モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark-イエズス会士の樹皮 )』

2017-03-21 13:53:01 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ③

「The French Geodesic Mission」での3つの疑問

(写真)Jesuit's bark-イエズス会士の樹皮(これを砕いて粉末にする)

(出典)Wikipedia

1.「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」は、北極での子午線の長さを測る場所としてスカンディナヴィア半島にあるラップランドで実施している。
一方、赤道での測地は、フランスに近いアフリカで実施せずに、お金と時間が余分にかかるだけでなく電話のない時代のホウレンソウ(報告・連絡・相談)がより困難な南アメリカ、現在のエクアドルの首都キト(Quito)とクエンカ(Cuenca)との間で実施した。
この合理的とは思えない測量地の選択は理解しがたい。何故だろうか?

2.フランスの南米への測地遠征隊の隊員にこのプロジェクトと直接関係のなさそうな植物学者で、しかもフランスではこの園芸・植物学領域では名門家系の出身であるジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704 – 1779)が選ばれ隊員として参加している。
超一流の植物学者がアシスタントとして参加しているのは何故だろうか?

3.フランスの南米での測地遠征隊の実質的な隊長コンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)及びジュシューは、ペルーのキナノキを事前に承知し、調査を目的化していたようだが、
これは個人的な計画だろうか?、それとも国家的なミッションなのだろうか?

この3つの疑問に対してフランスの「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」は、 「南米、キト(Quito)周辺でJesuit's barkを調べる」。そのためのプロジェクトであり人選だった。
と理解すると疑問点が全て解決する。

但し、これでは血縁があってもスペイン王室が受け入れるはずが無い。
子午線の長さを測るのはスペインを説得する方便で、
スペインが独占しているマラリアを治す治療薬としての「イエズス会士の樹皮」を
継続的・安価に手に入れるための方策を検討するためのフランス王室の投資ではなかろうか?
というのが私の推測となる。

以上の仮説を検証するには、
「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」が決定した1735年以前に、
フランス王室及び国家は“マラリアが治る治療薬があり、
この原料は現在のエクアドルの首都キト周辺にある木の皮”だ 
ということを知っていなければならない。

ルイ14世の王太子の病気を治したタルボア

(写真)英国、エセックス州(Essex)の湿地帯

(出典)The Royal Society for the Protection of Birds

英国・ケンブリッジで薬種商の見習いとして働いていたタルボア(Robert Talbor 1642‐1681)は、
その当時ロンドン、特に沼地が多い東部のエセックス州で大流行していたマラリアの治療に行く決心をし、
彼が作った秘密の薬で患者を治していった。
これがうわさになり、学歴・経歴などが立派な医者達は、
最初は懐疑的だったが自分が出来ないことができるので“いかがわしい”というレッテルを貼り敵対するようになった。
この点では、今も昔も人間の下賎さでは変わらないということでしょうか。

タルボアはマラリアを治した秘密の薬の成分を明らかにすることは無く、
逆に「全ての姑息な治療薬、特にジェスイットの粉末で知られているものに心せよ、その薬を服用すれば危険な影響があるだろう。」(出典:世界を変えた薬用植物、創元社)
と、イエズス会士が南米から持ち帰り、マラリアの治療薬として推奨している木の皮(ジェスイットの粉末)を使っていないことを宣言した。

そしてさらに、「この始末に終えない病気を治すための方法を見出すには観察と実験しかない。」と言う。
宗教・道徳などのイデオロギー的なものに決別し「観察」と「実験」という近代科学の基本を述べている。 
立派な医者達がジェスイット会派を忌み嫌ってジェスイットの粉末をテストもしないことを学歴も無い怪しげな医者タルボアが指摘しあざ笑っていたのだろう。

1672年頃、英国王チャールズ二世(Charles II 1630 – 1685)がマラリアになり、
マラリアを治癒してくれる名医としてロンドン中で評判になっていたタルボアの診察を王自ら求め治してもらった。
当然、王室の侍医達は大反対だったが誰一人として患者を治すことなく唯死ぬのを見守るだけだったので国王も必死だったのだろう。
この功績により1678年には爵位を授与され、タルボア卿となった。
せめてもの抵抗として侍医達は治療薬の成分を明らかにするよう求めたがタルボアに拒否されてしまっただけでなく、国王からタルボアの邪魔をしないようにと釘をさされてしまった。

さて、脱線してしまったがここからが、フランス(皇室又は閣僚等の政治家)はマラリアの治療薬となるモノが南米キト周辺のところにあるということを知っていたかどうかという本題となる。

(写真)ルイ14世の王太子Louis de France

(出典)Wikipedia

チャールズ二世のいとこ、太陽王と言われたフランス国王ルイ14世(Louis XIV、1638‐1715)の王太子(Louis de France 1661-1711)がマラリアで苦しんでおり、
タルボアは1679年にチャールズ二世からフランスに派遣され、王太子のマラリアを治した。

ルイ14世は非常に感謝し、手厚くもてなしたのは当然として、
貴重なマラリアの治療薬をフランスから持ち去られるべきではないと考え、秘薬の成分を明かすならこれを買いたいと申し出た。
もちろんタルボア卿は丁重にお断りしたが、ルイ14世も二枚腰を持っており、「秘薬の処方を書きこれを封筒に入れて封印し金庫にしまっておき、タルボア卿が死ぬまでは開かない。」という提案をした。
タルボアもこの提案なら受け入れられるということで合意し、3000クラウン(1クラウンはイギリスの5シリング金貨)と終身恩給をつけてもらいイギリスに帰国した。

タルボア卿はフランス行った2年後の1681年に亡くなり、開封した秘薬の処方には次のようなことが書かれていたという。

『キナノキ外皮を細かくすりつぶして白ワインで溶かし、7グラムのバラの葉、2オンスのレモンジュースそしてリンドウ、テキサスウマノスズクサ(Aristolochia serpentaria)、チャービル、パセリ、アニス、アブサンなどで香りをつけて飲み薬にする。』

この処方では、キナノキの外皮以外にマラリアに効く成分が無いので、
タルボア卿は立派な医者達が忌み嫌っていた“ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)”を使っていたことが明らかになった。

つまり、ルイ14世及びフランス王室は、マラリアの治療薬は南アメリカ・チリー産の木の皮『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)』であることを1681年にタルボア卿が死んだ直後に知ったことになる。

ジェスイット会士の活動と『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)』

(写真) Church of the Society of Jesus, Cuzco, Peru

(出典)Wikipedia

ジェスイット会(Society of Jesus)は、
1534年にスペイン、バスク生まれのイグナチウス・ロヨラ(Ignatius of Loyola 1491 – 1556)によって立ち上げられた戒律の厳しいカソリックの会派で、
日本に来たフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506‐1552)もこの立ち上げ時の6人のうちの1人だった。
イエズス会士は、1571年にはスペインの植民地として重要な位置にあるペルー副王国に進出し、
キト初のイエズス会士、フェレール神父(Rafael Ferrer 1570-1611)は、1602~1610年までアマゾン地域の探検をした。

現在のエクアドルのロハ(Loja)に住んでいたイエズス会士のサランブリノ(Agostino Salumbrino 1561–1642)は、
原住民のケチュア族がマラリアの症状で熱を下げるのにキナノキの樹皮を使っているのを見聞きし、
これをマラリアの治療薬としてヨーロッパに持って行ったのは、イエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)であり、時期的には1632年にペルーからスペインに戻った時にヨーロッパにキナノキの皮を持って行った。

キナノキの皮は、Jesuit's bark として知られ、
イエズス会士がヨーロッパで嫌われているように“イエズス会士の粉末(Jesuit's bark)”もかなり嫌われ、
前述のタルボア(Robert Talbor 1642‐1681)が成分を隠さなければならなかった原因となった。

Jesuit's bark(イエズス会士の粉末)と分かったことにより、スペインの植民地ペルー副王国のロハ(Loja)当たりに生育しているキナノキというのに結びつく。

これで、『The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)』は、赤道周辺の子午線の長さを測るだけでなく、ペルー副王国にあるキナノキを調べることが隠された目的であることが鮮明になった。

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『The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)』

2017-03-14 08:09:00 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ②

ジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)『失われたコレクション』は、南アメリカ、エクアドル・ペルー等で集めた植物の標本だった。
南アメリカに何故行ったかという経緯は地球の形状に関する大議論にあった。

1735年パリにある王立科学アカデミーは、地球の子午線の長さを測るプロジェクトを決定した。

  

というのは、ニュートン(1642-1727)が “地球は完全な球ではなく赤道の周りで膨らんでいて極地では平らになっている。”という問題提起をしフランスの科学者の間で大論争を引き起こしていた。
この論争に決着をつけるために、北極と赤道付近でそれぞれ子午線1度の長さを測ることになり、赤道方向に伸びた楕円なのか?局地に伸びた楕円なのか? 世紀の科学論争に決着をつける探検隊の派遣となった。

北極ラップランドでの測地探検隊は割愛することにし、赤道での測地探検隊は、フランスの探検家・地理学者のコンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)をリーダーに、数学・天文学のブゲール(Pierre Bouguer 1698 – 1758)、天文学のゴーディン(Louis Godin 1704 Paris – 1760)、アシスタントとして当時31歳のフランスの植物学者ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704 – 1779)及びルイス・ゴーディンのいとこで地図製作者のジーン・ゴーディン(Jean Godin des Odonais 1713-1792)が同行した。

このフランスチームが行く場所はエクアドル・ペルーなのでスペインの領土となる。
何世紀も他国の人間が入ることを禁じていたが初めて外国の科学者が踏査することになる。しかも数学・天文・測地学の専門家だけならプロジェクトに対応しているので分かりやすいが、植物学者ジュシューがアシスタントとして紛れ込んでいるところに別の意図が隠されているようだ。

スペイン側は、フランスの科学者を監視することを含めて何をやっているかがわかる人間を送り込んだ。数学者で海軍士官のスワン(Jorge Juan y Santacilia 1713 – 1773)、同じく海軍・天文学者のウリョーア(Antonio de Ulloa y de la Torre-Giral 1716 – 1795)の二人であり軍人であることでもメンバー選択の意図が明らかに分かる。

コンダミン探検隊の活動
コンダミン達は1735年5月にフランスの港を出港し、途中、のちのナポレオン皇帝の后ジョゼフィーヌが育ち、コロンブスをして世界で最も美しい島と言わしめたマルティニーク島などに寄航し、パナマ海峡を徒歩で横断してエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
コンダミンはここで隊から分かれ、現在のエクアドルの首都キト(Quito)に向かった。この途中で、ヨーロッパ人として初めて「ゴムノキ」に遭遇した。


(地図)コンダミンの探検コース


1736年6月4日にキトに到着し、他のメンバーと一緒になり、1736年10月3日からキトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離、これは赤道で3度の子午線の長さに当たり、この距離を1ヶ月かけて測り11月3日にキトに戻った。
しかし、パリから送られてくるはずの探検隊の費用が届いていないことが分かり、万一のためにペルー・リマの銀行に送金しておいたお金を取りに行くために、コンダミンは1737年前半はリマに旅をした。

このリマへの旅のコンダミンのもう一つの目的がペルーのキナノキの調査だった。
マラリアの治療薬としてのキナノキからのキニーネはイエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)が1632年にペルーからスペインに戻った時にヨーロッパにキナノキの皮を持って行ったが、1世紀も経ったコンダミンの時代でもヨーロッパではあまり知られた存在ではなかった。

コンダミンがキトに戻ったのは1737年6月20日で、ここから子午線の長さを計算しミッションの目的を完了する1743年5月までの6年間はコンダミン、ゴーディン、ブゲールが仲違いをし口を利かない状態が続いた。
意志の強さもこのぐらい続けば立派なものだが、原因はゴーディンが測量した結果を他の二人に教えないということから始まり、今度は、ブゲールがコンダミンの計算のミスを指摘することにより三者三つ巴の険悪な関係となる。

「知」での争いは人間関係まで阻害されることになってしまった。
最初は帰路はブゲールが最初に一人で帰り、陸路をカリブ海に出てフランスに戻り、コンダミンは地元エクアドルの天文学者でこの探検隊に協力していたマルドナド(Pedro Vicente Maldonado 1704 – 1748)と共にアマゾン川を探検してフランスに帰り、ゴーディン及びジュシューは現地に残るという3者三様の現地解散となった。来るときは一緒に来たが、帰りは別々のルートで帰ることになったというから中途半端な仲違いではなかった。

このミッションのリーダー、コンダミンは子午線1度の長さを測るだけが目的でないことが帰路でも明らかになる。
彼は、フランスに帰るには長くて危険なルートであるアマゾン川を下っていくコースを選択した。目的はキナノキ、ゴムノキ、アマゾン族が矢毒として使っている植物性の毒、クラーレなどを調査し、種或いは苗を採取しフランスに送ることにあった。
キトで採取したキナノキの苗はアマゾン川をカヌーに乗せて下り、フランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)に送りパリの王立植物園に送ったが、高度が低いところでは育たないという栽培条件を知らなかったため失敗に終わった。
コンダミンはヨーロッパでは知られていない次のような植物の種をも採取した。
ipecacuanha(トコン・吐根、嘔吐剤)、simarouba(シマルバ、赤痢治療薬、家具材)、sarsaparilla(サルサパリラ、性病の治療薬)、guaiacum(ユソウボク、梅毒の治療薬・木材)、cacaos(カカオ)、vanilla(バニラ)。
とはいえ、コンダミンは植物学の専門家ではないので、これらの採取もジュシューが手助けしたのだろう。

かくして、スペインには隠れてアマゾン川初の科学的な調査がコンダミンによって実施された。
1743年9月19日にアマゾン川の下流、大西洋に到着し、ここからフランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)まで行き、オランダ船に乗りアムステルダム経由で1745年2月にパリに戻った。ほぼ10年間の旅だった。

子午線1度の長さを測り、地球の形状を導き出すと、北極・南極の方向に長い縦形の楕円形ではなく赤道方向が長い横長の楕円形状であることが分かり、ニュートンの推論が正しいことが証明され科学論争に決着をつけた。
今では常識に近い知識となっているが、そのためには証明されなければならない。このようなドラマが積み重なって今日があるのだろう。

フランス王室の金庫からこの科学論争のためだけに多額のお金を出したとはとても思えない。子午線の長さを測るという大義名分があれば、他国の領土の自然資源を調べることが出来るので、植物学者ジュシューを同行させていることに真の目的があったのだろうとしか考えられない。
キナノキなどスペインが秘匿してきた南米植民地の資源にフランスが気づきターゲットとして的を絞った感がある。

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18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語

2017-03-07 21:07:46 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語

16世紀以降の南アメリカでの植物探検が前から気になっていた。
新大陸南アメリカに進出した旧世界の人間は、南アメリカからジャガイモ、トマト、落花生、カカオ、パイナップルなどを旧世界にもたらした。逆に新世界には大麦、ニンジン、キャベツなどをもたらした。
このように、コロンブスが新大陸を発見することにより、原産地が異なるものを移植・栽培して活用したことを“コロンブスの交換「Columbian Exchange」”と言っているが、新大陸南アメリカでの有用植物の発見には様々なドラマがあるはずなのでその人間模様を覗いてみたい。という単純な思いがあった。

これから何回かのシリーズで展開していこうと思うが、その始まりはスペインのペルー副王国王立植物探検とすることにした。

【イントロダクション】
スペインの国王、カルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代に、新大陸アメリカ・植民地での動物・植物・鉱物等の天然資源を科学的に評価・調査する大規模な探検隊を3つも組織して派遣している。
(写真)Carlos III

(出典)Wikipedia

【3つの王立植物探検隊とは】
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1.ペルー副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty of Peru 1777‐1788)
2.ニューグラナダ副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty New Granada 1783‐1816)
3.ニュースペイン副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty New Spain 1787‐1803)
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最初の植物探検は1777年~1788年までの11年間実施したペルー副王国(建国1542‐1824、現在のペルー・チリー)の植物探検、二番目が1783年~1816年までのニューグラナダ副王国(建国1717‐1821、現在のコロンビア・エクアドル・ベネズエラ・パナマ・北西部ブラジル・ギアナ等を含む)の植物探検、そして三番目に1787年~1803年までニュースペイン副王国(建国1521‐1821、メキシコ・南西部及び中央部米国)での三つのスペイン王室がスポンサーとなった植物探検が実施された。

三番目のニュースペイン探検隊は、 「セッセ(Sessé)探検隊①~⑧」として既に取り上げたが、この三つの探検隊がスペインに帰国した年には命令者のカルロス三世は亡くなっており、後を継いだ息子のカルロス4世(Carlos IV, 1748-1819、在位1788-1808)は、難しいことには興味が無く、1808年にはナポレオンにより退位させられスペインはナポレオン・フランスの支配下にはいるという悪い環境の時に帰国している。

こんな時代背景だが、これほどの大規模な新世界の植物調査探検隊を組織して実施したのは何故だろう? というのが最大の疑問としてある。

言い換えれば、コロンブスが新大陸を発見した1492年以降、何世紀にも亘って新大陸植民地の天然資源をライバルに知られないように秘匿してきたスペインが18世紀後半にこれまでの方針を覆し大変身した。この大変身には何らかの理由があるはずだ! 
この国策としての方針変更の理由を探るとともに、18世紀末の南米ペルー及びチリーなどの植物探検の旅を垣間見ることにしたい。

【ペルー副王国での植物探検の始まり】
The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty of Peru (1777‐1788)

「フランスのルイ16世の海軍大臣及び財務長官 チュルゴー(Turgot ,Anne Robert Jacques 1727 – 1781) は、J・ジュシューの失われたコレクションを取り戻すためにペルーへの科学的な遠征を開始することを1775年に決めた。」

(写真)Turgot ,Anne Robert Jacques

(出典)Wikipedia

フランス革命の直前まで国家財政の建て直しに奔走したチェルゴーは、同じブルボン王朝の親戚とはいえスペインの領土であるペルーで科学的な植物調査を実施することを決められるはずも無いが、スペインを動かし2年後に「ペルー副王国への科学的な植物探検」として実現することになった。
この動機である『J・ジュシューの失われたコレクション』とは何か?

『J・ジュシューの失われたコレクション』
ジュシューファミリーは、フランスで名高い16世紀末から続く植物一家。ジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)は、Antoine, Bernard、3兄弟の末弟とだけ紹介しておく。

(写真)Antoine, Bernard et Joseph de Jussieu

(出典)france-pittoresque   institut-klorane

次に続く


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