モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No14:偉大なアマチュア、遅咲きのプラントハンター、パーマー

2010-08-23 19:13:14 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No14

No13にパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)と一緒にメキシコを探検したパーマー(Palmer,Edward 1831-1911)をここでとりあげるが、比較して読んでもらうと似ているが対照的な人物であることがわかる。

欧米の文献では、パーマーのことを“アマチュアのプラントハンター”と記述しているのによく出会う。この指摘が何に基づくのかがよくわからない。
ミドルネームがわからないためなのか?
庭師からスタートしなかったためなのか?
植物採取専業でなかったためなのか?
或いは、パリーのように医学・植物学を学んでスタートしなかったためなのだろうか?

大きな違いは、パリーは豊かであったためストレートに目標を達成したが、パーマーは貧しかったために遠回りをし、80歳まで長生きしたがゆえに晩年にやっとプラントハンターにたどり着いた。という違いがある。

パーマーの生い立ち
エドワード・パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)は、生まれが1829年という説もあり生い立ちが良くわからない。1831年1月12日生れたという説に従うと、彼はイングランド、ノーホォークの庭師の家に生まれ、18才の時の1849年にアメリカ合衆国に移住し、オハイオ州クリーブランドに引っ越した。
そこで、彼は著名な医者・ナチュラリスト・園芸家で1843年設立のクリーブランド医科大学の創設者の一人でもあるコイトランド(Kirtland ,Jared Potter 1793-1877)と出会い、ナチュラリストとしての生き方に強い影響を受けたという。

(写真)パーマーの肖像画

(出典) Harvard University Library

パーマの最初のチャンス
パーマーの最初のチャンスは、彼が22歳の1853年にやってきた。
当時の米国の状況を整理しておくと、米国は、1823年のモンロー宣言でヨーロッパ大陸とアメリカ大陸との相互不干渉を唱え、ヨーロッパ諸国の植民地からの独立戦争が勃発していたラテンアメリカへのヨーロッパ勢力の介入を阻止するいわゆる孤立主義的政策が100年間続くことになる。

この政策の背景には、1803年にナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収、1818年イギリスとの間で旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、1819年スペインから南部のフロリダを購入、1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。
さらに、メキシコとの間での米墨戦争によって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収し、人が棲まない広大な領土を獲得した。つまり、南アメリカ大陸を含めてこの権益を守れば十分に成長できるというフロンティアがあった。

孤立主義を唱えながらも一方で、ヨーロッパ勢力が十分に進出していない東アジア(中国・韓国・日本)へも威嚇外交を行い、ペリー提督が浦賀に黒船4隻を引き連れてやってきたのもこの時代の1853年7月8日だった。

ところでパーマーの最初のチャンスだが、キャプテン、ペイジ(Page, Thomas Jefferson,1808-1899)によるパラグアイの水路探検隊(1853-1855)に、看護班の看護士及び植物採取人として加わったことだ。

ペイジ中尉が指揮する米海軍の軍艦Water Witch号は、1853年2月8日にパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの河川の水路を調査する目的でノフォーク港を出港した。
他国の河川の水路を調査すること自体侵略であるが、さらに米国にとって好都合だったのは、1855年2月にリオデラプラタ川を調査中のWater Witch号が、パラグアイの砦守備隊によって砲撃を受け、舵手の Samuel Chaneyが殺されたことだ。
Water Witch号は、1856年5月8日に修理のためにワシントン海軍ヤードに戻ったが、戦争かしからずんばお詫びかの岐路にたったのはパラグアイで、結局米国に屈服し遺族への賠償と米国に有利な通商条約を1859年に締結することになった。

米国にとっては商圏の拡大が、パーマーにとっては陸路を合流地点であるリオデラプラタまで植物・昆虫・動物などを採取して旅したので、プラントハンターとしての実地訓練がこの探検隊で獲得した。
余談だが、キャプテンのペイジ中尉は、このパラグアイ探検隊がなければ、ペリー提督とともに浦賀に来ていた可能性が高かったようだ。日本に来た黒船4隻のうちの一つであるプリマス号の指揮官であり直前まで中国海域でこの船に乗船していた。

ダブルキャリアコースを歩むパーマー
パラグアイ探検隊から帰国したパーマーは、学費を稼いだことによるのか、或いは、探検隊で経験した専門性を深めるためなのか1856年彼が33歳の時にクリーブランドのホメオパシック大学で学び翌年に医学博士号を取得した。その後、医者を開業したが、南北戦争(1861-1865)が始まった翌年の1862年にアメリカ陸軍に加わって、1868年までアシスタント外科医として勤めた。

パーマーが植物採取をスタートするのは陸軍除隊後の1869年からで、46歳になっているパーマーに、米国農務省がアシスタント科学担当とプロフェショナル・コレクターのポジションを提供した時から始まる。しかしまだこの頃は、植物に特化していないで農務省のミッションで動いていた。
農務省初の植物学者に任命されたのがパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)なので、この時に上下関係が出来たのだろう。パーリーとパーマーがメキシコ探検をするのは1878年のことだった。

しかしパーマーは、まだ植物採取だけに絞り込んではいなかった。1882-1884年はスミソニアン協会に勤め、アメリカ原住民の埋葬塚のリサーチを行い、独自の文化を持っていた民族であるという報告書を作成し、アメリカ原住民が劣っているという人種差別的な見方を否定した。これは画期的なことであったようで、アメリカの民俗学の草分け的な存在となった。

プラントハンターとしてのパーマーの活動
パーマーの植物採取活動は、1869年、彼が38歳の時に陸軍除隊後から始まる。
1875年にメキシコチワワの北部にあるガダルーペで採取活動をし、ここからメキシコとテキサスにプラントハンティングの場を絞り込むようになる。
そして、彼は、メキシコと南西アメリカで多数の植物を採取し、その数100,000と言われ、その中には、1000以上の新種が含まれる。

これだけ数多くの植物を採取したのに、“偉大なアマチュア”といわれるのは理解しがたい。が、この道一筋で悲惨な死を迎えたフランシスマッソン、フォーレスト、グレッグなどに敬意を表したいが為の区別がなされたのだろう。

この晩年の活動を支えたのは、それまでに農務省、スミソニアン協会などの定職を持ち培ってきたネットワークを活用し、ハーバード大学、スミソニアン協会、英国の植物園・博物館などをスポンサーにして植物標本を売ることで生計を支えてきたので、長期的生活設計を持った堅実な新しいタイプのプラントハンターだと思う。しかもシニアからの現役プラントハンターでもある。

その足跡を眺めるために、以下、植物を採取した記録が残されているところをキュー植物園のデータからピックアップした。
・ 1878年(47歳):メキシコ、サン・ルイス・ポトシ(パリーと一緒)
・ 1880年:Coahuila. Nuevo León、Saltillo、Sierra Madre、Monterrey、Parras、
・ 1885年:Chihuahua、
・ 1886年(55歳):Jalisco、Rio Blanco、Tequila
・ 1887年:Sonora、Guaymas、Mulege、Sur=Mexico、
・ 1888年:United States.
・ 1889年:Guadalupe I.、Sur=Mexico、
・ 1890年:La Paz 、Baja California Sur. La Paz、Sonora、Carmen Island、
・ 1891年(60歳):Colima.、Manzanillo、
・ 1894年:Saltillo、Guerrero、Acapulco、
・ 1896年:Durango、Santiago Papasquiaro、
・ 1898年:Mexico. Saltillo 、Coahuila、Torreno、Mapimi、
・ 1904年:San Luis Potosí、Rioverde、Zacatecas、Coahuila.、
・ 1906年(75歳):Tepehuanes、
・ 1907年:Tamaulipas.
・ 1908年:Chihuahua、
・ 1910年:Tampico、Tamaulipas、Veracruz、

パーマーが採取したサルビア
(次号に掲載)

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No13:内陸部開拓の先駆、ロッキー山脈の植物王、パリー

2010-08-13 09:49:12 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No13

パリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)は、コロラドの南ロッキー山脈の美しい花々を発見した第一人者として知られている。
彼のプラントハンターのスタートは、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848–1855)に外科医・植物学者として参加したところから始まる。

1846 年4 月25 日に勃発した米国・メキシコ間の戦争は、1848 年2 月2 日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約(Tratado de Guadalupe Hidalgo)の締結をもって終了した。この条約でメキシコはテキサス以西の北部領土を失い国土の約半分を失うことになる。
パリー25歳の時に参加したこの国境線周辺を調べるための調査は、陸軍の測量士・探検家で正確な地図を描くことで実績があるエモリー(Emory,William Hemsley 1811-1887)のリードで実施された。その報告書は、地図だけでなく古生物、動物学、植物学、地理など博物学的な内容を含んでいた。

この米国・メキシコ間の戦争があった1840年代以降は、アメリカのフロンティアの時代であり西部へ、南部へと領土が拡大し、地図作成とその地域の特性を把握する博物学的な探検の時代でもあった。
No9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)もこの時代に、メキシコからサンフランシスコまでの探検を行い、地図を作り植物を採取し新しい陸路の開拓をしたが、馬から落ちて怪我をした彼は仲間に見捨てられて死亡した。

専門性を持った若者が、自らの責任で未知を切り開いていける活躍する場が数多くあったアメリカ建設初期のいい時代でもあった。

パリーの生涯
パリーは、イングランド南西部にあるグロスターシアで生まれ、9歳の時の1832年に両親と共にアメリカに移住し最初はニューヨークに住んだ。
1842年にユニオン大学を修了し、コロンビア大学に進み医療と植物学の研究を行い1846年に博士号をもらった。このコロンビア大学で植物学者のトーリー(Torrey,John 1796-1873)及びその弟子のグレー(Gray,Asa 1810-1888)の影響を受けたことが後の彼の進路を決定する。何しろこの二人は、アメリカを代表する植物学者であり、パリーも植物学研究の中心にいたことになる。

この時代までの医学生は、薬を自ら作らなければならなかったので植物・薬草の勉強をする必要があったが、医者よりも植物を採取するほうに魅力を感じる者が多かったという。
パリーも、卒業後直ぐにアイオワ、ダベンポートに引越し短い間だけ外科医を開業した。が、外科医よりも野外での植物を収集することに関心があることが彼自身わかり、しかも、師匠のような学者を目指すのではなくフィールドワーカー(プラントハンター)の道に邁進することになる。

(写真)パリーの好んだスタイル、これで山歩きをした
  
(出典)Wisconsin Historical society

その手ほどきは外科医を辞め、1847年の中部アイオワの調査、1848年にウィスコンシンとミネソタの地勢調査にアシスタントとして参画することから始まり、この二つの調査の報告書は、当時の地質学の権威オーエン(Owen,David Dale 1807–1860)が1852年に取りまとめて発表し、この中にパリーのレポートが含まれているという。
この地勢調査の時に採取した植物を、恩師のトーリーに送ったところ、弟子のグレーに「パリーは素晴らしい植物を採取して標本を作る。」と書き送っているので、早くしてプラントハンターとしての技量・センスが認められた。

植物学者として一人立ちしたのが、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848-1855)だが、何人かいる植物学者のうちの一人であり、1850年にはこの調査も目処が立ちパリーは暇になった。そこで彼は石炭を探しに出かけ、サンディエゴの北部にあるソルダッドバレー(Soledad Valley)で新しい松を発見した。
1850年6月30日に恩師のトーリーに手紙を書き、「もしこの松が新しい種ならば、貴方の名前をつけPinus Torreyanaとしたい。」という処世術も知っていたようだ。
この「トリーパイン(Torrey Pine)」は、世界でも珍しい松で、その数が3000本程度しかないというが、発見者のパリーと生息地のソルダッドバレーを有名にした。もちろん恩師のトーリーもだが。

その後パリーは、ダベンポートで外科医に戻ったが、南北戦争(1861-1865)の頃は,夏場はコロラドで過ごしシカゴイブニングジャーナルに植物誌を寄稿する。
1869-1871年には、イギリスの化学者スミソンが遺贈した基金によって1846年ワシントンに設立されたスミソニアン協会及び農務省の初めての植物学者として勤務し、1873年というから彼が50歳の時に、眠っていた魂がかき立てられロッキー山脈の中央に位置するイエローストーン(ちょうど前年の1872年にイエローストーン国立公園が設置される。)に探検旅行に行き、1878年にはメキシコを探検した。メキシコ探検は、6歳年下で似たような経歴を持つエドワード・パーマ(Edward Palmer1829-1911)と一緒に植物探索をした。(パーマに関しては後にとりあげる。)

パリーは、生涯で30,000以上のユニークな植物をカリフォルニア・コロラドなどで集め、最も優雅で美しいコロラドの山々の野生の草花・植物を記述する第一人者だった。
親交のあるキュー植物園の園長フッカー(Hooker,Joseph Dalton 1817 – 1911)からは“コロラドの植物の王”と称された。或いは、ロッキー山脈の美しい花々を紹介したので、“ロッキーの帝王”と言ってもいいのだろう。

晩年は、温厚で人にやさしく、植物学上の知見・標本などを独り占めしないで、求めるヒトには温かく支援したと言う。アーサー・グレーなどはこの恩恵に相当助けられたようだ。

アメリカの1800年代は、単なる冒険家・探検家ではなく科学的な国土の資源調査が求められた時期であり、軍人・冒険的な科学者がチームを組んで国土調査を実施した。
パリー、グレッグなどがその隠れた逸材であり再評価が進んでいるようだが、人間としても興味がわく。
荒野でのプラントハンティングに生死をかけるほどのめり込んでいたので、本質的には二人とも同じだと思うが、パリーは長生きした分丸くなったのだろうか?或いは、角が取れ丸くなった分長生きしたのだろうかとも思ってしまう。

パリーが採取したサルビア
キュー植物園のデータベースには4種のサルビアが記録され、ミズリー植物園のデータベースには、23種のサルビアを採取したとなっている。
その中から気になるサルビアをとりあげる。

(1)Salvia serpyllifolia Fernald (1900) サルビア・セルビリフォリア

(出典)Robins’s Salvias

「サルビア・セルビリフォリア」は、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシ(San Luis Potosí)の1850-2460 mの山中で「サルビア・ミクロフィラ」をも採取したパリーとパルマによって同じ場所で発見採取された。
当初は「パープルのミクロフィラ」と思われていたが、1900年に別種として米国の植物学者フェルナルド(Fernald, Merritt Lyndon 1873-1950)によってクリーピングタイム(Thymus serpyllum)に似た葉をしているのでserpyllifoliaと命名された。
そして育苗園では1990年頃に種から栽培されるようになったというが、日本ではまだあまり普及していない。
この赤味が入ったパープルは実に素晴らしい。これが、小さな光り輝く葉と一体になり横に広がる姿は見ごたえがありそうだ。開花期は夏から秋で、木質の60-90cmの樹高。

(2)Salvia amarissima Ortega (1797) サルビア・アマリッシマ

(出典)Iris' Tuin

メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
受理された学名はSalvia circinnata Cav. (1797) ,類似Salvia polystachya Cav.(1791)
Salvia urica の近縁など帰属がまだ怪しげなところがあるが、確かに「サルビア・ウリカ」に似た花であり、ブルーの花に白いマークが入るのは美しい。草丈150㎝と大柄で、初夏から晩秋まで開花する。
最初に採取したのは、1785年にニュースペイン(=メキシコ)の植物園の園長になったスペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)。

(3)Salvia glechomifolia Kunth (1818) サルビア・グレコミフォリア

(出典)Les Senteurs du Quercy

1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでパリーとパーマが採取したが、最初の発見者は、フンボルトとボンプランのようだ。
草丈30cm程度で匍匐性があり、花穂を伸ばして花弁の中央に白い線が入ったヴァイオレッドブルーの小さな花を夏中咲かせる。葉に特色があり、種小名の“glechomifolia”は、 「グレコマ(Glechoma)」のような葉をしたを意味する。

(4)Salvia hirsuta Jacq.(1798) サルビア・ヒルスタ
(図)Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )

(出典)Missouri Botanical Garden、Library
Plantarum rariorum horti caesarei Schoenbrunnensis descriptiones et icones|Opera et sumptibus Nicolai Josephi Jacquin. Volume 3 of 4
Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )

「サルビア・ヒルスタ(Salvia hirsuta Jacq)」は、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)の著作にイラストで描かれている。花は確かにシソ科特有の口唇型であり初夏から晩秋に開花するという。葉は丸みを帯びて草丈60㎝と書かれている。
ジャカンは、1755-1759年にマリー・アントワネットの父親に当たるフランシス一世の命でシェーンブルン宮殿の植物を集めるために西インド諸島と中央アメリカに行かされたので、この時に採取し「Salvia hirsuta」と1798年に命名した。

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでこの「サルビア・ヒルスタ」を採取しているが、実物の写真はなかなか見当たらなかったので、栽培種として現存しているのか疑問がありそうだ。

(5)Salvia nana Kunth (1818)サルビア・ナナ

(出典) Iris' Tuin

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サンルイスポトシの山中でこの「サルビア・ナナ」を採取する。第一発見者はフンボルトとボンプランで、メキシコのサルビアシリーズNo7でとりあげたハートウェグもグアテマラで1841年に採取している。
花は、良く見ると(2)でとりあげた「Salvia glechomifolia 」に良く似ていて近縁種のようだ。さらに似ているのは、コスミックブルーセージと呼ばれる「サルビア・シナロエンシス(Salvia sinaloensis)」だ。

(6)Salvia puberula Fernald(1900) サルビア・プベルラ

(出典)Robin’s Salvias

パリーとパーマが1878年にメキシコ、サンルイスポトシの1850-2460 mの山中で採取した。
この種は、 「サルビア・インボルクラタ(Salvia involucrata)」そっくりであり、密接な関係がありそうだ。わずかな違いは葉の色のようであり、黄色味が強いライムイエロなのが「Salvia puberula」、緑色が強いライムグリーンなのが「Salvia involucrata」ということのようだが、どうも大きな違いではなさそうだ。

(7)Salvia regla Cav.(1799) サルビア・レグラ

(出典)Robin’s Salvias

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシの山中でこの「サルビア・レグラ」を採取する。
直立性の樹高200㎝の落葉低木で、初夏から晩秋まで緋色の花が枝先につく。葉はハート型で光沢があり芳香がある。サルビアとしては大型であり、直立も珍しい。さすがにメキシコはサルビアの宝庫だ。

■パリーが採取したその他のサルビア

8.Salvia axillaris Moc. & Sessé ex Benth(1878)
・ メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
・ サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、見つけることが出来なかった。
9.Salvia chamaedryoides Cav. (1793)
⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
10.Salvia keerlii Benth. (1798)
・ ⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
11.Salvia laevis Benth.(1833)
12.Salvia mexicana L. (1753).
・⇒「No3:サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎」参照
13.Salvia microphylla Kunth (1818)
⇒「No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」
14.Salvia oresbia Fernald (1900)
⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
15.Salvia patens Cav. (1799).
・⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
16.Salvia tiliifolia Vahl(1794)
17.Salvia unicostata Fernald(1900)

※ 学名の表示:属名、種小名、命名者、( )内は命名された年
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No12:「サルビア・マドレンス」と 世界を一周したプラントハンター、ゼーマン

2010-08-01 13:13:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No12

メキシコにいつ来たかよくわからないために危うく忘れるところだったプラントハンターが一人いた。
ドイツ、ハノーバー生れのゼーマン(Seemann, Berthold Carl 1825-1871)で、メキシコのサルビアを二種採取して1856年にゼーマンが命名者となっているので、これ以前にメキシコでプラントハンティングをしている。1848-1849年にかけてサルビア以外の多数の植物をメキシコで採取しているのできっとこの頃なのだろう。

(地図)ゼーマン探検のコース

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』

彼は、世界を一周する探検隊に参加し、イギリスからブラジル・リオデジャネイロに行き、そのまま南下して南米最南端の海峡から太平洋に面した中南米の国ペルー、コロンビア、ヴェネズエラ、エクアドル、ニカラグア、パナマ、そしてメキシコ、米国、そしてフィジー、ハワイを探検し、マレーシア、シンガポール、そして南アフリカ・ケープ地方のテーブルマウンテンに登り英国に帰国するが、メキシコ以外に数多くの国で植物を採取した。

1859年に、彼はフィジーへ旅立って島の植物相の植物カタログを出版し、1860年代は再び南米を探検旅行して、1864年にはベネズエラ、1866-67年はニカラグアを旅行した。その後パナマの砂糖農園の管理、ニカラグアでは金鉱山の管理者となったがここで黄熱病にかかり亡くなる。晩年は、プラントハンター、植物学者のコースからはずれ目標を見失った感がある。


(出典)wikipedia

このゼーマンは、19歳の時の1844年に英国でプラントハンターの実践を学ぶためにキュー王立植物園に修行に来た。そして1941年からキュー植物園の園長だったW.Jフッカー卿(Hooker,William Jackson 1785-1865)の推薦で「HMS Herald, 1847–1851」の探検隊に参加することが出来た。フッカー卿(父)の目にとまったのだからよほど優秀だったのだろう。

この「HMS Herald, 1847–1851」探検隊を説明しなければならないが、英国海軍の軍艦ヘラルド号を使い、1847年から1851年までアメリカ西海岸とハワイ・フィジーなどの太平洋を探検し、南アフリカ喜望峰を経由して1851年6月6日に帰国した。

途中の1848年からは、北極探検をしていて消息がなくなったフランクリン探検隊(Sir John Franklin 1786–1847)の捜索にも従事し、ベーリング海峡、北極海周辺の探索も行った。このフランクリン探検隊全滅の原因は、自然の脅威が原因ではなく3年分の食糧を缶詰で持っていったが、蓋を閉じる際に使用した鉛が原因だったようだ。人間が作り出した文明の犠牲として有名な事件だったが、既にこの時から水俣病が起きていたのだ。

探検隊の人員構成を見ておくと、ヘラルド号の艦長はケレット(Sir Henry Kellett 1806-1875)で、フランクリン探検隊捜索の時に新しい島を発見し、船名をとってヘラルド島と名付ける。同乗したのは、生物学者フォーブス(Forbes,Edward 1815 –1854)、ナチュラリストとしてエドモンズトン(Edmondston, Thomas 1825–1846)とグッドリッジ(Goodridge,John 不明)そして、ゼーマンもナチュラリストとして乗船したが、席順は最下位でありエドモンズトンのアシスタント的な位置づけなのだろう。

(写真)左側がヘラルド号

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の挿絵

ヘラルド号は、調査船として1822年に建造された500トンの木造帆船で、ディズニーランドか、ラスベガスのホテルにありそうなノスタルジックないい感じがするが、これで長期間の大航海をしたので快適とはいえない生活だったのだろう。
英国海軍の船には“HMS”という略称が使われる。何の略かと思ったら“Her Majesty's Ship(女王陛下の船)”だった。なるほど英国だ。

エドモンズトン死亡の怪
1846年7月、悲劇はエクアドル北西部にあるエスメランダ(Esmeraldas)地方の港町Atacamesで起きた。銃の暴発でエドモンズトンが死亡した。21歳だった。
歴史に“もし”ということは無いが、彼が生きていればバンクス卿と似たようなキャリアを経験し英国のアカデミーをリードする人物となったのだろうと推測できる。

何故推測したのか? 
という問いには英国だからと答えざるを得ないが、国をリードする人間は、若い時に難関を突破させる試練を与えられ試されるようだ。多分生死をかけるほどの難関であり生き残った者が(バンクス卿のように)その後の世界を構築する権利を得る。こういった考え方が英国の上流階級にあったように感じ取れる。

エドモンズトンは、20歳の頃に英国の次代のリーダー候補として選ばれたのだろう。
では、エドモンズトンは選ばれた人間なのだろうかというキャリアを垣間見ると
彼は、ゼーマンと同じ年に生まれ、その家系はスコットランド北方にあるシェトランド島では地主であり科学者を輩出した優れた家系のようだ。

エドモンズトンは早熟であり、11歳でシェトランド島の植物相を調査して編集し、20歳の時にはグラスゴーにある大学の植物学教授に任じられた。この数ヵ月後にはHMSヘラルド号のナチュラリストの地位を提供された。
この選定に関わったのが、キュー植物園の園長フッカー卿の息子Joseph Dalton Hooker(1817 – 1911)のようだ。息子のフッカーは、エドモンズトン11歳の時のシェトランド島の植物相の成果に接しており、8歳年下のエドモンズトンを盟友と認めたのだろう。

一方、このパートの主役ゼーマンは、帰国後の1853年に探検旅行の成果報告としての本を著する。その序文は次のような書き出しで始まる。
『1846年7月、トーマス・エドモンズトン氏の死亡後に、かねてよりフッカー卿(父)が約束していた、HMSヘラルド号のナチュラリストの名誉ある地位に任命された。』という書き出しで彼の探検旅行記『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の序文が始まる。

序文の書き出しとしては奇異な印象を受けるが、初めの頃はゼーマンの自己顕示の表れだろうとしか思っていなかった。だが、ここにミステリーがあった。

エドモンズトンを撃ったライフル銃はゼーマンの銃であり、その引き金を引いたのはゼーマンのズボンの裾だった。
暴発が起きた場面は、(ヘラルド号に戻る?)ボートの中であり、ゼーマンの後にエドモンズトンが座っていた。そして、ゼーマンの銃口がエドモンズトンに向いていてズボンの裾が引き金を引いてしまった。
弾は、Whiffin氏の腕を貫通しエドモンズトンの頭に当った。エドモンズトンはかすかな悲鳴を上げ水に落ち死亡した。という。

悲劇的な事故が起きてしまった。というのが公式見解のようだが、これは偶発の事故だったのだろうか?
綿密に計画され周到にレッスンをした計画殺人という可能性は無いのだろうか? いまさら詮索しても意味の無いことを真剣に調べてしまった。

動機は、既に書いているので推理していただきたい。同年齢でなかったら起きなかったのかもわからない。?
(真剣に考えた方は意見をコメント欄に書いてね!)

ゼーマンが採取したサルビア
ゼーマンがメキシコで採取したサルビアはたったの2種であり、そのうちの一つが、サルビアの中では稀有なカナリア色の濃いイエローの花が咲く「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」だった。
草丈2m、手のひら大のハート型の葉、茎の先に花穂を伸ばしそこになまめかしいイエローの花が晩秋から多数咲く。秋の日に映えるこの強烈な色はクールダウンしていく気持ちを掻き立てる力がありそうだ。
秘めたる野心があるゼーマンが発見した花だけのことはありそうだ。

(写真)サルビア・マドレンシスの花


「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」についてはこちら
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