モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No52:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その4。

2011-09-21 09:09:01 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No52

メキシアは、南米アンデス山脈、アマゾン流域を探検している。
エクアドル、ペルー、チリを貫くアンデス山脈で素晴らしいサルビアを採取しているので、例外としてこのシリーズに取り上げることにした。

6.Salvia gilliesii Benth.(1833) サルビア・ジリアシー
 
(出典)chile flora.com

アンデス山脈のボリビア・チリー・ペルー一帯に生息する多年生のサルビア・ジリアシー(Salvia gilliesii Benth.1833)は、樹高300cmにも育つ小潅木で、葉は淡い緑色の槍状で、8月頃に花序にスカイブルーの花を咲かせる。
最初の発見者は、種小名にもあるスコットランドの海軍外科医で植物学者のギリーズ(Gillies, John 1792-1834)で、結核を治すために南アメリカ勤務を希望し、28歳のときにアルゼンチンに移住した。8年間滞在し1828年に英国に帰国するまでに南アメリカで植物を採取しキューガーデンのフッカー園長(Hooker, William Jackson 1785-1865)に送る。

メキシアは、100年以上後の1936年1月5日にアルゼンチンのメンドーサでこのサルビアを採取した。メンドーサはスペインの征服者カスティーリョ(Pedro del Castillo 1521-1569) が1561年に建設した街で、今ではワインの生産で世界でも上位に入るところのようだが、ブドウ栽培に適したアンデス山脈の東側山麓の高原平野にある。

このサルビアの正式学名はSalvia cuspidata subsp. gilliesii (Benth.) J.R.I.Wood, (2007)で、大株に育つので結構な見栄えがする。
園芸市場へは、フランスのリヴィエラに1994年に導入され、日本にも種で入ってきている。耐寒性が強くないようなので、最低気温5℃以上のところで栽培できるようだ。

(写真) Salvia cuspidata subsp. gilliesii
 
(出典)Robins Salvias

7.Salvia macrophylla Benth. (1835) サルビア・マクロフィーラ
 
(出典)flickr.com

サルビア・マクロフィーラ(Salvia macrophylla)は、南アメリカ西部、ペルー・コロンビア・エクアドル一帯が原産の小潅木で、その美しいブルーの花色を原産地の地名で"Peru Blue"或いは"Tingo Blue"と呼んでいた。
雄しべと雌しべが突出しているので、花の形はまるでハチドリか新型ジェット戦闘機を想起させる。
種小名の“macrophylla”は、“アジサイ”を意味するがハート型の大きな葉から名づけられた。樹高100-150㎝で大きな葉の間から花序を伸ばし秋に鮮やかなブルーの花を咲かせる。 なかなかの逸品だ。

このサルビアを最初に発見・採取したのは英国の庭師・プラントハンターのマシューズ(Mathews, Andrew 1801-1841)で、1830-1833年の間にペルーで採取したようだ。
英国では、キューガーデン、王立園芸協会、ナーサリーと呼ばれる育種園が海外の珍しい植物を求めてプラントハンターを派遣する時代が18-19世紀にあったが、マシューズは英国のナーサリー、ロッディジーズのGeorge Loddiges (1786–1846)によってハミングバードを採取する目的で南アメリカに派遣された。
このジョージ・ロッディジーズは、「ボタニカルキャビネット(1817-1834)」という美しい絵入りの園芸雑誌を出版し、英国の園芸の大衆化に貢献した人物でもある。

メキシアは、1935年10月にペルーのリマでこのサルビアを採取している。

 
(出典)Annie's

8.Salvia pichinchensis Benth. (1846) サルビア・ピッチンチエンシス

  


(出典)Flora of Ecuador

サルビア・ピッチンチエンシス(Salvia pichinchensis)を最初に採取したのは、ドイツ人で英国の園芸協会からメキシコにプラントハンティングに派遣されたハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。
エクアドルには、1841-1842年に探検に来ているのでこの時期にPichincha山の森でこのサルビアを採取しているのだろう。
種小名は採取した場所の名前を採ってつけられているが、写真があるだけでそれ以外がまったくわからない。

メキシアは、1935年9月にハートウェグ同様エクアドルのPichincha山3125mのところでこのサルビアを採取している。
葉は大き目のハート型、花は淡いブルー、しべが突出しハミングバードなどに花粉がつくようになっている。

9.Salvia punctata Ruiz & Pav. (1798) サルビア・プンクタータ

(写真)「Florae peruvianae et chilensis prodromus 」(1794)
 
(出典)MBG's digital library

 右側:Salvia punctata Ruiz & Pav.
 左側:Salvia procumbens Ruiz & Pav.

メキシアは、サルビア・プンクタータ(Salvia punctata)をペルー中央部にある州都ワヌコ(Huanuco)2300mのところで1935年11月に採取した。ワヌコは、年間を通じて温暖な気候のところで、この街もスペインの征服者Gómez de Alvarado(?-1542)によって1539年に造られた。

このサルビアを最初に採取したのは命名者でもあるスペインの探検家・ルイス・ロペス、ヒッポリュトス(Ruiz López, Hipólito 1754-1816)と パボン(Pavón, José Antonio 1754-1840)で、彼らが1794年に出版した『ペルーとチリの植物(Florae peruvianae et chilensis prodromus 1794)』に植物画が掲載されていた。植物の説明も記述されているはずだが残念ながら白紙だった。(理由はわかりますよね。)
種小名の“punctata”は、ラテン語で“小さな斑点がある”という意味なので、花弁に小さな斑点があるサルビアなのだろう。

スペインの国力が回復したカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代に、新大陸を三つの王国に分けて管理していたので、その王国の植物資源を調査するための探検隊を王室がスポンサーとなり三つ送り出した。
ルイス・ロペスとパボンは、その最初の王立植物調査探検隊のメンバーであり、ペルーとチリに1777年から1788年まで派遣された。

この探検隊に関してはいずれ取り上げるつもりだが、二番目の探検隊である『セッセ探検隊(1787-1803)』は、メキシコを舞台としこの「メキシコのサルビアとプラントハンターの物語」No33-No40で既に取り上げた。
新大陸の科学的な調査をしようという着想は素晴らしいのだが、その思いが継続しないで、演じた役者たちが悲惨な末路を一筋の光明を求めて彷徨う歴史は繰り返されていて、あ~あ、スペインなのだ!
と思ったが、 わが日本の今もあまり変わらない。坂道を転げ落ちていく時に起きる現象なのだろうか?

10.Salvia sagittata Ruiz & Pav. (1798) サルビア・サジタータ


(出典)Robins Salvias

エクアドルからペルー、チリのアンデス山脈に生育するサルビア・サジタータ(Salvia sagittata)は、草丈100-150cmで特色あるライムグリーンの剣形の大きな葉によって英名では“Arrow Leaf Sage”と呼ばれる。
夏から秋にかけて花序につける濃い目のブルーの花は美しい。

メキシアがこのサルビアを採取したのは、エクアドルの北部にあるカルチ州でアンデス山脈2950mのところで1935年2月に採取した。
園芸市場への導入は1999年頃にカリフォルニアに登場したようだが、最初にこのサルビアを採取し命名したのは前述したスペインの探検隊ルイス・ロペスとパボンだった。
このサルビアは日本でも人気が出るだろう。

 
(出典)Botanic Garden

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No51:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その3。

2011-09-16 20:32:59 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No51

51歳になってから植物学の公開講座に参加して、メキシコ・南アメリカの植物採取で新種を数多く採取したメキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)が、プラントハンターとして名前を残したのは20歳年下の友人でメキシアの苦手な部分をサポートしたブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)及びバンクロフト図書館(Bancroft Library)によるところが大きい。

ブラッセリン女史は、インタビューでメキシアの実像について語っている。
それによると、メキシアは好き嫌いがはっきりした人間で、プラントハンティングの旅は大好きだが、その後の植物学として重要な採取した植物が何なのかを同定し、ラベルを貼り、特徴などを記述する地道な作業は大嫌いだとか、嫌いな人間には攻撃的でエキセントリックな面を見せていたようだ。
アラスカ探検の実態が良くわからなかったが、アシスタントとしてカリフォルニア大学バークレー校で植物学を学んだアラメダ高校の教師Frances Payneをアシスタントとして雇い、彼女が採取した植物をメキシアが雇い主としての権利で全て横取りしたなどいやな面もあったようだ。

ブラッセリン女史は、メキシアの採取した植物標本を海外の植物園・博物館などに配布し、メキシアの存在を宣伝する役割だけでなく、メキシアの死後に全ての記録をバンクロフト図書館に寄贈した。
だからメキシアが歴史に残れたのかもわからない。ブラッセリン女史あってのメキシアというのが実像のようだ。

わがままで嫌な老女メキシアという印象が強まったが、探検の合間にサンフランシスコでの学会などでの講演はずば抜けた話術とプロ級の写真の出来映えで聴衆を魅了したという。また、探検隊に出資するスポンサーが求める“New”の発見には答え、彼女が死ぬまでスポンサーがつくことになるのでビジネスでの“花”は持っていた。

メキシアの祖父から引き継いだテキサスの土地からは石油が湧き出て、この土地を売却した資金がメキシアにはあったようで、食べることに困っていなかった。この経済的な自立がヒトに頭を下げる必要がないという唯我独尊的なメキシアをつくったのだろう。

その1に掲載したメキシアの写真を改めてみると、講演という非日常で聴衆を魅了したメキシアという感じがしてくる。

メキシアが採取したメキシコのサルビア

ミズリー植物園に記録されているメキシアが採取したサルビアは、35種になる。そのうち25種がメキシコで採取されている。しかも、メキシアが最初の採取者だったものが多いが、その多くは標本でしか存在していない。

まずは、メキシアが採取したメキシコのサルビアを!

1.Salvia atropaenulata Epling (1939) サルビア・アトロパエヌラタ

 
(出典)ニューヨーク植物園

メキシアは、1938年1月1日にメキシコ、ゲレーロ州Minasでこのサルビア・アトロパエヌラタを最初に採取した。メキシアはこの年の7月に亡くなるので最後のプラントハンティングで採取したものだ。
ところで、ヒントンも同年1月24日にメキシアと近いところでこのサルビアを採取しているので、最初に採取したという栄誉はメキシアに譲っているが、晩年からプラントハンターとなったこの二人はきっとどこかのキャンプ地・採取場所ですれ違っているのだろう。

現在は植物標本からしかこのサルビアの特徴がわからないが、種小名の“atropaenulata”はラテン語で“黒いマント”を意味するので、ハート型の大きな葉がマントのようになりその先の花序にダークブルーの花が咲くのだろうか?

メキシアが採取した場所はメキシコ固有の種が豊富な植物の宝庫とも言われる南西部の太平洋側に接した“シエラマドレ・デルシュー山脈”であり、気候的には亜熱帯に位置するが、高度差100-3500m、年間平均温度が5―40℃、年間降雨量800-1600㎜という多様な環境が、オークの森を育てメキシコ固有の多様な生物をはぐくんでいるという。
オークなどの落葉樹の森は生物にとって恵みの森であり、落葉すると下草・潅木を育てる肥料となり、多様な植物が育つ環境となる。この環境が多様な昆虫・動物を育てることになるのでもっと大事にしたいものだ。

(写真)Sierra Madre del Sur(地図上ではメキシコ最下部に当たる山脈)

(出典)NASA

2.Salvia durantiflora Epling (1939) サルビア・ドランティフローラ

 
(出典)ニューヨーク植物園

メキシアは、シエラマドレ・デルシュー山脈でサルビア・ドランティフローラ(Salvia durantiflora)を1937年12月に最初に採取した。
種小名の“durantiflora”は、“丈夫な花”を意味するので、ひっそり咲いていたのではなくワイワイ~ガヤガヤとにぎわっていたのだろう。確かに植物標本を見てもその行儀の悪い元気な生育が感じられる。

3.Salvia fallax Fernald (1910) サルビア・ファラックス


(出典)igarden.com

種小名“fallax”は“人を惑わす”という意味を持つ。
メキシアは、1927年2月にハリスコ州でサルビア・ファラックス(Salvia fallax)を採取した。
草丈150-200cmで、花序を伸ばし淡いブルーの花を咲かせる。開花期は晩秋から早春でダークグリーンの葉とあいまって上品さをかもし出している。
どこが“人を惑わす”のかわからないが、冬場に-2℃以上であれば育てられるというのでチャレンジしてもよさそうだ。
このサルビアは、Salvia roscida Fernald (1900)と同じであり、先に命名されたサルビア・ロシーダが優先される。
 
(出典)salviaspecialist.com

このサルビア・ロシーダ(Salvia roscida)を最初に採取したのは、1892年から1906年までメキシコで生物学的な調査研究を行ったアメリカの動物学者、ゴールドマン(Goldman, Edward Alphonso 1873-1946)で、1899年3月にドゥランゴ州で採取した。

4.Salvia mexiae Epling (1938) サルビア・メキシアエ

 
(出典)ミシガン大学植物園

この姿かたち美しいサルビア・メキシアエ(Salvia mexiae)は、メキシアが最初に発見したサルビアで、1927年5月にハリスコ州サンセバスチャン付近のシェラマドレ・オキシデンタル山脈1500mの山中で採取した。
生息環境は小川の近くの開けた斜面に樹高3mにもなる大株に育ち、葉は細長い槍状で花序を伸ばし、その先に灰色がかったローズ色の苞葉がつく。花は上唇が明るいブルーで下唇が白っぽい色と記述されている。

形態的にはメキシカンブッシュセージ(サルビア・レウカンサSalvia leucantha)と似ているようだが、2mぐらいまでの成長に刈り込んで育てるといい感じのサルビアのようだ。
しかし、植物標本しか探しえなかったということは現存していないようだ。

5.Salvia quercetorum Epling (1938) サルビア・クエッチェトローム

 
(出典)University of Michigan Herbarium

サルビア・クエッチェトローム(Salvia quercetorum)は、1927年1月29日にメキシアによって発見された。
採取した場所は、ハリスコ州のリアライトで、シエラマドレ・オキシデンタルの山中で、オークの森の急な斜面に直立していた。草丈60-100㎝で葉からは強いミントの香りがし、花の色は濃いブルーと書かれている。
種小名の“quercetorum”は、ラテン語で“querce+torum”“オークのベット”を意味するので、オークの森に育てられたサルビアを表しているのだろう。

(続く)
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No50:女性プラントハンター,メキシアとサルビア その2

2011-09-11 09:56:59 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No50

メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)は、1870年にワシントンD.Cのジョウジタウンで生まれた。
彼女の父 Enrique Guillermo Antonio Mexia(1829ー1896)は、祖父Jose Antonio Mexia (1800ー1839)が抵抗し銃殺されたサンタ・アナメキシコ大統領(Antonio Lopez de Santa Anna)に仕える外交官としてワシントンD.Cに赴任していたからだが、翌年の1871年に現在のテキサス州のメキシアに移った。

この地には祖父Jose Antonio Mexiaが所有していた広大な敷地があり、メキシコ革命の英雄である祖父を記念して町の名前がメキシアと名づけられたという。
祖父のJose Antonio Mexia (1800ー1839)は、ベラクルーズ生まれのメキシコ人と本人は主張していたが、キューバからの流民なのでテキサスのメキシアから名前を採って名乗っていたのかなと思っていたがそうではなかった。

メキシアの若い頃の足跡は良くわかっていない。
幼少期はテキサスで過ごし、初等教育は、フィラデルフィアおよびカナダのオンタリオの私立学校で受け、メリーランドのSt. Josep's Collegeを卒業した。

ここまでは良家の子女というキャリアのようだが、メキシアは当時としては晩婚であり、
メキシア28歳の1898年にドイツ系スペインの商人Herman E. Laueと結婚し、若いころ住んでいたメキシコのTacubayaに住んだ。
1904年にHerman E. Laueが死亡し、その後Agustin Reygadasと再婚したが離婚しサンフランシスコに移住した。二番目の夫の写真がメキシアの保存資料の中に残っているが、時期が1919-1922年であり、メキシアの二度の結婚生活は両方とも短く恵まれていなかったようだ。

お嬢様として育てられ、女性としてのキャリアはソーシャルワーカーとしかわかっていないが、メキシアが歴史に登場してくるのは、1921年メキシア51歳のときにカリフォルニア大学バークレー校の植物学の講座に参加するようになってからだ。

プラントハンターとしてのメキシア
メキシアは1921年から68歳で死亡する1938年までの17年間でメキシコ、南米、アラスカ探検に出かけ、8,800品種・延べ145,000もの植物を採取し標本を作った。その中には500品種もの新種が含まれていたので欧米の植物学会に多大な貢献をした。というのは、メキシアが採取した植物標本は米国の博物館・植物園及びロンドン、コペンハーゲン、ストックホルム、ジェノバ、パリ、チューリッヒ等ヨーロッパの主要な植物園にも配布したからだ。
メキシアの植物探索旅行の費用を支えたスポンサーは、カリフォルニア大学と米国農務省などだが、51歳からの実績のないビギナープラントハンターに最初からスポンサーとして支援するほどいつの世も甘くない。

どのようにしてプロになっていったのかを示すエピソードが2つほど残っていた。
本格的な植物採取の探検は、1925年9月16日―1925年11月19日までのメキシコ西部シナロアへの旅だった。
この探検隊は、スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978)が中心のメンバーで、メキシアはメキシコに住んでいたので探検隊の役に立つのではないかという自薦参加のようであり、費用も自己負担したようだ。
但し、カリフォルニア・アカデミーに採取した植物標本の複製を提供するので、これを評価し成果報酬的に資金を提供して欲しいという申し入れを行ったという。

実際に事後に探検費用が戻ったかどうかは分からないが、スタンフォード大学、カリフォルニアアカデミーとの付き合いができたことは間違いない。
しかもこの探検は顕著な成果があったので、プラントハンターとしてのメキシアの登竜門となり、全5回のメキシコ探検へと発展することになった。

また、もうひとつのエピソードは、最初の頃のメキシアは、“旅行”自体が目的で旅を楽しんでいたようだ。50歳も過ぎると当然の目的でわかりやすい。
しかし、同好会的な園芸クラブはこれでも良いのだろうが、大学の植物学という研究機関では通用しない。ましてや、第三者から探検にかかる多額の費用をスポンサードしてもらうとなると成果が求められるのでなおさら大変だ。
寝る時間を惜しみ、昼間に採取した植物の汚れを落とし、乾燥させ、植物標本をつくる作業と、採取した植物の特徴及び採取した場所などについて整理・記述する地道な作業を夜間に行わなければならないし、これが目的にならないといけない。

観光旅行気分で、こんなことに全く無頓着で人の気持ちなど気にしないメキシアだったので、見かねたフェリス女史は、ブライアント博士(Harold C. Bryant 1886-1968)に話をして、植物探索の旅の目的について彼が忠告をしたという。

ブライアント博士の忠告が効いたのか、後世に残るボタニスト、プラントハンターとしてのメキシアが誕生した。

探検旅行での写真があるが、机の上には採取した植物を分類記述した書類と思われるものがたくさんあり、仕事に打ち込んでいる様子が写っている。
メキシア晩年の頃の写真と思われるが、厳しい顔立ちとなりつまらなそうにしている印象もある。自由奔放な天性が通じない世界に入ってしまったからなのだろうかと思ってしまう。51歳からの植物への興味関心は、得るものもあったが失うものもあったのだろう。


(出典)Philosophy of Science Portal

ここで登場したブライアント博士について補足説明をすると、彼は、1916-1930までカリフォルニア大学公開講座の講師を務めた鳥類学者で、1930-1939は国立公園局のチーフディレクターとなる。
ブライアント博士は、カリフォルニア大学での思い出として三人の優れた学生の名前を挙げている。メキシア、ブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)、モーセ女史(Elizabeth E. Morse )の三人で、特にブラッセリン女史は1927年からメキシアの友人となり採取した植物の整理分類に興味がなかったメキシアの仕事を引き継ぎ、後に『The Ynés Mexía botanical collections』としてまとめて出版した。ブラッセリン女史がいなかったらメキシアの評価も埋もれてしまったのかもわからない。

『The Ynés Mexía botanical collections』
 


【メキシアのプラントハンティング記録】
1.1922年 : プラントハンティングの始まりはカリフォルニア大学バークレー校古生物学研究員のE. L. Furlongをリーダーとするグループでのメキシコ研修旅行

2.1925年9月15日―1925年11月19日
・ 探検地: メキシコ西部、シナロア
・ スポンサー・リーダー: フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978):スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員
・ 成果: 500品種3600の植物を採取

3.1926年9月―1927年4月
・ 探検地: メキシコ西部:シナロア、ナヤリト、ハリスコのシエラマドレ山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学バークレー校の教授セッチェル(Setchell, William Albert 1864-1943)が部分的に出資。
・ 成果: 1600品種33,000の植物を採取。

4.1928年6月9日―9月12日
・ アラスカ探検: アンカレッジ、アラスカ

5.1929年5月6日―9月1日
・ 探検地: メキシコ北部および中央部:チワワ、メヒコ、プエブラ、ヒダルゴ
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア工科大学教授ファーロング(E. L. Furlong)
・ 成果: 315品種5000の植物を採取

6.1929年11月―1932年3月
・ 探検地: 南米ブラジル、ペルー探検:リオデジャネイロ、ビソザ、ディアマンティナ、アマゾン、ペルー、サンチャゴ峡谷
・ シポンサー: 米国農務省がスポンサーで同省のチェス(Chase,Agnes M.)が同行
・ 成果: 3200品種65,000の植物を採取

7.1934年9月―1935年9月
・ 探検地: 南米エクアドル:海岸よりの平野、アンデス山脈の東部アマゾン川、北部の高地、コロンビア国境地帯
・ スポンサー: 米国農務省がスポンサーでヤシ、キナノキなどの資源植物の探索
・ 成果: 900品種5,000の植物を採取

8.1935年10月―1836年1月
・ 探検地: 南米ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリー、アンデス山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学植物園 グッドスピード(Goodspeed, Thomas Harper 1887-1966)をリーダーとした探検
・ 成果: 300品種1,900の植物を採取

9.1936年1月―1937年1月
・ 探検地: 南米ペルー・マチュピチュ、チリー南部、エクアドル
・ 成果: 1,000品種13,000の植物を採取

10.1937年7月―8月
・探検地: 米国ミシガン

11.1937年10月31日―1938年5月20日
・ 探検地: メキシコ南西部:オアハカ、ゲレーロ
・ 成果: 700品種13,000の植物を採取
※ メキシアはオアハカで病気になり1938年5月にサンフランシスコに戻り、7月12日に亡くなった。

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No49:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その1。

2011-09-01 21:18:55 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No49

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、49歳からそれまでの裕福なキャリアを捨て経済的に不安定な趣味の植物採取の道に入り、プロのプラントハンターとして生計を立てることになった。
この上を行ったのがメキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)で、51歳になってからカリフォルニア大学バークレー校で植物学を学びプラントハンターの道に入った。

 
(出典)amazon.com

メキシアのことを書いた本の表紙に彼女の写真が掲載されているが、超越を経験した人だけが持つ視線を感じその奥深さに引き込まれてしまいそうだ。口元には慈愛深いかすかな微笑があり、強くそしてしなやかな女性だったのかな~と思いをめぐらす。

この本『Ynes Mexia(Botanist Adventurer)』の著者Durlynn Anemaは、
両親の離婚により精神的な障害を受けた経験を持ち、このような若い女性を勇気付けることをテーマとして、女性の探検家・冒険家の著作を12冊出している。男だけでなく女性も過酷な自然と闘ってこれを克服することが出来るという壮大なストーリーが元気の元となるのだろう。

私自身プラントハンターとして女性を取り上げるのは初めてであり、しかも功なり名を成した年齢でもある51歳から何故このプラントハンターの道に入ったのかが最も知りたいことだ。

そして、ヒントンのほぼ10年前からメキシコで最初のプラントハンティングを始めるが、どんなサルビアを発見したのだろうという楽しみがある。発見はその人のセンスであり、女性プラントハンター・メキシアのセンスが見れるかもわからない。

メキシアの祖父José Antonio Mexía (1800– 1839)は、1839年5月3日に39歳の若さで銃殺されたメキシコの政治家であり、1810年から始ったメキシコ独立革命に深く関わる家族の由来を持つ。こんな家族の歴史もメキシアの気質に影響を及ぼしているのだろう。

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No48:ヒントンが採取したサルビア⑥

2011-08-19 19:47:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No48
ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介しているがこれが最終回となる。
1930年代から1940年代にかけてメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取している。狭いエリアではあるが、メッシュで区切ったように注意深く数多くの植物を採取していて、サルビアに限っただけでも数多くの新種を発見採取している。しかしその多くは今日まで生存していないようで乾燥した標本しか残されていない。

24.Salvia perblanda Epling (1939) サルビア・ぺルブランダ
 
(出典)ミズリー植物園

種小名“perblanda”は、ラテン語で“非常に魅力的”という意味があり、ヒントンがゲレーロ州2350mのMina で1936年12月に採取したサルビアで、彼が最初に発見したサルビアだが、標本しか存在せず現存していないようだ。

25.Salvia praestans Epling (1940) サルビア・プラエスタンス
 
(出典)University of California, Berkeley

ラテン語で“傑出した”という意味を持つサルビア・プラエスタンス(Salvia praestans)は、1937年12月にゲレーロ州ミナでヒントンが初めて採取した。
これも標本しか存在しないようだが、その標本でも赤系の花で姿かたちがスッキリしていることがわかる。

26.Salvia purpurea Cav. (1793) サルビア・パープリア

(出典)hanas garden

パープルの花が美しい「サルビア・パープリア(Salvia purpurea)」は、“Mexican purple sage”とも呼ばれ、メキシコ南部からグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスに生息する。意外なことに丈が2-3mもある大型の多年草のサルビアで、晩秋から冬にかけて開花する。
風、夏の暑さ、霜に弱いので温室的な環境が必要なのでちょっと手が出にくい。

記録に残る最初の発見者は、エドワード・パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)が1886年にメキシコ南部で、ドイツのナチュラリストで法律家のトッケイム(Türckheim 、Hans Freiherr von 1853―1920 )が1年前の1885年にグアテマラで採取している。
このサルビアの命名者はスペインの植物学者、カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)で、メキシコで植物調査活動していたセッセ探検隊が採取した植物などを分類・同定し命名しているので、最初の発見者は、セッセ探検隊なのだろう。

27.Salvia remissa Epling (1939) サルビア・レミッサ
サルビア・レミッサは、メキシコで生まれ米国に移住した女性プラントハンターのメキシア(Mexia ,Ynes Enriquetta Julietta 1870-1938)が1927年の1月にハリスコ州で最初に採取し、他にヒントンがミチョアカン州で1938年10月に採取している。ミズリー植物園に残されている標本はヒントンが採取したものであり、楕円形の大きな葉と長く伸びた花序が冬場に花を咲かせる。

 
(出典)ミズリー植物園

しかしこのサルビア・レミッサは、サルビア・ロシーダ(Salvia roscida Fernald.1900)が正式な学名で、種小名の“roscida”はラテン語で“露にぬれた”を意味する。開花期に多くの水を必要とするので名づけられたようだ。
草丈100-150cm、冬場に淡いブルーの花を咲かせる。日本では、温室でないと開花させることが難しそうだ。

(出典)flickr.com

このサルビア・ロシーダ(Salvia roscida)を最初に採取したのは、1892年から1906年までメキシコで生物学的な調査研究を行ったアメリカの動物学者、ゴールドマン(Goldman, Edward Alphonso 1873 – 1946)で、1899年3月にドゥランゴ州で採取した。

28.Salvia riparia Kunth.(1818) サルビア・リパリア

(出典)California gardens

サルビア・リパリアは、フンボルトとボンプランがペルーで発見・採取し、1818年にクンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)が命名した。
草丈60-90cmで淡いブルーの花を年中咲かせる。葉は先端が尖った楕円形で芳香があり、フロリダ、メキシコからペルーまで中南米に幅広く生息する。
ヒントンは、1938年の10月にメキシコ、ミチョアカン州でこのサルビアを採取する。
ただ正式な学名は、サルビア・ミセラ(Salvia misella Kunth,1818)であり、ラテン語では“貧しい”という意味を持つ。
華々しさがないためなのだろうが、年中咲くサルビアとしては悪くないと思う。

29.Salvia seemannii Fernald (1900) サルビア・ゼーマニー

(出典)Robins Salvias

サルビア・ゼーマニー(Salvia seemannii Fernald 1900)は、ドイツの探検家ゼーマン(Seemann, Berthold Carl 1825-1871)によって1848-1849年頃メキシコ北西部のシエラマドレで採取最初に採取された。
ゼーマンに関してはこのシリーズ「No12:「サルビア・マドレンス」と 世界を一周したプラントハンター、ゼーマン」を参照。
唯一見つかった画像から見ると、花序が伸び小さな淡いブルーの花が多数咲くサルビアで、これ以外の情報はあまりない。
ヒントンは、1939年1月にゲレーロ州の低地で採取しているので、晩秋から冬場に咲く花のようだ。

30.Salvia teresae Fernald (1900) サルビア・テレサ

サルビア・テレサ(Salvia teresae)は、1897年8月にメキシコ南西部のTepicでアメリカの植物学者でスミソニアン博物館のローズ(Rose, Joseph Nelson 1862-1928)によって採取された。
ヒントンは、これより遅れ1932年7月にTemascaltepecで採取しているが、しかしこのサルビアの実像は良くわからない。

代わりに似た名前のサルビア・テレサ(Salvia greggii 'Teresa')という素晴らしい花があったのでこれを取り上げてみる。
このサルビアは、赤色の花のサルビア・グレッギーの突然変種で、上唇が明るいパープル、下唇は白地にパープルの線がかすかに入っている。
この変種を発見したのは、テキサスのDavid Steinbrunnerで妻の名前teresaをつけ、Salvia greggii 'Teresa'と名づけた。
発見した時期は良くわからなかったが、2004年にテキサスの自生植物の園芸化に貢献した賞である“The Lynn Lowrey Memorial Award”を受賞しているので、この数年前に発見したのだろう。
それにしてもこのサルビアは美しい。

(出典)flickr

31.Salvia thyrsiflora Benth.(1846) サルビア・ティルシフローラ

(出典)Robins Salvias

ヒントンは、サルビア・ティルシフローラを1940年11月にミチョアカン州で採取した。これまで実写が見つからなかったが、“Robins Salvias”に珍しいサルビアとして掲載されていた。コバルトブルーの花であり冬場に開花するサルビアのようだ。
このサルビアの最初のコレクターはBarclayという人物であり、メキシコ南西部にあるTepicで採取したという。しかし、このバークレィという人物は良くわからない。
採取した時期的には、1846年に英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によって命名されているのでこれ以前であることは間違いない。

代わりに面白いデータがフィラデルフィラ標本館にあった。
出典は英国のキューガーデンにあり、コレクターがビーチー(Beechey, Frederick William 1796-1856)となっている。
 
(出典)Philadelphia Herbarium

Project: Photographs of Type Specimens at Royal Botanic Gardens, Kew, England.
Country: Mexico
Collector: Beechey F.W.
Lamiaceae Salvia thyrsiflora Benth.

ビーチーは英国の海軍士官・探検家・画家で、彼が艦長として1825-1828年に実施した北西太平洋・ベーリング海峡の探検ではアラスカの北岸を発見したことで知られる。また、1935年には南アメリカの海岸線を調査しているので、1820年代から30年代にメキシコで採取したものだろう。
しかし、ビーチーはプラントハンターではなく、この探検隊に同行した植物学者などの隊員が採取し、この標本を英国(キューガーデン)に送り、ベンサム達がこれらを研究するというシステムが出来上がっているのでビーチー以外の誰かが採取した。
これがバークレイなのかどうかは確認できていないが、時期的に見てビーチー探検隊が採取して英国に送ったものの可能性も否定できない。
19世紀初頭には拡大していく英国の植民地、世界に派遣した探検隊などから送られてくる植物資源がキューガーデンに組織的に集められ、これらを分類するために命名者のベンサムがキューガーデンにヘッドハンティングされた。

ところでこのビーチー探検隊は鎖国中の日本との接点もあり、1827年6月9日に小笠原諸島父島に来航し、ここに1週間滞在し地図を作る調査、動植物の採取を行い英国領を宣言する。
日本の国土面積は狭いが、この小笠原諸島が英国領ではなく日本の領土であったため日本領海としての海洋面積は格段に広くなり、日本が消費する天然ガス100年分に相当するメタンハイドレート、レアメタルなどの海洋資源を確保することが出来たというからありがたい。
また小笠原諸島は2011年6月にその生態系の特異性が認められ世界遺産に登録されたばかりだが、亜熱帯から熱帯ゾーンにある小笠原諸島が東京都小笠原村であるということ自体が不思議でしょうがない。

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No47: ヒントンが採取したサルビア ⑤

2011-05-30 19:32:10 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No47

ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介する。
この中では、空色のサルビア、サルビア・ラングイドラ(Salvia languidula Epling (1939))、黒に近いダークブルーの花、サルビア・ヒントニー(Salvia hintonii Epling (1938))に注目してもらいたい。 

18.Salvia hamulus Epling (1938) サルビア・アムロス

ヒントンは、サルビア・アムロスを1936年11月にゲレーロ州で採取した。彼が最初の採取者のようだが、その標本がミズリー植物園に保存されていた。
ハート型の葉と長く伸びた花序は、スマートな感じがする。気になるのは種小名の“hamulus”で、ラテン語で“はねかぎ”を意味し、フックのようになるかぎ状の毛があることを指す。きっとこの花序にフックがあり、倒れないように隣に引っ掛けながら成長していくのだろう。

  
左(出典)ミズリー植物園
右(出典)Robins salvias

この実物写真が「Robins Salvias」にあった。逆光ではっきりとは見えないが、パープル系の花のようで、グアダラハラ大学にある珍しいサルビアのひとつのようで、詳細は不明だ。

19.Salvia helianthemifolia Benth. (1833) サルビア・エリアントミィフォリア

 
(出典)Les senteurs du Quercy

サルビア・エリアントミィフォリアは、常緑の葉を背景にカラミントに似た愛嬌のあるホワイトピンクの花を咲かせる。草丈60㎝程度というところもカラミントに似ている。

ヒントンは、このサルビアをメヒコ州で1936年1月に採取している。命名されたのが1833年なので100年前に他の誰かが採取しているが、セッセ探検隊なのだろう。
こんな愛嬌のあるサルビアもいいものだ。

20.Salvia hintonii Epling (1938) サルビア・ヒントニー

  
左(出典)ミズリー植物園
右(出典)Robins salvias

ヒントンしか採取していないサルビアがあった。ヒントンの名前がつけられたサルビア・ヒントニーは、1936年10月にゲレーロ州で採取しキューガーデン、ミズリー植物園などに標本を出品している。標本から見ると、ハート型の葉で花序を伸ばしそこに比較的大きな花をつける。
その花色は、サルビア・ディスコロールに似ており、花としては珍しい黒に近い濃紺・ネイビーブルーのようだ。
詳細はわからないが、グアダラハラ大学に生存しているという。
これはぜひ手に入れてみたいサルビアになりそうだし、園芸市場に導入されたならば人気を得るだろう。

21.Salvia hyptoides M. Martens & Galeotti(1844) サルビア・イトイデス

  
(出典)conabio.gob

ヒントンはこのサルビア・イトイデスをメヒコ州で1932年11月に採取した。が、命名者にベルギーのプラントハンター、ガレオッティがいるので、彼が最初の採取者なのだろう。
唯一見つかった写真から見ると、草丈30-60cmで、直立的に成長しハート形の葉と長めの花序にブルーの花をつける。

だが、このサルビアの正式な学名は、サルビア・ラシオチェファラ(Salvia lasiocephala Hook. & Arn.(1838))で、「No46:ヒントンが採取したサルビア④」のNo14 で紹介した「Salvia galinsogifolia Fernald (1900)」も同一種となる。

22.Salvia inconspicua Bertol. (1827) サルビア・インコンスピキゥア

 
(出典)Robins Salvias

種小名の“inconspicua”は、何と“目立たない”というラテン語だった。
草丈12フィートというから300cmを超える丈の高いサルビアで、枝分かれがしその先に晩秋頃から淡いブルーの花が咲く。しかし、見るからにボウボウとしていて雑然としている。雑草のきわみとでも言うのだろうか洗練されていないところが感じられる。

こんな大柄なサルビアに、お茶目なのか正直なのかわからないが“目立たない(inconspicua)”という名前をつけたのは、イタリアの植物学者ベルトリーニ(Bertoloni, Antonio 1775-1869)だった。
彼は、イタリア植物の当時の権威でもあったが、中南米に探検に来ているのでその時に採取したのだろう。
ヒントンもミチョアカン州、ゲレーロ州でこのサルビアを採取しているが、品種としては認められていない。まだわからないところがあるサルビアのようだ。

23.Salvia languidula Epling (1939) サルビア・ラングイドラ

 
(出典)Robins Salvias

「サルビア・ラングイドラ」唯一の画像が見つかった。
チョット見にはごく普通のサルビアかなと思ってしまったが、よく見るとこの抜けるような空色はあまりない。
種小名の“languidula”は、ラテン語で“ロサンゼルス”を意味する。“ロサンゼルス”は、天使の地(Los angels)として名づけられたので、天使(ángel)でも宿っているのだろうか?と思ってしまう。
このサルビアは、ヒントンが最初の発見者で1937年6月にゲレーロ州で採取している。

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No46:ヒントンが採取したサルビア④

2011-05-16 19:53:16 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No46

ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介する。

14.Salvia galinsogifolia Fernald (1900) サルビア・ガリンソギフォーリア

このサルビアの種小名“galinsogifolia”は、“端がザラザラした葉”を意味し、ヨーロッパのカヤツリグサを呼ぶ名前として使われているので、このカヤツリグサのような葉を持つサルビアということだろう。
このサルビア・ガリンソギフォーリアを最初に採取したのは、パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)で、1885年にチワワ州で採取している。ヒントンは、1937年11月にゲレーロ州でこのサルビアを採取しているが実物の写真がない。

パーマーが採取した植物標本がニューヨーク植物園にあり、これを見る限り路傍に生えているひょろっとしたカヤツリグサとの形態の類似性は感じられないので、葉の端がザラザラしていることだけが似ているのだろう。
 
(出典)ニューヨーク植物園

花はといえばこの標本からはわからないが、正式に認められた学名が「Salvia lasiocephala Hook. & Arn.(1838)」であり、この写真から見ると細長い総状花序に薄いブルーの花が咲く。メキシコだけでなく中南米一帯に生息する1年草のサルビアだ。

(写真)Salvia lasiocephala Hook. & Arn.(1838)
命名者は、グラスゴー大学教授・キュー植物園の園長Hooker, William Jackson (1785-1865)、グラスゴー大学での弟子・後に教授Arnott, George Arnott Walker (1799-1868)
 
(出典)ミズリー植物園

15.Salvia gesneriiflora Lindl. & Paxton(1851) サルビア・ジェスネリーフローラ

  
(出典)サンフランシスコ植物園

Salvia gesneriifloraまたは、Salvia gesneraefloraは、初春からスカーレットオレンジの見事な花を咲かせる。この品種には2つのタイプがあり、紫色の萼(がく)を持つものと、緑色の萼を持つものがあり、ハート型の葉は芳しい香りがするという。樹高は最大で300cmにもなり木質化するのでシーズンオフには刈り込む必要がある。
種小名の“gesneriiflora”は、“gesneriad”(イワタバコ科のツル性の植物)に似た葉を持っているので名づけられた。

命名者は、英国の植物学者で王立園芸協会が初めて開催したフラワーショーの提唱者、リンドレイ(John Lindley 1799-1865)と巨大なガラスで作った温室クリスタルパレスの設計者パクストン(Joseph Paxton1803-1865)だった。
園芸市場を革新した二人が命名しただけのサルビアという感がする。

ヒントンは、このサルビアを1932年2月にメヒコ州で採取したのを皮切りにゲレーロ州、ミチョアカン州でも数多く採取している。

日本でも馴染みとなった「サルビア・パープルマジェスティ(Salvia ‘Purple Majesty’)」は、このサルビアとブラジル原産の「サルビア・ガラニチカ(S. guaranitica A.St.-Hil. ex Benth)」が偶然に交配して誕生した。
ということをすっかり忘れていた。

16.Salvia gracilis Benth.(1833) サルビア・グラシリス
 
(出典)conabio

サルビア・グラシリスは、草丈最大で150㎝、濃い紫色の花と先の尖った卵形で濃緑色の葉のコントラストがマッチしている。
このサルビアの最初の採取者は、セッセとモシニョー(Sessé & Mociño)のようだ。

種小名の“gracilis”は、アイビーの古い種にグラシリスというのがあるが、1800年頃はアイビーの品種が少なかったこともあり“優雅な外見”という賛辞が与えられていた。
今日でも十分通用する美しさだが、産業革命後のスモックで汚れたロンドンではもっとその美しさが際立っていたのだろう。
ヒントンは、1932年5月にメヒコ州で採取してから数多くこのサルビアを採取している。
しかしこのサルビアの正式な学名は「Salvia carnea var. carnea」で、フンボルト探検隊が最初の採取者となる。

17.Salvia gravida Epling(1940) サルビア・ガビダ

(出典)flickr

高さ360cmの巨大なサルビアからぶどうの房のように花穂が垂れ下がり、チェリー色の花が咲く。しかも冬場に咲くので開花したときの感激はひとしおだろう。葉からは、サルビア特有の薬くさい香気がかなり強くするというので、中毒症状の私にとっては欲しい一品となる。
しかし、育てるのは難しそうだ。霜が苦手のようであり温室でないと育たなさそうだ。

種小名の“gravida”は、ラテン語で“子供と”、スペイン語では“妊婦”を意味するが、さてさて何を指しているのだろうか?
このサルビアを最初に採取したのはヒントンで、1938年10月にミチョアカン州で採取している。

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No45:ヒントンが採取したサルビア③

2011-05-10 11:26:39 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No45

ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介する。

9.Salvia cyanocephala Epling (1935) サルビア・シアノセパラ
 
 
(出典)INSTITUTO DE CIENCIAS NATURALES

植物標本しか見つからなかったが、サルビア・シアノセパラは、草丈100cmで、卵形の大きな葉とブルーの花を咲かせる。原産地は、メキシコからコロンビアまでの中南米で、2000mの高地の小川の近くの荒れたところに生息する。
ヒントンは、1938年11月にミチョアカン州でこれを採取するが、最初の発見者は、米国の植物学者Killip, Ellsworth Paine (1890-1968)とHazen, Tracy Elliot (1874-1943)の二人で、1922年8月にコロンビアで採取している。

10.Salvia dichlamys Epling (1939) サルビア・ディクラミス
 
(出典)flickr.com

サルビア・ディクラミスは、1932年7月にメヒコ州でヒントンが最初に採取した。とあるが、1909年9月にフランスの修道士で植物学者のアーセン(Arsène,Gustave Joseph Brouard 1867-1938)がミチョアカン州でこのサルビアを採取している。
円鋸歯状のグリーンの葉、花序を伸ばしそこに真っ赤な花が咲く。グリーンの萼との組み合わせが美しい。

サルビア・フルゲンス(Salvia fulgens)と似ていて、セッセ探検隊が採取したサルビアが最初なのかもわからない。

11.Salvia elongata M. Martens & Galeotti (1844) サルビア・エロンガタ

ヒントンは、サルビア・エロンガタ(Salvia elongata)を1932年10月にメヒコ州で採取しているが、最初の採取者はベルギーのプラントハンターガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)だった。

このサルビアのビジュアルを見つけることが出来なかったが、種小名の“elongata”は、ラテン語で“細長い”を意味しているので、きっとこんな姿だったのだろう。

(写真)Salvia elongata.Kunth(1818)
 
(出典)Missouri Botanical Garden

長い槍の様であり、こんなサルビアもあるのかと驚きをもってこの絵をじっと眺めている。槍の穂先に花が咲き、その姿の拡大図は、左下にサルビア特有の口唇型の花の姿が描かれている。

この「Salvia elongata.Kunth(1818)」は、フンボルト探検隊が最初に採取したサルビアであり、上の絵は、盟友の植物学者ボンプランが描いたようだ。白黒の線画も味があっていいものだ。

同じ学名をつけているので似たところがあるのだろうが、近年になって「Salvia elongata M. Martens & Galeotti (1844)」は、「Salvia protracta Benth.(1848)」であり、「Salvia elongata.Kunth(1818)」は、「Salvia stachyoides Kunth(1818)」なので、別種とされていることを付け加えておこう。
この4品種はどう調べてもこれ以上違いがわからないので、私もチンプンカンプンだ。

12.Salvia excelsa Benth.(1841) サルビア・エクセルサ

ベルギーのプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)が最初に採取したサルビア・エクセルサ。ヒントンは、人生およびプラントハンターとしての活動の晩年である1940年1月にゲレーロ州でこのサルビアを採取した。
種小名の“excelsa”は、ラテン語で“高台の”を意味する。

写真・標本とも見つからなかったが、認められた学名は、「Salvia tubifera Cav(1791)」なので、セッセ探検隊かスペイン人が採取したものだろう。
このサルビア・トゥビフェラは、サルビア・ロンギスティラ(Salvia longistyla)とよく似ているが、薄い緑色の大きな葉と上を向いた真っ赤な花が素晴らしい。

(写真)Salvia tubifera Cav. (1791).
 
(出典)Robins salvias

13.Salvia filipes Benth.(1848) サルビア・フィリップ

太陽の沈まない国としてスペイン絶頂期の国王フェリペ二世(Felipe II, 1527-1598)の名前を冠したであろうサルビア・フィリップは、植物標本しか見つからなかった。そこに記載されている特長は、低木で白い花のサルビアということなので、現存していれば人気のサルビアとなったであろう。
最初のプラントハンターは、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)で、採取時期は不明だったが、1836年から1839年までメキシコを探検したのでこの時期だったのだろう。
ヒントンは、これから100年たった1939年11月にゲレーロ州でこのサルビアを採取している。

 
(出典)ニューヨーク植物園

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No44:ヒントンが採取したサルビア②

2011-04-29 08:13:05 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No44

ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介する。1930年以降といえども消息不明のサルビアが結構ある。


5.Salvia capillosa Epling (1940)サルビア・カピローサ
ヒントンがメキシコ・ミチョアカン州Zitacuaro(シタクアロ)で1938年7月8日に初めて採取したサルビアだが、ヒントン以外に採取した例がなく、いまでは幻のサルビアとなっている。
残っているのは、彼が作った標本だけであり、ここからはどのようなサルビアであったかをうかがうことができない。

 
(出典)国立メキシコ自治大学生物学研究所

6.Salvia compacta Kuntze (1891).サルビア・コンパクタ
 
(出典)Robins Salvias

サルビア・コンパクタは、命名者のクンツ(Kuntze, Carl Ernst Otto 1843-1907)がコスタリカで採取したのが最初であり、1874年から1876年の間に採取したようだ。
このクンツは型破りの人物で、ドイツのライプツィヒで1843年に生まれ、実業学校しか卒業せず1868年にライプツヒで化学工場を始め大成功を収める。財産を形成したので5年後にこの事業から引退した。クンツ30歳のときであり、翌年の1874年から趣味の植物採取で世界一周旅行を2年間行った。この時のコースが西インド諸島、アメリカ、南アメリカ、日本、中国、インドを訪問して1869年11月に開通したスエズ運河経由でドイツに戻った。その後大学に入学し博士号を取得するが、このときに採取した植物の解説を1891年に出版し、リンネの命名法に反論する主張を行うなど異端児ぶりを遺憾なく発揮する。
という経歴から見ると、サルビア・コンパクタの採取時期は1874年頃なのだろう。
ヒントンは、1932年11月にメヒコ州テマスカテベックで採取している。

サルビア・コンパクタは、草丈60㎝程度と小柄で、花序にはブルーの小花を密集して咲かせる。これが、コンパクトの由来でもある。
しかしこのサルビアは、100年前にスペインのカバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名された「Salvia polystachya Cav.(1791)」と同じなので正式な学名はこちらになる。

ヒントンは、「Salvia polystachya Cav.(1791)」も多数採取しているので、違った品種と見たところが何かあったのだろう。しいて言えば、花序が直立している「サルビア・コンパクタ」に対して、横に寝てしまう「サルビア・ポリスタキア」という違いだろうか。

7.Salvia cyanantha Epling (1940) サルビア・シアナンサ
サルビア・シアナンサは、ニューヨーク植物園に標本があった。採取者はヒントンで、花序はかなり長くブルーで香りがある花と記述されている。
しかし今日栽培されている痕跡がなく、失われたサルビアのようだ。
 
(出典)ニューヨーク植物園

8.Salvia cyanea Benth.(1833) サルビア・キアネア
「Salvia cyanea」には、命名者が3人いる。
年代順では、1808年にドイツ生まれでロシアのサンクスペテルブルグ植物園園長となったフィッチャー(Fischer, Friedrich Ernst Ludwig von 1782-1854)、1833年に英国の植物学者ベンサム(George Bentham 1800-1884)、1892年にはスペインのメキシコ探検隊セッセとモシニョー(Sessé & Mociño)を記念して名づけられている。

サルビア・キアネアの最初の採取者は定かではないが、セッセ探検隊であった可能性が高い。その後に採取したものはヒントンだけであり、彼が採取したのは1932年8月にメヒコ州でこのサルビアを採取している。
しかし、ヒントンが採取した「Salvia cyanea Benth.(1833)」は、「Salvia concolor Lamb. ex Benth. (1833).」であり、花とそれを支える萼の色が同じなので“concolor”と名づけられたという。
一方の、フィッチャーが命名した「Salvia cyanea Fisch.(1808)」は、「Salvia lamiifolia Jacq.(1798).」だった。
この二つのサルビアの写真を見比べると、葉・花ともよく似ているが、花の色合いが異なり、萼にいたっては完全に異なり別種であることに納得する。

(写真)Salvia concolor Lamb. ex Benth. (1833).
 
(出典)flickr

(写真)Salvia lamiifolia Jacq.(1798).
 
(出典)ecflora

さらに気になる事があった。
「Salvia cyanea」は「Salvia concolor」であり、「Salvia divinorum Epling & Játiva,(1962) (サルビア・ ディヴィノルム)」に近い。という説がある。

(写真)Salvia divinorum Epling & Játiva,(1962)
 
(出典)brainz.org

写真写りの差はあるが、確かに似ている。

「サルビア・ディヴィノルム」は、その葉を煎じて飲むと覚醒効果があるので近寄らないほうが良い植物として知られるようになって来た。
エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が命名者でありこの植物の覚醒効果の研究をしていたので詳しくはエプリングのところで取り上げるが、スペイン人が来る以前のメキシコでは、マサテック族の宗教儀式で利用されていたという。
これをマサテック・シャーマニズム(Mazatec shamanism)というが、呪術師、或いは巫女が信者をトランス状態にし、霊との交信を行うというものであり、トランス状態にするためにキノコの一種、アサガオの一種、サルビア・ディヴィノルムが使われていたということが20世紀中頃からやっとわかってきたという。

カトリック教を野蛮な植民地に普及させることを目的のひとつにしていたスペイン人は、ネイティブの宗教を否定し、儀式で使っていたあらゆるものを禁止した。
しかし、1571-1577年に実施したエルナンデスのメキシコの博物学的な探検、1787年から1803年までの16年間に実施したセッセの植物探検隊などを通じて、現地宗教或いは医療に使われていたハーブの把握はしていたようだ。
だが、見たくないもの・都合の悪いものを封印してしまったようだ。

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No43:ヒントンが採取したサルビア①

2011-04-17 11:05:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No43

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、死亡するまでのわずか十数年で16,300品種もの植物をメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取し、その中には300以上の新種と4つの新しい属が含まれていたという。
植物採取で生計を立てるプロのプラントハンターとなったのが1936年でヒントン54歳の時だったが、キュー植物園、ニューヨーク植物園、ハーバード大学、ミズリー大学などを顧客としていた。
ここには、ヒントンが採取した植物が保管・記録されており、ミズリー大学では、13192種類の標本があり、その中には356種ものサルビアが含まれている。

これまで取り上げなかったメキシコのサルビアを可能な限り調べていくことにする。

1. Salvia agnes Epling (1938) サルビア・アグネス

(出典)Flicker.com

サルビア・アグネスは、コンパクトなサルビアで8月から霜が降りるころまで、ブルーの小さな花を多数咲かせる。

このサルビア・アグネス(Salvia agnes)の最初の発見者は、メキシコの政治家を祖父に持つ米国の女性探険家・植物学者メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta1870-1938)で、1927年6月29日にメキシコのハリスコ州サン・セバスチャンで採取している。
ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)より一回り年長だが、彼女が51歳の時から植物学の世界に入ってきているのでヒントンとの共通点もあり、この点でも興味をそそられる人物でもある。
この「メキシコのサルビアとプラントハンター物語」の最終章は、このサルビアの命名者エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)か、メキシアのどちらかにしようと思い始めた。
一方、ヒントンがこのサルビアを採取したのは、1939年10月4日で、ミチョアカン州のCoalcománで採取している。

しかし、フンボルトとボンプランが先に発見して1818年にクンチ(Kunth ,Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)によって「Salvia lavanduloides Kunth (1818)」と命名されていたのでこちらが正式な学名となる。種小名の “lavanduloides”は、“ラベンダーのような ”を意味する。

(写真)Salvia lavanduloides Kunth (1818).

(出典)Flicker.com

2.Salvia albiflora M. Martens & Galeotti(1844)サルビア・アルビフローラ

「サルビア・アルビフローラ」は、草丈1.5mで、葉は披針形という竹の葉のように平たくて細長く先のほうが尖っている形をしていて、10-25cmの花序を伸ばし、白い花をつける。と書かれている。しかし、実物の写真は見当たらない。
種小名の“albiflora”は、“白い花”を意味し、例えてみると、「Salvia officinalis "Albiflora"」のような姿をしているのだろう。

(写真)Salvia officinalis "Albiflora"

(出典)Flickr.com

このサルビアを最初に発見したのは、ベルギーのプラントハンター、ガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)で、1840年6月にメキシコのベラクルーズで採取している。
ガレオッティに関しては、ここを参照。

ヒントンは、100年後の1938年7月22日にミチョアカン州シタクアロでこのサルビアを採取している。

3.Salvia albocaerulea Linden (1857) サルビア・アルボカエルレア


(出典)meemelink.com

この植物画は、ベルギーの園芸家・園芸誌編集者・プラントハンターのLouis van Houtte (1810-1876)が創刊した園芸誌“Flore des serres et des Jardins de l'Europe”の1858年13巻に掲載した「Salvia albocaerulea」で、この雑誌には1845-1883年までの間に2000枚以上の植物画が描かれたという。

Salvia albocaerulea は、 “No30:プリングルが採取したサルビア その12”にも記載したが、この植物画のとおりであるならば、なかなか素晴らしいサルビアだと思う。

ヒントンはこのサルビアを1932年から1938年までに多数採取しているが、彼以前にはプリングルだけしか採取記録が残っていない。

Louis van Houtteは、ベルギーでナーサリー(育種園)を経営し、ランや海外の珍しい植物をヨーロッパ中の顧客に販売して成功を収めているが、若いころはブラジルにプラントハンターとして探検を行っている。
彼が、このサルビアをどこで手に入れたかが謎だが、1845年から中南米にランや珍しい植物を集めるためにプラントハンターを送り出した実績があるので、このプラントハンターが集めてきたものか、或いは、似たような経歴を持つベルギーの園芸家・プラントハンターのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)が1857年に「Salvia albocaerulea」と命名していることからして、リンデン達から手に入れたという可能性も否定できない。
しかし、実写が見つからなかったことから、現存してないサルビアのようだ。

4.Salvia angustifolia Michx.(1803) サルビア・アングスティフォリア

サルビア・アングスティフォリアはいくつもの顔を持つ。ということは、似て非なるものに同じ名前をつけてしまった歴史がある。
種小名の“angustifolia”は、“ラベンダーのような尖った細長い葉も持つ”という意味を持ち、唯一見つかった植物の姿は、オランダの植物学者・アーティストのAbraham Munting(1626-1683)が描いた「Salvia Angustifolia Cretica」だった。
確かに、ラベンダーのような感じがする。

(写真)Salvia Angustifolia Cretica

(出典)philographikon.com
画:Abraham Munting作

ヒントンが1932年8月にメヒコ州テマスカルテペックで採取した「Salvia angustifolia」は、1803年にフランスのプラントハンター、ミッショー(Michaux, André 1746-1803)が命名者となっているが、今では、サルビア・アズレア「Salvia azurea Michx. ex Vahl, Enum.(1804)」のことを指す。
葉は確かに細長いが、花は異なる。

(写真)サルビア・アズレア Salvia azurea

(出典)モノトーンでのときめき

このサルビア・アズレアは大好きなサルビアのひとつで、命名者ミッショー、これから登場する英国キューガーデンのプラントハンター第一号フランシス・マッソン、セッセ探検隊など花も人物もそろってしまった感がある。

ミッショーが命名したチョット前に、スペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)が「Salvia angustifolia Cav.(1797)」を命名している。
カバニレスは、メキシコ原産のダリアを1791年にヨーロッパで始めて開花させた人物であり、1801年からはマドリッド王立ガーデンの初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)の後を引き継いで園長となる。
この「Salvia angustifolia Cav.(1797)」と命名した植物は、セッセ探検隊(1787-1803年)がメキシコで採取し、スペインに送ったものなのだろう?
しかし、カバニレスが命名した「Salvia angustifolia」は、いまでは、サルビア・レプタンス「Salvia reptans.Jacq.(1798)」と呼ばれている。

(写真)サルビア・レプタンス Salvia reptans.

(出典)モノトーンでのときめき

ビジュアルで比較できる時代になると、確かに違いが良くわかり別種であると気づくが、1800年前後のころは乾燥した標本と記述された特徴で分類していただろうから違いが良くわからなかったのだろう。
ちなみに、命名者ジャカンは、1755-1759年に、ウィーンのシェーンブルン宮殿ガーデンのために西インド諸島・中央アメリカにプラントハンティングに行ったので、カバニレスとの違いである“百聞は一見にしかず”が出てしまったのかもわからない。

三番目の「Salvia angustifolia Salisb.(1796)」は、英国の植物学者ソールズベリー(Salisbury, Richard Anthony 1761-1829)が1796年に命名したが、よくよく調べると、1789年に命名された「Salvia dentata.Aiton(1789)」だった。
このサルビアを採取したのは、英国キューガーデンから南アフリカケープ植民地に派遣されたフランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)だった。

(写真)サルビア・デンタータ Salvia dentata

(出典)Robins salvias

全てに共通しているのは、葉がラベンダーのように細長いということであり、1700年代から1800年代初期のヨーロッパの主要国、オランダ、英国、スペイン、フランス、オーストリアがそれぞれの国家の戦略で植物資源を求めて海外に探検隊を派遣した時代でもあった。
それにしても、サルビア・アングスティフォリア(Salvia Angustifolia)はどこに消えてしまったのだろうか? 
最も早く記述した、オランダの植物学者・アーティストのAbraham Munting(1626-1683)が描いた「Salvia Angustifolia Cretica」は幻だったのだろうか?
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