モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ミツバアケビ(三葉木通)の花

2009-03-31 13:27:43 | その他のハーブ
四月上旬に開花するミツバアケビだが、ちょっと早めに開花していた。
雌雄同株で同じ株に雌花と雄花が分かれて咲く。

(写真)ミツバアケビの雌花と雄花


雌花は、昆虫が止まれるように赤紫色の大きな萼(がく)を広げ、6本の雌しべで待ち構えている。雄花は、小さなカボチャのような形をした1~2mmの大きさのものが10数個一つの房につく。

この二つを見比べ、どのように受粉するのだろ? という疑問がわいてくる。
雄花には花粉がなさそうに見え、雌花には受粉させるはっきりとした柱頭が見当たらない。

だが受粉をして秋には実がなる。雌花の雌しべの数だけバナナの房のように実がなるので、ちょっと不思議なところがある植物だ。
同じ株では受粉しても実が出来ないので、昆虫がよその株で花粉をつけて来ていることは間違いない。

昨年は実がならなかったが、近所で連携して育てないと受粉しない可能性がある。オリーブは雌雄異株なのでよけい連携が必要だ。

(写真)ミツバアケビの葉と花


ミツバアケビ(三葉木通 )
・アケビ科アケビ属の落葉つる性の木。対象物に右巻きで巻きついてくる。
・学名はAkebia trifoliata ( Thunb. ) Koidz.。和名はミツバアケビ(三葉木通)、英名は、THREE-LEAF AKEBIA。
・アケビの名前の由来は、熟して開口した姿からきた“開け実”(あけみ)が通説。
・本州から九州の野山に自生し、中国にも分布する。
・木は雌雄同株で花は雌雄異花。
・開花期は4~5月に濃い紫色の花が咲く。雄花はブドウの房のように1~2mmの大きさの花が多数つく。その元に雌花が独立して数少なく咲く。
・花粉がないので、昆虫に受粉してもらうための仕組みが良くわかっていない。
・果実は9~10月頃で、緑がかったものが紫色に熟し割れる。
・小葉が3枚で、縁に波状の大きな鋸歯がある。名前のミツバアケビはここから来る。アケビの場合は、小葉が5枚なのでここで区別できる。
・つる性の茎は、木通(もくつう)と呼ばれる漢方の生薬として利用されるだけでなく、かごを編むなどの工芸品の素材として珍重される。

命名者
・小泉源一(Koidzumi, Gen'ichi 1883-1953)
京都帝大の教授で、ソメイヨシノの韓国・済州島起源説等を提唱したことで知られる。それだけ謎に富んだソメイヨシノであり、いずれソメイヨシノ・上野でふれるかも?
・ツンベルク(Thunberg, Carl Peter 1743-1828)
リンネの弟子にあたるスウェーデンの植物学者。江戸時代に日本に来て、世界に日本の植物などを紹介した偉大な植物学者。

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その81:江戸を歩く ⑥飛鳥山の花見

2009-03-30 11:25:07 | ときめきの植物雑学ノート
飛鳥山を語るには、1720年の江戸に戻らなければならない。この年に八代将軍徳川吉宗により飛鳥山に桜の木が1270本も植えられた。
何故桜の木が植えられたのかという謎解きをしておこう。

(写真)東京の名所 飛鳥山公園の桜花見(3月28日)


花見の背景
徳川幕府を長持ちさせたのは八代将軍徳川吉宗の享保の改革があったからだといわれている。
吉宗は二代将軍秀忠の男子直系が死に絶えたので御三家紀州藩主から将軍となり、五代将軍綱吉を尊敬し、自ら一日二食で一汁三菜と質素倹約を旨とし、武芸復興を行い鷹狩を復活させた。自らが先例に則らない生い立ちなので先例に則らない『改革』を行った。

余談だが、ということは大化の改新、明治維新など先例のないことを起こさないと『改革』が出来ないという事例でもあり、今年9月までにある総選挙での我々国民の覚悟の参考となる。
この鷹狩の場に桜の木を植えさせたのが吉宗だったが、享保の改革と無縁ではなかったようだ。

ガタがきていた幕府の統治能力を立て直すために、①税の改革、②公務員制度の改革、③新規事業による総需要の創出、④裁判制度のスピードアップ改革、⑤民意を吸い取る目安箱制度創出等を行った。

それぞれを簡単にレビューすると、
①税の改革では、米の出来高に応じて年貢を納める(検見法)のではなく、過去年度の収穫高の平均で年貢を納める定免法(じょうめんほう)を1722年に導入し幕府収入の安定化を図った。豊作のときは農民に余剰が出、凶作のときは厳しい事態となった。また1728年には年貢を五公五民制(徳川家康が制定した四公六民制)に増税した。これにより、豊作遊興による都市文化の発展と凶作による一揆が同居することになる。

②の公務員制度の改革は、役職と禄高がリンクしていたこれまでの制度を改革し、南町奉行大岡越前守などの下級旗本で能力ある人材を登用した。いわば、役職手当をつけることでこの問題を切り抜けたが、既得権益化し固定化・保守化する人事に新しい血が入る仕組みを生み出したともいえるし、新政策を実行するには、ヒトを変えなければ出来ないという現実もある。

今日まで残る悪習慣がある。それは、江戸期の官僚に作られた“贈収賄”である。体制が変わらない安易性とお上意識が利権をむさぼる温床となり、ロバート・フォーチュンの「江戸と北京」でも、“こいつらが”というほどの汚い日本人と蔑んでいる。この役人の贈収賄の取締りを行った初めての将軍だったが、今でも続く悪習は、倒産・失職もなく責任をとらない江戸期が続いているからなのだろう。

③新規事業による総需要の創出は、米本位制の江戸時代には「新田の開発」であり、江戸初期の全国の米生産量が1800万石だったのが江戸中期には2500万石まで4割近い伸びを示し、関が原合戦の頃の日本の総人口推定が1200万人に対して、江戸時代には3100万人まで増加したと見られている。この著しい人口の増加は、食糧生産の増加によって支えられていることはいうまでもない。税収も当然増加し新事業の育成・開発は政府の重要な役割でもある。
道路を作る財源を産業創出に振り向ければ、雇用の創出と税収の増加が出来るのにと思うのは私ばかりだろうか?

このように幕府財政を改善するために基本政策として“倹約”と“重税”化したので、庶民には当然不人気となる。この不人気をカバーする政策が、“花見”であり無料の赤ひげ診療所“小石川養生所”でもあったと思う。

(写真)江戸名所 飛鳥山花見乃図(歌川広重1853年作)


飛鳥山のサクラと花見
飛鳥山のサクラが庶民にも開放されたのが増税後しばらくたった1737年頃といわれる。この年は、桜の木を植えた鷹狩場を王子権現に寄進した年でもあり、植えてから17年もたっているのでさぞや見事に育ったことだろう。

何故飛鳥山に桜を植えたのかという疑問は、王子権現にあった。この王子権現は、郷里の熊野権現信仰であり信仰上の特別な思いがあったという。

「サクラ」の語源には、イネの神が宿るという説を桜井満が唱える。「サ」は、早苗・五月雨などの「サ」であり穀霊を意味し、「クラ」は神楽、神座(かくら)であるという。サクラの花にはイネの神が宿るということを将軍吉宗が知っていたとしたらさらに納得であり、その木の下で酒宴を行い豊作を祈願する『花見』は非常にわかりやすい。

この頃の桜の名所は、家康を守り神にした上野の寛永寺境内であり、花見の酒宴などもってのほかであった。
そこで、飛鳥山の花見は、吉宗自ら酒宴を行い範を作ったから庶民の格好の憂さ晴らし・行楽の場となり、飲めや歌えや仮装などの現在まで続いている『花見』の原型が作られた。

基点となる神田錦町から日光街道に接続する将軍家の御成通りであった本郷通りを北上し1時間でたどり着く圏内にあり、江戸庶民の健全な娯楽スポットとなった。この人気取りの都市環境整備政策は、ヒトを動かし、財布を開けるということを含めても大成功といっても良さそうだ。

飛鳥山で出来上がった『花見』は、日本独特の文化となり。豊作を祈願する場から、いまでは健康をテストする或いはタレント性を誇示する場となり、救急車とサクラより奇抜な装いに目を奪われたりしてしまうハレの場になってしまった。

しかし、理由はどうであれ、一瞬の季節感を愉しむ『花見』は、いいものだ。
憂さも忘れるので、『定額給付金』よりは気分がスッキリするし財布も開けてしまう。消費拡大は、徳川吉宗の政策に学びたいものだ。
(ただし、税率アップは、やることをやってから!)

現在の飛鳥山公園は、王子駅に隣接し交通便利なところにあるが過日の香りもなく整った公園になってしまっている。茶屋などを探したがそれも見当たらず、早々に退散してしまった。

(写真)東京名所 明治末から大正初期の飛鳥山の花見(飛鳥山博物館)

(写真)平成の花見、飛鳥山公園のサクラ

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その80:江戸を歩く ⑤江戸の育種園『染井村』と「ソメイヨシノ」

2009-03-29 17:29:49 | ときめきの植物雑学ノート
底冷えがし春爛漫とはいかないが、最も見慣れているサクラの代表「ソメイヨシノ」がもうじき満開になるがいまはまだ2分咲き程度だ。

(写真)染井の里「ソメイヨシノ」の花


この「ソメイヨシノ」の誕生したところ、『染井』に行ってみた。
場所的には、JR山手線の巣鴨と駒込、そして王子あたりを結んだ三角形の中にあたり、神田錦町からスタートする本郷通りがこの中心を貫いて日光にいたる日光街道に合流する。

(地図)染井村界隈 by google


JR駒込駅を出ると本郷通りを越えたところに大国神社がある。この脇を通り染井通り
にはいる。染井霊園まで一直線の染井通りは、幕末の江戸に来たイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンの著書「江戸と北京」にも「そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル(1,609m)以上も続いている。」と書かれている。この染井通りがフォーチュンの通った道のようだ。

フォーチュンが日本に来た目的は、「日本の首都、江戸の郊外には商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分のある人々は、全ての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂・王子・染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さずたずねることにした。」というように江戸の東北にある染井村は有名であったことがわかる。

現在の染井には、世界でも有数の苗木園があった面影は今はまったくない。
染井という名前すら消えつつあり、わずかに、六義園の駒込駅よりの入り口に“染井門”というのが残っている。

現在の染井を探索したが、丁度時期でもあり、地元のプロジェクトとして『ソメイヨシノ祭り』が開催されていた。
門と蔵のある広場で表彰式と記念植樹が行われ、西福寺の正面の広場でイベントが開催されていたが、西福寺までの道路の両側には「ソメイヨシノ」が花開いていた。

(写真)門と蔵のある広場

(写真)イベント広場


仕上げには、この時期にしか発売されない限定酒、芳醇辛口『染井櫻』を手に入れ、味わうこととした。

(写真)期間限定酒・芳醇辛口「染井櫻」

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その79:マリー・アントワネットの庭園 ②プチ・トリアノン庭園のコンセプト

2009-03-28 00:41:54 | ときめきの植物雑学ノート
マリー・アントワネットはプチ・トリアノンという隠れ家を手に入れた。

小さな正方形のプチ・トリアノン離宮にはあまり手を入れずに、庭の改修に力を注いだ。王権を誇示する広大で人工的なベルサイユ宮殿の庭とは異なるより自然な庭造りを目指した。

プチ・トリアノン離宮の右手にイギリス式風景庭園を作り、劇場を作り、1793年からは子供達と田舎の農園生活を味わうために自分たちが住む田園の村(アモー)が欲しくなりこれを作った。

そのモデルとなったのは、画家ユベール・ロベールのデッサンだった。



ユベール・ロベール(Hubert ROBERT l733-1808)は、フランスの風景画家であり“廃墟のロベール”とも呼ばれた。イタリアの古代遺跡・庭園・噴水などを描き、この絵の中に人物を描きこむ独自の手法を創った。
彼の絵画のユニークさは、建築物を縮小させる遠近法、計算された空間構成、巧みな色彩にあり、この特色はディズニーランドを表現する時にも同じように言われるはずだ。

人工的なアミューズメントパーク、ディズニーランドとマリー・アントワネットのプチ・トリノアン庭園が似ていると思うのは、基本コンセプトを創った画家ユベール・ロベールにあるのかもわからない。

(写真)田園風庭園の農家

(リンク)田園風庭園の風景写真

実際に作られた田園風庭園を見ると、コピーに近くデッサンが再現されている。プチ・トリアノン庭園は、建築家リシャール・ミックが建設しているが、画家・デザイナーが建築家のポジションを超えた瞬間でもあった。


プチ・トリノ暗離宮には図書室があるという。しかし、マリー・アントワネットは生涯数冊の本しか読まなかったといわれている。
王権を顕示する『フランス幾何学庭園』から離れるには、コンセプトを明確にして建築家。庭師などに指示をしなければならない。“自然に近い庭造り”といわれてもその当時はピンと来なかったのではなかろうかと思う。

本を読まなかったアントワネットに影響を与えたのは、『イギリス風景庭園』であり、概念としてはルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)だといわれている。
この二つに関しては、別途取り上げてみたいが、最初に造ったイギリス式庭園がアントワネットのイメージと違っていたのだろう。自然を取り込んだが、風景としてみる自然でありそこには人がいない。主人公のアントワネットと大事な子供が登場しない。ということに気づいたのかもわからない。

田園風庭園、アモーの建設は、アントワネットの『演劇での自然と演劇での生活』という庭園を作り出したオリジナルであり、画家ユベール・ロベールとの共作なのかもわからないが、その血を引き継いだ名園はやはり『ディズニーランド』だと思う。

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その78:マリー・アントワネットの庭園 ①プチ・トリアノンの由来

2009-03-26 08:39:48 | ときめきの植物雑学ノート
いつか書こうと思ってから時間がだいぶ経過し、やっとマリー・アントワネットの庭園にたどり着くことが出来た。
マリー・アントワネットの庭園は、プチ・トリアノン庭園と言っても良いが、自然を庭園に取り込むことでは『日本庭園』に近く、自然が全く取り込まれていない舞浜のディズニーランドとも近い感じがしている。『日本庭園』的でもありディズニーランド的でもあるというこの矛盾が前から気になっていたことだ。

プチ・トリアノン庭園が出来るまで
ルイ十四世は、絶対王権を確立するためにベルサイユ宮殿を作りその象徴としての庭園作りに生涯をかけて作り続けた。ベルサイユの庭園は、1667-70年頃 ル・ノートルによる造園が出発点にあり、宮殿の方は主な部分の設計はマンサールとル・ブランが行い1682年頃完成した。
ル・ノートル、ル・ブランは『フランス幾何学式庭園』の代表作ニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)を作ったメンバーであり、ルイ十四世がフケ卿から略奪した天才達でもある。

広大なベルサイユの庭園には、グラン・トリアノンという離宮をルイ十四世が1670年に作り、ルイ十五世がさらに愛人のために1768年にプチ・トリアノン(le Petit Trianon)を建設した。

(写真)ベルサイユ宮殿・庭園とトリアノン宮殿・庭園の地図 by google


地図を見てもらってもわかるように、右下にベルサイユ宮殿があり左上の方に広がる定規を使って出来上がった部品が組み合わされているかのような幾何学的な庭園が広がる。この広大なスペースには驚くほどだ。中央上にあるトリアノン離宮と庭園はかわいいほどのスペースだ。そして、庭園は定規を使った感がなく直線ではなく曲線で描かれていることが見て取れる。

マリー・アントワネットがベルサイユ宮殿の裏手にあるプチ・トリアノン宮殿を夫であるルイ十六世から贈与を受けたのは1774年で、庭園と有名な田舎風の離宮アモーが完成したのがフランス革命が勃発する2年前の1787年だった。
わずか13年で『フランス幾何学式庭園』を超える新しい様式の庭園を完成させたことになる。
日本と較べると、柳沢吉保の『六義園』が完成したのが1702年なのでこれよりも85年も後のことになる。

(写真)プチ・トリアノン宮殿と庭園


庭園とは関係ないが、マリー・アントワネットが手に入れたプチ・トリアノン宮殿には、世界初のエレベーターがあったそうだ。このエレベーターは、階下の調理室から料理を載せた食卓が人手を介せずに直接上のフロアーまで昇ってくるので密会の饗宴にはもってこいの発明であり、必要が発明を生み出した典型的な代物だ。

このプチ・トリアノン宮殿は、ルイ十五世がポンパドゥール夫人など愛人との密会のために建設した宮殿だが、総建築費73万6千リーヴル、エレベーターの特別費用として発明者のレポレロに1万2千リーヴルを支払ったという。
快楽にはお金を惜しまないということだろうが、マリー・アントワネットもプチ・トリアノン宮殿と庭園の改修には164万9千5百29リーヴルを使ったという。

これまでの歴史では、マリー・アントワネットの浪費がフランスを食いつぶしたといわれていたが、最近では、たいした浪費がされていないという風に変わってきており、改修されたプチ・トリアノン宮殿・庭園などは今でも通用する新しさを持つアーティスティックな作品であると再評価されるようになって来た。

このアーティスティックな原点は何だったのだろうか?
漠然とした思いに形を与える或いはバックボーンとなったものは何だったのだろうか?
これを知ることによって『日本庭園』的でもあり、ディズニーランド的でもある矛盾が解決するような気がする。
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鬼の目にも涙。

2009-03-25 13:24:02 | ニッポンの政治
浮きぼりになった検察組織の欠陥

昨日は、WBCで一日が終わりかけたが、夜半になって政治資金規正法違反の疑いで小沢さんの秘書が起訴され、豪腕小沢さんの記者会見があった。その目には、風邪気味なのだろうか年なのだろうか涙がたまっていた。

何故という思いがあるのだろうが、私にも何故という疑念がある。

政治家の不正蓄財を暴くのにこれまで検察は『一罰百戒』的にメスを入れてきた。これはよくやってきたのではないかと思う。
最近新たな問題になっているのは、『税金の無駄遣い』であり、日本の国の価値を高め住みやすい国づくりをするために、適正な使い方がされているかという国民の義務と権利の本質的な疑問である。

法に違反した悪は摘発した方がいい。しかも公平にすべきだ。
小沢さんだけで終わったとすると民主党の政権獲得を阻止する検察と官僚のこれまでの利権を維持したい阿吽の呼吸でのチームプレーといわれてもしょうがない。

聞くところによると、「政治家はどうしょうもない。我々(エリート)官僚が日本を動かそう!(治めようといっているに等しい)」という間違った認識を持ち、裏に隠れて何でもやれる官僚の特権を最大に活用する優れたパワー官僚が結構いるという。
この優れた官僚は、優れているがゆえにリスキーな政治家に転出しないで、税金をむさぼって責任を問われたことがない官の世界を渡り歩くという。

そろそろ、ここにメスを入れて欲しい。
こんな時期になったと思うが、メスを入れる時期が遠ざかりそうだ。最大で5年先となりかねない。

官僚の人事権を握るトップがどうも官僚出身の官房副長官となるようだ。
この官房副長官がオフレコの記者懇談会で、「政治資金規制法違反は自民党に及ばない」といったとかいわないの問題があったが、こんなことが問題になること自体“今の体制を守る”意図が透けて見える。

いまの体制を守って得をするのは誰だ!!
沖縄返還のときの日米密約説をすっぱ抜いた毎日新聞の記者の正しさは数十年後に米国の記録から証明された。この問題もいつか明らかになるのだろうが、いつかではなく今できる臭いものにはふたをせずに、開けてしまおう。

今回は、検察がおかしい。
警察・検察のトップは、民意を反映できる選挙で選ばれるなど仕組みを変えない限り、怪しげな組織になってしまいかねない。パワーエリート官僚の陰謀の巣ともなりかねない。
この疑いを払うには、裁判官同様に選ばれる仕組みがあったほうがいい。

権力を無力に出来る力がある検察に信任される制度がないこと自体おかしい。
だから、おかしなパワー官僚が権力と利権をむさぼる拠点に便利だと思い群がっている。と受け取られても致し方ない。

法律違反にメスを入れるという今回の説明だけでは納得できない。正義を振りかざした意図が感じられるがゆえにこの組織の未来に疑問を抱いてしまう。民主主義を維持するために自らの存在の正当性にもメスを入れる時期にあると思う。立法・司法・行政の三権だけでなく、実質的な四権に該当する検察・警察のトップは、民意の洗礼を受ける必要がある。

疑われても致し方ない検察。襟を正しましょう。
手をつけたので致し方ないから、『一罰百戒』ではなく、全ての政治家をまな板に上げましょう。政治資金規正法にひっかかる政治家はかなりいるのではないかと思うので。
さらに疑いを晴らすなら、我々が望んでいる官僚・行政の腐敗にメスを入れましょう。

こんなことが小沢さんの涙にあったのだろうか?
(ちがうだろうな~)

最後に、官房副長官に官僚のトップ人事権を持たせようとする動きがあるようだが、民意を反映しない今の官僚制度の最高の仕上げとなりそうだ。或いは、今回のシナリオを書き演出した論功行賞でいただくポストなのだろうか?
我々がチェックできなくなる今回の動きは最大の欠陥なのだが、この動きに注目しておいて欲しい。
官僚のトップは、選挙で洗礼を受けた政権与党の、民意が反映した政策実行の視点で選んで欲しい。

鬼の目に涙があったが、ローズマリー・ロゼウス(Rosemary Roseus)には、美しいピンクの雫があった。

(写真)ローズマリー・ロゼウス(Rosemary Roseus)の花


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その77:江戸と同時代のヨーロッパの庭園、『フランス式庭園』

2009-03-24 07:17:41 | ときめきの植物雑学ノート
江戸時代初期の日本の庭園を二つほど見たが、1600年代同時代のヨーロッパの庭園はどんな考えで作られていたのだろうか? というのがチョッと気になった。

水戸藩の『小石川後楽園』(完成1636年)と柳沢吉保の『六義園』(完成1702年)の中間頃に、ヨーロッパでは『フランス幾何学式庭園』が登場する。日本式庭園とは対極的な考え方に基づいていて文学と数学ほどの違いがありそうだ。

この『フランス幾何学式庭園』を創りだしたのは、アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)という庭師だった。

17世紀中頃に作られたヴォー・ル・ヴィコント城の庭園
ル・ノートルが最初につくったのが、ルイ十四世の財務相をしていたニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)の庭園で、1655-1661年にかけてつくられ完成した。『フランス幾何学式庭園』の最初の庭園で最高傑作といわれている。
リンク先:ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)

(写真)ヴォー・ル・ヴィコント宮殿と庭園


『フランス幾何学式庭園』の特色は、建築の図面と植物の刺繍文様を足し合わせたような左右対称の整然とした構成にあるといえそうだ。
宮殿の上階から見た秩序正しい構成は、長い直線の運河が左右にあり、中心には刺繍花壇が置かれハーブや花、ツゲなどを使って模様が描かれている。その先には芝生が張られ、さらにその先には水が張られるなど城を出発点により人工的で手がこんだ美しいものを配置し、遠ざかるに従い森などを配置するようにだんだんと簡略で自然なものを配置するという階層的な考え方でつくられる。

この左右対称、階層的な構成は、イタリアの庭園で生まれたが、作法・様式として公式化したのが『フランス幾何学式庭園』であり、庭師のル・ノートルであった。

(写真)幾何学模様の美しさ


ヨーロッパの庭園の源流
簡単にヨーロッパの庭園の考え方とその様式の流れをおさらいすると二つの流れがあり、その源流は、古代エジプトと古代オリエントにあるという。

古代エジプトの庭園は、死後の楽園をイメージするものであり、四角い池・あずまや・規則正しく整列した樹木などが左右対称に配列されており整形庭園とも呼ばれている。

もう一つの流れの古代オリエントの庭園は、庭園と動物園(あるいは狩猟園)から構成された庭園で、山から水を引いて灌漑をし、ブドウ・リンゴ・西洋杉などの樹木を植え、遠方には自然の森あるいは植林をして柵で囲いライオン・鹿などの狩猟動物を住まわせていたという。

15世紀の後半には、フィレンツェで始まったルネッサンス運動により庭園にも新しい風が吹いた。それまでの都市は外敵と自然の猛威を防ぐために城壁で囲んだために、狭く、暗く、汚いという場でもあった。
健康で余暇を愉しむためにも古代ローマの別荘をモデルに、郊外に別荘と庭をつくり文化的な生活をすごすという提唱がされた。
この提唱をしたのが、ダ・ヴィンチと並ぶルネッサンス期の天才アルベルティ(1404-1472)だった。

古代の庭園の様式を受け継ぎ新しい息吹きを吹き込んだのがイタリア・ルネッサンスの庭園だが、ここにはその後に登場する様々な庭園様式の基本があったというので、後日深堀りすることとするが、文化・芸術といえども政治と切り離せないという事例を書きとめておく。

(写真)アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)


天才は政治と無縁ではいられない
ニコラ・フケ卿のヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)庭園は、あまりにも素晴らしかった。この完成祝宴に招かれたルイ十四世は、自分が持っていないものを持ってしまった部下を妬み、理不尽にも逮捕し牢獄に入れ獄死させた。

フケ卿は優れた人物のようであり、三人の天才を発掘しヴォー・ル・ヴィコント建設を任せた。庭師ル・ノートル、画家・装飾家のル・ブラン、建築家のル・ヴォーであった。しかしながら、優れたフケ卿といえども持ち得なかった才能があった。それは“野蛮”であり、これを持ち得たルイ十四世はフケ卿の生命・財産と三人の天才を奪ってしまった。さらにヴォー・ル・ヴィコント庭園の樹木・石・置物などを奪い、天才とともにベルサイユ宮殿の造園に使ったという。

ル・ノートルの『フランス幾何学式庭園』は、人工的で壮大であり秩序・調和が取れている美しさがあり、これが絶対君主制を誇示する表現形式であることをルイ十四世は見抜いていたようだ。だからこそ自分が最初に持たなかった庭園を持ったフケ卿が憎かったのだろう。

ルイ十四世は、権力を誇示する道具としてその後たくさんの庭園を作り、『フランス幾何学式庭園』は世界に広まる。
約1世紀後のマリー・アントワネットは、『フランス幾何学式庭園』を嫌い、ベルサイユ宮殿の庭園のそばに異なる考えの庭園を作る。

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その76:江戸を歩く ④日本の名庭園「小石川後楽園」

2009-03-22 16:52:51 | ときめきの植物雑学ノート

1時間も持たなかった『小石川後楽園』。
日本庭園の名園でもある。
何故持たなかったのかを述べる前に、作られた由来を簡単にレビューしてみる。

(写真)小石川後楽園の庭園地図


『後楽園』対『六義園』
現在地は、後楽園にある東京ドーム球場に隣接した場所にあり、
水戸徳川藩の中屋敷に1629年に作られたいわゆる大名庭園に該当する。二代目藩主光圀(水戸黄門)の代に中国風の改修がされ『後楽園』と命名され完成した。この庭園は、池を中心にその周りを回遊して風景を愉しむ「回遊式泉水庭園」の代表的な庭でもある。

柳沢吉保が作った『六義園』はこの『後楽園』の後に作られるが、明るく開放的な『六義園』に対して重々しい理屈っぽさを感じる対照的な庭園となっている。その造園の思想的なバックグランドは、明の儒教に対して古今和歌集があるという。

いつの世も、先進国から学びそれを取り入れて熟成させ我が物を作るという時間の流れがある。我が物をつくろうとする運動はルネッサンスもそうだったが古に回帰する。

『後楽園』の光圀は、先進国中国の儒学・朱子学を持って秩序を作ろうとした。柳沢の『六義園』は、中国文化を離れて独自の日本文化を目指した平安時代の国風運動期に戻り、その時に誕生した紀貫之などの古今和歌集をモデルに意図的に『六義園』を作ったのだろう。

一方が教養が必要な難解な漢詩、一方は「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」で始まる土佐日記を書いた紀貫之のかな文字とこのスタンスの違いが明らかに感じられる庭園となっている。天下の副将軍に対抗した政治家柳沢吉保の骨っぽさが感じられた。

(写真)園内の景観


『小石川後楽園』のいま
入り口の門を入ると、庭園の中心にある池とその周囲を取り巻く築山が目に入る。
その周囲を回遊することになるが、もうこれだけで十分という気になる。見るモノがなさそうな予感がするから恐ろしい。

この嫌な予感が当ってしまった。

日本庭園は、世界で評価されているが、自然に対する考え方の違いがその評価の違いとなっているようだ。自然は恐く危険なものなのでこれを克服・超越しコントロールするという考え方に対し、自然をあるがままに取り込みそれと調和していくというのが日本庭園の考え方にある。

平安時代以降は自然の景観の素晴らしいところに別荘・庭園を造るという時代もあったようだが、自然を縮尺して庭園に取り込むという技法が作られ、池を掘り大海と見立て、池中に土を盛り島を作り、山を作り、河を作るなど宇宙をも取り込んだのだろう。
この点で自然に思いっきり手を入れ幾何学的なフランス式庭園とは大きく異なる。

だが率直に見るものがないということは、この自然の縮尺がお金がかかったことは理解できるが、美しくない。ということに尽きる。ミニチュアで作るジオラマの方が魅力がありそうだ。

むしろ感動したのは、借景とでも言うべき『小石川後楽園』を取り囲む高層ビル、東京ドームに覆われた異空間にあった。
高層ビル群は人工的であり、庭園も人工的であり、まったく日本庭園が考えていない人工世界が目の前に広がっている。自然を模した人工空間が目線を高くすると感じられる。

(写真)高層ビルに取り囲まれた小石川後楽園



とはいえ、都市にこれだけの緑の空間があることは素晴らしいことなので残して伝えていく重要な財産であることは間違いない。

また、『後楽園』は、人生の後半を楽しく暮らすには若い時に苦労しろ。とでも言ってもよいだろう。だが、今の時代は人生の後半も制度改悪でいじめられ、人生の前半にある若者は社会の入り口を狭められはじき出されているから、是非とも『後楽園』というコンセプトを大事にするか、入り口を広げるために我々が納めた税金を使って欲しい。
官僚と与党の政治家で納めた税金は俺達のものという身内だけでの“花見酒”をやり「後楽園」天国を愉しまないで欲しいものだ。これでは自分の身を食う蛸足になっているので、そのうち税金が縮小する最悪の結果になってしまいそうだ。

なお正しくは、「士はまさに 天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(明の儒学者、朱舜水)からつけられているが、私訳もそうずれていないと思う。

江戸の名庭園を二つ見たが、正直に感じるのは、庭園は器であり、器に入る“み(実、味、美)”がないようだと気づいてしまった。“み”は器にある自然なのだろうが、自然がなかったのかもわからない。改めて、自然というものを考えることになった。

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デュピタクサ・クリスタルリリーの花

2009-03-21 10:14:12 | その他のハーブ
南アフリカケープ州は植物の宝庫で、キュー植物園のプラントハンター、フランシス・マッソンが1770年代に活躍したところだが、最近日本の園芸店にも南アフリカの植物が増えてきていてうれしい限りだ。

ただ、ケープ州が植物の宝庫である理由は、この地域に砂漠、サバンナ、地中海性気候など様々な気候帯があり生育環境が異なるが故なので、この環境を知らないと育て間違いが起こりやすい。

(写真) デュピタクサ・クリスタルリリーの花


この花は、南アフリカケープ州の北西、南西エリアが原産地の不思議な植物だ。
開花期は3~4月だが、生育期は沼地・湿地帯で生育し、開花後は乾燥したところを好むという。
球根類は開花後茎が枯れると掘り上げて日陰で乾燥させるものが多いので別に不思議でないかもわからないが、雨が多い日本ではなかなか夏場以降乾燥する沼地はそうない。

細長い30cmの茎に、6枚の白い花弁、その中心は赤紫で染められ、6個のおしべの黄色と全体が上品な星型の花が多数ついている。

南アフリカの植物が増えてきたのはうれしい限りだが、植物情報が不完全なものが多くよくわからない。

この花は、イギリスの植物学者でキュー植物園に勤めていたジョン・ギルバート・ベーカー((John Gilbert Baker1834-1920))によって1880年に発見された。

(写真) デュピタクサ・クリスタルリリーの花々


デュピタクサ・トリケトラ、クリスタルリリー
・ユリ目イヌサフラン科オニクソティス(Onixotis)属の多年生の球根。
・ユリ目の植物は様々な植物を入れ込みすぎたのでグループ分けが進行しており分類学者により属するところが異なる。
・この植物も次のように学名は複数あり一つに絞られていない。①Colchicaceae(イヌサフラン科)Dipidax triquetra (L.f.) Baker、②Colchicaceae Onixotis stricta (Burm.F)Wijnanda、③Colchicaceae Wurmbea stricta. (Burm.f.) J.C. Manning & A.Vinnersten、④Colchicaceae Pontederia stricta。
・日本での流通名はデュピタクサ・クリスタルリリー
・原産地は南アフリカ・ケープ州の湿地帯で開花し、開花後の夏場以降は乾燥地帯となるところ。
・1880年にジョン・ギルバート・ベーカー(John Gilbert Baker1834-1920)によって発見され、Dipidax triquetra (L.f.) Bakerと命名された。
・草丈は30cm程度で、その先に星型の6枚の白い花弁に雌しべの場所を示す赤紫の色でそめられた花が多数つく。
・生育期は日当たりの良いところでたっぷりと水を与え、開花後に茎が枯れたら堀上げて乾燥させるか、鉢のままの場合は水を与えずに乾燥させる。
・耐寒性が弱いので冬場は霜が当たらない軒下で保管するか室内に取り込む。

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日本橋『室町砂場』の“天もり”。 これはオリジナリティがある。

2009-03-18 08:16:29 | グルメ

(写真)室町砂場の店舗入り口


神田駅から中央通りを歩いて日本橋方面に向かう裏手に『室町砂場』があった。

カピタン宿『長崎屋』を探して、三越、日本銀行本店、三井別館あたりをうろうろしていて地図をよく見るともっと神田よりで歩いて3分もかからないところに『長崎屋』跡地があり、その裏手にあったのが『室町砂場』だった。

この界隈は、江戸時代ならば繁華街の中心にあり、老舗和食のいい店が残っているところだがいまは寂れている。でも何かあるだろうと思い探したが、時間が3時を過ぎていて昼休みの店が多かった。
そんな中で、『室町砂場』が開いていた。

「天もりの大盛り」を頼んだが、出てきたのを見ると天ぷらがない。
そのうちくるのだろうと思ってそばを食べたら、つゆの中に何かが入っている。
なんと、海老のかき揚げが入っていた。

(写真)しるの中にあるのがこれが天ぷら


これは意外な展開になった。
期待したのは、冷たいそばをしるで食べ、ビールの肴に天ぷらをつまむ。こんなイメージだったが、海老のかき揚げが入った温かいしるでそばを食べることになった。
本日の1食目なので、味わうまもなく食べてしまい、さらに冷たいそばが食べたくなった。

キョロキョロと物色をしたが、3月で終わる季節商品「あられそば」が気になった。
大根おろしを荒くすりおろした丁度みぞれのような「みぞれそば」は、どこかの蕎麦屋で食べたことがあるが「あられ」は食べたことがない。

聞いてみたら、貝柱を卵でとじこれを上にのせた温かいつゆそばのようだ。
つゆそばは好みでないので、貝柱を肴としてもらい、もりそばを追加した。
この貝柱が美味しかった。生きのよいモノが手に入らないとやらないというだけのことがあり、かなり評価しても良さそうだ。さらに、付け合せの岩ノリが絶品だった。

(写真)あられそばの具だけ、貝柱


この店での通常の「もりそば」と「天もり」を比較すると、はるかに「天もり」のほうが美味い。どこが違うかというと、そばとしるの組み合わせにあり、普通の「もりそば」はつけじるがさほどでもなかった。

この『室町砂場』は、明治の初期に創業した老舗のそばやで、「天もり」発祥の店と自負している。たしかに自慢の逸品であることは間違いない。店からは値段が高くなる「天ざる」がお奨めのようだが、かかっているノリが不味いと台無しなのでもりしか食べないことにしている。しかし、岩ノリのレベルが高かったのでひょっとしたら大丈夫かもしれないと思いなおすことにした。次回は「天ざる」が楽しみになった。
付け加えると、1階には内庭があるのでゆったりと食べられる雰囲気があるのもいい。
生臭さが取れた大人のお忍びのデートにはいい店かもわからない。

150年も生き残った『天もり』のオリジナリティは強い。知らない人間になんか違うということを気づかせ、違いが理解できるとフアンにさせてしまいかねない。
いやまだまだ「神田まつや」の天もりの方がいいぞと思いつつも認めるものがあった。


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