モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その10.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-27 10:53:18 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その10:
探検家、地理学者、プラントハンター、植物学者、紀行作家、軍人そして諜報員の顔を持つキングドン=ウォード

フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)は、彼の探検のスポンサーであるリバプールの綿仲買商 ビュアリーのプラントハンターの権利をまったく認めない封建的な雇用関係とケチさ加減に辟易して彼と袂を分かった。
一方のビュアリーは、フォーレストの後任者としてキングドン=ウォード(Kingdon-Ward, Frank1885-1958)をエジンバラ植物園のバルフォアから推薦され、キングドン=ウォードは、躊躇することなくビュアリーのオファーに同意し1911年早々に英国を旅立った。
この勝負は、ビュアリーの負けで、育てたプラントハンターの経験を買えなかった投資家・実業家としての度量の小ささが際立つ。或いは、中世のアーティストを囲ったパトロンの域を出なかったのだろう。

(写真)若いころのキングドン=ウォード
 
(出典)flickr.com

チャンスが転げ込んできたのはキングドン=ウォードの方で、彼の経歴を簡単に見ていくと、
彼がケンブリッジ大学生で18歳の時、ケンブリッジ大学の植物学教授である彼の父が亡くなり博士課程に進み学者となる道をあきらめざるを得なくなる。翌年の1907年にケンブリッジ大学を卒業後上海パブリックスクールの教師となった。

上海に興味がわいたのは、若い頃に父から聞いた「ブラマプトラ川の上流にはこれまで白人では誰一人としていったことがないところがある。」ということだった。
プラマプトラ川は、チベットに源を発し、ヒマラヤ山脈の北を東流、そして東を迂回して西に回りこみ南下し、インド、バングラデシュを経てベンガル湾に注ぐ大河であり、上海ならここに近いぞ!というのが動機になっている。

彼は、熱帯雨林に魅了され、ブラマプトラ川が流れる中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部で45年で25回もの探検を行うことになるので、若かりし時の興味関心が持続した人間でもある。

長い休日
キングドン=ウォードはフォーレストより12歳若い。
フォーレストは、著作物を残さなかったため、彼の意思なり考え方・行動は、手紙か友人・関係者が残した記録を調べる以外にない。
キングドン=ウォードは、逆に探検の記録を残しそれをまとめて探検記を何と25作も残している。これを読むと良くわかるが日本語翻訳されているものは3作しかない。

彼の最後の作品に『Pilgrimage for Plants (1960)』(日本語翻訳「植物巡礼」(岩波文庫))があるが、これがプラントハンターとしての彼の生きかたが総括されているようで面白い。
特に冒頭の一部を紹介すると、
講演会の終了後に老婦人がやってきて「あなた(キングドン=ウォード)の人生は、長い休日みたいなものだったのね!」という質問があり、その時はそうは思わなかったが、休日を本質的に使っているのではないかと思うようになったそうだ。

彼はプラントハンターの訓練をつんだわけではないが、ビュアリーからのオファーというチャンスと運がありプラントハンターになった。ある時からは自らの意思でプラントハンターを職業或いは人生の目標とするようになり生涯プラントハンターであった。

定職そして収入があることを職業とするならば、彼には職業がなく毎日が休日という指摘は当たっている。しかし彼はフォーレストと異なり、スポンサーに依存しないで探検が出来ることを考えていたところがあり、探検後に書いた著作物の印税を次の探検の費用に使おうと思い、22回の探検と25冊の著作物を残した新しい考え方をもっているところがある。
この構造は、現代のアーティスト、作家と同じであり、自由業としてのプラントハンター&ライターの誕生でもあるのだろう。

バックヤードの重要性
地道な仕事が成果に結びつくのはどんな仕事にも同じようにある。単純で面白みがなく辛い仕事の部分を切り出して、安い人件費で他のヒトにやってもらおうとする昨今の風潮は、ゴールである成果への信頼度を損なう可能性がある。

プラントハンターの最も辛い地味な仕事は、採取してきた夜から始まるという。
植物・種子・球根などをきれいに洗浄し、混同しないように分類区別をし、乾燥させる作業である。また、その植物などが採取された場所の特徴・状態を記述し、花、茎、葉、根などの特徴を記述し乾燥標本などのデータ作りをする必要がある。
日中に熱帯雨林のジャングルや深い谷底に落ちかねない崖など危険なところで採取する緊張感が夜ともなれば疲れとなってやってくる。この時に寝てしまうと細菌がついたままの球根や種子となりこれらを腐らせ、翌年に芽が出ないことになってしまう。

植物学の専門性が要求され、緻密で地味な裏方の仕事が実はスポンサーにとって重要な意味を占めている。翌年咲かない種子・球根などを集めるプラントハンターには投資の価値がないことに結びつく。

キングドン=ウォードは二回結婚しているが、インドで探検家に興味を持っている若い女性に出会った。この女性が彼の二番目の夫人となるJean Macklinで、ボンベイの最高裁判事Sir Albert Sortain Romer Macklin.の娘で、彼が62歳の1947年11月12日にロンドンのチェルシーで結婚式を挙げた。
40歳も年が離れているが、キングドン=ウォードの完璧なパートナーとして、プラントハンティングの旅に同行し、バックヤードの地道な仕事を中心になって手伝い、紀行記の原稿までもタイプしたという。
キングドン=ウォードは73歳で死亡する直前まで探検を続けたが、この最高のパートナーに出会ったから出来たのだろうなと思う。
ゴールを共有できるパートナーは素晴らしいし、何歳になってもこんな完璧なパートナーに出会いたいものだと思ってしまう。
(写真) ジーン・マクリーン(トラックの上)とキングドン=ウォード(トラックの前)
 
(出典)lapponicum.com

ヒマラヤの青いケシ
キングドン=ウォードも多数のツツジ属の花を採取しイギリスの庭で再生させているが、彼を有名にした花を紹介しよう。

1990年に大阪で開催された“花の万博”では、「メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)」がブータン館に展示され、あまりの美しいブルーが“天上の妖精、幻の青いケシ”として話題になった記憶がかすかにある。
標高4000m以上の高地でしか生息しないというが、ヒマラヤで見る色合いは確かにきれいだろうと思える。
(写真メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)
 
(出典)e-yakusou.com

1886年、フランスの宣教師デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834-1895)は、雲南の大理と麗江との間の地で美しい青い花を発見した。
この植物標本はパリに送られ自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)によって新種として認定され、1898年に「メコノプシス・ベトニキフォリア(Meconopsis betonicifolia Franch)」として命名された。
しかし、デラヴェは種子を送ってこなかったので、ヨーロッパでは栽培されることがなく月日が経過した。

この「メコノプシス・ベトニキフォリア」は、『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』と呼ばれ、この花を再発見しイギリスの庭に導入したのがキングドン=ウォードで、1924年に発見し大袋一杯の種子をイギリスに持ち込んだ。

『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』は、キングドン=ウォード以前にも再発見されていて、ベイレイ大尉(Bailey, Frederick Manson 1827-1915)が1913年に南チベットを旅行中に発見し、キュー植物園の園長プレイン(Prain, David)が新種として発見者を記念して「メコノプシス・バイレイイ(M.baileyi)」と名付けられた。
しかし、この花は、フランスの宣教師デラヴェが発見したモノと同じものであり、先に命名した名前が有効とする原則により現在は使われていず、イギリスの庭にデビューさせた栄誉は、キングドン=ウォードが頂くことになった。

フランスの宣教師達は、植物標本を大量にパリ自然史博物館に送り込んだが、ヨーロッパの庭で栽培する種子・実物を持ち帰ったモノが少ない。
この後に登場する英国のプラントハンター達は、このフランスの宣教師達が発見した珍しく園芸的に価値があるものを育てて販売することをも目的にしているので、彼らの足跡を再検証する旅を行っている。

植物が豊かな国フランス、ビジネス感覚がない宣教師、研究志向のパトロンという構図と、植物が貧弱なイギリス、園芸商品化を意図したパトロンとその尖兵としての職業的なプラントハンターという構図では、栄誉と実利が分離することになる。

プラントハンターのパトロン
また、キングドン=ウォードのパトロンも、個人資産家のビュアリーからパーシースレーデン記念財団(the Percy Sladen Memorial fund)、王立協会、英国政府の研究助成金などの団体・機関に変わってきている。
王侯・貴族の時代、植物園の時代、ナーサリー(育種園)・園芸商の時代、裕福な個人資産家などがスポンサーとして登場するが、趣味・利益が共通する会員組織の協会・団体、活動目的を定めて寄附された資金を運用する財団などが登場するにいたって、何のためにという探検の目的或いは企画が求められるようになって来た。
キングドン=ウォードは、これらの機関・団体に企画書を書いて提案したようだが、ロマンだけを求める単純な冒険家の時代は終わったようだ。

一方で彼には違ったスポンサーの一面もある。
キングドン=ウォードは、中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部など地図上での空白地帯を探検し、空白地に名前と輪郭を描くなどの地理・地図の作成に興味があった。この活動が評価され1930年には王立地理学会から創立記念ゴールドメダルが授与された。
彼はこれを誇りにしているが、この特殊な才能に目をつけたのが軍であり、紛争地帯でもあったこの地域の情報を収集し、コンサルテーションをする諜報員として活動させられた時期があるようだ。
彼の探検でスポンサーが良くわからない時期が1930年代に多い。どうもこの時期が該当するようだ。また、第二次世界大戦の時には日本軍がこの一帯に侵略したが、彼の出版物・地図などは重要な情報源であり米軍のテキストとして大量に買い占められ活用されたという。

フォーレストには残された記録が少ないため、推理とか想像とかフィクションが入りやすいので物語が書きやすそうだが、キングドン=ウォードには様々な著作があるので簡単にダイジェストすることが難しい。
でもこんなことが言えそうだ。
彼は、日常とか非日常、ONとかOFF、自由と束縛、仕事と余暇、安全と危険、国と国などの対峙する境界線を意識しないで越境した達人だったのかなと思うようになった。そして、時代としても彼個人としてもプラントハンターの頂上を極めたのだろう。

■ 参考資料:キングドン=ウォードの簡単な年譜と【スポンサー】
1. 1909-10:甘粛、四川 【Duke of Bedford】米国の動物学者マルコム・P・アンダーソンと同行し揚子江の上流を探検するベッドフォード探検隊に加わる。キュー植物園にこの時採取した植物を送る。
2. 1911-12:雲南、四川、【A.K.Bulley of Bees】新種22種を含む200の植物を採取してビュアリーに送る。同時にキュー植物園にも標本を送る。生涯彼を苦しめるマラリアにかかる。1913年に最初の著作『The Land of the Blue Poppy』を出版
3. 1913-14:雲南、北ビルマ、【A.K.Bulley of Bees】1912年1月1日に南京に中華民国が樹立し清朝が崩壊した。こんな革命の時期でもあり困難な旅であり最悪の採取であった。唯一ツツジ属の新種5種を含む新しい種を採取して送ることが出来た。
4. 1914- :第一次世界大戦勃発。インド歩兵連隊の大尉として軍務につく。1916年にメソポタミア(イラク)に配属。
5. 1919:北ビルマ【?】ラングーン経由で英国に帰国。Florinda Norman-Thompsonと婚約。
6. 1921-22:雲南、四川、北ビルマ【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】24個のツツジ属の種と40個のプリムラ、そして少しのメコノプシス(ケシ)を採取して送るが満足する結果ではなかった。
7. 新しいスポンサーのパーシースレーデン記念財団は海洋学者パーシースレーデンの寄附により設立されロンドンのリンネ協会が運営し、科学研究の支援を行っている。
8. 1923年にFlorinda Norman-Thompsonと結婚。彼女は女というよりも有能なビジネスマンタイプ。北アイルランド・ベルファストの南11マイルにあり1860年代にジョンムーア師によって作られたローワラン庭園の所有者Hugh Armytage Mooreと会う。
9. 1924-25:東ヒマラヤ、同行者Lord Cawdor卿【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】チベットの民間伝承としてあるツアンポーの滝を発見する旅を行う。この流れが彼が思いを抱いたブラマプトラ川に流れる。しかし滝は発見されなかった。(この時から74年後に幻の滝が発見される。)この旅では『Riddle of the Tsangpo Gorges (1926)』(邦訳、ツアンポー峡谷の謎)(岩波文庫)を出版し、高い定価で売れたという。この旅行では、Meconopsis betonicifolia(ヒマラヤの青いケシ)を再発見するだけでなく、100種類のツツジ属のタネを採取し大成功の旅だった。
10. 1926:北ビルマ、アッサム【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会、ロスチャイルド】ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild 1868-1937)も出資メンバーであり彼自身の庭造りをしている時期で珍しい植物への関心があった。この旅では、80を超えるツツジ属の種と“ルビーポピー”と名付けたメコノプシス属の種を採取した。
11. 1927年は米国で探検に出資するスポンサーを募る講演を行った。
12. 1929:ビルマ、インドネシア【】
13. 1930年に王立地理学会から創立記念ゴールドメダルを授与される。これまでの空白地に地名と輪郭を記述した功績が評価される。
14. 1930-1931:北ビルマ、チベット【Theodore Roosevelt大統領とその息子 Kermit Roosevelt,大富豪のSuydam Cutting】ルーズベルト及びニューヨクの金融業カットはともに探検家でもありチベットの動物ハンティングを行う。カットはチベットを訪れた初めての米国人として記録される。
15. 1933:アッサム、チベット【】
16. 1935:アッサム、チベット【】
17. 1937:北ビルマ、チベット【】1000種を採取。Florinda Norman-Thompsonと離婚。
18. 1938-39:北ビルマ【米国の大富豪Suydam Cutting、米国に住む英国人の企業家Arthur Vernay】資金的に初めて余裕のある探検を行う。主目的は珍しい動物だが、40種類の200種の植物標本を採取し、ツツジ、ユリ、プリムラの新種を採取する。
19. 1939:米国の招待で長期滞在。第二次世界大戦勃発。軍に特殊な専門性の提供を始める。
20. 1943:英国空軍訓練所でジャングルでのサバイバル術を教える。
21. 1946:アッサム、カシ丘陵【】ジーン・マクリーンと結婚。
22. 1947-48:アッサム、東マニプール【米国空軍】墜落した飛行機と搭乗者の墓を探索する探検。ジーン・マクリーンと共同で探検し、1400の植物標本と250の種子を含む1000種の植物を採取して送る。
23. 1949-50:アッサム、チベット【ニューヨク植物園、英国王立園芸協会】
24. 1953:北ビルマ
25. 1956:西・中部ビルマ
26. 1956-57:セイロン

※ 誤謬・不明な点をご教授いただければ幸いです。

コメント

その9.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-19 16:10:02 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その9:
中国を舞台とした稀有なプラントハンター、フォーレスト、ウイルソンの“それぞれ”

フォーレストの悩み
フォーレストは中国・雲南地方に7回の旅をしている。
最初の旅は、リバプールの綿仲買商 ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)をスポンサーに1904年から1906年に実施した。しかし帰国後にスポンサー及び紹介者のエジンバラ植物園管理者バルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)との間で探検旅行の成果物の取り扱いについてトラブルが生じた。(→その7を参照

バルフォアとは信頼関係を取り戻したが、ビュアリーには不信を強めることとなる。
特に、次回の探検旅行についての年俸と経費の話し合いの中で、危険手当もなく年間600ポンドの報酬を引き下げ、さらに、この範囲内で失った写真機を買い印画紙などの高価な消耗品もまかなえという強い要望には、逃避行を経験したフォーレストにとって大荷物の写真機は邪魔な代物であるだけでなく、今度は経済的にも「貧乏な私を殺したいのか?」という思いを抱いたようだ。

ビュアリーと決別するには新たなスポンサーを探さなければならない。
バルフォアは、米国、ハーバード大学のアーノルド樹木園長サージェント教授(Sargent, Charles Sprague 1841-1927)から中国に派遣するプラントハンターの推薦を頼まれていてフォーレストに紹介をした。

フォーレストは、ヴィーチ商会でサージェント教授と会い彼の希望を聞いた。サージェントは、米国ニューイングランドで育つ耐寒性が強い樹木の収集を望み、年俸300ポンドを提示した。バルフォアは経費を別途上乗せすることにして、この提案を受け入れるように説得したが、フォーレストは幾つかのためらいがあり返事をしないままで時間だけ浪費してしまった。
フォーレストのためらいは、雲南にはまだまだ未発見の植物が多数あると感じているので、耐寒性が強い植物を探すために中国北部には行きたくなかったということと、結婚したての妻クレメンティーナが第一子を妊娠していることが気がかりだった。

(写真)アーネスト・ウィルソン探検の姿
      
(出典)ハーバード大学アーノルド樹木園

アーネスト・ウィルソンとの遭遇
フォーレストがもたもたしている間にサージェント教授の提案を受け入れたのは、フォーレストより3歳若いアーネスト・ヘンリー・ウィルソン(Wilson ,Ernest Henry 1876 –1930)だった。

彼は、植物学の学者になりたいという志望があるが、21歳の時の1897年にキュー植物園に勤め、中国に派遣するプラントハンターを紹介して欲しいというヴィーチ商会からの要望に対して、当時のキュー植物園長ダイヤー(William Thistleton-Dyer)がウィルソンを推薦した。
実務を学ぶために翌年の1898年にヴィーチ商会のナーサリーで半年ほど研修をし、米国ボストンにあるハーバード大学のアーノルド樹木園でサージェント教授に会いサンフランシスコから中国に向かった。
1899年6月3日に香港に到着したので、フォーレストより中国のプラントハンティングでの先輩であり、プラントハンターとしての腕もヴィーチ商会の期待を上回る成果を挙げた。

この時、米国経由で中国に行ったことに不自然さがあった。
1869年の末にスエズ運河が開通しているので、米国経由で中国に行くこと自体に時間的経済的な合理的理由がなくウィルソンが初めてのようだ。この時からプラントハンターだけでは終わりたくないという意識があったのだろうかと思ってしまう。
ボストンでサージェント教授に会ったことは後にウィルソンの進路を決定づけることになった。

この時代の英国では、フォーレストとウィルソンはプラントハンターの世界の両巨頭ともいうべき人物で、アーノルド樹木園サージェント教授で接近・クロスオーバーした二人は、“決断”と“躊躇”が違った軌跡を描く軌道に乗せ、遠く離れて行くことになる。

フォーレストは雲南の植物に魅せられ、ウィルソンは米国・ハーバード大学アーノルド樹木園という新天地に魅力を感じたのだろう。
フォーレストがためらっている間の1906年12月にウィルソンはボストンのサージェントのところに向かった。

フォーレスト第二回探検旅行の謎
フォーレストは決断しなかったためにチャンスを逃してしまったのだろうか?
これがこれからの謎解きとなる。

史実があまりないが、1910年1月にフォーレストは中国に向けて旅立った。フォーレスト第二回の中国探検旅行は、1910-1911年までの短期間で謎に満ちた旅行のようだ。
最大の謎は、彼のスポンサーが誰だか良くわからない。

ラングーンに着いたフォーレストは、ビュアリーからの探検費用が到着していないので150ポンドが電信為替で届くまで船から下りられずにいた。フォーレストはビュアリーとの契約が継続していると思っていたようだが、ビュアリーの方はフォーレストとの契約はフォーレストに厳しい内容の新しい契約でなければ継続しないというつもりのようであり、探検費用を送らなかったとしか思えない。
フォーレストはラングーンでビュアリーとは二度と契約をしない決心を固めた。極め付きはこんな手紙の文章となる。『スコットランド人は卑しいといわれるが、それよりも卑しいけちな英国人がいた。その最大な人物がビュアリーとヴィーチ(Harry Veitch 1840–1924)だ。』 
ちなみにハリー・ヴィーチは、後継者がいないヴィーチ商会最後の経営者で賃借りしていた広大な土地の契約満了とともに1914年に商会を解散した。

一方、ビュアリーの方は、フォーレストの手紙への返信として『貴方が中国に行きたいといっても私はそれを望みません。』という決定的な破局を通知して、1911年1月にフォーレストに変わる新しいプラントハンター、キングドン=ウォード(Kingdon-Ward, Frank1885-1958)と契約をし、雲南のツツジ・シャクナゲ・ツバキなど彼が関心あるものを集める手配をした。
もちろん紹介者はエジンバラ植物園のバルフォアだったが、もう一人の偉大なプラントハンターがデビューする契機になった。

ビュアリーの言い分は、フォーレストは自分以外のスポンサーと浮気しているということだった。確かにこの第二回の探検旅行はおかしなところがありダブルスポンサーの匂いがある。

フォーレストの新しいスポンサー
J・C・ウィリアムズ(Williams ,John Charles 1861-1939)がスポンサーとして登場するが、どうも第二回の探検旅行から絡んでいるようだ。
第三回(1912-1914年)の探検旅行はJ・C・ウィリアムズが単独で、第四回以降はJ・Cが中心となって設立したシャクナゲ愛好家の集まりが投資グループを作って出資することになる。
シャクナゲ愛好家が集まっているので、成果報酬が明確で新種のシャクナゲが採取された場合はボーナスを出すことになり、フォーレストは少なくとも309本の新種でボーナスをもらったという。
シャクナゲ、サクラソウのフォーレストと言われるが、フォーレストが英国にこれらの花卉植物のブームを作った出発点にいたことは間違いないが、成果報酬のボーナスがさらに人気をあおる働きをしたともいえそうだ。

このJ・C・ウィリアムズについて調べると、彼の家系は、産業革命時期に英国南西部のコーンウォール州で鉱山業で財を形成し、美しいケアヘイズ庭園を作った華麗な家族で知られている。
彼自身は銀行家及び州議会議員であったが、34歳の時の1895年に政治をあきらめてから庭造りに熱心になった。
この略歴は、フォーレストの最初のスポンサー、ビュアリーと似るところがある。

ケアヘイズ&キャッスル庭園(Caerhays Castle and Gardens)は、現在一般公開され、100エーカーの庭園には、ツツジ、ツバキ、マグノリアなど世界的に有名なコレクションがあるが、これらは、ウィルソン、フォーレストなどのプラントハンターが採取して送ってきたものであり、またこれらを親として交配させた園芸品種もある。

この地所は、1370-1840年まではトリヴァニオン家(Trevanion family)が長く所有したが、1807年にキャッスルが完成するが、この建築のために破産しパリに夜逃げしたという。バッキンガム宮殿を設計したジョン・ナッシュ(John Nash)がこのキャッスルを設計したので、頼むヒトを間違ったか、頼み方を間違ったのだろう。
ウィリアム家がこのケアヘイズの地所を手に入れたのが1853年であり、1880年にJ.Mウィリアムズが死亡し、息子のJ.C.ウィリアムズが18歳の時にこの土地を相続した。

J.C.ウィリアムズは早々に政界・実業界から引退をし、1910年から1939年の彼の死までの期間、J.Cは、情熱を込めて園芸品種の開発・交配に力をかけた。ツツジ、ツバキで彼が作出した有名な品種が誕生するので中途半端ではなかったようだ。

フォーレストとウィルソン、その後
フォーレストは、31,015の植物標本を集め英国に送った。その中には、新しい1200以上の植物種が含まれ、サクラソウ、ツツジ、ツバキ、クレマチス、リンドウ、ジャスミン、針葉樹の多くのおなじみの種などで英国の庭をにぎわせた。

フォーレストは引退した後に自伝を書こうと思っていたようだが、彼の足跡はヨーロッパに送った中国・雲南の珍しい植物でしか知ることが出来ない。
しかしこれすらわからないプラントハンターも結構いるのではないかと思う。フォーレストは、採取した植物標本の全てを王立エジンバラ植物園に送り続けていたからこそ可能となり、バルフォアとの出会いが彼の歴史を残したともいえる。

彼は、愛する雲南の現場で成果をだすことだけに徹していた生涯プロのプラントハンターであり、現役のまま彼が愛した雲南・騰沖の近くで1932年1月6日に急性心不全で死亡した。
友人リットン領事の隣の墓に埋葬されたというが、その場所はわからない。

わからないのには理由がありこれも意外な事実と重なった。
日本陸軍が南方に侵略していき、1942年5月10日、第56師団が“騰越(騰沖)”を占領した。フォーレスト、リットンが眠るところであり、1944年6月27日から始まった中国軍・米軍の攻撃で日本軍守備隊2000名強が玉砕した。
この時にかなりの空爆を受けたことと復旧に墓石が建築資材として再利用された形跡があるため、二人の墓がわからないという。

フォーレストは、本当に何も残さなかった生涯ただの一プラントハンターだった。

ウィルソンは、1909年9月に米国に行き、アーノルド樹木園の職員となり、1927年についに園長となった。

(写真)アーネスト・ウィルソン
      

初志が異なる二人はそれぞれの道を歩んだようであり、アーノルド樹木園長サージェント教授の申し入れを“決断をしたウィルソン”と“躊躇したフォーレスト”が、人生のゴールの逆転を許さなかったのかもわからない。
そんな気がする。
コメント (6)

その8.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-12 21:43:52 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その8:
先駆的なプラントハンター、ジョージ・フォーレストの旅

ツツジとサクラソウの偉大なプラントハンター、ジョージ・フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)の旅は、フィクションの冒険小説を読むような感じがする。何故フィクションかというと、彼はフランスの宣教師デラヴェ達のように日記、自伝の著作物などのドキュメントを残さなかった。
わずかに手紙があるだけで、根っからのモノ書きではなく行動する人間なのだ。
この手紙と手紙の間を埋めるとフィクションかと思われるほどの数々の冒険があった。

フォーレストは、1904年5月14日にエジンバラを発ち、この年の8月に中国・雲南の騰越(トンユエ、現在は騰沖)に着いた。
騰沖はミャンマと国境を接するところにあり、ミャンマとインドの宗主国英国と清朝との貿易拠点として繁栄したところでありここには英国領事館があった。
ここの領事リットン(George Litton)は探検家でもあり、フォーレストを歓迎し落ち着いてから一緒に探検に出かけた。

フォーレストは騰沖にベース基地をおき、8月過ぎは植物の採取には既に遅くなっていたが、リットンとともに麗江、揚子江流域、メコン川沿いの地域を土地勘を養う意味でも探検旅行をした。
フォーレストが探検した場所は、大理・槍山、麗江・玉龍雪山、徳欽・三江併流などであり、リットンという友人と植物の宝の山を手に入れることになる。

動植物の宝庫北西雲南地方

(地図)フォーレストのフィールド(騰沖、大理・槍山、麗江・玉龍雪山、三江併流)by google
  

  

フォーレストが活動したところは、フランスの宣教師デラヴェが活動したところも含まれ、雲南のこの周辺は複雑多様な気候条件がそろった世界でも動植物の多様性があるところという。
どれだけ複雑多様かといえば、ヒマラヤ山脈が造られた時にインド大陸のプレートとユーラシア大陸プレートがぶつかり、南北に彎曲して山脈(横断山脈)が形成された。この山脈にそってインド洋からのモンスーンが駆け上がり大量の雨を降らせる。標高の低いところは亜熱帯植物がジャングルとなり、標高が高いところでは温帯植物・高山植物が咲き、東南アジアの大河のうち金沙江(揚子江源流)、瀾滄江(メコン川源流)、怒江(サルウィン川源流)3つもの源流がこのあたり(三江併流地域と呼ぶ)から深い渓谷を造って流れ出る。

このあたりを唐の時代からの交易路があり、雲南の茶とチベットの馬を交換したので茶馬古道(ちゃばこどう)というが、フォーレストが活動した大理(ダリー)、麗江(リーチャン)、徳欽(デチェン)、ラサなどの主要都市がこの道筋にある。

雲南省麗江市の北方にある玉龍雪山(Yulong Xue Shan)は、氷河がある北半球最南端の山で標高5596メートルもありいまだ誰も登頂していないというが、この周辺も三江併流地域同様に動植物の宝庫でもある。

ノンフィクションアドベンチャー

(写真)フォーレストと犬
    
(出典)王立エジンバラ植物園(以下の2点も同様)

フォーレストの生死をかけたアドベンチャーは、意外なところから起こった。
チベットと英国・清朝中国との紛争だ。

1903年7月7日英領インド軍の大佐ヤングハズパンド(Younghusband、Francis Edward 1863-1942)が遠征軍を率いてチベットに侵入した。翌年1904年9月7日にイギリスが、チベットとチベット・インド条約を結び、チベットを支配下に置く事態になった。
これが清朝政府を刺激し、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを清朝中国が直接掌握することを決意させることになり、1905年趙爾豊(ちょう じほう)の四川軍がチベットに侵入した。

フォーレストの2年目は、今でも解決していない火を噴き始めたばかりのチベットとの紛争地帯に、英国人であるフォーレストが中国側から飛び込んでいったから大変だ。

ここから先がノンフィクションなのかフィクションが入っているのか良くわからないが、(大筋では間違っていないと思うが)、フォーレスト必死の逃避行となる。
話の筋としては、1905年7月にフォーレストは2年目の探検旅行を行い、徳欽から二日半の徒歩距離にある茨固(ツーク)に拠点をつくったが、徳欽がチベット人に占領され中国人駐屯兵が虐殺されたという知らせが届いた。
メコン川沿いにある茨固から下流にある安全なところに避難するために、そこに居住していたフランス人宣教師2名、中国人キリスト教徒の家族、フォーレストのグループ17名など総人数80名が脱出を図った。

だが、生き残ったものは14名でフォーレストのグループでは彼一人だけが生き残る。
フォーレストが難を逃れたのは、崖下に飛び降りジャングルに転げ込んだからだが、ここからが悲惨な逃避行となる。
チベットラマ僧に先導された追っ手に獣狩りのように追い回され、雨が降りしきる密林を靴跡がつかないように裸足になり、さらに5000mを超える雪が残る尾根を素足でこえるなど難行苦行が続き、食糧もなく逃げ惑うこと21日間。
シルヴェスター・スタローン主演の“ランボー”といえども困難な逃避行だったろうと思う。

イギリスでは、エジンバラ植物園のバルフォアがスポンサーのビュアリーに「フォーレストは死んだと思われる。」と書き送っていたが、フォーレストは身一つだったが生き残った。
安全な大理に戻ったフォーレストは、バルフォアに手紙を書いた。『私は全てのものを失いました。700種もの乾燥した植物標本、70種ものタネ、カメラと50を超える植物のネガ写真、そして最悪なのは最高の季節を失ったことでありこれが私を悲しませています。』

フォーレストは、2年目の成果が重要なことは良く承知していて、雲南西北部からチベットに入った三つの大河(揚子江、メコン、サルウィン)が平行で走る三江併流地域一帯が植物の宝庫であり、危険地帯であることもわかっていたが、生きるためか、名誉のためか、或いは、恋人クレメンティーナのためか、病がいえない身体に鞭打って9月末に旅に出ることにした。エジンバラ植物園の同僚であるクレメンティーナとは帰国後の1907年4月に結婚するので、彼女との生活がかかっていたのだろう。

さすがにメコン川上流からの逃避行を経験したので、今度はメコン川より西にあるサルィン川上流を友人でもある英国領事リットンとともに探検した。チベットに最も近く蛮勇で知られた少数民族の黒リス族が住んでいるが、意外と平穏に亜熱帯気候のジャングルと高地で2ヶ月間を過ごすことが出来た。

狂気に支配された人間も恐いけど自然もやはり恐かった。12月13日に探検から騰沖に戻るが、翌年初めにリットンがマラリアで倒れ死亡した。彼は雲南・騰沖の地で眠り、この26年後にフォーレストもリットンの隣で眠ることになる。
やはりジャングルは恐かった。フォーレストもマラリアの毒をもらい1906年夏に倒れることになる。

(写真)キャンプ基地
  

勝負の年1906年は早くから始動する。
1905年の逃避行となった探索の旅では17人の植物コレクターを連れて行ったが、全員殺害されてしまったので新しいチーム作りを始めた。

3月から8月まで雲南省麗江市の北方にある玉龍雪山(Yulong Xue Shan)でキャンプをはり植物採取を行った。このエリア一帯は、山麓から植物生存の限界である5000mのところまで多様な植物が群生している宝庫だった。

しかし、フォーレストは、マラリアが発病したので大理に引き返し治療に専念した。かなり重症であり帰国を奨められたが、このまま帰ったのでは成果がないため、“死か成果か”を選択したようだ。

フォーレストは、戦略眼をもったプラントハンターの先駆者だった。初年度の1904年は、到着した時期が8月過ぎで採取するには時期が遅すぎていたので、植物相の視察調査に徹して採取場所を絞り込んでいた。
2年目の1905年は、チベットのラマ僧に追われる逃避行と友人のリットン領事を亡くし自分もマラリアをもらったサルィン川上流の旅と散々な目にあったが、現地に溶け込む術を学んだ。
3年目の1906年は成果を出さないと後がない年であったが、成果が出る仕組みを考案していた。

(写真)コレクター達
  
フォーレストの最大の特徴は、ローカル専門知識の価値を認めることでの先駆者で、フォーレスト以前のプラントハンターが個人主義であったのに対して、その地域の植物相を知っている現地人を採用し、そして、教育して組織的に植物採取を行うところにある。特に、雲南・麗江ナーシー族自治県とその周辺区域に居住する少数民族ナーシー族(Naxi)の中からコレクターを採用した。このシステムが、1906年の成果として結びついた。

フォーレストがマラリアで現場からリタイアーした時でも、彼が教育し訓練したコレクターチームはリーダーを中心に決められた仕事をしていた。
幸いフォーレストも奇跡的に回復に向かい現場復帰することが出来た。
このフォーレストの植物採取のシステムが、多数の植物標本、数百ポンドの種、何千もの植物の根・塊茎などの莫大な積荷とともに1906年後半に英国に帰国することができた。
この中には、彼の名を高めるツツジとサクラソウが入っていた。

珍しい植物との出会いは、開花している時期しかなく偶然の出会いしかない。タネを取るにはその2-3ヵ月後まで待たなければならない。この年に一度しかないという限界を乗り越えたのがフォーレストであり、2年で成果が出せる手法を編み出したともいえそうだ。

(続く)
コメント (2)

その7.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-06 14:42:46 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その7:
プラントハンターになるまで。ジョージ・フォーレストのケース。

雲南、チベットの山岳地帯に分け入って、シャクナゲやサクラソウの膨大な品種を採集したフォーレスト(Forrest, George 1873-1932)にやっとたどり着いた。

(写真)フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)の肖像画
        
(出典)plantexplorers.com

スコットランドのプラントハンター、フォーレストは、西欧人として未踏の地、中国・雲南、チベットなどの植物探索をしたプラントハンターで、1904年から1932年に愛してやまなかったこの地で死亡するまで冒険に飛んだ7回にわたる探検を行い、数多くの植物を採取しツツジ、サクラソウ、クレマチスなどを英国エジンバラ王立植物園などのスポンサーに送った。
発見した新種は1200種にも及ぶという偉大なプラントハンターでもあったが、実績を著作物として残すということをしなかったために栄誉は得られなかった。しかし、現地の言葉を学び、現地に溶け込んでいき、愛する雲南の地にいまも眠る新しいタイプのプラントハンターでもあった。
というのが以前に書いたワンコメント的な紹介だった。

出会い
それにしても、ヒトの一生とは意外なところで決まるようだ。それは決してバラ色で輝くようには、 やって来ない。

フォーレストは、スコットランドのエジンバラとグラスゴーの中間にあるフォルカーク(Falkirk)で生れ、学校をでて薬剤師になるつもりでいたが、冒険心と野心があり彼が18歳の時の1891年に、ゴールドラッシュで沸いていたオーストラリアに向かい、10年の期間、金を求めて荒野を歩き回り鍋で土砂を洗っては砂金を探し続けた。
厳しい状況ではあったが一応は成功したようで、1902年にアフリカの岬を通って英国に帰国した。
スコットランドに帰国後、仕事を探してはいたがなかなか見つからず、釣り狩猟などで近所の野山を歩き回り多くの時間を野外で過ごした。
彼の生れ故郷フォルカークは、紀元1世紀頃にローマ軍がグレートブリテン島に侵攻し領土としたが、ケルト人からの北の防備を固めるために二つの長城ラインを建設した。
このうちの一つアントニヌスの長城(Antonine Wall)があるところであり、ローマ軍の北限にあたる。

彼の転換点は、そんな中で見つけた古い骨とそれが入っていた棺だった。これらをエジンバラの考古博物館に送り鑑定してもらったところ1500年前の遺骨だった。そして、博物館の管理者がフォーレストに興味を持った。
単に野性的だけでなく観察・探究心がある知性とオーストラリアで実証した独立心・野心を持ったフォーレストに好意を抱き、王立エジンバラ植物園の管理者バルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)に“気になる若者がいる。”とでも話したのだろう。

バルフォアと巡り会ったことがフォーレストの生涯を決定することになる。

(写真)若かりし頃のバルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)
        
(出典)auspostalhistory.com

王立エジンバラ植物園に園史の仕事を見つけた。最低賃金法がない頃であり相当安い賃金だったようだ。そこでバルフォアは、中国に派遣するプラントハンターを探していたリバプールの綿花仲買い商ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)にフォーレストを紹介した。

というのが定説になっているが、ビュアリーはビジネスマンでありクチコミ・コネだけを当てにしていなかった。1855年に創刊された園芸紙「The Gardeners’ Chronicle」に求人広告を出していて、“ 求む!耐寒性の強い植物に通じている若者! そして、東方に出かけてこれらを集める若者。(Wanted, a Young Man well up on Hardy Plants, to go out to the East and Collect) ”というのが広告のコピーだった。
これからもビュアリーのかなりの本気度が伺える。

応募者が何人あったかわからないが、エジンバラ植物園の管理者バルフォアからの推薦であれば断れるはずがない。
というのは、ヴィーチ商会はキュー植物園の園長の推薦でもう一人の偉大なプラントハンター ウイルソン(Wilson、Ernest Henry 1876~1930)を既に(1899年)中国に派遣しているので、エジンバラ植物園と密接な関係を作るほうが得策だったのだろう。

これで、ヴィーチ商会・キュー植物園連合 対 ビュアリー・エジンバラ植物園連合という対抗図式が出来上がるが、彼らを動かしたのは中国清朝政府の税関に1881-1890年まで勤めたヘンリー(Henry ,Augustine 1857-1930)の影響がある。(→その3参照)

彼は、雲南地方でのフランスの宣教師デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834–1895)の活動と成果を知り、宝の山がそこにあることを知っていた。
デラヴェを評価したのはパリ自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)だけではなく、雲南へのプラントハンターの派遣をキュー植物園に要請していたヘンリーであり、この要請に最初に答えたヴィーチ・キュー連合だった。

ウイルソンは、帰国前のヘンリーと雲南省の思茅(スーマオ)で会談をしている。
ビジネスの世界では、“引継ぎ”というが、中国の植物に関しては、ヘンリー、デラヴェが第一人者なので、このハイレベルでの引継ぎ・バトンタッチには結構興味がわく。
ヘンリーに欲があれば肝心なことは教えないだろうし、弟子が先生に対する礼節がなければまた教えないだろう。どちらにしてもウイルソンはヘンリーから教えてもらうほど得するのでどう聞き出したのだろうか?

あいまいだったプラントハンター契約
脱線しすぎたので本線に戻るが、
フォーレストは1904年5月14日に中国に向かってエジンバラを出発したので、紹介者兼保証人のバルフォア、探検旅行スポンサーのビュアリーとの三者契約・合意事項が5月初旬頃に口約束でなされたようだ。

この内容があいまいだったためフォーレストの帰国後にトラブルとなる。
バルフォアは、植物標本と写真がエジンバラ植物園に全て帰属すると思い、ビュアリーは資金を全て出しているので、全てが自分のものと思っていた。フォーレストは複数ある植物標本及びタネは自分がもらえるものと思っていた。

三者三様に成果の分配・帰属を描くのは世の常であり、初めての場合ほどこの詰めが甘く、成功しても失敗してもトラブルが発生する。
さらに、最大の問題は、フォーレストの一年間の給与だった。探検に関わる全ての費用を含めて年間600ポンドが支払われる約束だった。給与と経費が分離されていないところが問題で必要経費の積算が帰国後に検討されるようになる。

この600ポンドという金額が妥当かどうかを検討すると、エジンバラ植物園でのフォーレストの給与は週給2ポンドでかなり安かったようだが年間100ポンド強となる。

キュー植物園が初めて海外にプラントハンターを出したのが1772年でこの時のフランシス・マッソンの年俸が100ポンド、探検旅行の上限経費100ポンドだった。
1800年代初め頃もこのルールが適用されたようだが、既に魅力ないものとなっていたので、1904年のフォーレストの契約時には、年俸300ポンドでも危険手当込みで魅力あるものではなかったと思われる。

フォーレスト帰国後のトラブル
フォーレストは、自分が作成した植物標本のコピーワンセットを所有し、タネは転売してしまった。契約としての成果報酬と受け取っていたのだろう。或いは、給与を含めた総経費600ポンドでは少なかったのでこの補填でもあったのだろう。
しかし、バルフォアは、植物標本を返してもらうためにトラックをさしむけこれをもっていってしまった。ビュアリーはタネを回収しようとしたが既に転売された後なので、この三者の関係が危険な関係となり、特にフォーレストとビュアリーの関係は悪化した。

ビュアリーがないものは植物学の知識とそのネットワークであり、バルフォアがないものは新しい植物情報を手に入れる探検の費用であり、それぞれ持たないものを知っている二人の関係は補完関係にあるので修復した。

バルフォアとフォーレストの関係は緊張感のある冷たい関係となったが、バルフォアはフォーレストのプラントハンターとしての才能を認め和解の話し合いを持った。自分を認めてくれたバルフォアに感激したフォーレストは、終生の友・師として付き合うことになる。
しかし、フォーレストとビュアリーの関係は、代替が効く雇用関係であり、悪化し続け契約解除となる。
現代でも当てはまる構造であり、雇用関係は弱い関係であり、信頼関係ほど強いものがない。これは親子関係を超えるかもわからない。
またトラブルの元は最初にあるというのが経験則としてあるが、見事に当てはまっている。
コメント

その6.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-03 10:31:38 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その6:
法衣を着たプラントハンター ② デラヴェ、ピエール・ジーン・マリー

(写真)デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834–1895)肖像画
        
(出典)jardin-secrets.com

デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834-1895)は、イエズス会の宣教師として三回中国に来ている。(第一回1867-1880、第二回1882-1891、第三回1894-1895)

最初の伝道は、1867年、広東の東にあるHui-chou(恵州、ホイチョウ)に赴任した。
ダビッド(David ,Jean Pierre Armand 1826-1900)が中国に来てから5年後であり、この翌年にダビッドはパリ自然史博物館の契約プラントハンターとなるが、デラヴェは純粋な宣教師として赴任している。

しかし、デラヴェは大の植物マニアで、1880年にフランスに帰国するまでの約13年間にHui-chou周辺の探検、かなり遠い雲南地方への探検旅行を行っていた。
探検旅行には現代でも結構な費用がかかるが、この時はパリ自然史博物館とは無関係で、不思議なことに、英国の上海・黄浦領事館の副領事ハンス、ヘンリー・フレッチャー(Hance,Henry Fletcher 1827-1886)のために植物採取をしていた。

しかし、ハンスは大スポンサーでなかったようで、デラヴェは、費用がないためか、或いは、彼自身の好みかわからないが荷物も少なくたった一人で徒歩での探検旅行をしたようだ。この点では、先輩プラントハンターのダビッドに似ているがそれよりももっと簡素化していたようだ。

スポンサーのハンスは、単なる外交官ではなく植物学でも実績があり、この当時の英国の偉大な植物学者であるベンサム(Bentham, George 1800-1884)が1861年に著した『Flora Hongkongensis(香港の植物相)』への補足を1873年に発表している。

1881年フランスに帰国したデラヴェは、自然史博物館館長のフランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)と会い中国でのプラントハンティングの契約をする。これを仲介・説得したのが先に中国を探検したダビッドだった。

デラヴェは、1882年に中国に戻り、雲南省大理府(ターリーフ)の北西にある丘陵地帯Dapingzi に配属され、ここにベース基地を構える。雲南省は、ベトナム、ラオス、ミャンマ、チベットと国境を接する中国南西部にあり、デラヴェが活動したところは、チベット・ビルマの少数民族が居住する大理の側の耳のような形の湖耳海(Erha)の北に位置する。

(地図)デラヴェが布教と採取活動をした拠点(雲南、大理周辺)地図 by google
     

     

Google earthで上空から見ると標高2000m前後の高地にある盆地で、彼自身も後でわかったことだが、デラヴェが赴任したこの地域一帯は、世界でも有数の多様な植物が育っているところだった。

1883年には最初の採取した植物標本がパリ自然誌博物館に届き、フランシェがこれを解説し『デラヴェ氏採集植物(Plantae Delavayanae)』(1889-1890)を出版した。

デラヴェは、雲南、大理府(ターリーフ)子梅山(ツメイシャン)に60回も登り、この山を“我が庭、雲南のモンブラン”と称していたが、この一帯で高山植物を採取した。彼は、ダビッドほど様々な学問に通じていなかったが、その植物探索スタイルは徹底していて、秩序立て計画的に細部までリサーチしたので見逃すということがなかったという。
これが、フランシェに良く整理された詳細で驚異的なほどの約20万点もの植物標本を送ることにつながり、その中にはヨーロッパで知られていなかった新種1500品種が含まれていた。

フランシェは、デラヴェが収集した植物コレクションを絶賛した。特に、個別の植物に関しての注意深いメモはこれまで見たことのない水準と高い評価をしている。

デラヴェは1888年にペストにかかったので植物探索をあきらめ、香港に移動し治療をしたが回復が思わしくなかったので1891年にフランスに帰国した。

雲南滞在期間が約10年なので、年間に約2万点もの植物を採取したことになる。植物相が豊かなところが赴任地だったという幸運もあるが、デラヴェの一芸に特化するプロフェッショナル性があったからこそ、採取した植物標本の数及びその観察メモのクオリティが高かったと思う。根気と緻密さが必要なデラヴェのようなことは、私には出来ないだろうなとため息が出てしまう。

デラヴェは雲南の植物が恋しく1894年にまた戻ってきた。もちろん植物採取の成果もあったが、病に倒れ1895年12月31日にこの地でなくなった。

デラヴェが発見した植物とツツジ
デラヴェが発見した新種は1500とも1800種とも言われている。この食い違いは、あまりにも多くの標本・タネをパリ自然誌博物館のフランシェに送ったので、整理できずに未開封の箱が多数残ったようだ。また、フランシェの目的は中国の植物相の分類と研究なので、送られたタネの管理がずさんだったためフランスで栽培品種とならなかったという。

二回目にフランスに帰ったデラヴェは、フランシェだけにタネを送っていたのでは、フランスの庭で栽培される花とならない。ということに気づいたに違いない。
英国のヴィーチ商会と同じようなパリにある育種商ヴィルモラン(Vilmorin, Maurice Lévêque de 1849–1918)にもタネを送った。
ヴィルモランはダビッドから始まったフランスの宣教師とのネットワークを維持して行くことになるので、このルートもダビッドから教えられたのだろう。

さすがに学者と商人の違いは歴然で、フランシェは多くの新種を発見・認定してくれたが、ヴィルモランは数少ないが栽培できる品種をタネから蘇生させてくれた。
そして、デラヴェが発見したもっと多くの種は、英国のプラントハンター、アーネスト・ウイルソン、ジョージ・フォーレストなどが後に英国に持ち込むことになる。

デラヴェがフランスに持ち込んだ植物は、その採取・発見した品種の数に較べて数少ない。ツツジ属の植物がいくつかあるが、その中で1886年に発見し1889年にフランスに持ち込まれた「Rhododendron rubiginosum(紅棕杜鵑)」がある。

(写真)デラヴェがフランスに導入したツツジ「Rhododendron rubiginosum(紅棕杜鵑)」
    
(出典)oregonstate.edu

余談だが、この時代の英国とフランスはライバル関係にあり重要な情報交換があまりされなかったようだ。しかし、育種業のヴィーチ商会及びこのライバルとしてプラントハンターを派遣したリバプールの綿花仲買商ビュアリーは、中国雲南、チベットの植物相の魅力をヘンリー、オーガスティン(Henry ,Augustine 1857-1930)からだけでなく、フランス経由でも知っていたようだ。
この複数の情報があったので、1900年前後から雲南、チベットが英国のプラントハンティングのターゲットとなった。
結果としてはライバルに塩を送り、フランスより40年ほど遅れて取り組んだ英国に花も実も持っていかれたようだ。
何のためにプラントハンターを送り込んだのかというと、知ることが目的になってしまったフランス。手に入れ活用することが目的の英国の違いが出たようだ。或いは、40年という時間で欲求は変化していくのでこの時間の差なのかもわからない。
コメント (1)

その5.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-29 09:25:24 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その5:
法衣を着たプラントハンター ① ダビッド、アルマン。

フランスと中国はその地政的ポジションが大陸にありともに中華思想があるので似ているといわれる。しかし現実は、敵(英国)の敵は味方ということもあり、フランスは清朝中国に入り込んでいった。

(写真)ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父
        
(出典)Plant Explorers.com

記録に残る最初の宣教師でプラントハンター的な活動をしたのがラザリスト会の宣教師、ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父で、ジャイアントパンダをヨーロッパに紹介したことで知られている。

中国に赴任する前は、イタリア、リビエラにあるサボナ学校で10年間科学を教えていて、地質・鉱物・鳥類・動物・植物学など広範な知識を持っており、学生に人気のある先生だったという。
彼は1862年7月5日に北京に到着し、宗派が運営する学校で自然科学を教える教授として赴任した。生徒は70人もいたというからしっかりしたカソリック系の学校のようだ。

この年に北京から北にある村に布教に行き、自由時間に動物・植物の観察と収集を行った。翌1863年には北京から北東にあるJeholに行き、5ヶ月間大学の仕事から離れ布教と自由時間に探索を行いその観察記録と採取した標本などをパリの自然史博物館の昆虫学・動物学の教授ミルヌーエドワール(Milne-Edwards,Henri1800 – 1885)に送った。
これがパリの政府・科学者の関心を呼び、布教活動を減らしフルタイムで動物・植物などの探索に使えるようにという北京のラザリスト会事務総長に依頼が来たほど優れていたようだ。
この異例の依頼は合意され、ダビットはフランスの科学的な活動を任務とすることになった。もちろん活動費はフランス政府(パリ国立自然史博物館)持ちとなった。

(地図)ダビッド、アルマン探検地図
        
(出典)wikipedia


新しい契約による最初の探検旅行は、1866年3月12日から1866年10月26日まで、モンゴルとゴビ砂漠に旅行をした。ダビッドと中国人のガイド、5匹のラバがこの探検隊の全てで、彼は、植物・昆虫。動物などを観察するためにほとんど徒歩だった。
このモンゴルへの探検旅行で収集した標本はダビッドをして“素晴らしくない”と書き残されているようにモンゴルの大地はあらゆる面でやせて貧しかったという。

1867年は、モンゴルの探検旅行で患った病気の健康回復と第二回の探検旅行の計画で費やした。
第二回の探検旅行は、チベット東部に位置する中国の中央部、西部を検討し、上海から揚子江をさかのぼる計画だった。出発は1868年5月28日で、メンバーは、長年のアシスタントのOuang Thomasと中国人の従者だった。
天津から上海へは内乱で危険な内陸部を避け船で行くことになり、天津の海上にはフランスの軍艦2隻も来ていた。その一艘に乗り上海まで行った。
上海では、中国西部のメコン川探検から戻った宣教師ジャメット(M. Jamet、詳細不明)から、ヒマラヤの雪解け水が流れる夏場は非常に危険なので冬まで待った方がよいというアドバイスを受け、江西省, チヤンシーにベース基地を構え数ヶ月待つことにした。
中国南西部の長江に臨む都市、重慶についたのは12月17日で、目立たないように現地に溶け込めというアドバイスを受けてきたが、中国西部でのキリスト教徒への攻撃と迫害はいまなお厳しいことを実感していたようだ。

重慶から成都に向かい、そしてMupingに向かった。ここはヒマラヤ山脈の遠い端にある山麓の丘にある町だが、現在の中国の都市名は宝興(パオシン)のようだ。ここで滞在し短い探検旅行をおこなったが素晴らしい採取と発見をした。
(1)哺乳類の9つまたは10の種、(2)鳥の30の種、(3)27の魚と爬虫類のコンテナ、その中には60の新しい種(4)634種の昆虫、(5)194種の植物
この採取した量と質は、中国に始めてきた探検旅行での3-4ヶ月かかったものに等しかったという。
ここで採取された植物についてふれると、15種類のシャクナゲ、彼の名前がつけられた「ハンカチノキ(Davidia)」が知られており、この「ハンカチノキ」は、後に英国のヴィーチ商会が派遣するプラントハンター“アーネスト・ウイルソン”のメインの採取目的となる。

Mupingには3ヶ月滞在したが、1869年3月11日に地主のLiさんの家にお茶に招かれ、とある部屋の壁に珍しいクマの皮が張られていた。これが『ジャイアントパンダ』の皮だった。
うそみたいな話だが、4月1日にダビッドのために生きた『ジャイアントパンダ』が捕まえてもってこられた。この生きたパンダはその後どうされたのかということで、後世にダビッドを批判する議論を巻き起こしているようだが、『ジャイアントパンダ』を西欧に初めて紹介したのはダビッドであることは間違いなさそうだ。

その後病に倒れた彼は、治安も悪くなってきたので1869年11月22日にMupingを発ち北京に向かった。途中天津で彼の友人達と会うことを楽しみにしていたが、天津の教会が破壊され、友人及び100人を超えるキリスト教徒が虐殺されたことを知り、ダビッドは体の不健康だけでなく精神的なダメージを受け、1870年7月にフランスに向けて帰国した。
(注)天津でのこの事件は、1870年6月21日に起こった、フランス教会・望海楼教堂が経営する孤児院での幼児誘拐・虐待疑惑で、フランス領事や教会関係者、中国人信者らが、天津住民によって多数虐殺された天津教案事件であろう。

ダビッドは1872年から1874年まで再度中国を訪問し第三回目の探検をした。
彼は、動物・昆虫・鳥類などで素晴らしい成果を出したが、ツツジ、シャクナゲなどの新しい種を発見し、植物学への貢献も大きい。

Newsを集める危険な職業、プラントハンター
ダビッドの日記を英訳した解説本を拾い読みすると、現代のまったく無関係な一コマが浮かび上がってきた。
2000年の初め頃“戦場カメラマン”という肩書きが書かれたヒトに会った。紛争が起きているところに行き、そこで撮った写真を通信社・新聞社などに売って生計を立てる職業という。
湾岸戦争の頃のイラクに行った時は、シリアから密入国をしてイラクで起きていることを写真に撮ったそうだ。この写真が大いに売れ大きな収入になったかといえばそうでもなかったと言う。CNNが政治的にイラクに入り込んだのでCNNを上回る映像でないと個人では組織力に対抗できない。
そうすると個人の戦場カメラマンは、もっと危険なところに入り込みニュースの芽をハンティングすることになる。

プラントハンターも新しい植物の情報、タネの場合は遺伝情報を集めていることになるが、現代では形を変えニュースという情報を集めるのが危険な職業として引き継いでいるような気がする。

英国は、安全を考えてか外交使節団の一員として植物学者などを同行させたが、奥地まで自由に行動することが出来なかった。一方、フランスは、ダビッドの成果があったため、奥地まで入り込む宣教師という組織を国家として活用することになる。

(続く)
コメント (2)

その4.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-27 11:53:15 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その4:
中国の奥地を探検したフランスの宣教師達の元締め、フランシェ。

リバプールの綿花仲買人ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)が派遣したプラントハンター第一号が、シャクナゲとサクラソウのプラントハンターとして知られるフォーレスト(Forrest, George 1873-1932)で、1904年8月にビルマ経由で中国雲南省Talifu(タリ)に着いた。
フォーチュンが中国に初めて来たのが南京条約締結の翌年1843年で、4度目の訪中が1858-1861年(1860-1861は日本訪問)だから、40年以上もたってから来たことになる。

フォーチュンの活動が終わった1860年代以降、英国のプラントハンターの中国での活動が停滞し、フランスの宣教師達が活躍する。

この時代の歴史を簡単におさらいしてみると、
1858年は、英国東インド会社の解散があり、また、後のベトナム戦争につながるフランスのコーチシナ・ベトナムの植民地化が進行していた年でもある。
中国・清朝はといえば、太平天国の乱(1851-1864)が起こり、軍事力の弱体化、官僚の汚職腐敗などが露呈し漢民族の復興というナショナリズムが芽生える。

産業革命で原料調達と製品を販売する植民地市場を求めて、ヨーロッパ勢力が直接的な植民地政策を南アジアから東アジアに展開し始めた時期であり、東アジアは略奪と暴力と抵抗が続いた不安定な時期でもあった。

ヨーロッパ人のプラントハンターにとって生命の保証がない危険な時期でもあり、ヘンリー、オーガスティン(Henry ,Augustine 1857-1930)のように清朝に雇用された人間でないと、中国の内陸部まで入り植物採取を行う安全が担保できなかったのもうなずける。(ヘンリーが中国にいた時期、1881-1900)

フランスのプラントハンターのハブとしてのパリ国立自然誌博物館とフランシェ
もう一つ例外があった。それはフランスの宣教師達であった。
宣教師個人の趣味での植物採取ではなく、フランスとしての国家の意思を体現したまとまりがあり、扇の要、鵜飼師的な存在がパリにあった。英国で言うとバンクス卿と王立キュー植物園的な存在があったことになる。

(写真)フランシェ、アドリアン・レネ肖像画
        
(出典)wikimedia

フランスの植物探索のキーマンは、パリ国立自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)だった。

王立キュー植物園に匹敵するのがパリにある「国立自然史博物館」だが、フランス革命期の1793年に市民(フランス革命なので)の知的水準の向上を目的に設立された。その前身は、ルイ13世によって1635年に設立された王立薬草庭園(Royal Medicinal Plant Garden)であり、今では、植物園・動物園。博物館などを有する研究機関として科学振興のセンターとなっている。

この博物館の研究テーマが7つあるそうだが、プラントハンターのハブとして機能していたのがフランシェであり、彼は中国で活動する宣教師たちをハンターして、彼に送られてきた採取した植物標本を分類・研究し、それらをまとめて『ダビッド氏採集中国産植物』(Plantae Davidianae ex Sinarum Imperio),『デラヴェ氏採集植物』(Plantae Delavayanae)等を出版した。

また彼は、中国だけでなく日本の植物相の研究もしていて、フランス海軍の医師として1866年に来日し植物を収集したサヴァチェ(Savatier, Paul Amedee Ludovic 1830-1891)との共著で『日本植物目録』を出版した。

このようにフランシェは、ダビッド(David ,Jean Pierre Armand 1826-1900)デラヴェ(Delavay, Père Jean Marie 1834–1895)ファルジュ(Farges ,Paul Guillaume 1844–1912) といった中国滞在の宣教師をプラントハンターとして仕立てて中国奥地の数多くの植物を採取しその分析を行った。

しかし彼の死後、彼の元には蓋を開けていない植物標本などが多数残り、徐々に散逸していったという。組織・システムを構築してこれらを上手に活用することが出来ていればと悔やむのは私だけだろうか? 
この点では、フランシェはまじめな学者であり、政治的能力があったバンクス卿になれなかった。といえそうだ。
ただ、フランシェがいたからこそ、宣教師達が活躍できたことは間違いなく、彼ら宣教師達の名前も残った。
コメント (2)

その3.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-23 11:01:03 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その3:
中国・雲南を探検した英国のプラントハンターのパトロン、ビュアリー

リバプールというと、昔は新聞紙で包んだフィッシュの揚げ物、ビートルズしか思い出せないが、英国が世界の工場といわれた頃は貿易港として繁栄した街でもある。その栄華の名残りが庭園として残っていて、今ではリバプール大学が管理する『ネス植物園(Ness Botanic Garden)』となっている。

このネス植物園には、ツツジ、アザレア、ツバキなどの素晴らしいコレクションがあるという。これらの品種は、中国、チベットに豊富にあり、この植物園の由来・歴史を表現するものとなっている。

ネス植物園の前身は、リバプールの綿仲買商 ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)が1898年から始めた自宅庭園の庭造りにある。彼の死後1948年にリバプール大学に寄贈されネス植物園となった。

(写真)ビュアリーの庭園1920年

(出典:The History of Ness's Development

ビュアリーはもともと花卉植物には熱い関心を持っていて、海外からの新しい植物には特に関心があり、ヒマラヤや中国雲南の山野草は英国の庭でも育てられると信じていた。この確信に近いものは、中国奥地の植物相の豊かさを教えてくれる情報源が幾つかあったからのようだ。

アイルランドの園芸家・医師で1881年に上海の清朝税関に医師のアシスタントとして24歳の時に雇用されたヘンリー(Henry ,Augustine 1857-1930)がその有力な情報源だった。

彼は、1900年にヨーロッパに戻るまで中国の内陸部の湖北、四川、雲南などで勤務したのでこの植物の豊かさを実感し、ヨーロッパで知られていない植物の種などをキュー植物園に多数送った。その数15,000の乾燥した標本、500の生きた植物サンプルなどで、これらから1896年までに25の新しい属と500の新しい種が特定されたという。

ビュアリーにもおすそ分けとしてヘンリーが採取した種が届いたという。また、ヘンリーがヨーロッパに戻ってきた時にビュアリーと会っているので、ビュアリーの中国の植物を手に入れたいという思いはかなり高められたのだろう。

ヘンリーのおかげで、1800年代の末頃には中国奥地の魅力ある植物相がキュー、エジンバラ植物園などでも知られるようになって来た。また彼が採取した乾燥した植物標本を生きたままでもってくるのが後のプロのプラントハンターの目標ともなったほどなので不思議な存在だ。

1860年代以降は中国の内陸部まで旅行できるようになったが、治安が悪いためプロのプラントハンターが活動できず、公使・領事、宣教師、ヘンリーのような清朝に雇用されたヨーロッパの人間が趣味として或いは密命を受けて活動する時期が1890年代まで続いた。

プラントハンターを送り出した個人として最高のスポンサー、ビュアリー

ビュアリーは、1904年に中国雲南、ヒマラヤにプラントハンターを送り出すことにした。その人選を王立エジンバラ植物園の管理者バルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)に相談した。
バルフォアが推薦した人物がフォレスト(Forrest, George 1873~1932)だった。

ビュアリーが個人としてプラントハンターを送り出すスポンサーになった経緯は定かではないが、その当時ヨーロッパで全盛を誇っていた育種業のヴィーチ商会(1808年頃設立され、100年以上も繁栄し続けた育種商)への不満があったようだ。

ビュアリーは、新しい外来植物などをヴィーチ商会から入手していたが、ヴィーチ商会としての顧客戦略があり、重要な顧客でも自分の欲しいモノが手に入らないということがわかるようになってきた。
だんだん自分が欲しいものは自分で集めなければならないということに気づかされ、プラントハンターを送り出すことにしたようだ。

ヴィーチ商会もこの当時王立キュー植物園に推薦してもらったウイルソン(Wilson ,Ernest Henry 1876 –1930)を中国に派遣していたので、このプラントハンティングの成果にビュアリーは一顧客として期待することもせず、ヴィーチ商会と真正面から競争することを望んだのだろう。
なぜならば、同じ年の1904年にビュアリーの庭園内にビー協同組合(Ness Nurseries of A. Bee & Co)を設立しヴィーチ商会と同じ育種業に進出した。
ただちょっと違うところは、出資者は等しく成果を分かち合うという共同組合方式にしたところが、成果を平等に分かち合わないヴィーチ商会から学んだ反省点のようだ。

ビュアリーは、中国・雲南、チベットの植物、特に、ツツジ、サツキ、シャクナゲ、ツバキに傾倒していく。

ウイルソンが去った後は、1911年にはキングドン・ウォード(1885-1958) 、1913年にロランド・エドガー・クーパー(1890-1967)、1914年レジナルド・ファーラー(1880 – 1920)に出資し、中国・雲南、ビルマ北部からアッサム、シッキムなどで植物収集をさせた。

採取されたツツジ、ツバキは品種改良に使われ、また、タネは1911年からはビーズ社から一般に販売されという。

プラントハンティングには多額の費用がかかる。この費用を個人として出資する最大で最後のパトロンがビュアリーだったが、自分の庭でも育つまだ見たこともないチベット、雲南の植物で満たしたいという願望・欲望が突き動かしただけなのだろうか?
であるならば、絵画を集めるなどのコレクション欲求の変形なのかもしれない。

それともヴィーチ商会の傲慢さが気に入らなかったのだろうか?

或いは、1911年に種などの販売をしているので、ベンチャービジネスとして育種業を育てたかったのだろうか?

ビュアリーの夢は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じてしぼみ、枯れていってしまった。今では、彼が描いた庭園は、リバプール大学の植物研究機関として再生し、訪れる人々に癒しを提供している。
コメント (2)

その2.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-19 16:44:37 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その2:
中国・日本のツツジを持っていった英国のプラントハンター:フォーチュン

(写真)セイヨウシャクナゲのつぼみ


「セイヨウシャクナゲ (西洋石楠花)」は、ヒマラヤ周辺を中心とした多数の原種を交配して作出した園芸品種の総称であり、耐寒性に優れ大きな花びらと豊富な花色が特徴だ。アジアの原種が18世紀のヨーロッパに導入され改良が始ったという。

ここには、アジアのツツジ、シャクナゲなどを採取して本国に持ち帰ったヨーロッパのプラントハンター達の活躍がある。
このプラントハンター達を描いてみたいのだが、英国の王立キュー植物園のデータベースには、ツツジ属(Rhododendron)の採取者と採取時期などが登録されているが、採取時期がわかっている最も古いものは、1851年からでありこれ以前がわからない。
また、これから描こうとするプラントハンターの名前が記載されていないのも残念だ。

英国の植物相の貧弱さが珍しい植物へのニーズを創る
1700年代の半ば以降から英国では海外の植物を積極的に導入し始め、組織的に未開拓地の珍しい植物を採りに行き始めた。
もともと緑が少なく、産業革命の進行によるスモッグなどの都市環境の悪化などマイナス面がある一方で、緑を増やそう、都市をデザインしようという動きもあった。

英国の植物がどれだけ貧弱であったかを示す資料がある。1800年前半に活躍した造園家・都市のランドスケープデザイナーで農業・植物に造詣が深いラウダン(Loudon , John Claudius 1783- 1843) は、「英国に自生していた樹木は200種で、そのうちの100種がバラ・イバラ・ヤナギなので品種が少なく貧弱だ。」と述べている。そして、16世紀後半以降の英国人の海外での活動により、アルプス以南の地中海沿岸の植物、北米などの多種多様な植物の美に気づいたという。
ちなみに、日本に自生する樹木の種類は1000種を超えるそうだ。

ラウダンは、1822年に最初の著書として『 The Encyclopedia of Gardening 』など数多くの本を出版し、都市の公園・墓地などの造園、小さな庭に様々な植物を植える美と楽しみを啓蒙し、個人の庭の緑、公園・墓地などの公共の緑、これらが織り成す都市としての景観・ランドスケープの計画を提唱し、小さな庭に海外からの新奇な植物を受け入れるコンセプトを生み出し、プラントハンターの活動を容認し側面から支援した。

プラントハンターの直接的な支援者は、王立キュー植物園、王立エジンバラ植物園などの植物園・博物館、そしてリー&ケネディ商会、ヴィーチ商会などのナーサリーと呼ばれる育種園、そして、産業革命で登場した成功者であり、英国にない植物、他にはない庭を持ちたいという人たちであった。緑が少ない英国だからこそ、珍しい庭とそれを彩る植物がステイタスシンボルとなったのだろう。産業革命の恩恵であるガラス、それを使った温室が英国では育てられない植物の栽培をも可能とした。

19世紀半ば頃まで謎に満ちていた中国と日本
中国清朝と日本の江戸幕府は、それぞれ鎖国政策を採り、貿易は広州、長崎一港に限られていたので、現在的に言えば北朝鮮のように謎の国であった。
この気持ちよい眠りは強引に破られることになるが、中国清朝政府はアヘン戦争後の1842年の南京条約で香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の5港を開港した。
10年ほど遅れるがほぼ同じ時期の日本では、江戸幕府がペリー提督の軍艦と大砲に永い眠りを覚まされ1854年に日米和親条約を結び、1859年には、箱館・横浜・長崎・新潟・神戸の5港を開港した。

鎖国の時は、オランダ東インド会社の医師として長崎出島に来たツンベルク、シーボルト等の日本植物誌によって豊かな日本の植物相が垣間見られ、ヨーロッパで話題になっていた。

この珍しい植物の宝庫と思われていた中国と日本の開国は、プラントハンターにとっても朗報であり、彼らたちの活躍のフィールドが広がった。


開国前で、記録に残っている中国での最初のコレクターは、植物採取のアマチュアのカニンガム(Cuninghame, James 1697‐1719)のようだ。彼は英国東インド会社の医師として雇われ、1698年にアモイに派遣された。1701年の後半に中国のチャサンに航海し、2年以上滞在しこのエリアでの植物の採取を行った。そして、乾燥した標本600種以上を本国に送り、本人も1709年にイングランドに戻った。

確かに日本でも、長崎出島に封じ込められ、植物採取は近隣のところと日本人を使って採取するか植木屋から購入するなど限られていた。ましてやツツジは持ち出し禁止されている植物でもあった。プラントハンター泣かせの国であったことは間違いない。

プラントハンターの偉大な巨人、フォーチュン
        

この両国の記念すべき開国に立ち会ったプラントハンターが一人いる。スコットランドの園芸家、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)で、東インド会社をスポンサーにインド・アッサムに清国からのチャノキを持って行き、この移植栽培に成功させ、イギリスの紅茶産業を発展させた功労者でもある。これは、フォーチュン二回目の中国探検で、1848年に実施された。

フォーチュンが始めて中国に来たのは、1842年、アヘン戦争に敗れた清国が南京条約を結び、香港の割譲、広東など5港の開港をする年だが、この情報を聞きつけたエジンバラ王立園芸協会は、フォーチュンを清国に派遣することにし、採取して欲しい植物の長たらしいリストを渡した。
フォーチュン30歳の時であり、翌1843年2月に英国を出港し、7月に香港に到着し3年間滞在した。この間にフィリピンへ「ラン(Phalaenopsis amabilis)」を採取する短い旅行を行い、エジンバラ園芸協会の要望に見事に答え、アネモネ、キク、ラン、スモモ、スイカズラなど多数の植物を英国に送った。

最も、この時点での中国は、自由に野山を探検旅行することが出来ず、中国人或いは園芸商から購入する以外なかったが、フォーチュンは大胆にもヒゲを伸ばし弁髪になり中国人に変装して禁止されている地域、野山の探索を行ったという。
この現地に溶け込む自在性の情報収集能力が、だまされない目利きとして制約があるなかでの成果に結びついたのだろう。

余談だが、フォーチュンが書いた『江戸と北京』(1863年出版)の本の中では、中国人商人のうそつきとフォーチュンが外出するたびに監視と警護のためにゾロゾロとついて来る日本の小役人のたかり根性を嫌っていたのが印象に残る。最も十分な給料を支払えなかったのでワイロで生計を立てなければならなかったという幕府財政の逼迫があることも否めない。

フォーチュン三回目の中国訪問は、アメリカ合衆国政府をスポンサーに1858年に実施された。アメリカの政府からは、彼が実績のある中国のチャノキの調査であり、あわせてロンドンの育種商スタンディッシュからは珍しい植物の採取をも依頼されていた。
ちょうど、日本の開国の情報を聞き、1860年10月及び1861年4月に再び訪問をする。

フォーチュンは日本の第一印象を「私はこの未知の国の話を沢山読んだり聞いている。・・(略)・・初めて長崎の海岸を見たとき・・(略)・・むしろ自然の庭園そのものであった。」
江戸では、団子坂、王子、染井村など植木屋が密集しているところを探索し、彼が知っている世界で最高の園芸技術と文化を持っていると評価している。

英国人が見た古きよき日本を見直す本としても『江戸と北京』は一読に値する。

フォーチュンが中国・日本から持ち出した植物は、中国からは数多くのツツジ、モモ、シャクヤク、ナンテン、ツバキ、レンギョウ、キク、チャノキなどがあり、日本からはツツジ、ユリ、サザンカ、アオキなど多岐にわたる。
なかでも有名なのは、
ツツジ属の彼の名前がつけられたフォーチュネイ(Rhododendron fortunei)
フォーチュンのダブルイエローと名付けられたバラ(Rosa 'Fortune's Double Yellow')が知られている。

フォーチュンは、持ち出し禁止のチャノキを20,000本も“ウオードの箱”に梱包し、インドに送るなどの荒業をやったわりには、観察眼が鋭く文才があったのか、出版物の印税で引退後は豊かにのんびりと暮らしたという。
プラントハンターとして非常に珍しいケースであるがホッとする。夢は荒野を駆けめぐるだけでなく、ベットの上を駆け巡るのも良さそうだ。

        
コメント (2)

その1.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-15 08:17:57 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その1:セイヨウシャクナゲとツツジ

(写真)セイヨウシャクナゲの花


サクラの後はツツジの季節となる。
このツツジ、サツキなどはマニアが多く人気のある花卉だが、私はあまり関心がない。

今回初めて書いてみようかなと思ったのは、鎖国をしていた中国・日本などから1800年以降にアジアのツツジをヨーロッパに持っていったプラントハンターの存在があったからだ。

ただ、唯一気にいっているツツジがある。
山手線の車窓から見る駒込駅のツツジは、大都会東京の喧騒を忘れさせる不思議な働きをしてくれる。わずか数十秒の癒しなのだろうか?

この駒込界隈は、今では日本を代表するサクラとなった「ソメイヨシノ」の発祥の地として知られるが、江戸時代は、植木屋が集積した“染井村”であり、江戸のツツジもここから広がっていったという。
その始まりは、1656年に九州霧島のツツジ3種が、伊藤伊兵衛という染井の植木屋に分け与えられ、この栽培に成功して江戸中に広まったという。
ツツジは、日本古来の花であり万葉集に登場するが、江戸では比較的新しい花なのには驚いてしまった。

この伊藤伊兵衛は、植木職人だけではなく園芸家でもあり植物学者でもあった。彼と彼の息子4代目政武は、『錦繍枕(きんしゅうまくら)』(1692年刊)という世界初と思われるツツジ専門書を出版し、ツツジ173品種、サツキ162品種を取り上げた。
というほど、数多くのツツジ・サツキが江戸時代に作出されるほどこの頃の栽培技術は高度になり、世界最高水準の園芸文化を生み出すようになっていた。

ところで、ツツジ、サツキ、アザレア、シャクナゲの違いがわかるだろうか?

これら全てはツツジの仲間で、学名では“ロードデンドロン属(和名ツツジ属)”に分類される。

そういえば、小石川植物園の入り口近くに、ツツジの原種と思われる古木が大切そうに植え込まれていたが、無関心がゆえに気にもとめないでいたのを多少反省し始めた。
だから、はっきりした違いがよくわからなかったが、
サツキは数あるツツジ類の品種の中での1品種であり、日本では盆栽に使われるのでツツジとは区別されているようだ。(なるほど、盆栽用ということね)

ツツジとシャクナゲの違いは、葉に繊毛があるがないかの違いで、繊毛があるのがシャクナゲ、ないのがツツジと大雑把に区別できるという。

アザレアとシャクナゲは区別が難しく、園芸上の違いで、オランダで改良された園芸品種がアザレアでセイヨウツツジとも呼ばれる。耐寒性が弱いところがシャクナゲと異なるという。

シャクナゲについてはこれから説明することにするが受け売りだからご勘弁を。

シャクナゲ (石楠花、石南花) は、ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の低木の総称で、亜寒帯から熱帯の高地まで広い地域に生息し、ツツジ属のうち常緑性のものを指すのでその品種数はかなり多いという。

日本でもシャクナゲは結構あるようだが、大部分は亜種であり原種は少ない。
原種が多いのは、ヒマラヤ山脈から中国にかけての2000-4000mの地帯にある中国雲南省、四川省、ビルマ北部、チベット南東部、ヒマラヤ東部などであり、この地帯がシャクナゲの原種の宝庫となっていて、3月末から4月にかけて見事な花が咲くそうだ。

今では観光スポットとなっていて、ネパールの標高2,000m~3,500m付近にはシャクナゲが群生し、高さ10mを超える大木に真っ赤なシャクナゲの花が雪山を背景に咲いているという。(これはきっと美しいだろうな~と思う。)

このような秘境から原種のシャクナゲをプラントハンティングしてヨーロッパに持っていった人たちがいる。
そしてヨーロッパで交配を重ねて品種改良がされたのが「セイヨウシャクナゲ」で、今では日本にも逆輸入されている。。

「セイヨウシャクナゲ」は、“ロードデンドロン(Rhododendron)”と呼ばれ、ギリシャ語で“バラ”を意味する‘rhodon’と“木”を意味する‘dendron’の合成語で、バラのように美しい花を咲かせる木に由来する。

今ではツツジ属のことを“ロードデンドロン属(Rhododendron)”というが、単に“ロードデンドロン”といった場合は、園芸化されたシャクナゲのことを言うようだ。

子供の頃は、山学校をし、野生のツツジの花を摘み蜜を吸ったものだが、ロードトキシンというケイレンをおこす毒を含むようであり、摂取すると吐き気や下痢、呼吸困難を引き起こすことがあるそうなのでご注意されたい。
わからないものは口に入れないほうが良さそうだ。

(次回は、ツツジ、シャクナゲをヨーロッパに持っていったプラントハンターについて記載する。)

コメント (2)