料として使えるほど植物画としても正確性を有していた。
(植物画)ブルボンローズ(ルドゥテ作)
 
 ブルボンローズ
・学名:Rosa borbonica Hort.Monac. (Rosa chinensis x gallica)コウシンバラとガリカの交雑種
・英名:The Bourbon Rose

ブルビンローズの重要な役割は、さらに中国産のローズと交配され「ティーローズ」を生み出し、
この「ティーローズ」からフランス人のギョーが1867年に「ハイブリッド・ティ」を作出したことにある。
現代のバラの多くはこの系統に続く。
しかし残念ながら、ルドゥテが描いたブルボンローズの実物は今では存在しない。

(5):四季咲き性の取り込み
ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。
これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。
1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。

そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。
正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだが
これらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。
これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」
  

 フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。
フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のパイオニア、デュポン(André DuPont 1756‐1817)と バラの育種業者のデスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)だった。

デスメーは、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人工交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。
この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777‐1866)に全てを売り渡したという。
そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1795‐1878)によって完成されたことになっている。
彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・パーペチュアル・ローズである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。残念ながらこの品種は今日では見ることができない。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの1837年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。
アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その1~2番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。
そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)をつくる栄誉を得た。
2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

(写真)Fulgens  (Hybrid China, ゲラン作1828)
 
出典:helpmefind

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥 ベルディエ(Victor Verdier 1803-1878)が作り出した。
ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからなかったプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。
ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがあるという。このブルボン種のバラは、ヴィルベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 、どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで金物屋を開店した。
バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。
1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

(写真)ヴィベール(Jean Pierre Vibert)
 
出典:vibertfamily.com

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(6):現代のバラ、ハイブリッド・ティーへの進化
ティーローズからハイブリッド・ティー・ローズへ
現代のバラの主流は、ハイブリッド・ティー・ローズ(略称:HT)だが、このHTは、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)とティー・ローズの交雑で生まれた。

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズは、このシリーズ(5)でふれたが、
ノアゼット系のバラ、ブルボン系のバラなどが1810年代後半に登場したその土台の上で成立し、
ラフェイ(Jean Laffay)が1837年に作出した「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」が最初の品種とされている。

一方、ティー・ローズは、翌年の1838年に作出された「アダム(Adam)」が最初の品種として登場した。

(写真)ティーローズの最初のバラ アダム
 
(出典)篠宮バラ園

重要な系統がフランスで誕生した。この根底には、中国原産のバラが深くかかわっているのでこれを確認していくことにする。

ティー・ローズ誕生に関わった中国原産のバラ
1700年代の中頃以降から中国原産のバラがヨーロッパに伝わり、マルメゾン庭園での人工交雑以降の1810年代頃からあらゆるバラと交雑され、そこから重要な系統が誕生した。ノアゼット系、ブルボン系、ティー・ローズ系などである。

① 1809年にイングランドに中国原産のバラが伝わる。
このバラを導入したヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749-1838)の名前を取り、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と呼ばれた。
このバラは、中国原産のコウシンバラと中国雲南省原産のローサ・ギガンティア(Rosa gigantea)との自然交雑で誕生したといわれている。
ローサ・ギガンティアは、中国名で香水月季と呼ばれ、大輪で花弁のふちが強くそりかえるという特徴があり、現代のバラの花形にこれを伝えた。

② 1824年にはイエローローズの基本種が入る。
英名では、パークス・イエロー・ティー・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)、中国名では黄色香月季と呼ばれたバラがイングランドに伝わる。
このバラは、イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper (Danpia)Parks 1791-1866)が中国・広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。翌年にはパリに送られる。

③ 最初のティー・ローズ「アダム」の誕生
最初の品種は、1838年にフランスのアダム(Michel Adam)によってつくられた。
ヒュームのバラとブルボン系の品種との交雑で作られたといわれ、大輪、柔らかい桃のような花で、強いティーの香りがする。
 
最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表されてから以後、1838年フォスター作の「デボニエンシス(devoniensis)」、1843年ブーゲル作の「ニフェトス(Niphetos)」、1853年に代表種であるルーセル作の「ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)」が発表された。

(写真)ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)
 

バラの名前は、ナポレオン軍の将軍Jean-François Jacqueminot (1787-1865)の栄誉をたたえて名付けられた。
また、ティー・ローズは雨が多くジメジメした涼しいイギリスの気候には適さず、1800年代の中頃にはフランスのリビエラが栽培の中心となった。

④ ハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス(La France)」の誕生
1867年、ついに最初の四季咲きハイブリッド・ティー『ラ・フランス('La France)』が作られた。
作出者は、フランスのギョー(Jean-Baptiste Guillot 1840-1893)。

花は明るいピンク色で裏側が濃いピンク、剣弁で高芯咲き、花径は9-10cm、花弁数が45+15枚と多く、香りはオールドローズのダマスク香とティーローズ系の両方を持ち四季咲きの大輪。
交雑種は、ハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトール・ベルディエ(Mme Victor Verdier)」とティー・ローズ系の「マダム・ブラビー(Mum Braby)」といわれている。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
 
(参考) Hybrid Tea Rose ‘La France’

しかし実際は、リヨンにある育種園の苗木の中からギョーにより発見されたようで、人工的な交雑ではなく自然交配だったようだ。だから、両親がよくわからない。

しかも初期の頃は、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズと考えられていたが、
イギリスの農民でバラの育種家・研究者でもあったベネット(Henry Benett 1823-1890)が、「ラ・フランス(La France)」を新しいバラの系統として評価し、ハイブリッド・ティーの名を与え「ラ・フランス(La France)」をその第一号としたことにより新しい系統となった。

園芸品種の中では、バラの系図が最も明確にされているが、これはベネットのおかげであり、新品種作出の交雑種・作出者・作出地などが明確でなかったものを、各品種ごとに明らかにし、一覧表に記載する方法を考案した人で、その後の系統分類の基礎を築いた人でもある。

彼は、1879年に10の異なったバラの系統を示し、この時にハイブリッド・ティーという系統も提示した。
フランスでは比較的早くハイブリッド・ティーが認知されたが、全英バラ協会がこれを認めたのは1893年で「ラ・フランス」誕生から26年後だった。頑固な英国人気質は今はじまったことではなさそうだ。

また、境界線を引くことは意外と難しく、1859年にリヨンのFrançois Lacharmeが作出した「ビクター・ベルディエ(Victor Verdier)」は、両親が「Jules Margottin」(ハイブリッド・パーペチュアル)と「Safrano」(ティー・ローズ)であり、
最初のハイブリッド・ティー・ローズであってもよかったが,そうは認められずハイブリッド・パーペチュアルとなった。
しかし、最初のハイブリッド・ティー「ラ・フランス」には、「ビクター・ベルティエ」の遺伝子があった。

現在主流のバラ、ハイブリッド・ティー(HT)は、このようにして誕生し、 “選び抜かれた雑種の極み” とでもいえだろう。

“純血よりも美しくて強い” これがハイブリッドで実現したことで、
混血を見くびってはいけないという教訓を我々に教えてくれる。

国粋主義者は滅び行く宿命を抱えているのだろうが、
コンプレックスを持った国粋主義者が増殖する時代になりつつあり、
純血という排除の論理が強まりつつある嫌な時代が来そうだから気をつけたい。

コメント

4:プレ・モダンローズの系譜-1

2019-06-27 20:25:34 | バラ
(1):全体の俯瞰図

「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポン(André Dupont)により、初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。

ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス(La France)」が誕生したのが1867年であり、フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作出された。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
 

1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。

オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜 “プレ・モダンローズ” と呼ぶことにし、
園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。

ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、この人工交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。

別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズ系統の品種交雑の展開が伺える。

このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しく香しいイメージの国にした。

プレ・モダンローズの主要なバラ年表

四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス(La France)」 が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。

① 西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)

② 18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。

③ これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年頃:「ノアゼット・ローズ」が発表される。

・1817年:「ブルボン・ローズ」が発表される。

・1837年:フランスのジャン・ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・バーベチュアルである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
ヨーロッパでは、ここから始まるのがモダンローズという定義。

・1838年:作出者の名を冠した最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。

・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
(写真)「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」

(出典)WEBバラ図鑑

・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT)「ラ・フランス(La France)」がギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。

(2):ノアゼットローズ誕生の怪
バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。

定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。

(写真)ノアゼットローズの花
 

 
(出典)姫野ばら園 八ヶ岳農場.

ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)

このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この見解は香料を分析しての結果だが、最近では、遺伝子の検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。

ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。

というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、

お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。

サウスカロライナ州チャールストンのコメ農家チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。

これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったのでそのお礼として作出した苗をあげたという。

ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。

後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉に気づかなかった、或いは、知らなかったお人よしのようだ。

(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ
 
 Blush Noisette
 ※ ルドゥテが描いたノアゼットの絵は、史上最高の植物画と評価されている。

パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。

ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。

疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。

ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。

ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保し、ここを拠点に北米の植物探索を行った。チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。

18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。

ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャノキなどをチャールストンに持ってきていることがわかっている。いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。

ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。

この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあった。革命政府から北米滞在の活動費を出してもらえないミッショーは自活せざるを得なくなり、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとして中国の植物を採取しに出かけたのではないだろうか?

こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。

ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。

この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。

ミッショーはバンクス卿と会っているな?

北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。

(3):品種改良
“千三つ”よりも確率が悪い園芸品種の開発
バラに限らず園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。

この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。

バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確率が悪く、当たって遠からずのようだ。

品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。

こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないとすぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。

高嶺の花の代表のバラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、
工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統・利権を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。

国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。
(参考:農林省品種登録ホームページ)

実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。

1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。
2.交配(交雑)する時
春の一番咲きの時期
3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。
4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。
5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。
6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。
7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。
8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。

バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがだろうか? いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。 

【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ

2:バラの野生種:オールドローズの系譜

3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ

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