モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

初夏の花、ブルーが美しい サルビア・パテンス(Salvia patens)

2016-07-06 18:45:03 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・パテンスの花


7月に入り、ブルーの色が美しいサルビア・パテンスの花が咲き始めた。
対で二個 蕾をつけ、二日後には同時に咲き、開花後二日ほどで萎んでしまう。
まさに美しい花は短命の典型のようだ。しかも5㎝ほどの大柄な花なので美しい時間の短さが強烈に残る。

この色合いを色の百科事典「イエロペディア」から探すと、“シュプリーム(supreme)”というブルー系の色に似ている。イギリスでは最高の名誉や至高を意味する色のようであり、園芸家ウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛した理由が想像できる。

(写真)サルビア・パテンスの蕾


この美しい花を翌年も見るために大事に育ててきたが、翌年まで生き残ったことが無く、多年草として扱うよりは一年草としての扱いがよさそうだ。夏と冬場の扱い方に問題があったのだろうか?

(写真)サルビア・パテンスの葉


このサルビア・パテンスの葉は、写真では良さそうに見えるが、美しさとは無縁に雑然と育ち汚らしい。雑草のほうがきれいかなと思えるほどだ。
この葉と根があの美しい花を咲かせているのかと思うと、ウイリアム・ロビンソンように手放しでほめられない。

(写真)サルビア・パテンスの花


サルビア・パテンス(Salvia patens)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がある多年草。
・学名は Salvia patens Cav.(1799)、英名はゲンチアンセージ(gentian sage)、和名ソライロサルビア。
・原産地はメキシコ。1838年にイギリスの園芸市場に登場したようだ。
・耐寒性は強いが耐暑性は弱い。梅雨の時は花を出来るだけ雨に当てない、夏場は風通しの良い半日陰で育てる。
・草丈50~60㎝
・開花期は6~10月、大柄なブルーの花が数少なく咲き、2日程度で散る。
・夏場は無理に花を咲かせないようにすると秋に咲く。

サルビア・パテンス発見の歴史 (補完版)
ミズリー植物園のデータベースに記録されているコレクター(発見・採取者)で最も早いのは、1863年に場所は不明だがメキシコで採取したエンゲルマン(Engelmann, George 1809–1884)で、パリー(Charles Christopher Parry 1823-1890)とパルマー(Edward Palmer 1829 - 1911)のパーティは1878年にSan Luis Potosíで採取している。

しかしこの時期では、スペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)が1799年に命名しているので、スペインから派遣された探検隊の誰かでなければ時間が合わない。

セッセ(Sessé y Lacasta, Martín)及びモシーニョ(Mociño, José Mariano)達もこのサルビアをおそらく1790年頃に採取し本国スペインに送っているはずだが、セッセ達はこのサルビアを「Salvia grandiflora Sessé & Moc.(1887)」と命名したようだ。だが、出版されたのは彼らの原稿が見つかった1887年頃だったので、カバニレスの命名のほうが早いのでこちらが採用されることになる。
ということは、もう一人誰かがいることになる。

コレクターは、フランス生まれでスペインで働いた植物学者ニー(Née, Luis 1734-1801or1807)がメキシコで採取したようだ。

Néeはどんな経緯でメキシコに行ったかといえば、スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

この探検隊は、1789-1794年の間に行われ、南アメリカ大陸を廻りメキシコのアカプルコに到着したのが1791年で、そして、カルフォルニア・アラスカを探検してアカプルコに戻ってきたのが1792年なので、Néeがメキシコの植物を採取したのは1791年から1792年のこの時期だろう。

英国の場合は、プラントハンターと植物学者は分業と協業の関係にあり、新種と同定し学名をつけるのは植物学者の役割だった。Neeは、この探検隊での同僚のチェコの植物学者Tadeo Haenkeが採取した植物について記述・命名してスペインの科学ジャーナルに1801年に発表しているので、単なるプラントハンターでもなく植物学者としての向上心があったようだ。

彼らは、この探検で数多くの植物を採取したが、サルビア・パテンスがそうであったように、Neeが採取した植物の大部分は、大植物学者カバニレスが命名し栄誉を得ている。

スペインに帰国後のNeeの足跡が良くわからない。また死亡時期も文献によって異なる。Née の死亡時期を1801年と書いたが、カリフォルニア、アラスカなどで採取した植物の記述がこの時期にされているのでおかしいことになる。1803年又は1807年死亡という説が妥当であり、晩年が良くわからないがスペインに失望し、ナポレオン革命が進行中のフランスに戻ったという説がピッタリとくる。苦労して採取した手柄を奪われ、怒り・絶望でスペインを離れたという説があるが、さもあらんと思う。こんな美しいサルビアにも、世俗の争いがあったようだ。

この「サルビア・パテンス」を1838年に園芸市場に持ち込んだのが、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようだ。

この「サルビア・パテンス」に関心が向くのは、自然で野性的な庭作りを提唱したウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛してからであり、それまで忘れられていたようだ。
また、英国の園芸家Graham Stuart Thomas(1909 –2003)は「園芸で最高の植物」とパテンスを賞賛した。

そして今年もこの素晴らしい花に心をときめかされてしまった。

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