モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

カランコエ(Kalanchoe blossfeldiana)の花

2017-04-14 16:41:42 | その他のハーブ
(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの立ち姿


あるところからこのカランコエを頂戴した。

最初は、よく出来た造花だな~と、最近の造花作品のリアリティとレパートリーの広さに感心した。
特に、肉厚の葉はゴムのような感触で手触りも良く、自然界には見慣れない程光輝いている。
本物に似せて作る素材の進化はすごいモノがあると感心した。

丁度、上野・合羽橋(カッパバシ)の道具街に食品サンプルの店があるが、そこで見る本物そっくりの食品のサンプル、或いは、100円ショップにある造花コーナーで色鮮やかな造花が際立っていて、本物よりも魅力を感じる瞬間がある。
こんな気分だった。

(写真)寿司のサンプル(本物ではありません)

(出典)JAPAN TRAVEL WEB MAGAZINE MATCHA

初めてのカランコエは、こんな強烈なインパクトを与えてくれた。
これがカランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana)というマダガスカル原産の植物の園芸品種だと分かるのにちょっと時間がかかった。

バオバブの木があるくらいだからマダガスカル原産の植物には日本の園芸常識では計れないモノがあるのだろう! と納得した。

(写真)バオバブの木

(出典) 「ぱんさのマイナー植物園/バオバブ王国」

(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの葉・・・どう見ても良くできた造花だね!


カランコエ・ブロスフェルディアーナの歴史

カランコエは、ベンケイソウ科の1属で、この中には分類方法にもよるが約140種が含まれ、マダガスカル、アフリカ南西部、熱帯・亜熱帯のアジアに分布する多肉植物で、わが日本でも園芸品種が結構販売されているという。

カランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana)の原産地はアフリカ東側のインド洋にあるマダガスカルで、島の北部の都市アンツィラナナ(Antsiranana)のツァラタナナ山中で1927年に発見・採取されたというから植物の世界ではつい最近発見されたことになる。

発見・採取したのは1896‐1933年まで37年間マダガスカルの植物を調査研究してきたマダガスカルの植物のスペシャリスト、フランス人のジョセフ・マリー・ヘンリー・アルフレッド・ペリエ・デ・ラ・バシィー(Joseph Marie Henry Alfred Perrier de la Bâthie 1873 – 1958)という長い名前を持っているヒトだった。
名前にマリー(Marie)がはいっていたので女性かと思ったが男性だった。

ペリエ・デ・ラ・バシィーは、この原種を1927年にパリに送り、ドイツ・ポツダムで育種業をしているロバート・ブロスフェルド(Robert Blossfeld 1882–1945)によってハイブリッドされ、1932年に室内植物のカランコエ(=Kalanchoe blossfeldiana)として売り出された。日本でも第二次世界大戦前に導入されたという。

学名のカランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana Poelln.(1934))は、ドイツの多肉植物の権威、ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)によって1934年に命名された。
リンネの二命名法では、属名+種小名で生物の名前を付けるが、種小名のブロスフェルディアーナ(blossfeldiana)は、カランコエのハイブリッドを開発したRobert Blossfeldを記念してつけられた。

一方、属名のカランコエ(Kalanchoe)は、中国語の“落ちて育つもの”という意味の「加籃菜」( jia lan cai )の音読みによるという説がある。
何故かというと、カランコエの仲間は、葉の鋸歯部分に生長点を持っているので葉が脱落すると、ここから発芽し新しい個体になるのでこの特長をさしている。

最近の言葉ではこれを「ハカラメ(葉から芽)」と呼び、葉を水に浮かべて沢山の芽を出させるので「マザーリーフ」とも言っているようだ。

まるでこのような名前の展開は、赤提灯の定番ホルモン焼きのホルモンの語源の一つである、「大阪弁で捨てる物にあたる“放るもん”」に良く似ている。

本題に戻ると、この属名をつけたのはフランスの植物学者でリンネに対抗する植物の分類体系を発表したMichel Adanson(1727-1806)で、1763年に命名されたというから二名法初期の頃だった。

ところで多少気になることがあったが、ドイツの学名命名者ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)とカランコエの園芸品種の作出者で学名の種小名に名を残すブロスフェルド(Robert Blossfeld 1882–1945)は、二人とも1945年に死亡している。
ブロスフェルドは確認できなかったが、ポエニーズは彼の家族とともに連合国の爆撃の犠牲となった。戦争というものはこのような現実をいくつも作って来たということに気づかされてしまった。

(写真)カランコエ・ブロスフェルディアーナの花


カランコエ(Kalanchoe blossfeldiana)

・ベンケイソウ科カランコエ属の小さい潅木のような多年草。
・原産地:アフリカ東側のインド洋にあるマダガスカルが原産地。
・学名:カランコエ・ブロスフェルディアーナ(Kalanchoe blossfeldiana Poelln.(1934))は、ドイツの多肉植物の権威、ポエニーズ(Karl von Poellnitz 1896‐1945)によって1934年に命名された。
・英名でのコモンネームは、flaming Katy,Christmas kalanchoe,florist kalanchoe等で、日本でカランコエの名で最も多く流通しているのは,マダガスカル北部のツァラタナナ山脈に生育するKalanchoe blossfeldianaの園芸品種である。
・草丈15-80cmの低木で、多肉質の葉を持つ多年草。
・短日植物である。つまり、連続した暗期(夜)が一定時間より長くなると花芽が形成される植物なので、この性質を使い花を開花させる時期をコントロールすることが出来るので1年中販売されている鉢物になっている。
・花弁は5枚でやや反り返っていて星の形に開花する。開花時期は秋から春。花色は、白、黄色、ピンク、オレンジ等豊富。クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーなどのイベントでのギフトとしても重宝。
・耐寒性はあまりなく12~15℃の温度で育てる。冬も5℃以上に保つ。
・多湿を嫌い、排水のよい用土に植え,日当りのよい場所で育てる。
・繁殖は挿木によって行われる。

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『J・ジュシューの失われたコレクション』

2017-04-02 09:39:29 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ④

18世紀末、スペインの植民地での科学的な植物調査の始まりは、フランスの大臣チュルゴー(Turgot ,Anne Robert Jacques 1727-1781) の一言からはじまった。

「J・ジュシューの失われたコレクションを取り戻すためにペルーへの科学的な遠征を開始する。」 これを1775年に宣言した。

ジュシューの苦悩
ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)は、コンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)達と一緒に南米ペルー副王国に向かって1735年5月にフランスの港を出港し、フランスに戻ってきたのは36年後の1771年だった。

何故こんなにジュシューの帰国が遅くなったかといえば理由は二つある。
最大の理由は探検隊全員が帰れるほどの帰国するための金がなかったこと、
さらには、1745年に天然痘が発生し植物学者・医者であるジュシューは貴重な人材であり植民地政府から帰国を禁じられ治療に当たらざるを得なかった。
また、翌年1746年にはペルー・リマ沖でM8.6の大地震が起き、町・港が崩壊して帰るタイミングをなくしてしまった。

コンダミンより26年遅れの帰国となるが、ジュシューは65歳になっていた。
ジュシューはいわば、矢は使い果たし、刀は折れ、身体・精神ともボロボロ状態で戻ってきた。

それは、1761年に帰国しようと決意し、それまでにジュシューが現在のエクアドル、ペルー、ボリビアなどで採取した貴重な植物標本及び記述したノートブックそして重要な植物の種などで一杯の木のトランク(箱)を彼の使用人に預けたが、宝物が入っていると勘違いされ、ブエノスアイレスで持ち逃げされてしまった。

このショックから立ち直れなかった。
フランスの名門植物一家の一員が証明できる成果無しで帰国出来る筈が無いのに帰国してしまった。

このトランクの中に入っていたモノが『ジュシューの失われたコレクション』だった。

一説によると、トランクの中にはキナノキの種が一杯入っていたという。

歴史に“もし”ということはないが、この種がフランスに持って帰れたら100年後にオランダがジャワ島でキナノキの移植栽培に成功し、世界のマラリアの特効薬キニーネ市場を独占したが、このポジションにフランスが100年早くついていたかも分からない。

オランダがキニーネの市場を独占できたのは、キニーネの含有率が高い品種のキナノキの種から芽を出させ、成木にする技術と長い時間を待てる根気があったからだが、種から育てるところにたどり着くのに時間がかかった。
コンダミンも英国・オランダのプラントハンターも若木を集めて移植栽培しようとしたが全て失敗し、打つ手無しの状態だった。

ジュシューの着眼点は素晴らしい。着地に失敗しただけだと割り切れないところがあるが。

ジュシューは、多くの成果物を失っての帰国であり、失意の中での帰国だったが、ジュシューのコレクションのマイナーな部分はフランスに持ってくることができ、ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744‐1829)は彼の有名な“Encyclopedie Methodique Botanique”の仕上げにおいてそれらを利用したというので、失ったコレクションの価値は非常に高かったのだろうと思う。

(写真)ラマルク著「Encyclopedie Methodique Botanique」


ジュシューの活動記録

まずはジュシューの活動を追跡してみることにする。

(地図)ジュシュー(ブルー)の植物を採取した場所

※ コンダミンがアマゾン川上流で探検した場所(オレンジ)

ジュシュー達がエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
ここからキト(Quito)に向かい、キトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離を測ることになるが、これが完了するのが1743年5月なので、この間のジュシューの活動エリアはエクアドルのアンデス山脈及びアンデス山脈の東側アマゾン川上流地域となる。

アンデス山脈東側に足を踏み入れたのはジュシューとコンダミンが科学者として初めてで、この二人の記録はフンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769‐1859)の南米アマゾン探検に刺激を与えたという。

一口に探検といっても現代とは様相が大違いで、パナマ海峡の横断、キトへの道中は、道なきジャングルを切り開き、手足は傷だらけ、虫に刺されて熱を出し(マラリアにかかる)、豪雨で進めず、氷点下の気温で凍りつき、あらゆる苦難が待ち受けていた。

ガイド・荷役として雇った現地人が、自生しているキナノキで熱を下げ、コカの葉で痛みを和らげることをジュシューに教えてくれたが、この現地人達もあまりの厳しい道のりなので逃げ出し、荷物を背負うロバも通れない崖の所ではロバを棄て、自分たちで荷物を担ぐことになったという。
探検の成功は装備と兵糧に負うところが多いが、持てるモノが限られるので棄てざるを得なくなり難渋を極めたようだ。

かくして、ジュシューは、自生している生きているキナノキ及びコカ等を科学的に調査した初めてのヨーロッパ人となった。(栄誉は帰国が早く報告書を書いたコンダミンが獲得した。)

(写真)ペルー、ボリビアで活動したところ


ジュシューは1736年から1748年までエクアドルにいて、
これ以降は南のリマ(ペルー)に下がり、ワンカベリカ水銀鉱山(Huancavelica)、ポトシ銀山(Potoci)などで医者として働きながら植物採取をし、チチカカ湖(Titicaca)では鳥を集めたという記録が残っている。


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