モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

宿根ビオラ、ラブラドリカの花 と プラントハンター、パーシュ(Pursh,)

2010-04-04 10:15:25 | プラントハンター物語(未分化)
(写真)ビオラ・ラブラドリカの花


「ビオラ・ラブラドリカ(Viola labradorica)」は、アメリカ合衆国北東からカナダにかけての湿っぽい森林地帯が原産地で、パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)が発見し採取した。

発見時期は定かではないが、パーシュは、1806年にフィラデルフィアがあるペンシルバニア州の山からニューハンプシャーまで、徒歩で銃を肩にかけ犬だけを連れてアメリカ北東部の探検旅行をしたので、この時期に採取したものであろう。
パーシュが発見した品種として9種が登録されているが、内8品種がビオラ属であり、可憐な「ビオラ・プリムリフォリア(Viola primulifolia)」も含まれている。

パーシュが活躍した時代背景
植民地への課税から端を発して重税感がある紅茶の焼き討ちが1773年にボストン港で行われ、植民地の権利と自由を求めてアメリカ独立戦争が始った。1783年パリでの会議でアメリカ合衆国の独立が承認され、1789年にはフランスでも自由・平等。博愛を旗印としたフランス革命が勃発した。この二つの革命は、貴族・僧侶・商工業者・農民という移動性が少ない階層的な社会に新しい概念の階層=市民が登場することになり、市民革命とも呼ばれる。
また折から始っていた蒸気機関を使った産業革命が進行しており、植民地と本国との資源とそれからできる製品・商品との新たな関係づくりが始り、これらを軸としたヒトとモノの移動が活発になった。

18世紀後半から19世紀の前半はこのような時代背景の下で、植民地或いは自国の資源調査が組織的に行われ、植物の世界でも無名のプラントハンターが活躍することになる。
組織的に行われたがゆえに、無名のプラントハンターでも痕跡・足跡がどこかに残っているので記録をさかのぼることが可能で、一匹狼的なプラントハンターは歴史に残れない。
またパーシュの活動期の北アメリカでは、イギリスとフランスの覇権争いがあり、東海岸から西海岸にいくにはまだ地図すら出来ていない広大な未開拓地が広がっていた。

アメリカのフローラを著した『パーシュ(Pursh, Frederick Traugott)』
パーシュには肖像画がない。
パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)は、ドイツで生まれ正規の教育を受けることなくドレスデン植物園で実践的な植物育成を学び、彼が25歳の時の1799年にアメリカに移住する。

アメリカでは当初幸運に恵まれ、ランドスケープデザイナーでフィラデルフィアの“The Woodlands Cemetery”を開発したWilliam Hamilton(1745–1813) アメリカの大ナチュラリスト John Bartram の息子でジェファーソン大統領の友人、大博物学者William Bartram (1739-1823)  植物学者Benjamin Smith Barton(1766-1815)等のもとで働くなど、当時のアメリカの知識ネットワークの中に入り込むことが出来た。

パーシュは、1805年には、Benjamin Smith Bartonのもとで植物採集などの仕事を得、彼のパトロンで二回のプラントハンティングの探検旅行を行った。バートンの目標は、北アメリカの植物相をまとめた大ミュージアムの建設と出版であり、そのためにパーシュをアシスタントとして採用したが、皮肉なことにこの目論見の一つがフランスからアメリカに植物探索で来たプラントハンター、ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)によって打ち砕かれてしまった。
※ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)に関しては文末に参照を掲載

ミッショーは、1802年にマダガスカル島で熱帯病で死亡しているが、アメリカ探検旅行に同行した彼の息子がまとめ1803年に「Flora boreali-Americana」として出版した。

ミッショーは1785年11月にニューヨークに到着し、1796年にアメリカを出発しフランスに帰ったので、1799年にアメリカに移住してきたパーシェとの接点はないが、アメリカ独立戦争でフランスを味方に引き入れた建国の父の一人ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)を中心にしてフィラデルフィアの同じ人脈につながっていた。

フランス革命後の新政府からの経済的支援がなくなったミッショーは、経済的に困窮し、1792年に新たなスポンサーとしてAmerican Philosophical Society及びジェファーソンに米国北西部探検計画を提案し1793年に受理されたが実現できなかった。原因は東海岸だけの米国が西海岸まで勢力を拡大することを望まない英・仏・スペインとの国際関係にあるようだが、ジェファーソン自体は、米国の内陸部の探検と西海岸の開発は、中国・アジアとの交易をにらんだ願望としてもっていたようだ。

ジェファーソンが大統領の期間(1801-1809)に、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition 1804-1806)としてこれが実現し、ミッショーの提案どおりにミズリー川上流から太平洋側に通商できる陸路を開拓することが出来た。

この副産物として、1805年にルイス・クラーク探検隊が集めた植物などの標本がジェファーソンのところに届き、この評価をバートン(Benjamin Smith Barton)が行った。
パーシュは、この頃からバートンにアシスタントとして雇われているので、この標本を間違いなく見たようだ。

しかし、バートンは動きが鈍く一向に取り組まないので、ルイス隊長にパーシュと会うように入れ知恵をするものが現れた。
パーシュは1807年にルイス隊長と会い、探検隊の採取した植物カタログを作成することで採用されるようになり、バートンがパトロンとなるパーシュの第二回の探検に出発するまでの限られた時間を含め、1808年までに採取された植物のイラストと説明を完成させた。

ミッショーが計画してから15年後にパーシュが米国北西部の植物の同定を完成させるが、いつの世も同じで、パーシュの成果を横取りするものが現れる。バートンを初めとした大学者のようであり、パーシュが完成したイラスト・説明などはこれらの人々が絡みその所在がわからない部分があるという。
名もなきプラントハンターが世に出るための大きな挫折を経験したようだ。

しかしながらパーシュも然るもので、これまで自ら採取した植物標本、バートンがスポンサーで採取した植物標本、ルイス・クラーク探検隊が採取した標本などの大コレクションとともに、キュー王立植物園を創立したバンクス卿健在のイギリスに1811年11月に到着した。
自らこの北米の新しい植物相の記述のセールスを行い、1788年にリンネ協会を創設しその理事長となったスミス(Smith, James Edward 1759-1828)がこれに乗り、1797年に北米の植物相探索のためにマッソン(Masson, Francis 1741-1805)をプラントハンターとして送り出したバンクス卿が関心を示さないはずがない。

パーシュは、当時の最先端の情報が集積されているバンクス卿、リンネ協会のスミス、オックスフォード大学などのライブラリー・植物標本を閲覧する権限を得、北アメリカの植物相の完成に屋根裏の小部屋に監禁されたような状態で取り組む。エネルギー源はビールでありアルコール中毒でもあったようだ。

1813年11月にパーシュは、北米植物相を記述した「Pursh's Flora」の原稿を完成させ、そのコピーを支持者に配布した。
印刷タイトルは「Flora americae septentrionalis」又は、「A Systematic Arrangement and Description of The Plants of North America,」

正規の教育を受けなかったパーシュが、世界の植物情報の総本山でもあったイギリスで、その中核に入り込み、ミッショーが記述した時より10年遅れて北米の植物相をまとめることが出来たのは、学歴・経歴よりも経験と情報量という現場主義がこの当時のイギリスにあったのだろう。パーシュ絶頂の時でもあった。

1816年にパーシュはイギリスを去りカナダに向かった。
しかし、いいことはなかった。
期待していた探検プロジェクトは、隊長が暗殺され中止となり、出版印税もライバルの新作が出たため減少するなど歯車が逆回転し始めた。追い討ちをかけるように、これまでの植物のコレクションなどがモントリオールの住居が火災になり消失した。
貧困とアルコール中毒で健康を害し失意の中で46歳の生涯を終えた。

パーシュは肖像画がないだけでなく葬式・お墓のお金もなかったようだ。
ロンドンに留まっていたら、出版後の講演などで食べていけたのかもわからないが、現場の匂いがしないところには本物のプラントハンターは居続けられないのだろう。

しかし、この時期からのプラントハンターは、珍しい植物を集めたいという願望を組織或いはシステムとして具体化しているので、植物園、博物館、園芸協会、園芸・育種会社などのニーズをとらえなければならなくなって来ている。
パーシュはロンドンに留まるかフィラデルフィアに戻ればよかったのだろうが、フィラデルフィアには戻れなかったのだろう。

(写真)ビオラ・ラブラドリカの葉と花


宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレア
・ スミレ科ビオラ属の耐寒性がある多年草。
・ 学名は、Viola labradorica Schrank 。英名は、アルペン・ヴァイオレット(Alpine violets)またはラブラドール・ヴァイオレット(Labrador Violet)と呼ばれ、流通名としては黒葉スミレとも言われる。
・ この品種は、原種ビオラ・ラブラドリカの園芸品種ラプラドリカ・パープレア(Viola labradorica purpurea)。
・ 原産地は、北アメリカ北東部でラブラドール、ニューハンプシャー、ニューヨクの湿っぽい森林地帯の樹の下に生息。
・ 草丈10cm程度で、黒ずんだ葉と紫色の花のコントラストが美しい。
・ 開花期は比較的長く、3~5月で夏場も咲くことがある。
・ ツツジとかツバキの木下の植え込みで半日陰が適している。
・ 腐葉土の多い湿った土壌を好む。

※ミッショーに興味があれば下記を参考
その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①
その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②
その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③
その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④
その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final
その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編
その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係
コメント (2)

「ジャノメエリカ」を採取した英国初期のプラントハンター達

2010-03-26 08:39:44 | プラントハンター物語(未分化)
(写真)ジャノメエリカの花


エリカ属の大原産地は南アフリカのケープ地方だが、「ジャノメエリカ(Erica canaliculata Andrews)」を採取したコレクターを調べると、イギリスの初期のプラントハンター4名登場する。
その簡単な物語を年代順にまとめてみる。

コレクター1:マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
(写真)フランシス・マッソン
         
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるプラントハンター第一号がマッソンだった。
マッソンに関しては、これまでに記載したモノがあるので最下部にリンクを記載!


コレクター2:ニーヴン(Niven, (David) James 1774-1826)
ニーヴンは、英国王立エジンバラ庭園の庭師・プラントハンターで、スコットランドのPenicuick 植物園で働いていた1798年に南アフリカ・ケープ地方に植物探索に出かけ、ニーヴンは5年間そこに滞在し多数のエリカなどを採取し本国のスポンサーに送った。
彼を支援したスポンサーは、英国東インド会社で財を形成したヒバート(Hibbert , George 1757-1837)であり、趣味の庭造りと植物学のために多くのプラントハンターを支援した。彼は特に南アフリカ・ケープ地方、オーストラリア、ジャマイカの植物に興味があった。
ニーヴン第二回のケープ地方への植物探索旅行は、1803-1812年に実施されスポンサーはジョセフィーヌであった。新種のプロテアはこの旅で発見された。
ジョセフィーヌは、バラだけでなくヒース(エリカ属)をも集めたが、その入手方法は、
英国の育種商“リー&ケネディ商会”とジョセフィーヌなどが出資してファンドを組み、ニーヴンの活動費を支援した。投資に応じてニーヴンが採取した植物の種・球根・苗木などを受け取るが、ジョセフィーヌのマルメゾン庭園はこうしてヒースが増えていった。


コレクター3:ロッジーズ(Loddiges, George 1784-1846)
(写真)"Erica muscosoides" by 「The Botanical Cabinet」
         
"Erica muscosoides" engraved by George Cooke, published in The Botanical Cabinet by Conrad Loddiges & Sons, 1823

ロッジーズは、ロンドン郊外のハックニーにドイツから移住した父親が作った小さな保育園を経営する庭師で、18~19世紀に世界の珍しい植物を集めて育てて販売しヨーロッパでもラン・ヤシ・シダなどでは有数なナーサリーに育てる。
彼のユニークな点は、科学的なアプローチに関心を持ち、ラン・ヤシなどの熱帯植物を育てるための巨大な温室をつくるとか、オーストラリアからの植物を生きたままで運搬するための“ウォードの箱(Wardian Case)”を使うなど最先端の科学技術を駆使した。この“ウォードの箱”はなかなかの優れもので、長時間の航海での植物へのダメージを軽減し、枯れ死させることなく運搬できるようになったという。珍しい植物を採取するプラントハンターが果せない生きたままで本国に届けるという役割外のことを見事に果したという。
また、ナーサリーのコレクションを精緻な版画で描いたカタログ雑誌“The Botanical Cabinet”を1817-1833年の間で発刊し、園芸の大衆化に寄与した。
この雑誌には、南アフリカ原産のエリカ属のヒースが多数描かれており、ヒースの普及にも一役買っている。

コレクター4:カニンガム(Cunningham, Allan 1792-1839)

エリカの採取はオーストラリアでの1種類だけだが、カニンガムは、マッソンに始ったバンクス卿が海外に送り出したプラントハンターの最後となる。
カニンガムは、1814年にキュー植物園の同僚ジェームズ・ボウイ(1789‐1869)とともに南アメリカの植物探索を命じられてリオ・デ・ジャネイロに到着した。
このブラジルでの植物探索は成果がなかったようであり、1816年にはカニンガムはオーストラリアに、ボウイは南アフリカでの植物探索を命じられた。

シドニーに1816年12月20日に到着したカニンガムは、オーストラリアの探険家で知られるイギリス人のオクスリー(Oxley ,John Joseph William Molesworth 1785-1828)の1817年の探検に加わり、450種もの標本を集めることが出来きプラントハンターとして成長していく。
カニンガムは、オーストラリア・ニュージランド探検を終え1831年に英国に帰国したが、彼を送り出したバンクス卿は1820年に亡くなっていた。
バンクス卿の死とともにキュー植物園の活動は低下し、海外に派遣したプラントハンターは呼び戻されるとか、給与のカットがなされたようであり、カニンガムも厳しい10年であったようだ。
カニンガムは1837年にオーストラリア政府の植物学担当として戻ってきたが、仕事が役人達が食べる野菜作りであったので翌年辞任したという。やっていられないという気持ちは良くわかる。

(写真)ジャノメエリカの花


プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、これを船で輸送する技術とネットワークとしての東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン。これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。

未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。

しかし、冒険家、探検家だけではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。

江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。

採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。

フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?

名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか? 

マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。

ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
う~ん。気づくのが遅すぎたきらいもあるが、気をつけよう私も!

(参考)フランシス・マッソン掲載原稿(シリーズ:ときめきの植物雑学ノート)
その50:喜望峰④マッソンとバンクス卿

その51:喜望峰⑤ケープの植物相とマッソン

その54:喜望峰⑧ツンベルクとの出会い

その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ

その52:喜望峰⑥極楽鳥花

その53:喜望峰⑦ソテツ

その55:喜望峰⑨エリカ

その56:喜望峰⑩イキシア
コメント (2)