モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

5:プレ・モダンローズの系譜-2

2019-09-03 14:15:26 | バラ
(4):ブルボンローズの誕生
レユニオン島の住人A.M. Perichonは、1817年以前に島にあるバラとは異なる品種を発見し、それを育てて生垣用として配った。
島では、耕作地の垣根をバラで囲っており、中国原産のコウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)とダマスクバラが植えられておりこれらとは異なる品種だった。
コウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)は、アメリカ・チャールストンでノアゼットローズの片親となった重要なオールドローズだ。

レユニオン島の説明が必要だが、アフリカ、マダガスカル島の東のインド洋上にある島で、現在は、フランスの海外にある4つの県のうちの1つで、コーヒーノキのオリジナル種ブルボンがあることで知られる。
この島は、大航海時代の1507年にポルトガル人が発見したがこの時は無人島だった。
1645年にフランス東インド会社が入植を開始し1714年からコーヒー栽培を行った。
この島でのコーヒーの栽培はシンプルだけに面白いので、興味があればUCCコーヒーのサイトで、<strong>「幻のコーヒー ブルボン・ポワントゥ」をご覧いただきたい。

コーヒーノキも同じような背景があるが、隔離された島であり二つしかないバラから生まれた第三のバラが誕生した。
レユニオン島の植物園長として1817年に着任したフランスの植物学者ブレオン(Jean Nicolas Bréon 1785‐1864)は、このバラに興味を持って調べ、
ダマスクバラの“オータム・ダマスク”と中国産コウシンバラの変種“パーソンズ・ピンク・チャイナ”との自然交雑種であると考え、1819年にこのバラから得た種と苗をフランスのルイ・フィリップ王のバラ園で働く友人のジャックス(Henri-Antoine A. Jacques 1782-1866)に送った。

ジャックスは、1821年に初めて開花させ1823年にはフランスの育種家に苗木を配布した。
この種が、「ブルボン・ローズ」と呼ばれるもので、ローズピンクで半八重咲き芳香がある。

このブルボン・ローズは、バラの画家ルドゥテにより1824年に最初に描かれていることでも知られており、
ルドゥテは、絵の素晴らしさだけでなくバラの歴史の貴重な資料として使えるほど植物画としても正確性を有していた。
(植物画)ブルボンローズ(ルドゥテ作)
 
 ブルボンローズ
・学名:Rosa borbonica Hort.Monac. (Rosa chinensis x gallica)コウシンバラとガリカの交雑種
・英名:The Bourbon Rose

ブルビンローズの重要な役割は、さらに中国産のローズと交配され「ティーローズ」を生み出し、
この「ティーローズ」からフランス人のギョーが1867年に「ハイブリッド・ティ」を作出したことにある。
現代のバラの多くはこの系統に続く。
しかし残念ながら、ルドゥテが描いたブルボンローズの実物は今では存在しない。

(5):四季咲き性の取り込み
ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。
これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。
1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。

そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。
正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだが
これらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。
これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」
  

 フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。
フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のパイオニア、デュポン(André DuPont 1756‐1817)と バラの育種業者のデスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)だった。

デスメーは、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人工交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。
この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777‐1866)に全てを売り渡したという。
そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1795‐1878)によって完成されたことになっている。
彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・パーペチュアル・ローズである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。残念ながらこの品種は今日では見ることができない。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの1837年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。
アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その1~2番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。
そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)をつくる栄誉を得た。
2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

(写真)Fulgens  (Hybrid China, ゲラン作1828)
 
出典:helpmefind

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥 ベルディエ(Victor Verdier 1803-1878)が作り出した。
ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからなかったプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。
ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがあるという。このブルボン種のバラは、ヴィルベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 、どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで金物屋を開店した。
バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。
1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

(写真)ヴィベール(Jean Pierre Vibert)
 
出典:vibertfamily.com

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(6):現代のバラ、ハイブリッド・ティーへの進化
ティーローズからハイブリッド・ティー・ローズへ
現代のバラの主流は、ハイブリッド・ティー・ローズ(略称:HT)だが、このHTは、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)とティー・ローズの交雑で生まれた。

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズは、このシリーズ(5)でふれたが、
ノアゼット系のバラ、ブルボン系のバラなどが1810年代後半に登場したその土台の上で成立し、
ラフェイ(Jean Laffay)が1837年に作出した「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」が最初の品種とされている。

一方、ティー・ローズは、翌年の1838年に作出された「アダム(Adam)」が最初の品種として登場した。

(写真)ティーローズの最初のバラ アダム
 
(出典)篠宮バラ園

重要な系統がフランスで誕生した。この根底には、中国原産のバラが深くかかわっているのでこれを確認していくことにする。

ティー・ローズ誕生に関わった中国原産のバラ
1700年代の中頃以降から中国原産のバラがヨーロッパに伝わり、マルメゾン庭園での人工交雑以降の1810年代頃からあらゆるバラと交雑され、そこから重要な系統が誕生した。ノアゼット系、ブルボン系、ティー・ローズ系などである。

① 1809年にイングランドに中国原産のバラが伝わる。
このバラを導入したヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749-1838)の名前を取り、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と呼ばれた。
このバラは、中国原産のコウシンバラと中国雲南省原産のローサ・ギガンティア(Rosa gigantea)との自然交雑で誕生したといわれている。
ローサ・ギガンティアは、中国名で香水月季と呼ばれ、大輪で花弁のふちが強くそりかえるという特徴があり、現代のバラの花形にこれを伝えた。

② 1824年にはイエローローズの基本種が入る。
英名では、パークス・イエロー・ティー・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)、中国名では黄色香月季と呼ばれたバラがイングランドに伝わる。
このバラは、イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper (Danpia)Parks 1791-1866)が中国・広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。翌年にはパリに送られる。

③ 最初のティー・ローズ「アダム」の誕生
最初の品種は、1838年にフランスのアダム(Michel Adam)によってつくられた。
ヒュームのバラとブルボン系の品種との交雑で作られたといわれ、大輪、柔らかい桃のような花で、強いティーの香りがする。
 
最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表されてから以後、1838年フォスター作の「デボニエンシス(devoniensis)」、1843年ブーゲル作の「ニフェトス(Niphetos)」、1853年に代表種であるルーセル作の「ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)」が発表された。

(写真)ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)
 

バラの名前は、ナポレオン軍の将軍Jean-François Jacqueminot (1787-1865)の栄誉をたたえて名付けられた。
また、ティー・ローズは雨が多くジメジメした涼しいイギリスの気候には適さず、1800年代の中頃にはフランスのリビエラが栽培の中心となった。

④ ハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス(La France)」の誕生
1867年、ついに最初の四季咲きハイブリッド・ティー『ラ・フランス('La France)』が作られた。
作出者は、フランスのギョー(Jean-Baptiste Guillot 1840-1893)。

花は明るいピンク色で裏側が濃いピンク、剣弁で高芯咲き、花径は9-10cm、花弁数が45+15枚と多く、香りはオールドローズのダマスク香とティーローズ系の両方を持ち四季咲きの大輪。
交雑種は、ハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトール・ベルディエ(Mme Victor Verdier)」とティー・ローズ系の「マダム・ブラビー(Mum Braby)」といわれている。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
 
(参考) Hybrid Tea Rose ‘La France’

しかし実際は、リヨンにある育種園の苗木の中からギョーにより発見されたようで、人工的な交雑ではなく自然交配だったようだ。だから、両親がよくわからない。

しかも初期の頃は、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズと考えられていたが、
イギリスの農民でバラの育種家・研究者でもあったベネット(Henry Benett 1823-1890)が、「ラ・フランス(La France)」を新しいバラの系統として評価し、ハイブリッド・ティーの名を与え「ラ・フランス(La France)」をその第一号としたことにより新しい系統となった。

園芸品種の中では、バラの系図が最も明確にされているが、これはベネットのおかげであり、新品種作出の交雑種・作出者・作出地などが明確でなかったものを、各品種ごとに明らかにし、一覧表に記載する方法を考案した人で、その後の系統分類の基礎を築いた人でもある。

彼は、1879年に10の異なったバラの系統を示し、この時にハイブリッド・ティーという系統も提示した。
フランスでは比較的早くハイブリッド・ティーが認知されたが、全英バラ協会がこれを認めたのは1893年で「ラ・フランス」誕生から26年後だった。頑固な英国人気質は今はじまったことではなさそうだ。

また、境界線を引くことは意外と難しく、1859年にリヨンのFrançois Lacharmeが作出した「ビクター・ベルディエ(Victor Verdier)」は、両親が「Jules Margottin」(ハイブリッド・パーペチュアル)と「Safrano」(ティー・ローズ)であり、
最初のハイブリッド・ティー・ローズであってもよかったが,そうは認められずハイブリッド・パーペチュアルとなった。
しかし、最初のハイブリッド・ティー「ラ・フランス」には、「ビクター・ベルティエ」の遺伝子があった。

現在主流のバラ、ハイブリッド・ティー(HT)は、このようにして誕生し、 “選び抜かれた雑種の極み” とでもいえだろう。

“純血よりも美しくて強い” これがハイブリッドで実現したことで、
混血を見くびってはいけないという教訓を我々に教えてくれる。

国粋主義者は滅び行く宿命を抱えているのだろうが、
コンプレックスを持った国粋主義者が増殖する時代になりつつあり、
純血という排除の論理が強まりつつある嫌な時代が来そうだから気をつけたい。

コメント

4:プレ・モダンローズの系譜-1

2019-06-27 20:25:34 | バラ
(1):全体の俯瞰図

「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポン(André Dupont)により、初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。

ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス(La France)」が誕生したのが1867年であり、フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作出された。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
 

1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。

オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜 “プレ・モダンローズ” と呼ぶことにし、
園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。

ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、この人工交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。

別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズ系統の品種交雑の展開が伺える。

このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しく香しいイメージの国にした。

プレ・モダンローズの主要なバラ年表

四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス(La France)」 が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。

① 西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)

② 18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。

③ これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年頃:「ノアゼット・ローズ」が発表される。

・1817年:「ブルボン・ローズ」が発表される。

・1837年:フランスのジャン・ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・バーベチュアルである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
ヨーロッパでは、ここから始まるのがモダンローズという定義。

・1838年:作出者の名を冠した最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。

・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
(写真)「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」

(出典)WEBバラ図鑑

・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT)「ラ・フランス(La France)」がギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。

(2):ノアゼットローズ誕生の怪
バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。

定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。

(写真)ノアゼットローズの花
 

 
(出典)姫野ばら園 八ヶ岳農場.

ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)

このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この見解は香料を分析しての結果だが、最近では、遺伝子の検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。

ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。

というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、

お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。

サウスカロライナ州チャールストンのコメ農家チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。

これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったのでそのお礼として作出した苗をあげたという。

ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。

後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉に気づかなかった、或いは、知らなかったお人よしのようだ。

(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ
 
 Blush Noisette
 ※ ルドゥテが描いたノアゼットの絵は、史上最高の植物画と評価されている。

パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。

ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。

疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。

ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。

ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保し、ここを拠点に北米の植物探索を行った。チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。

18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。

ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャノキなどをチャールストンに持ってきていることがわかっている。いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。

ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。

この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあった。革命政府から北米滞在の活動費を出してもらえないミッショーは自活せざるを得なくなり、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとして中国の植物を採取しに出かけたのではないだろうか?

こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。

ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。

この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。

ミッショーはバンクス卿と会っているな?

北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。

(3):品種改良
“千三つ”よりも確率が悪い園芸品種の開発
バラに限らず園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。

この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。

バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確率が悪く、当たって遠からずのようだ。

品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。

こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないとすぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。

高嶺の花の代表のバラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、
工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統・利権を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。

国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。
(参考:農林省品種登録ホームページ)

実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。

1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。
2.交配(交雑)する時
春の一番咲きの時期
3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。
4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。
5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。
6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。
7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。
8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。

バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがだろうか? いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。 

【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ

2:バラの野生種:オールドローズの系譜

3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ

コメント (2)

3:イスラム、中国、日本から伝わったバラ

2019-06-05 20:40:32 | バラ
(1)イスラムから伝わったバラ

ゲルマン人が破壊した古代ギリシャ・ローマの文化・文明は、イスラム圏に受け継がれヨーロッパに再流入する。バラも例外ではなかった。

オーストリアン・ブライアーの流れ==イスラム圏の勢力拡大による
8世紀小アジア原産の黄色いバラと花弁の表面がオレンジ色で裏面が濃い黄色のバラがアフリカ北部沿いにイスラムの勢力拡大に伴ってスペインに伝わった。
もう一つの経路が、オーストリアにも同じものが伝わり普及した。

黄色いバラをオーストリアン・ブライアー・ローズ(Austrian Brier Rose) 或いは、 オーストリアン・イエローローズ(Austrian Yellow Rose)と呼び、
オレンジと黄色のバラを オーストリアン・カッパー・ローズ(Austrian Copper Rose)という。

(写真)オーストリアン・カッパー・ローズ
 
(出典)conservationgardenpark

(写真)オーストリアン・ブライアー・ローズ
 
出典:Wikipedia
この花の特色は、花色が濃黄色で、花径5-6cm、花弁が5枚で、香りが臭いほど強い。
学名をローザ・フェティーダ(Rosa foetida Herrmann)と言い、種小名の“foetida”はラテン語で“臭い”を意味する。
また、古代ギリシャから栽培されていた品種であり、イスラムによってイベリア半島まで運ばれていき、オーストリアには1542年頃までには伝わっていたという。
イギリス・オランダには、16世紀の終わりにオーストリアから入ったので、オーストリアン・ブライアーと呼ばれる。

そしてこの種の中で、ハイブリッド・ティーの黄色の親となったのは、1837年頃ペルシャからヨーロッパに伝わったロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana(Lemaire)Rehder)だった。

(写真)ロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana)
 

英名がペルシアン・イエロー・ローズ(Persian Yellow Rose)、
濃い黄色、花径5-6cm、花弁数60-80+20枚で、花の中心が4個ぐらいに分かれる。
この、ペルシャ原産の黄色いバラは、英国のウィルロック、ヘンリー卿(Sir Henry Willock)が1837年に発見しヨーロッパに紹介されて話題を呼んだ。

日本にも来たドイツ人医師のケンペル(1651-1716)は、日本に来る前にペルシャに寄っているが、
そのケンペルが書いた『廻国奇観』(1712)の中で、古都ペルセポリスには広大なバラ園があり、ペルシャ南西部の高地シラズではバラの花を蒸留して精油を採っていたことが書かれている。
ヨーロッパでは1801年のジョゼフィーヌからバラ園がはじまるので、イスラム圏のバラ栽培の成熟さが垣間見られる。

フレンチ・ローズの出自==十字軍の遠征がはじまり
11世紀から始まった十字軍の遠征は、イスラムの文化・文明を中世ヨーロッパにもたらすこととなる。
フランスのシャンパニュー伯ティーボルト4世が十字軍の遠征の帰路に、パレスチナからロサ・ガリカを持ち帰る。
近縁種との自然交配などで濃い赤色の品種が出来上がり、フレンチ・ローズという系統が出来上がる。
フレンチ・ローズは、濃い赤色のバラの祖先とも言われる。

十字軍の遠征は、イスラム文化をヨーロッパにもたらしたが、このときにバラの鑑賞も再輸入したようだ。
この結果、13世紀以降の聖堂のステンドグラスにはバラ窓が作られるようになり、14世紀のマリア賛歌にはバラが歌いこまれる。
聖母マリアをバラで飾るようになったのもこのころからで、ルネッサンス以降の絵画にはバラの絵が増える。

ばら戦争
イギリスには野生のバラがあるが、ローマ帝国の属州になった紀元1世紀ごろローマのバラが伝わり、プランタジャネット朝(1154-1399)のエドワード1世(1239-1307)の時に王室の紋章として金色のバラが採用される。

プランタジャネット朝は後にヨーク家(白バラ)とランカスター家(赤バラ)に分かれ、王位継承権で争う。 
これがばら戦争(1455-1485)である。

ヨーク家の白バラの由来
ヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローザ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。
1236年イギリスのヘンリー三世(1207-1272)がプロバンスのエレアノルと結婚した。
彼女はこの時既に白バラを自分の紋章としていた。息子のエドワード一世(1239-1307)は、これを受け継ぎこの花を国璽(こくじ)に取り入れた。

ランカスター家の赤バラの由来
ランカスター家の紅バラは、エドワードの弟エドモンドの紋章で、最初のランカスター伯となった。
1277年頃シャンパニューで反乱が起きたとき、この地を結婚持参金として手に入れていたヘンリー三世が息子のエドモンドを派遣し反乱を鎮めた。
エドモンドはフランスで3~4年過しイギリスに戻る時紅バラを持ち帰った。エドモンドはこの花を自慢にし、兄の白バラよりもはるかに素晴らしいと思いこれを自分の紋章とした。

イギリス王室の紋章の由来
ばら戦争は彼ら兄弟の子孫が争うことになるが、紅バラのランカスター家ヘンリー7世の勝利で終わり、ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスを妻とし、チュードル・ローズと呼ばれる白バラの中に赤バラを納めたものを紋章とし、これがイギリス王家の紋章となった。

バラ戦争(1455-1485)は、30年もの長きにわたる骨肉の争いとなる無益な戦争を続け10万人もの命をなくしたというが、
バラの刺で流した血ではなく、人間の“憎しみ”という心の刺と、それぞれの属する集団・組織の果てしない欲望がもたらしたもののようだ。

余談 ばら戦争から学ぶ現在の状況
トップのドライバーがハンドルから手を離すと、マシーンはコントロール不能となり暴走する。
ばら戦争もこんな状況でおきたもののようだ。そしてばら戦争は、いまの世相にこんな標語を残す。
『飲むなら乗るな。運転出来ないならなおさら乗るな。』
民の信任を受けない無免許のトップは、酔っ払い運転と同じということだろうか・・・・

(2) 中国から伝わったバラ

中国のバラの歴史は古く、周の時代(BC1066-BC256)に、“しょうび(穪靡)”“きんとう(釁冬)”などの文字が見られる。
これは、バラに当てられた最初の文字という。

中国原産のバラがヨーロッパにもたらされたのは、大航海時代以降の1500年代の中頃からといわれる。
オランダ、イギリスに入りそれからフランス(マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園など)に渡った。

ヨーロッパでの品種改良で重要な役割を果した主要なバラの道筋をたどってみると次のようになる。(年号など諸説あるので併記した。)

1.中国から伝わった“コウシンバラ”の命名
英名:クリムゾン・チャイナ(Crimson China)
中国名:月季花
学名:Rosa chinensis Jacquin(1768) ロサ・キネンシス
 

1733年、オランダ・ライデン植物園の植物収集家 グロノビウス(Gronovius、Johan Frederik 1686-1762)が中国の四川州(あるいは雲南州)の濃紅色のバラの標本を入手し、植物園の園長であるニコラス・ジャカン(Jacquin, Nicolaus Joseph von 1727-1817)に同定を依頼した。
ジャカンはこれを“中国の原種のバラ”であるとして、1768年にRosa chinensis Jacquin と命名した。
当初は花色から「クリムゾン・チャイナ」と呼ばれた。
命名者のジャカンは、オランダ生まれでマリーアントワネットの母、オーストリア皇后のマリアテレジアから招聘を受け、オーストリアに移住した植物学者で、リンネと仲良しであり、彼の自宅でモーツアルトのピアノ演奏会がなされたともいう。

2.1759年コウシンバラヨーロッパに入る
英名:ピンク・チャイナ
学名:Rosa indica.Linnaeus  ロサ・インディカ
1751年、リンネの弟子ペール・オスベック(Pehr Osbeck 1723-1805) が広東の税関の庭で発見し中国から持ち帰ったバラ。花色から「ピンク・チャイナ」と呼ばれた。
リンネは「クリムソン・チャイナ」とは別種と考え Rosa indica の学名を与えたが、現在では Rosa chinensis と同種と考えられている。

中国原産の四季咲き性のバラがヨーロッパに入ってきたのは、1789年(1792年という説もある)で、引き続いて重要な3品種も入ってくる。

3.1789年、赤いバラの基本種が入る
英名:スレイターズ・クリムゾン・チャイナ(Slater's Crimson China)
学名:Rosa chinensis 'Semperflorens') 1789(1792)
 
1789年ヨーロッパに紅色花で四季咲き性のコウシンバラが入る。この品種は、古い時代に中国にて育種されたものとみなされている。
伝来のルートは、インド・カルカッタにあった東インド会社の庭からイングランドのノット・ガーデンで庭師をしていたギルバート・スレイター(Gilbert Slater)の元へ持ち込まれた。
スレイターは、2年目に深紅色の花を咲かせることに成功し、1792年(一説には1789年)に公表した。このバラは、彼の名を採りスレイターズ・クリムゾン・チャイナと呼ばれる。
この品種が入るまでのヨーロッパでは、ガリカなどの赤いバラは、ディープ・ピンクあるいはバイオレットの入った色合いだったが、この品種を交配親として鮮やかな赤の品種が出現することになる。
日本では東インド会社のあったカルカッタが所在する地方名にちなみベンガル・ローズと呼ばれる。

4.1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が入る
英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)
中国名:桃色香月季
学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
(写真)Parsons' Pink China

(出典)helpmefind.com

1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、
イングランドのパーソン(John Parsons 1722-1798)の庭にあったチャイナ・ローズで、
伝来のルートはよくわからないが、1792年に中国に派遣されたマカトニー(Sir Macartney)使節団の一員であったジョージ・スタウントン(Sir George Staunton)によってカントンの近くで採取されたようだ。

パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。

5.1809年、ハイブリッド・ティーの親となるロサ・オドラータがイギリスに入る
英名:ヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)
中国名:赤色香月季
学名:Rosa × odrata (1810)
(写真)Hume's Blush Tea-scented China
 
中国・広東の東インド会社のお茶の検査官ジョン・リーブス(John Reeves 1778-1856)は、1808年に広東郊外のナーサリーから手に入れたバラなどの植物を、イングランドのヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749 -1838) に送った。
この中のバラで、1809年にフューム卿より紹介されたバラがヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と名付けられた。
中国原種のコウシンバラとロサ・ギガンテア(Rosa gigantea)との交配により生み出された自然交雑種だと見なされている。
淡いピンク色の花、紅茶のような特徴的な香り、大株となるつる性の木立から、ヒューム卿の名を採りヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナと呼ばれる。
この品種は、後にノワゼット、ブルボンなど、他の品種群との交配により、ティー・ローズの源流となり、さらに、ハイブリッド・パーペチュアルを経て、ハイブリッド・ティーへと発展する。

6.1824年、イエローローズの基本種が入る
英名:パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)
中国名:黄色香月季
学名:Rosa × odorata ochroleuca(1824)
(写真)パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ
 
(出典) 姫野ばら園 八ヶ岳農場
イギリス王立園芸協会から中国に派遣されたプラントハンター、パークス(John Damper Parks:1792-1866)は、広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手し1824年にロンドン園芸協会に送った。
 
この大輪で、芳香のある黄色のバラは後にパークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナと呼ばれるようになった。 1825年にはパリに送られるなどし、その後のハイブリッド・ティの作出に多大な貢献をすることとなった。
特に、ペルシャン・イエローからのイエローの花色を取り入れるまでの間、イエロー・ローズの元となった品種だ。

ジョゼフィーヌが世界の植物を仕入れたのは、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者リー&ケネディ商会からであり、これはジョゼフィーヌのシリーズで紹介したが、プラントハンター・育種園が世界の植物を収集・育成し園芸が広まっていく時期に、中国の原種が “四季咲き性” “花の色(紅赤・黄色)” “香り(ティー)” という特徴を持って入ってきた。
さらに、日本の原種が入ってきて現在のバラの親たちが出揃うことになる。
中国、日本ともバラは重視されなかった。キクが珍重されたからというのも一因あるだろうが、棘だけでなく香りにも要因があったのだろうか?

(3)モダンローズの親となった日本のバラ
400万年前、鮮新世期のノイバラの化石が兵庫県明石で出土し、日本でもバラの野生種が人類よりも早くから自生していたという。
日本には14種の野生種があり、ノイバラ(Rosa multiflora Thunberg)、テリハノイバラ(Rosa wichuraiana)、ヤマイバラ、タカネイバラ、サンショウバラ(Rosa hirtula Nakai)、ナニワイバラ(Rosa laevigata)、ハマナス(Rosa rugosa Thunberg)などがある。

このうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの3種がヨーロッパに渡り、現代のバラの親として品種改良に使われた。

そのヨーロッパへの伝播についてみると、伝播の時期・ルートなど不明なことが多い。
このようなことを前提として、最も早くヨーロッパに入ったのはハマナスのようで、日本に来たリンネの弟子にあたるツンベルグがヨーロッパに存在を紹介したのが1784年で、彼の著書『フローラ・ヤポニカ』で“ローサ・ルゴサ(Rosa rugosa)”と命名された。

このハマナスは、1796年にはロンドンのリー&ケネディ商会で栽培されており、何処から入ったかは不明だ。
リー&ケネディ商会は、この当時のヨーロッパ育種業界No1の企業であり、海外からの仕入ルートがあった。
仕入れルートは秘密で明らかにならないが、中国か日本に滞在している外交官或いは植物学者或いはマッソンのようなどこかのお抱えプラントハンターから内密で手に入れたのだろう。

しかし、同時期に中国から四季咲きのコウシンバラがヨーロッパに入り、注目がこちらに移った影響なのか、リー&ケネディ商会のハマナスはここで立ち消えになる。
ヨーロッパへの再登場は1845年で、シーボルトが日本から輸入して販売カタログに掲載している。

さらにしかしだが、ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にはハマナスがあった。
これはルドゥーテの『バラ図譜』5番目の絵として確認できるので間違いはないだろう。
『バラ図譜』(1817-1824)の出版時期と兼ねあわせると、シーボルトが輸入した物ではないことは間違いない。

このハマナスは、日本での原産地が寒冷地であるため、耐寒性が強く寒冷地でのハイブリッド・ローズの品質改良に生かされることとなる。

ノイバラ、テリハノイバラに関しては、カタログを参照していただきたいが、ワンポイントコメントすると、
ノイバラがヨーロッパに伝わるのは、1810年でフランスに紹介される。
これが、ポリアンサ・ローズの親の一つとなり、フロリバンダ・ローズや現代のミニチュア・ローズを生んでいく。
ポリアンサ・ローズ、フロリバンダ・ローズなどに関しては、プレモダン・ローズで書く予定。

テリハノイバラは、1891年にフランス・アメリカに導入され、品種改良の基本種として利用される。また、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。


ハマナス
Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
※ビジュアルは、Rosa Rugosa Kamtchatica( Kamchatka Rose)
 
・ 和名:ハマナス
・ 学名:Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
・ 英名:英名:Japanese Rose
・ 日本原産で、花色は深い紅紫色で雄しべの黄色が目立つ美しい花。花径6-10cm、強い芳香がある。
・ 太平洋側は茨城県以北、日本海側は鳥取県以北の海岸線の砂地に自生する。
・ 種小名のルゴサは、しわのある葉を持ったバラという意味。
・ 耐寒性が強く、この特質を現代のバラに取り込み寒冷地でも栽培できるバラが誕生する。
・ 1845年にシーボルトがヨーロッパに輸入したのは間違いないが、これ以前にイギリスに入る。

ノイバラ
Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
※ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)
 
・ 和名:ノイバラ
・ 学名:Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
・ 英名Mulltiflora Japonica 
・ 花は白色、
・ 花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・ 花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。房咲き性は、ノイバラが現代のバラに伝えた特質。
・ 香りよい。
・ 耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
・ 1810年ヨーロッパに伝わる。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』ではノイバラ2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1810年以前にヨーロッパに伝わっていた可能性がある。

テリハノイバラ
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
 
※ 写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/
・ 和名:テリハノイバラ
・ 学名:Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
・ 英名:Memorial Roseメモリアルローズ
・ 日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・ 葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・ 花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・ 雄しべは黄色で数が多い。
・ 甘い香りがする。
・ 花は円錐花序で10数個つく。
・ 茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・ 1891年フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
・ ランブラー・ローズの系統をつくる。

(4)ジョゼフィーヌとの同時代。江戸の園芸とバラ

バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。
何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・ バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・ 栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・ バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?

江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。
ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、江戸時代は、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。

家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だった。
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)

貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。

ツンベルク、リンネの頃は、外国人は自由に江戸を歩くことが出来なかったが、
幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。

また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がよくわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。
イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ花卉植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらおう。

江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。

珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)
 
(出典)牧野富太郎 蔵書の世界  植物図譜の世界

斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は斑入りを持ち帰り、日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がったという。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受け、リアリティが欠如し、どこか浮世離れしていたのだろう。

喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。
神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。

ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描いた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国政策がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。

万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。

「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」

“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。

バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)に『薔薇二曲』という詩がある。

薔薇ノ木ニ
    薔薇ノ花サク。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。

    二
    薔薇ノ花。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
    照リ極マレバ木ヨリコボルル。
    光リコボルル。

このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。

【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ

4:プレ・モダンローズの系譜ー1


コメント

2:バラの野生種:オールドローズの系譜

2019-05-22 13:55:29 | バラ
“ノバラ”と“人類”とのアーティスティックな出会い
バラは、バラ科バラ属の落葉或いは常緑の低木およびつる性植物の総称で、これらから交配された園芸品種を多数含む。
園芸品種は実を結ばないのでローズ・ヒップシロップ(rose-hip syrup)を作れない。
また、園芸品種の開発のスタートは、1800年代初頭のジョゼフィーヌのマルメゾン庭園からはじまったわずか200年の歴史といってもよいようだ。

園芸品種の親となる野生種は、世界で約200種あるといわれ、日本には14種ほどの野生種がある。
このバラの野生種は、北半球だけに自生し南半球にはバラの野生種がないというから実に不思議だ。

バラの祖先ノバラは、いつごろから自生していたのだろうか?

アメリカのコロラド州で発見されたノバラの化石は、7000万年~3500万年前のものといわれる。日本でも400万年前のバラの化石が兵庫県の明石で発見されたという。

人類が登場してからは、バラはアーティストの感性を刺激し続けたようだ。

(写真)ギルガメッシュ叙事詩
 
例えば、
・ 紀元前2000年頃の世界最古の文学作品といわれるバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』には、「女神イシュダルが花の香りをかぐ」と書かれている。また、「バラのようにトゲがある草が海の底にあり若返りが出来る」とも書かれている。
この叙事詩を斜め読みすると“ノアの方舟伝説”のようでもあり旧約聖書を含めてストリーテイラーの存在を感じる。

・ 紀元前1500年頃のギリシャ・クレタ島のフレスコ(壁画)にバラと思われる絵が描かれており、絵画に描かれたバラとしては最古のものという。オリジナルはクレタ島のイラクリオン考古学博物館にあるそうだ。
(写真)クレタ島の壁画
 

(出典)公益財団法人 日本ばら会
ギリシャ・クレタ島のイラクレオン考古学博物館に保存・展示されている「青い鳥のいる庭園」の壁画中の「原画」と「修復画」との区別(“太線で囲った部分が原画”)

・ 古代ギリシャのホメロス(BC800年頃)は最古の叙事詩といわれる『イーリアス』『オデッセイア』で“バラの頬”を若いヒトの美しさとして表現している。

・ BC600年頃の女流詩人サッフォーは、バラを『花の女王』と詠っていたという。この時期にはバラの評価が固まっていたようだ。

人類が記録を残してからのバラは、現存する世界最古のアートに登場するぐらい魅力ある存在になっていた。
美しく香りよいだけでなくトゲがあるところがよかったのだろうか?

モダンローズの親たち
バラの野生種は北半球に約200種あるが、このうちの8種が現代のバラ(園芸品種)の親と推定されている。

この説は、日本を代表するバラの育種家、鈴木省三(1913-2000 京成バラ園芸) によるが、中国、日本原産のバラがヨーロッパに渡り重要な役割を果す。
これらが品種改良に使われるようになったのは18世紀後半以降であり後述する。

ヨーロッパ、小アジアのバラは、古代ギリシャ、ローマ時代には幅広く栽培されていた。
ローマの皇帝ネロ(37-69年)は、冬場でも大量のバラを求めたので、耐寒性の強い品種改良がされ、エジプト、南ローマまで栽培が広がり、そこからローマに輸送し市場が立ったという。
悪名高い皇帝だったが、バラの品種改良と市場化には貢献したようだ。

476年にローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などは、この芳しきバラの美がわからなかったようで、中世ヨーロッパからはバラが消え、修道院でハーブ(薬草)として栽培されるだけになる。
“美というものは、機能的・合理的なものではなく発見する感性がないと失われる”、
という真理、或いは、原理が、私ごとだけでなく歴史的にあったということが浮かび上がってしまった。

バラを受け継ぐ(バラだけでなく科学・芸術も受け継ぐ)のは、イスラム圏の国と人々だった。
そのイスラム圏からモノとしてのバラ、及び、感性としての審美性がヨーロッパに逆輸入されるのは、
スペイン半島・オーストリアなどへのイスラム勢力の浸透、十字軍でのイスラム圏進攻などの戦争を通じてだった。
戦争という最悪の交流は文化の伝播でもあり、失うものは大きいが得るものも少しあったということだろう。

ヨーロッパに現代のバラの親となるオールドローズが出揃ったのは、ルネッサンスから大航海時代を経て19世紀初めには次のような8種が出揃った。

1.ロサ・ガリカ(小アジア)
2.ロサ・ダマスケナ(小アジア)
3.ロサ・アルバ(ヨーロッパ)
4.ロサ・ケンティフォーリア(南ヨーロッパ)
5.ロサ・フェティダ(イラン・イラク・アフガニスタン)
6.コウシンバラ(中国)
7.ノイバラ(日本原産)
8.テリハイノイバラ(日本)


モダンローズの祖先カタログ 
バラの歴史は人類以上に古くその野生種は200種もあるというのに、現代のバラ、“モダンローズ”の祖先は8種という。

(写真)ラ・フランス
 

オールドローズとモダンローズの境目は、最初のハイブリッド・ティ(HT) 『ラ・フランス』 が誕生した1867年を境にしている。
それ以前のバラを「オールドローズ」、それ以降を「モダンローズ」とよんでいる。


1800年代初めにジョゼフィーヌがマルメゾンの庭園で昆虫などによる自然交配ではなく、初めての人為的な交配によりバラを作ったことは前に触れた。
この1800年代初めから1867年までの期間を「プレ・モダンローズ」としてここでは呼ぶことにし、オールドローズの系譜はジョゼフィーヌにバトン立ちするまでを描くこととする。

厳密に言うと19世紀の中頃までヨーロッパで栽培されていた品種をオールドローズというが、中国のコウシンバラ、日本のノイバラもジョゼフィーヌのマルメゾン庭園に存在していたがオールドローズに含めることとする。 

8種の選定や花の特徴などは、鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)に教えを乞い、バラの絵は, 19世紀初めのオールドローズのリアリティに近づくためにジョゼフィーヌのバラを描いたというルドゥーテ『バラ図鑑』(1817-1824)を活用させてもらった。

3人の皇后に愛されたルドゥーテ
バラの絵師ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté 1759-1840)にふれておかなければならない。彼を育てたのはフランスの植物学者で『ゼラニュウム論』を書いたレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800 )だった。

自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。

最もこのイギリス行きは、1789年に、友人(Joseph Dombey 1742-1794)から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。

ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。

フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后に仕えることになる。ただし、マリー・ルイーズの場合はルドゥーテの絵画教室の生徒でもあった。

フランス革命をはさんだこの時代に生きたレリティエールは暗殺、マリーアントワネットは断首刑、ジョゼフィーヌはナポレオンとの離婚後病死、マリー・ルイーズはナポレオン失脚後の変遷など、ばら色とはいえない人生の物語が多いが、
後世に燦然と輝くのは、ボタニックアートの傑作『バラ図譜』であり、マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園に咲いていた美しくもトゲがあるバラだった。

このとげのあるバラは、アートとして、植物としていまなお我々の時を潤してくれる。

モダンローズの先祖となった、オールドローズをカタログ的に紹介する。

1.ロサ・ガリカ(小アジア)
 

Rosa gallica Linnaeus ロサ・ガリカ・(命名者リンネ)
・ 別名 French Rose(フレンチ・ローズ)
・ 原産地は小アジア、コーカサス地方と南・中央ヨーロッパ。
・ 花はローズピンクでサーモンがかかる。一重咲きだが半八重咲きに近いものもある。花径は5-8cm。
・ 樹高100㎝の小低木。
・ 枝や花に強い香りがあるので香料として利用される。
・ ヨーロッパには紀元前に、近東から小アジアの自生種がはいり自然交配したと考えられる。
・ フランスで切花・香料の原料として栽培される。
・ ローズピンクでサーモンがかかった赤紫の花色はガリカの特色でモダンローズに大きな役割を果している。
※ 12世紀十字軍の兵士が西アジアから持ってきたバラ、ガリカローズ(R.gallica officinalis)別名プロヴァンローズは、プロヴァンの地で栽培されたことからこう呼ばれる。
※ 紀元前16世紀頃のクレタ島の遺跡、クノッソス宮殿の壁画にはローザ・ガリカR.gallicaやローザ・ダマスケナR.demascenaと考えられるバラの絵が残っている。
※ ジョゼフィーヌの庭にはガリカ系167種の園芸品種があった。

2.ロサ・ダマスケナ(小アジア・トルコ原産)
 

Rosa damascena Miller ロサ・ダマスケナ
・ 原産地は小アジア
・ 英名ダマスクローズDamask Rose 
・ 花は肉色を帯びた薄いピンク、またはローズピンク。裏弁はやや色が薄い。
・ 八重咲きで中心は4つに別れ平開し、一枝に2-5の花がつく。
・ 花径6-8cm、花弁はやや細長く20-25枚+5枚が通常。
・ ダマスク系の芳香がありダマスク香として珍重される。
・ 原産地小アジアからヨーロッパには紀元前に入ったという説が有力。
・ 十字軍の遠征で中近東から再移入する。

3.ロサ・アルバ(ヨーロッパ)
 

Rosa alba Linnaeus ロサ・アルバ
・ 英名Bonnie Prince Charlie’s Rose(ボニー・プリンス・チャーリーズ・ローズ)、Jacobite Rose(ジャコバイト・ローズ)
・ 花は白色、半八重咲き、花径6-8cm 通常は房咲き
・ 濃厚な香りがある。
・ 1597年以前から栽培されていた記録があるが、氏素性に関してはよくわからない。
・ ガリカと他の種の雑種といわれるが、中部ヨーロッパに自生するカニナ(別名ドッグローズDog Rose)との自然交配で生まれたという説もある。
※ イギリスのばら戦争での一方のヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローサ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。

4.ロサ・ケンティフォーリア(南ヨーロッパ)
 

Rosa centifolia Linnaeus ロサ・ケンティフォーリア
※ ビジュアルは、Rosa Centifolia Foliacea(一般名: Leafy Cabbage Rose)

・ 英名キャベジ・ローズCabbage Rose プロバンス・ローズProvence Rose
・ 花はソフトピンクを中心とした花色
・ 大輪で中心が4つに分かれる。花弁数は約100枚でケンティフォーリア・ローズ(百枚花弁の花)と呼ばれるゆえん。
・ 英名のキャベジ・ローズもキャベツに負けないほどの花弁の巻きをさしている。
・ 樹高100cm、株はいわゆるブッシュローズ
※ ダマスケナ系とアルバ系の雑種といわれるが、紀元前数千年からの自然実生で、コーカサス東部で野性のものが見つかる。フェティダやガリカのように人為的に西に移されたと考えるようになってきた。
※ ヨーロッパには1596年に移入したという説があり、17世紀後半にオランダで品種改良がされる。

5.ロサ・フェティダ(イラン・イラク・アフガニスタン)
 

Rosa foetida Herrmann ロサ・フェティダ
※ ビジュアルは、Rosa Foetida Bicolor(Austrian Copper Rose)
・ 英名Austrian Brier Rose(オーストリアン・ブライアー・ローズ)
・ 原産地は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の山麓といわれる。
・ 花は濃黄色で、黄色のモダンローズの品種改良で重要な役割を果す。
・ この変種である上記版画のRosa Foetida Bicolor(英名オーストリアン・カッパー・ローズ)は、花弁の外側が赤又はオレンジで、内側が黄色となる。
・ 花径5-7cm、花弁数5枚
・ 乾燥期の香りは臭いほど強い。種小名のFoetida(悪臭のある)もこれによる。
・ 1542年にヨーロッパに伝わり、オーストリアから入る。
・ Rosa foetida bicolor (Jacquin)Willmottロサ・フェティダ・ビコロール(英名オーストリアン・カッパー・ローズAustrian Copper Rose)の学名上の母種
※ ルドゥーテ『バラ図譜』では、169品種描かれた中で2品種しかかかれていない。ジョゼフィーヌの庭園にもこの品種は少なかったのだろう。理由はお分かりのように悪臭のせいだろう。
※ しかし、黄色のバラの品種改良では重要な存在となる。

6.コウシンバラ(中国)
 

Rosa chinensis Jacquin ロサ・キネンシス
※ ビジュアルは、- Rosa Chinensis Cruenta(Blood Rose of China)
・ 和名コウシンバラ、中国名月季花、長春花、英名China Rose Bengal Rose
・ コウシンバラの意味は庚申=(かのえさる)で60日に一度あることをさす。
・ 中国四川省、雲南省原産で野生種は一重咲き。
・ 花は濃い紅色、1枝に3―5輪つく
・ 花径5-6cm、花弁数10-15枚外側がやや剣弁になる。
・ 花は薬味風の香りがある。
・ 樹形は直立性
・ 四季咲き性によりガリカ系のバラと交雑が繰り返され、現在の四季咲き大輪のバラが確立された重要な基本種。
・ 1752年にスウェーデンに入り、1792年ヨーロッパに紅色花で八倍体のコウシンバラが伝播する。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』には2種掲載されており、この図鑑で最初に掲載されたバラが何とコウシンバラだ。それだけ1800年初期には貴重なバラだったのだろう。

7.ノイバラ(日本原産)
 

Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
※ ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)

・ 和名ノイバラ、英名Mulltiflora Japonica 
・ 花は白色、
・ 花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・ 花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。
・ 香りよい。
・ 耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
※ 日本の野生種のバラは、明石の古墳から三木茂が1936年に採取した化石があり、今から400万年―100万年前ののものという。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』では2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1800年以前にヨーロッパに伝わっていた。
実際のノイバラ :(参照:リンク:ボタニックガーデン)

8.テリハノイバラ(日本)
 

Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
※ 写真の出典:『身近な植物と菌類』
http://grasses.partials.net/
最後は、日本原産のテリハノイバラだが、残念ながらルドゥーテ『バラ図譜』には影も形も見当たらない。
・ 和名テリハノイバラ、英名Memorial Roseメモリアルローズ
・ 日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・ 葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・ 花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・ 雄しべは黄色で数が多い。
・ 甘い香りがする。
・ 花は円錐花序で10数個つく。
・ 茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・ 19世紀フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る

9.ロサ・モスカータ(中国)
鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)では、モダンローズの親を8種としているが、もう1種を追加しておきたい。それは、ムスク系ローズの親となる“ロサ・モスカータ”で、野生種が発見されていないという不思議さがある。
 

Rosa moschata Herrmann ロサ・モスカータ
※ビジュアルは、Rosa Moschata

・ 中国南西部、ヒマラヤ原産といわれる。
・ 花は純白色、花径3-5cm、花弁数5枚、一日花
・ うめ、サクラに似た花形
・ 四季咲き性
・ 香りはムスク系で濃厚
・ つる性で2m。グランドカバーとして利用される。
・ 優れたにおいと遅い開花という特色があり、ハイブリッド・ムスクの園芸種の親
※野生種は発見されていずミステリアスなバラだが、16世紀の文献に記録されている。


江戸時代末期の日本の園芸環境は、世界一といってよいほど庶民にまで植物を生活に取り込んで愉しむということが出来ていたようだ。
しかし、自然に手を加え人工的に加工するという発想がなかった日本では、人為的な交配で種を開発するというアクションが弱かったことは否めない。

1800年代前半のジョゼフィーヌのマルメゾン庭園は、「素晴らしい」発想を持っていた。
といえるだろう。

【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1
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モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ

2019-05-21 11:35:19 | バラ
芳しいバラの季節になった。
そこで、多少時間ができたので、これまで書き散らかしてきたバラのシリーズをまとめてみようと思い着手した。リンクを使いシリーズが分かりやすく構成できるといいのだが・・・・・
※ このシリーズは、2008年11月20日―2009年1月8日までブログに掲載した原稿に一部手を入れ編集をした。

序 バラ事始めのいいわけ
バラの歴史は古く、紀元前5000年頃のエジプトで栽培されていたようだ。
現代のバラとは異なるが、花の美しさ、芳香のよさで王侯貴族に愛された花でもある。

バラの歴史の転換点には有名な女性がかかわってくる。
クレオパトラ、マリーアントワネット、ナポレオンの后ジョゼフィーヌなどたくさんある。特に、バラの世界では、ジョゼフィーヌ以前と以後では大きく異なる。

ジョゼフィーヌを中心に、Beforeジョゼフィーヌの“オールドローズの歴史”とAfter ジョゼフィーヌの“ハイブリッド誕生の歴史”を、
世にバラマニアのための様々な書物・データなどがあるなかで、バラがちょっと気になるなと思っているヒト向けに(自分のレベルだが)再整理をしてみる。

そのスタートはこの花しかないだろう。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

1997年8月31日に痛ましい事故でダイアナ元英国皇太子妃が亡くなった。
そのメモリアルと彼女がかかわったチャリティ資金を得るために、1999年にアメリカJ&P社で作出されたのが、ダイアナ プリンセス オブ ウェールズだ。

J&P社は、ジャクソン・アンド・パーキングといいアメリカに於ける有名な育種会社で、バラの新種開発と通信販売という新しい手法で20世紀初頭から成長した会社だ。

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズは、四季咲きでクリーム地の花弁にうっすらとピンクが載りさらに朱色がまし香りも素晴らしいハイブリッド・ティー(HT)だ。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズ(Diana, Princess of Wales) 
・ 系統:HT(ハイブリッド・ティー)
・ 作出:アメリカ、J&P社(ジャクソン・アンド・パーキング)、1999年
・ 花色:クリーム地に薄いピンク
・ 咲き方:四季咲き
・ 樹高:150cm

補 足
とげのあるバラ、角が出ているときのかみさんからは遠ざかろうと思っていたが今は懐かしい。不帰になって初めて気づくこともある。
しかし、バラの歴史だけはおさえておきたいと思い始め、小さく始めてみることにした。
といっても、自ら作るのではなく借景に徹しようと思う。
わが庭でも3種ほどあるが、これを増やすことはせずセージを増やすことに専念し、バラ園やよそ様の庭の美しいバラの記録を撮らせてもらいバラの物語りを残させてもらう。当面の借景先は、野田市清水公園にある花ファンタジアのバラ園である。

 バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ

日本で愛されている花の代表は、カーネーション・キク・バラと言ってもよい。
キクは一度取り上げたが、原産地と原種がわからないほど雑種化され園芸品種が増えている。

バラも同じようで、いま手にしている豊富な色彩、花形などの美しいバラは園芸品種だ。
その園芸品種の始まりからバラストーリーをスタートする。

1813年、パリから西に20㎞のところにあるマルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生した。ここからバラの世界は大きく変わることになる。世界で初めて人工交配による品種改良が行われ、幾多の新品種がここマルメゾンで育成された。
ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えることになる。

(写真)マルメゾン城
 

マルメゾンの館は、ナポレオンとその妻ジョゼフィーヌが1799年に購入した。あまりにも高額でナポレオンには払えなかったが、しかし、ジョゼフィーヌは諦めなかった。“憧れの英国キューガーデンのような自然庭園を作りたい”これがジョゼフィーヌの動機で、ナポレオンの尻をたたいて手に入れてしまった。

ナポレオンの出世とともに、世界中から高価なバラの苗木を集め、ナポレオンと離婚した1809年から彼女が死亡する1814年までの間ここに住みバラ園をつくった。
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めたこの当時の全てのバラに近い250種があったというから驚きだ。

マルメゾンの庭園に使ったお金の総額は国家予算レベル??
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというが、一体いくらぐらいお金を使ったのだろうか? というのが素朴な疑問としてわいてくる。

ジョゼフィーヌが、遅れていたフランスのバラ育種産業をイギリスと並ぶように育てたくらいだから相当使ったようだ。これを趣味・贅沢・浪費などというが、産業を振興した政策コストでもあり、最近の2兆円バラマキとはだいぶ違う。これは浪費でも政策コストでもなく無駄という。

この時代のヨーロッパNo1の育種業者は、イギリスのリー&ケネディ商会で、マルメゾン庭園のバラはここから仕入れていた。
1806年にイギリスとヨーロッパ大陸との通商を封じ込めるために“大陸封鎖令”をナポレオンが出した。
イギリスと通商が出来なくて困るのはジョゼフィーヌもしかりで、特権を使い抜け道を作った。
それは、ベルギーのジョゼフ・パルメンティエ(Louis-Joseph-Ghislain Parmentier 1782‐1847)を経由して苗木を手に入れたようだ。植物へのほとばしる情熱をナポレオンですらとめることが出来なかった。

マルメゾンのバラ園には、赤バラのガリカ、ダマスク、白バラのアルバ、日本産のハマナスなどオールドローズが集積しただけでなく、ジョゼフィーヌはデメス(Jacques-Louis Descemet 1761‐1839)、元郵便局員のデュポン(André Du Pont 1756-1817)など多くの園芸家を支援し、より美しいバラづくりに打ち込ませたという。

これらの費用は、一説によると国家財政の三分の一にのぼる負債を残したともいわれるが、ナポレオンがやった戦争ほどお金がかかるものはないので一説とするが、かなりのものをバラのために使ったことは間違いない。
マリーアントワネットは1793年に断頭台に消えていったが、無聊を慰める庭造り・バラの収集は、マリーアントワネットから引き継いだのだろう。

ジョゼフィーヌと“リー&ケネディ商会”
ジョゼフィーヌ御用達の育種業者は、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者といわれたリー&ケネディ商会であり、ジェームズ・リー(James Lee 1715–1795)と、ルイス・ケネディ(Lewis Kennedy、1721-1782)が1745年に設立した。

18世紀のイギリスは産業革命が進行した世紀だが、一方で、世界の花卉植物が愉しめる時代でもあり、王立キュー植物園が始めて海外に派遣したプラントハンターであるフランシス・マッソンのようなプラントハンターと、採取してきた植物を育成栽培する育種業者(nurseryman)が勃興活躍した。

ジョゼフィーヌと交流があったのは、2代目のジェームズ・リー(1754-1824)で、南アフリカでのプラントハンティングのベンチャービジネスに共同出資もしていたようだ。
ジョゼフィーヌはバラだけでなく、南アフリカケープ地方のヒースマニアでもあり、1803年からのジェームズ・ニーヴン(1774-1827)の南アフリカケープ地方でのプラントハンティングに、ジェームズ・リーなどと共同出資し、その成果をヒースなどの新種という現物でも受け取っていた。ジョゼフィーヌのヒースの収集は、1810年頃には132種まで増えたという。

この2代目のジェームズ・リーは交際範囲が広く、アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン、さらには、なんとフランシス・マッソンとも相当親密な交際をしていたようだ。

リー&ケネディ商会がNo1といわれたのは、顧客の質だけでなく、世界的な花卉植物の仕入れが可能だから出来上がった。そこには正式ルートだけでなく裏ルートも存在したようで、ジェームズ・リーとマッソンの交際も種子・球根などの横流しとしで疑われた。
マッソンとジョゼフィーヌの接点は確認できていないが、ケープ地方のヒースを採取した第一人者はマッソンであり、ジョゼフィーヌにとっては、憧れのヒトであったかもわからない。

いつの時代でも趣味という領域は意外な人物を結びつけ、その先にさらに意外な人物が連なるという面白いネットワークをつくる。
善意の人たちのネットワークは、意外な力を発揮するが、悪意を持ったヒトがかかわると食い物にされるもろさがある。ジョゼフィーヌ、マッソンは食い物にされる善人のようだが、ジェームズ・リーはどうだったのだろう?
この商会は、卓越した個人技でNo1を構築したため、卓越した個人が消えた1899年に154年の歴史を閉じた。

ジョゼフィーヌの履歴書
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814)は、1804年にナポレオンが帝位に就いたのでフランスの皇后になった。

彼女の生い立ちは、フランス出身かとばかり思っていたが驚いたことにコロンブスが発見しコロンブスにして“世界で最も美しいところ”と言わしめたカリブ海に浮かぶマルチニック島(現在はフランスの海外県)の貴族の家に生まれた。

1779年16歳のときにパリに出てきて、植民地長官の息子アレクサンドルと結婚したが1783年に離婚。
1794年にアレクサンドルが革命政府に処刑されてからナポレオンと知り合い、1796年に結婚した。
ナポレオンと結婚しても、遊び癖は直らずパリでは有名な遊び人だったようだ。

ほんの一例が、1722年に完成したエリゼ宮は、フランス革命の激動を乗り越える際にダンスホールとゲームセンターになった時期がある。
ルイ16世のいとこにあたるルイーズ=バチルド・ドルレアン公爵夫人が生活苦に陥ったため1階部分を貸し出したためである。
このダンスホールでひときわセクシーで目立つた美人がいた。エジプト、イタリアなどに遠征しているナポレオンの妻ジョゼフィーヌで、彼女が来るパーティやダンスホールなどは商売として成功するといわれるほどの有名人で相当な遊び人だったようだ。
エリゼ宮は今では国家元首が住む宮殿となっているが、最初にここに住んだ国家元首はナポレオンだった。
こんなジョゼフィーヌが、ナポレオンとの離婚後は、或いは、マルメゾンの館を買ってからは、庭造りと植物学にのめりこむ。

(写真)マリールイーズの花
 

そして、1813年、マルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生し、このバラに『マリー・ルイーズ』と命名し、別れた夫の再婚相手マリー・ルイーズに捧げた。
ナポレオンが再婚したマリー・ルイズは、神聖ローマ帝国フランツ二世の娘であり、マリーアントワネットの姪に当たる。

ハイブリッド品種の先駆け『マリー・ルイーズ』が誕生した1813年は、ナポレオンがロシア進攻に失敗し翌年退位、エルバ島に島流しとなる時期であり、また、ジョゼフィーヌも翌年に病気で亡くなる。

フランス革命があったからこそカリブ海の一植民地の娘がフランスの皇后になれることが出来、離婚後は、庭造りと植物学に熱中しバラの歴史に革命をもたらした。
このエネルギーは何処から来ていたのだろう?

ジョゼフィーヌの本名は、マリー・ジョゼフ・ローズだった。
ナポレオンがフランス風に変えた“ジョゼフィーヌ”から“ジョゼフ・ローズ”に戻ったのだろうか?
激動期にマルメゾンで誕生したバラは、大きなうねりをつくり新しい血筋として未来に向かっていった。
彼女の名前には "ローズ”があり、そのバラが歴史に足跡を残した。

<追加・補足>
ジョゼフィーヌとナポレオンとは、確率を超えた運命的な出会いだった。

ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。

ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。
父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。

一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。
この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。
ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。

こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
 
(写真)皇后ジョゼフィーヌ


ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢
『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』
(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)

ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。

「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」
というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」
と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。

ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。

お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。

歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。 
という男と女の革命の結末だったのだろうか?

余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため、捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり “私の歴史” を残すことが可能になった。
きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。

【バラシリーズのリンク集】
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1

コメント

オールドローズ、ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)の花

2015-10-22 20:40:35 | バラ
 (写真)Sophie's Perpetualの花


園芸店を物色していたがサルビア関係はこれといったものが無く、オールドローズが目に入ったので購入した。
バラは愛でるだけで手を出さないというのが信条だが1,2品はあっても良いかな!と思い購入したが、好みは、完璧に完成したタイプではなく日本及び中国のバラが片親になっている、バラ用語で言えば半つる性のシュラブローズでしかもオールドに近いものが良い。気高い一本立ちの華々しいハイブリッド・ティーローズにはそっと遠くから敬愛し、近づかないほうが身の安全かなと思っている。

ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)は、四季咲き性で、直径7cm程度のセミダブル、カップ型の花を咲かせる。花色は外側の花弁が濃いローズ色で、内側にいくほど白に近い淡いピンク色となる。
このグラデーションがピントが合わない鈍い色彩となり、たおやめで規律・秩序から解放された枝とその先に濃い緑色の葉とが一体となり、古臭いな~と思うほどの出自の古さをかもし出している。
まるで野にある雑草のような書き方だが、人間の手が入らないほど植物本来の姿かたちを維持していて価値を感じるが、なかなかそのような原種にはめぐり合えない。特にバラの場合は難しい。
このバラも、人間の手が入っているがその由来が面白い。

ソフィーズ・パーペチュアルの由来
このバラは、1905年以前にウイリアム ポール(William Paul 1822-1905)によって作出されたという。そのときの名前は、“Dresden China "と呼ばれたようだ。
 (写真)ウイリアム ポール(William Paul)


ちょっと脱線するが、William Paulの父Adam Paul(?-1847)は、フランスで迫害されたユグノー教徒で、スコットランドに脱出・移住し、そこからロンドンに来て1806年にCheshunt nurseryを購入した。
Adam Paulのように旧教徒国フランスの弾圧から脱出したユグノー教徒は50万人以上とも言われ、その当時のプロテスタントの国(イギリス、デンマーク、スウェーデン、オランダ、スイス)に移住し、ユグノー教徒が持つ園芸の技術がこれらの地域にも普及することに貢献したという。2015年の現代でもシリアから1000万人が脱出・移住したと言われるが、後世どういう評価がされるのだろうか?

本題に戻ると、William Paulは父のナーサリーに入り事業パートナーとなるが、かたわらで1841年に創刊された園芸誌“The Gardeners' Chronicle”に記事を書くライター家業もこなし、書き溜めた掲載原稿をまとめたら名著「The rose garden」が誕生し、1848年に第一版が出版された。
1847年に父Adam Paulが亡くなり、ナーサリーは、兄のGreorge PaulとWilliam Paulで引き継いだが、Williamは1860年に独立して自分のナーサリを創り、バラ栽培事業者としての名声を確立していく。
この兄と弟の両ナーサリーは、バラを始めとして新しい品種開発をして、栽培した園芸品種は、“Paul's品種名”として発表した。兄が作ったのか、弟のWilliam Paulが創ったか良く分からないものもあるようだ。

この“Dresden China "と呼ばれたバラは、その後行方が分からなくなり大分時間が経って意外なところから登場した。
再発見したのは英国サーフォークにあるLime Kilnガーデンに住むハンフリー・ブルック(Humphrey Brooke 1914-1988)で、作出されてから半世紀以上もたった1960年のことだった。

(写真)Thomas Humphrey Brooke ( 1914-1988 )


(出典)National Portrait Gallery, London

ハンフリーブルックの前に、Lime Kilnローズ・ガーデンの歴史を説明する必要がある。

 (写真)Lime Kiln Rose Garden


lime kilnは、もともとはサーフォークの古い農家の作業場であり、最後のロシア帝国の駐英大使の未亡人ソフィーベッケンドルフ伯爵夫人(Sophie Benckendorff 1855-1928)が夫の死亡後の翌年の1918年に購入し、レンガの壁に囲まれた中庭が作られ、バラ、イチイ、イトスギなどが植えられた。1928年の彼女の死により手入れがされずに荒れた庭になっていたが、1954年にこのlime kilnは、ソフィーの孫娘ナタリーが相続し、その夫Humphrey Brooke ( 1914‐1988 )とともに庭に手をかけて蘇るようになる。

ハンフリーブルックは、1946年にナタリー(Nathalie Benckendorff)と戦時下のウィーンで出会い、イングランドで結婚した。ハンフリーは、ヨークシャーのヨーロッパで2番目に古い羊毛業の家系で、1968年に王立美術院を退職し妻が相続したサフォークのLime Kilnでバラ栽培を始めた。
彼は、オールドローズを好み、栽培方法は独特で花柄を摘む以外は無駄な枝をカットすることも無く、肥料も水もあげないという自然のままに育てるということをやり、荒れ果てた庭園を蘇らせた。
彼の人生の終りまでに500以上のバラの種類を栽培し、そしてこの庭園を1971年に開放・公開して英国初のバラ園を作ったというから素晴らしい。
オックスフォード大学を優秀な成績で卒業した青年が、老年期にはバラ栽培の第一人者となる生き方も素晴らしい。しかも、常識を覆す栽培法にたどり着きオールドローズをこよなく愛したと言う。

“Dresden China " から “Sophie's Perpetual”へ
1960年にハンフリーブルックは妻が相続したLime Kilnの庭でオールドローズを発見した。
このバラは、1924年にソフィー伯爵夫人が、ジョージポールナーサリーから6種類のバラを購入し、その中に“ドレスデンチャイナ”というバラがあったという記録が残っていた。
“ドレスデンチャイナ”は、1922年までは流通していて、王立園芸協会の会報にジョージポールナーサリーの名前で商品紹介がされていたので、ソフィー伯爵夫人の記録は間違いがないだろう。
ポールのナーサリーで売っていたバラというところまではたどり着いたが、1905年に死亡したWilliam Paulが作出したというところまではたどり着かない。

ブルックは、“Dresden China " では1961年にフランスで作出された“Dresden"と誤解されやすく、また、陶磁器と間違えかねないので名前を変えることにした。
Lime Kilnの庭をデザインした妻の祖母Sophie Benckendorffの名前を付け栄誉をたたえることにし、“Sophie's Perpetual”として1972年に現存している園芸店のNotcuttから再デビューして今日に至る。
今では世界で愛されるバラとなり、華麗なハイブリッド・ティーのカウンターカルチャーとして存在感を持っている。

(写真)ドレスデン(Dresden)
 
(出典)ドレスデン(Dresden)

1988年ハンフリーブルックの死後、庭は荒廃し1990年代新しい所有者が元の状態に戻す努力をしたが完全に復旧していないという。

(写真)Sophie's Perpetualの花


ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)
・カテゴリー:オールドローズ 
・系統:ハイブリッド・チャイナ
・作出:1905年以前 英国、PAUL, WILLIAM (1822–1905)?
・花 :中輪、カップ形、四季咲き
・丈 :細い枝がシュラブ状に繁茂する、樹高は90㎝程度

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プレ・モダンローズの系譜 ⑥現代のバラ、ハイブリッド・ティーへの進化

2009-01-08 09:34:44 | バラ

ティーローズからハイブリッド・ティー・ローズへ
現代のバラの主流は、ハイブリッド・ティー・ローズ(略称:HT)だが、
このHTは、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)とティー・ローズの交雑で生まれた。

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズは、このシリーズの⑤でふれたが、ノアゼット系のバラ、ブルボン系のバラなどが1810年代後半に登場したその土台の上で成立し、ラフェイ(Jean Laffay)が1837年に作出した「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」が最初の品種とされている。
一方、ティー・ローズは、翌年の1838年に作出された「アダム(Adam)」が最初の品種として登場した。

ほぼ同時期にハイブリッド・ティー・ローズにつながる重要な系統がフランスで誕生した。この根底には、中国原産のバラが深くかかわっているのでこれを確認していくことにする。

ティー・ローズ誕生に関わった中国原産のバラ
1700年代の中頃以降から中国原産のバラがヨーロッパに伝わり、マルメゾン庭園での人工交雑以降の1810年代頃からあらゆるバラと交雑され、そこから重要な系統が誕生した。ノアゼット系、ブルボン系、ティー・ローズ系などである。

(1)1809年にイングランドに中国原産のバラが伝わる。
このバラを導入したヒューム卿の名前を取り、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と呼ばれた。
このバラは、中国原産のコウシンバラと中国雲南省原産のローサ・ギガンティア(Rosa gigantea)との自然交雑で誕生したといわれている。
ローサ・ギガンティアは、中国名で香水月季と呼ばれ、大輪で花弁のふちが強くそりかえるという特徴があり、現代のバラの花形にこれを伝えた。

(2)1824年にはイエローローズの基本種が入る。
英名では、パークス・イエロー・ティー・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China) 、中国名では黄色香月季と呼ばれたバラがイングランドに伝わる。このバラは、イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper (Danpia)Parks)が中国・広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。翌年にはパリに送られる。

(3)最初のティー・ローズ「アダム」の誕生
最初の品種は、1838年にフランスのアダム(Michel Adam)によってつくられた。ヒュームのバラとブルボン系の品種との交雑で作られたといわれ、大輪、柔らかい桃のような花で、強いティーの香りがする。

(写真)最初のティー・ローズ「アダム」

(出典)  http://www.bulbnrose.org/Roses/Rose_Pictures/A/adam.html

最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表されてから以後、1838年フォスター作の「デボニエンシス(devoniensis)」、1843年ブーゲル作の「ニフェトス(Niphetos)」、1853年に代表種であるルーセル作の「ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)」が発表された。

また、ティー・ローズは雨が多くジメジメした涼しいイギリスの気候は適さず、1800年代の中頃にはフランスのリビエラが栽培の中心となった。

(4)ハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス(La France)」の誕生
1867年、ついに最初の四季咲きハイブリッド・ティー『ラ・フランス('La France)』が作られた。作出者は、フランスのギョー(Jean-Baptiste Guillot 1840-1893)

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」

(参考) Hybrid Tea Rose ‘La France’
http://www.rosegathering.com/lafrance.html

花は明るいピンク色で裏側が濃いピンク、剣弁で高芯咲き、花径は9-10cm、花弁数が45+15枚と多く、香りはオールドローズのダマスク香とティーローズ系の両方を持ち四季咲きの大輪。
交雑種は、ハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトール・ベルディエ(Mme Victor Verdier)」とティー・ローズ系の「マダム・ブラビー(Mum Braby)」といわれている。

しかし実際は、リヨンにある育種園の苗木の中からギョーにより発見されたようで、人工的な交雑ではなく自然交配だったようだ。だから、両親がよくわからない。

しかも初期の頃は、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズと考えられていたが、
イギリスの農民でバラの育種家・研究者でもあったベネット(Henry Benett 1823-1890)が、「ラ・フランス(La France)」を新しいバラの系統として評価し、ハイブリッド・ティーの名を与え「ラ・フランス(La France)」をその第一号としたことにより新しい系統となった。

園芸品種の中では、バラの系図が最も明確にされているが、これはベネットのおかげであり、新品種作出の交雑種・作出者・作出地などが明確でなかったものを、各品種ごとに明らかにし、一覧表に記載する方法を考案した人で、その後の系統分類の基礎を築いた人でもある。
彼は、1879年に10の異なったバラの系統を示し、この時にハイブリッド・ティーという系統も提示した。フランスでは比較的早くハイブリッド・ティーが認知されたが、全英バラ協会がこれを認めたのは1893年で「ラ・フランス」誕生から26年後だった。頑固な英国人気質は今はじまったことではなさそうだ。

また、境界線を引くことは意外と難しく、1859年にリヨンのFrançois Lacharmeが作出した「ビクター・ベルディエ(Victor Verdier)」は、両親が「Jules Margottin」(ハイブリッド・パーペチュアル)と「Safrano」(ティー・ローズ)であり、最初のハイブリッド・ティー・ローズであってもよかったが,そうは認められずハイブリッド・パーペチュアルとなった。
しかし、最初のハイブリッド・ティー「ラ・フランス」には、「ビクター・ベルティエ」の遺伝子があった。

現在主流のバラハイブリッド・ティー(HT)は、このようにして誕生し、“選び抜かれた雑種の極み”とでもいえだろう。
“純血よりも美しくて強い” これがハイブリッドで実現したことで、混血を見くびってはいけないという教訓を我々に教えてくれる。
国粋主義者は滅び行く宿命を抱えているのだろう。

HT=HP系×ティー・ローズ系
HP=ノアゼット系、ブルボン系、ポートランド系などの交雑
ティー・ローズ=コウシンバラ(Hume's Blush Tea-scented China)×ローサ・ギガンティア

(プレ・モダンローズの系譜==完==)

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プレ・モダンローズの系譜 ⑤四季咲き性の取り込み

2009-01-06 09:15:41 | バラ

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。

1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。
そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだがこれらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」


フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のデュポン(Dupont)とバラの育種業者のデスメーだった。

デスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)は、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人口交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert)に全てを売り渡したという。そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)によって完成されたことになっている。彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のHPである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その一~二番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアルをつくる栄誉を得た。2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥ベルディエ(Victor Verdier)が作り出した。ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからないプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがある。このブル種のバラは、ヴィベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 。どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで“ハードウエアー”販売店(金物店?)を開店した。バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(写真)「フラウカール・ドルシュキ」の花2


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プレモダンローズの系譜 ④ ブルボンローズの誕生

2008-12-31 08:48:36 | バラ

レユニオン島の住人A.M. Perichonは、1817年以前に島にあるバラとは異なる品種を発見し、それを育てて生垣用として配った。島では、耕作地の垣根をバラで囲っており、中国原産のコウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)とダマスクバラが植えられておりこれらとは異なる品種だった。
コウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)は、アメリカ・チャールストンでノアゼットローズの片親となっている重要なオールドローズだ。

レユニオン島の説明が必要だが、アフリカ、マダガスカル島の東のインド洋上にある島で、現在は、フランスの海外にある4つの県のうちの1つで、コーヒーの木のオリジナル種ブルボンがあることで知られる。

この島は、大航海時代の1507年にポルトガル人が発見したがこの時は無人島だった。1645年にフランス東インド会社が入植を開始し1714年からコーヒー栽培を行った。
この島でのコーヒーの栽培はシンプルだけに面白いので、興味があればUCCコーヒーのサイトで、「幻のブルボン・ポワントゥの物語」をご覧いただきたい。

コーヒーの木も同じような背景があるが、隔離された島であり二つしかないバラから生まれた第三のバラが誕生した。

ブルボンローズ
・学名:Rosa borbonica Hort.Monac. (Rosa chinensis x gallica)
コウシンバラとガリカの交雑種
・英名:The Bourbon Rose

レユニオン島の植物園長として1817年に着任したフランスの植物学者ブレオン(Jean Nicolas Bréon 1785-1864)は、このバラに興味を持って調べ、ダマスクバラの“オータム・ダマスク”と中国産コウシンバラの変種“パーソンズ・ピンク・チャイナ”との自然交雑種であると考え、1819年にこのバラから得た種と苗をフランスのルイ・フィリップ王のバラ園で働く友人のジャックス(Antoine A.Jacques)に送った。

ジャックスは、1821年に初めて開花させ1823年にはフランスの育種家に苗木を配布した。この種が、「ブルボン・ローズ」と呼ばれるもので、ローズピンクで半八重咲き芳香がある。

このブルボン・ローズは、バラの画家ルドゥテにより1824年に最初に描かれていることでも知られており、ルドゥテは、絵の素晴らしさだけでなくバラの歴史の貴重な資料として使えるほど植物画としても正確性を有していた。

ブルビンローズの重要な役割は、さらに中国産のローズと交配され「ティーローズ」を生み出し、この「ティーローズ」からフランス人のギョーが1867年に「ハイブリッド・ティ」を作出したことにある。現代のバラの多くはこの系統に続く。

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プレ・モダンローズの系譜 ③ 品種改良

2008-12-28 11:27:44 | バラ
あわただしい年末に世事と離れていいのかという気もするが、避けて通れないテーマなのでとりあげることにする。

園芸品種の開発

バラの園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。

この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確立が悪くなるが当たって遠からずのようだ。

品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。

こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないと直ぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。

高嶺の花の代表バラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。

国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。

http://www.hinsyu.maff.go.jp/
(参考:農林省品種登録ホームページ)

実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。

1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。

2.交配(交雑)する時期
春の一番咲きの時期

3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。

4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。

5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。

6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。

7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。

8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。

9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。


バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがでしょうか?
いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。

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