モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その5.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-29 09:25:24 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その5:
法衣を着たプラントハンター ① ダビッド、アルマン。

フランスと中国はその地政的ポジションが大陸にありともに中華思想があるので似ているといわれる。しかし現実は、敵(英国)の敵は味方ということもあり、フランスは清朝中国に入り込んでいった。

(写真)ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父
        
(出典)Plant Explorers.com

記録に残る最初の宣教師でプラントハンター的な活動をしたのがラザリスト会の宣教師、ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父で、ジャイアントパンダをヨーロッパに紹介したことで知られている。

中国に赴任する前は、イタリア、リビエラにあるサボナ学校で10年間科学を教えていて、地質・鉱物・鳥類・動物・植物学など広範な知識を持っており、学生に人気のある先生だったという。
彼は1862年7月5日に北京に到着し、宗派が運営する学校で自然科学を教える教授として赴任した。生徒は70人もいたというからしっかりしたカソリック系の学校のようだ。

この年に北京から北にある村に布教に行き、自由時間に動物・植物の観察と収集を行った。翌1863年には北京から北東にあるJeholに行き、5ヶ月間大学の仕事から離れ布教と自由時間に探索を行いその観察記録と採取した標本などをパリの自然史博物館の昆虫学・動物学の教授ミルヌーエドワール(Milne-Edwards,Henri1800 – 1885)に送った。
これがパリの政府・科学者の関心を呼び、布教活動を減らしフルタイムで動物・植物などの探索に使えるようにという北京のラザリスト会事務総長に依頼が来たほど優れていたようだ。
この異例の依頼は合意され、ダビットはフランスの科学的な活動を任務とすることになった。もちろん活動費はフランス政府(パリ国立自然史博物館)持ちとなった。

(地図)ダビッド、アルマン探検地図
        
(出典)wikipedia


新しい契約による最初の探検旅行は、1866年3月12日から1866年10月26日まで、モンゴルとゴビ砂漠に旅行をした。ダビッドと中国人のガイド、5匹のラバがこの探検隊の全てで、彼は、植物・昆虫。動物などを観察するためにほとんど徒歩だった。
このモンゴルへの探検旅行で収集した標本はダビッドをして“素晴らしくない”と書き残されているようにモンゴルの大地はあらゆる面でやせて貧しかったという。

1867年は、モンゴルの探検旅行で患った病気の健康回復と第二回の探検旅行の計画で費やした。
第二回の探検旅行は、チベット東部に位置する中国の中央部、西部を検討し、上海から揚子江をさかのぼる計画だった。出発は1868年5月28日で、メンバーは、長年のアシスタントのOuang Thomasと中国人の従者だった。
天津から上海へは内乱で危険な内陸部を避け船で行くことになり、天津の海上にはフランスの軍艦2隻も来ていた。その一艘に乗り上海まで行った。
上海では、中国西部のメコン川探検から戻った宣教師ジャメット(M. Jamet、詳細不明)から、ヒマラヤの雪解け水が流れる夏場は非常に危険なので冬まで待った方がよいというアドバイスを受け、江西省, チヤンシーにベース基地を構え数ヶ月待つことにした。
中国南西部の長江に臨む都市、重慶についたのは12月17日で、目立たないように現地に溶け込めというアドバイスを受けてきたが、中国西部でのキリスト教徒への攻撃と迫害はいまなお厳しいことを実感していたようだ。

重慶から成都に向かい、そしてMupingに向かった。ここはヒマラヤ山脈の遠い端にある山麓の丘にある町だが、現在の中国の都市名は宝興(パオシン)のようだ。ここで滞在し短い探検旅行をおこなったが素晴らしい採取と発見をした。
(1)哺乳類の9つまたは10の種、(2)鳥の30の種、(3)27の魚と爬虫類のコンテナ、その中には60の新しい種(4)634種の昆虫、(5)194種の植物
この採取した量と質は、中国に始めてきた探検旅行での3-4ヶ月かかったものに等しかったという。
ここで採取された植物についてふれると、15種類のシャクナゲ、彼の名前がつけられた「ハンカチノキ(Davidia)」が知られており、この「ハンカチノキ」は、後に英国のヴィーチ商会が派遣するプラントハンター“アーネスト・ウイルソン”のメインの採取目的となる。

Mupingには3ヶ月滞在したが、1869年3月11日に地主のLiさんの家にお茶に招かれ、とある部屋の壁に珍しいクマの皮が張られていた。これが『ジャイアントパンダ』の皮だった。
うそみたいな話だが、4月1日にダビッドのために生きた『ジャイアントパンダ』が捕まえてもってこられた。この生きたパンダはその後どうされたのかということで、後世にダビッドを批判する議論を巻き起こしているようだが、『ジャイアントパンダ』を西欧に初めて紹介したのはダビッドであることは間違いなさそうだ。

その後病に倒れた彼は、治安も悪くなってきたので1869年11月22日にMupingを発ち北京に向かった。途中天津で彼の友人達と会うことを楽しみにしていたが、天津の教会が破壊され、友人及び100人を超えるキリスト教徒が虐殺されたことを知り、ダビッドは体の不健康だけでなく精神的なダメージを受け、1870年7月にフランスに向けて帰国した。
(注)天津でのこの事件は、1870年6月21日に起こった、フランス教会・望海楼教堂が経営する孤児院での幼児誘拐・虐待疑惑で、フランス領事や教会関係者、中国人信者らが、天津住民によって多数虐殺された天津教案事件であろう。

ダビッドは1872年から1874年まで再度中国を訪問し第三回目の探検をした。
彼は、動物・昆虫・鳥類などで素晴らしい成果を出したが、ツツジ、シャクナゲなどの新しい種を発見し、植物学への貢献も大きい。

Newsを集める危険な職業、プラントハンター
ダビッドの日記を英訳した解説本を拾い読みすると、現代のまったく無関係な一コマが浮かび上がってきた。
2000年の初め頃“戦場カメラマン”という肩書きが書かれたヒトに会った。紛争が起きているところに行き、そこで撮った写真を通信社・新聞社などに売って生計を立てる職業という。
湾岸戦争の頃のイラクに行った時は、シリアから密入国をしてイラクで起きていることを写真に撮ったそうだ。この写真が大いに売れ大きな収入になったかといえばそうでもなかったと言う。CNNが政治的にイラクに入り込んだのでCNNを上回る映像でないと個人では組織力に対抗できない。
そうすると個人の戦場カメラマンは、もっと危険なところに入り込みニュースの芽をハンティングすることになる。

プラントハンターも新しい植物の情報、タネの場合は遺伝情報を集めていることになるが、現代では形を変えニュースという情報を集めるのが危険な職業として引き継いでいるような気がする。

英国は、安全を考えてか外交使節団の一員として植物学者などを同行させたが、奥地まで自由に行動することが出来なかった。一方、フランスは、ダビッドの成果があったため、奥地まで入り込む宣教師という組織を国家として活用することになる。

(続く)
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その4.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-27 11:53:15 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その4:
中国の奥地を探検したフランスの宣教師達の元締め、フランシェ。

リバプールの綿花仲買人ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)が派遣したプラントハンター第一号が、シャクナゲとサクラソウのプラントハンターとして知られるフォーレスト(Forrest, George 1873-1932)で、1904年8月にビルマ経由で中国雲南省Talifu(タリ)に着いた。
フォーチュンが中国に初めて来たのが南京条約締結の翌年1843年で、4度目の訪中が1858-1861年(1860-1861は日本訪問)だから、40年以上もたってから来たことになる。

フォーチュンの活動が終わった1860年代以降、英国のプラントハンターの中国での活動が停滞し、フランスの宣教師達が活躍する。

この時代の歴史を簡単におさらいしてみると、
1858年は、英国東インド会社の解散があり、また、後のベトナム戦争につながるフランスのコーチシナ・ベトナムの植民地化が進行していた年でもある。
中国・清朝はといえば、太平天国の乱(1851-1864)が起こり、軍事力の弱体化、官僚の汚職腐敗などが露呈し漢民族の復興というナショナリズムが芽生える。

産業革命で原料調達と製品を販売する植民地市場を求めて、ヨーロッパ勢力が直接的な植民地政策を南アジアから東アジアに展開し始めた時期であり、東アジアは略奪と暴力と抵抗が続いた不安定な時期でもあった。

ヨーロッパ人のプラントハンターにとって生命の保証がない危険な時期でもあり、ヘンリー、オーガスティン(Henry ,Augustine 1857-1930)のように清朝に雇用された人間でないと、中国の内陸部まで入り植物採取を行う安全が担保できなかったのもうなずける。(ヘンリーが中国にいた時期、1881-1900)

フランスのプラントハンターのハブとしてのパリ国立自然誌博物館とフランシェ
もう一つ例外があった。それはフランスの宣教師達であった。
宣教師個人の趣味での植物採取ではなく、フランスとしての国家の意思を体現したまとまりがあり、扇の要、鵜飼師的な存在がパリにあった。英国で言うとバンクス卿と王立キュー植物園的な存在があったことになる。

(写真)フランシェ、アドリアン・レネ肖像画
        
(出典)wikimedia

フランスの植物探索のキーマンは、パリ国立自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)だった。

王立キュー植物園に匹敵するのがパリにある「国立自然史博物館」だが、フランス革命期の1793年に市民(フランス革命なので)の知的水準の向上を目的に設立された。その前身は、ルイ13世によって1635年に設立された王立薬草庭園(Royal Medicinal Plant Garden)であり、今では、植物園・動物園。博物館などを有する研究機関として科学振興のセンターとなっている。

この博物館の研究テーマが7つあるそうだが、プラントハンターのハブとして機能していたのがフランシェであり、彼は中国で活動する宣教師たちをハンターして、彼に送られてきた採取した植物標本を分類・研究し、それらをまとめて『ダビッド氏採集中国産植物』(Plantae Davidianae ex Sinarum Imperio),『デラヴェ氏採集植物』(Plantae Delavayanae)等を出版した。

また彼は、中国だけでなく日本の植物相の研究もしていて、フランス海軍の医師として1866年に来日し植物を収集したサヴァチェ(Savatier, Paul Amedee Ludovic 1830-1891)との共著で『日本植物目録』を出版した。

このようにフランシェは、ダビッド(David ,Jean Pierre Armand 1826-1900)デラヴェ(Delavay, Père Jean Marie 1834–1895)ファルジュ(Farges ,Paul Guillaume 1844–1912) といった中国滞在の宣教師をプラントハンターとして仕立てて中国奥地の数多くの植物を採取しその分析を行った。

しかし彼の死後、彼の元には蓋を開けていない植物標本などが多数残り、徐々に散逸していったという。組織・システムを構築してこれらを上手に活用することが出来ていればと悔やむのは私だけだろうか? 
この点では、フランシェはまじめな学者であり、政治的能力があったバンクス卿になれなかった。といえそうだ。
ただ、フランシェがいたからこそ、宣教師達が活躍できたことは間違いなく、彼ら宣教師達の名前も残った。
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その3.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-23 11:01:03 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その3:
中国・雲南を探検した英国のプラントハンターのパトロン、ビュアリー

リバプールというと、昔は新聞紙で包んだフィッシュの揚げ物、ビートルズしか思い出せないが、英国が世界の工場といわれた頃は貿易港として繁栄した街でもある。その栄華の名残りが庭園として残っていて、今ではリバプール大学が管理する『ネス植物園(Ness Botanic Garden)』となっている。

このネス植物園には、ツツジ、アザレア、ツバキなどの素晴らしいコレクションがあるという。これらの品種は、中国、チベットに豊富にあり、この植物園の由来・歴史を表現するものとなっている。

ネス植物園の前身は、リバプールの綿仲買商 ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)が1898年から始めた自宅庭園の庭造りにある。彼の死後1948年にリバプール大学に寄贈されネス植物園となった。

(写真)ビュアリーの庭園1920年

(出典:The History of Ness's Development

ビュアリーはもともと花卉植物には熱い関心を持っていて、海外からの新しい植物には特に関心があり、ヒマラヤや中国雲南の山野草は英国の庭でも育てられると信じていた。この確信に近いものは、中国奥地の植物相の豊かさを教えてくれる情報源が幾つかあったからのようだ。

アイルランドの園芸家・医師で1881年に上海の清朝税関に医師のアシスタントとして24歳の時に雇用されたヘンリー(Henry ,Augustine 1857-1930)がその有力な情報源だった。

彼は、1900年にヨーロッパに戻るまで中国の内陸部の湖北、四川、雲南などで勤務したのでこの植物の豊かさを実感し、ヨーロッパで知られていない植物の種などをキュー植物園に多数送った。その数15,000の乾燥した標本、500の生きた植物サンプルなどで、これらから1896年までに25の新しい属と500の新しい種が特定されたという。

ビュアリーにもおすそ分けとしてヘンリーが採取した種が届いたという。また、ヘンリーがヨーロッパに戻ってきた時にビュアリーと会っているので、ビュアリーの中国の植物を手に入れたいという思いはかなり高められたのだろう。

ヘンリーのおかげで、1800年代の末頃には中国奥地の魅力ある植物相がキュー、エジンバラ植物園などでも知られるようになって来た。また彼が採取した乾燥した植物標本を生きたままでもってくるのが後のプロのプラントハンターの目標ともなったほどなので不思議な存在だ。

1860年代以降は中国の内陸部まで旅行できるようになったが、治安が悪いためプロのプラントハンターが活動できず、公使・領事、宣教師、ヘンリーのような清朝に雇用されたヨーロッパの人間が趣味として或いは密命を受けて活動する時期が1890年代まで続いた。

プラントハンターを送り出した個人として最高のスポンサー、ビュアリー

ビュアリーは、1904年に中国雲南、ヒマラヤにプラントハンターを送り出すことにした。その人選を王立エジンバラ植物園の管理者バルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)に相談した。
バルフォアが推薦した人物がフォレスト(Forrest, George 1873~1932)だった。

ビュアリーが個人としてプラントハンターを送り出すスポンサーになった経緯は定かではないが、その当時ヨーロッパで全盛を誇っていた育種業のヴィーチ商会(1808年頃設立され、100年以上も繁栄し続けた育種商)への不満があったようだ。

ビュアリーは、新しい外来植物などをヴィーチ商会から入手していたが、ヴィーチ商会としての顧客戦略があり、重要な顧客でも自分の欲しいモノが手に入らないということがわかるようになってきた。
だんだん自分が欲しいものは自分で集めなければならないということに気づかされ、プラントハンターを送り出すことにしたようだ。

ヴィーチ商会もこの当時王立キュー植物園に推薦してもらったウイルソン(Wilson ,Ernest Henry 1876 –1930)を中国に派遣していたので、このプラントハンティングの成果にビュアリーは一顧客として期待することもせず、ヴィーチ商会と真正面から競争することを望んだのだろう。
なぜならば、同じ年の1904年にビュアリーの庭園内にビー協同組合(Ness Nurseries of A. Bee & Co)を設立しヴィーチ商会と同じ育種業に進出した。
ただちょっと違うところは、出資者は等しく成果を分かち合うという共同組合方式にしたところが、成果を平等に分かち合わないヴィーチ商会から学んだ反省点のようだ。

ビュアリーは、中国・雲南、チベットの植物、特に、ツツジ、サツキ、シャクナゲ、ツバキに傾倒していく。

ウイルソンが去った後は、1911年にはキングドン・ウォード(1885-1958) 、1913年にロランド・エドガー・クーパー(1890-1967)、1914年レジナルド・ファーラー(1880 – 1920)に出資し、中国・雲南、ビルマ北部からアッサム、シッキムなどで植物収集をさせた。

採取されたツツジ、ツバキは品種改良に使われ、また、タネは1911年からはビーズ社から一般に販売されという。

プラントハンティングには多額の費用がかかる。この費用を個人として出資する最大で最後のパトロンがビュアリーだったが、自分の庭でも育つまだ見たこともないチベット、雲南の植物で満たしたいという願望・欲望が突き動かしただけなのだろうか?
であるならば、絵画を集めるなどのコレクション欲求の変形なのかもしれない。

それともヴィーチ商会の傲慢さが気に入らなかったのだろうか?

或いは、1911年に種などの販売をしているので、ベンチャービジネスとして育種業を育てたかったのだろうか?

ビュアリーの夢は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じてしぼみ、枯れていってしまった。今では、彼が描いた庭園は、リバプール大学の植物研究機関として再生し、訪れる人々に癒しを提供している。
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その2.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-19 16:44:37 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その2:
中国・日本のツツジを持っていった英国のプラントハンター:フォーチュン

(写真)セイヨウシャクナゲのつぼみ


「セイヨウシャクナゲ (西洋石楠花)」は、ヒマラヤ周辺を中心とした多数の原種を交配して作出した園芸品種の総称であり、耐寒性に優れ大きな花びらと豊富な花色が特徴だ。アジアの原種が18世紀のヨーロッパに導入され改良が始ったという。

ここには、アジアのツツジ、シャクナゲなどを採取して本国に持ち帰ったヨーロッパのプラントハンター達の活躍がある。
このプラントハンター達を描いてみたいのだが、英国の王立キュー植物園のデータベースには、ツツジ属(Rhododendron)の採取者と採取時期などが登録されているが、採取時期がわかっている最も古いものは、1851年からでありこれ以前がわからない。
また、これから描こうとするプラントハンターの名前が記載されていないのも残念だ。

英国の植物相の貧弱さが珍しい植物へのニーズを創る
1700年代の半ば以降から英国では海外の植物を積極的に導入し始め、組織的に未開拓地の珍しい植物を採りに行き始めた。
もともと緑が少なく、産業革命の進行によるスモッグなどの都市環境の悪化などマイナス面がある一方で、緑を増やそう、都市をデザインしようという動きもあった。

英国の植物がどれだけ貧弱であったかを示す資料がある。1800年前半に活躍した造園家・都市のランドスケープデザイナーで農業・植物に造詣が深いラウダン(Loudon , John Claudius 1783- 1843) は、「英国に自生していた樹木は200種で、そのうちの100種がバラ・イバラ・ヤナギなので品種が少なく貧弱だ。」と述べている。そして、16世紀後半以降の英国人の海外での活動により、アルプス以南の地中海沿岸の植物、北米などの多種多様な植物の美に気づいたという。
ちなみに、日本に自生する樹木の種類は1000種を超えるそうだ。

ラウダンは、1822年に最初の著書として『 The Encyclopedia of Gardening 』など数多くの本を出版し、都市の公園・墓地などの造園、小さな庭に様々な植物を植える美と楽しみを啓蒙し、個人の庭の緑、公園・墓地などの公共の緑、これらが織り成す都市としての景観・ランドスケープの計画を提唱し、小さな庭に海外からの新奇な植物を受け入れるコンセプトを生み出し、プラントハンターの活動を容認し側面から支援した。

プラントハンターの直接的な支援者は、王立キュー植物園、王立エジンバラ植物園などの植物園・博物館、そしてリー&ケネディ商会、ヴィーチ商会などのナーサリーと呼ばれる育種園、そして、産業革命で登場した成功者であり、英国にない植物、他にはない庭を持ちたいという人たちであった。緑が少ない英国だからこそ、珍しい庭とそれを彩る植物がステイタスシンボルとなったのだろう。産業革命の恩恵であるガラス、それを使った温室が英国では育てられない植物の栽培をも可能とした。

19世紀半ば頃まで謎に満ちていた中国と日本
中国清朝と日本の江戸幕府は、それぞれ鎖国政策を採り、貿易は広州、長崎一港に限られていたので、現在的に言えば北朝鮮のように謎の国であった。
この気持ちよい眠りは強引に破られることになるが、中国清朝政府はアヘン戦争後の1842年の南京条約で香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の5港を開港した。
10年ほど遅れるがほぼ同じ時期の日本では、江戸幕府がペリー提督の軍艦と大砲に永い眠りを覚まされ1854年に日米和親条約を結び、1859年には、箱館・横浜・長崎・新潟・神戸の5港を開港した。

鎖国の時は、オランダ東インド会社の医師として長崎出島に来たツンベルク、シーボルト等の日本植物誌によって豊かな日本の植物相が垣間見られ、ヨーロッパで話題になっていた。

この珍しい植物の宝庫と思われていた中国と日本の開国は、プラントハンターにとっても朗報であり、彼らたちの活躍のフィールドが広がった。


開国前で、記録に残っている中国での最初のコレクターは、植物採取のアマチュアのカニンガム(Cuninghame, James 1697‐1719)のようだ。彼は英国東インド会社の医師として雇われ、1698年にアモイに派遣された。1701年の後半に中国のチャサンに航海し、2年以上滞在しこのエリアでの植物の採取を行った。そして、乾燥した標本600種以上を本国に送り、本人も1709年にイングランドに戻った。

確かに日本でも、長崎出島に封じ込められ、植物採取は近隣のところと日本人を使って採取するか植木屋から購入するなど限られていた。ましてやツツジは持ち出し禁止されている植物でもあった。プラントハンター泣かせの国であったことは間違いない。

プラントハンターの偉大な巨人、フォーチュン
        

この両国の記念すべき開国に立ち会ったプラントハンターが一人いる。スコットランドの園芸家、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)で、東インド会社をスポンサーにインド・アッサムに清国からのチャノキを持って行き、この移植栽培に成功させ、イギリスの紅茶産業を発展させた功労者でもある。これは、フォーチュン二回目の中国探検で、1848年に実施された。

フォーチュンが始めて中国に来たのは、1842年、アヘン戦争に敗れた清国が南京条約を結び、香港の割譲、広東など5港の開港をする年だが、この情報を聞きつけたエジンバラ王立園芸協会は、フォーチュンを清国に派遣することにし、採取して欲しい植物の長たらしいリストを渡した。
フォーチュン30歳の時であり、翌1843年2月に英国を出港し、7月に香港に到着し3年間滞在した。この間にフィリピンへ「ラン(Phalaenopsis amabilis)」を採取する短い旅行を行い、エジンバラ園芸協会の要望に見事に答え、アネモネ、キク、ラン、スモモ、スイカズラなど多数の植物を英国に送った。

最も、この時点での中国は、自由に野山を探検旅行することが出来ず、中国人或いは園芸商から購入する以外なかったが、フォーチュンは大胆にもヒゲを伸ばし弁髪になり中国人に変装して禁止されている地域、野山の探索を行ったという。
この現地に溶け込む自在性の情報収集能力が、だまされない目利きとして制約があるなかでの成果に結びついたのだろう。

余談だが、フォーチュンが書いた『江戸と北京』(1863年出版)の本の中では、中国人商人のうそつきとフォーチュンが外出するたびに監視と警護のためにゾロゾロとついて来る日本の小役人のたかり根性を嫌っていたのが印象に残る。最も十分な給料を支払えなかったのでワイロで生計を立てなければならなかったという幕府財政の逼迫があることも否めない。

フォーチュン三回目の中国訪問は、アメリカ合衆国政府をスポンサーに1858年に実施された。アメリカの政府からは、彼が実績のある中国のチャノキの調査であり、あわせてロンドンの育種商スタンディッシュからは珍しい植物の採取をも依頼されていた。
ちょうど、日本の開国の情報を聞き、1860年10月及び1861年4月に再び訪問をする。

フォーチュンは日本の第一印象を「私はこの未知の国の話を沢山読んだり聞いている。・・(略)・・初めて長崎の海岸を見たとき・・(略)・・むしろ自然の庭園そのものであった。」
江戸では、団子坂、王子、染井村など植木屋が密集しているところを探索し、彼が知っている世界で最高の園芸技術と文化を持っていると評価している。

英国人が見た古きよき日本を見直す本としても『江戸と北京』は一読に値する。

フォーチュンが中国・日本から持ち出した植物は、中国からは数多くのツツジ、モモ、シャクヤク、ナンテン、ツバキ、レンギョウ、キク、チャノキなどがあり、日本からはツツジ、ユリ、サザンカ、アオキなど多岐にわたる。
なかでも有名なのは、
ツツジ属の彼の名前がつけられたフォーチュネイ(Rhododendron fortunei)
フォーチュンのダブルイエローと名付けられたバラ(Rosa 'Fortune's Double Yellow')が知られている。

フォーチュンは、持ち出し禁止のチャノキを20,000本も“ウオードの箱”に梱包し、インドに送るなどの荒業をやったわりには、観察眼が鋭く文才があったのか、出版物の印税で引退後は豊かにのんびりと暮らしたという。
プラントハンターとして非常に珍しいケースであるがホッとする。夢は荒野を駆けめぐるだけでなく、ベットの上を駆け巡るのも良さそうだ。

        
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その1.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-15 08:17:57 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その1:セイヨウシャクナゲとツツジ

(写真)セイヨウシャクナゲの花


サクラの後はツツジの季節となる。
このツツジ、サツキなどはマニアが多く人気のある花卉だが、私はあまり関心がない。

今回初めて書いてみようかなと思ったのは、鎖国をしていた中国・日本などから1800年以降にアジアのツツジをヨーロッパに持っていったプラントハンターの存在があったからだ。

ただ、唯一気にいっているツツジがある。
山手線の車窓から見る駒込駅のツツジは、大都会東京の喧騒を忘れさせる不思議な働きをしてくれる。わずか数十秒の癒しなのだろうか?

この駒込界隈は、今では日本を代表するサクラとなった「ソメイヨシノ」の発祥の地として知られるが、江戸時代は、植木屋が集積した“染井村”であり、江戸のツツジもここから広がっていったという。
その始まりは、1656年に九州霧島のツツジ3種が、伊藤伊兵衛という染井の植木屋に分け与えられ、この栽培に成功して江戸中に広まったという。
ツツジは、日本古来の花であり万葉集に登場するが、江戸では比較的新しい花なのには驚いてしまった。

この伊藤伊兵衛は、植木職人だけではなく園芸家でもあり植物学者でもあった。彼と彼の息子4代目政武は、『錦繍枕(きんしゅうまくら)』(1692年刊)という世界初と思われるツツジ専門書を出版し、ツツジ173品種、サツキ162品種を取り上げた。
というほど、数多くのツツジ・サツキが江戸時代に作出されるほどこの頃の栽培技術は高度になり、世界最高水準の園芸文化を生み出すようになっていた。

ところで、ツツジ、サツキ、アザレア、シャクナゲの違いがわかるだろうか?

これら全てはツツジの仲間で、学名では“ロードデンドロン属(和名ツツジ属)”に分類される。

そういえば、小石川植物園の入り口近くに、ツツジの原種と思われる古木が大切そうに植え込まれていたが、無関心がゆえに気にもとめないでいたのを多少反省し始めた。
だから、はっきりした違いがよくわからなかったが、
サツキは数あるツツジ類の品種の中での1品種であり、日本では盆栽に使われるのでツツジとは区別されているようだ。(なるほど、盆栽用ということね)

ツツジとシャクナゲの違いは、葉に繊毛があるがないかの違いで、繊毛があるのがシャクナゲ、ないのがツツジと大雑把に区別できるという。

アザレアとシャクナゲは区別が難しく、園芸上の違いで、オランダで改良された園芸品種がアザレアでセイヨウツツジとも呼ばれる。耐寒性が弱いところがシャクナゲと異なるという。

シャクナゲについてはこれから説明することにするが受け売りだからご勘弁を。

シャクナゲ (石楠花、石南花) は、ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の低木の総称で、亜寒帯から熱帯の高地まで広い地域に生息し、ツツジ属のうち常緑性のものを指すのでその品種数はかなり多いという。

日本でもシャクナゲは結構あるようだが、大部分は亜種であり原種は少ない。
原種が多いのは、ヒマラヤ山脈から中国にかけての2000-4000mの地帯にある中国雲南省、四川省、ビルマ北部、チベット南東部、ヒマラヤ東部などであり、この地帯がシャクナゲの原種の宝庫となっていて、3月末から4月にかけて見事な花が咲くそうだ。

今では観光スポットとなっていて、ネパールの標高2,000m~3,500m付近にはシャクナゲが群生し、高さ10mを超える大木に真っ赤なシャクナゲの花が雪山を背景に咲いているという。(これはきっと美しいだろうな~と思う。)

このような秘境から原種のシャクナゲをプラントハンティングしてヨーロッパに持っていった人たちがいる。
そしてヨーロッパで交配を重ねて品種改良がされたのが「セイヨウシャクナゲ」で、今では日本にも逆輸入されている。。

「セイヨウシャクナゲ」は、“ロードデンドロン(Rhododendron)”と呼ばれ、ギリシャ語で“バラ”を意味する‘rhodon’と“木”を意味する‘dendron’の合成語で、バラのように美しい花を咲かせる木に由来する。

今ではツツジ属のことを“ロードデンドロン属(Rhododendron)”というが、単に“ロードデンドロン”といった場合は、園芸化されたシャクナゲのことを言うようだ。

子供の頃は、山学校をし、野生のツツジの花を摘み蜜を吸ったものだが、ロードトキシンというケイレンをおこす毒を含むようであり、摂取すると吐き気や下痢、呼吸困難を引き起こすことがあるそうなのでご注意されたい。
わからないものは口に入れないほうが良さそうだ。

(次回は、ツツジ、シャクナゲをヨーロッパに持っていったプラントハンターについて記載する。)

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レンギョウ(連翹)の花

2010-04-13 11:32:08 | その他のハーブ

(写真)レンギョウの花


「レンギョウ(連翹)」は、初春から鮮やかな黄色の4枚の花弁の花が150㎝ぐらいの樹高の枝に密集して咲く。
その黄色の密集インパクトはかなり強烈で、冬から春への移り変わりを高らかに宣言している。

開花時期の終わりの四月頃から葉が顔を出し、夏から秋にかけて15mm程度の楕円球の果実をつける。この実を乾燥させたものは、古くから漢方薬として解熱剤、消炎剤、利尿剤、排膿剤、腫瘍・皮膚病などの鎮痛薬に用いられてきた。

原産地は中国であり、日本には平安時代に入ってきたという説と、江戸時代という説がある。
平安時代説の根拠は、平安中期に編纂された律令の執行細則『延喜式(えんぎしき)』(927年頃完成)に伊賀、尾張などの薬園で栽培しているという記述があり、また同じ時期に編纂された百科&国語辞書的な『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(931年 - 938年頃編纂)には、“以多知久佐(いたちくさ)”“以太知波勢(いたちはぜ)”として記述されていることに拠る。

この「レンギョウ(連翹)」には2つのタイプがあり、
枝の先が地面に触れるとそこから根を出し匍匐性で、壁に這わせたりツル材として利用されるタイプ(「レンギョウ」及び「チョウセンレンギョウ」)と、枝が直立し庭木として利用される立ち木性のタイプとがあるが、この花木は、立ち木性なので中国原産の「シナレンギョウ(Forsythia viridissima)」のようだ。

また「レンギョウ(連翹)」は薬用としての利用期間が長く、花卉として評価されるようになったのはかなり遅いようだ。
中国では、宗の時代に周師厚(周叙)が花木として『洛陽花木記(らくようかぼくき)』(1082年)を書き、日本では,江戸時代に池坊2代目専好の弟子十一屋太右衛門(じゅういちやたうえもん)がいけ花の全書として『立花大全(りっかだいぜん)』を1683年に書いて「レンギョウ」を収録している。

薬用から花木としての「レンギョウ(連翹)」の再評価は、中国・日本で時間の差はあるとはいえ、文化の成熟と無縁ではなさそうだ。
江戸時代は、長期間の平和と農業生産性などの向上もあり、経済的な豊かさと心の豊かさを増し、世界有数の園芸マーケットを作り上げた。そこで変わり者の「レンギョウ」は花卉として認められた。

詩というものが良くわからない私だが、何故か高村光太郎の『千恵子抄』には感動した覚えがある。この高村光太郎は「レンギョウ」の花が好きだったという。
彼のお葬式では棺の上に大好きだった一枝の「レンギョウ」が置かれ、それ以降“連翹忌”ともいわれているという。

私はサルビア属の時期の花を予約しておこうかな。そして“サルビア忌”も!

(写真)一面黄色だらけのレンギョウの花
        

レンギョウ(連翹)
・ モクセイ科レンギョウ属の広葉小木。
・ 学名は、Forsythia suspensa Vahl (1804年命名)。属名の Forsythia は、スコットランドのケンジントン王立植物園の監督官を務めた園芸家フォーサイス(Forsyth , William. 1737 - 1804年)に因み、種小名のsuspensa は枝が“垂れさがる”意味である。
・ 英名はgolden bells, Japanese golden bell tree。和名は漢名の連翹(れんぎょう)からくるが、中国での連翹は別種のトモエソウ(学名:Hypericum ascyron)のことをさす。中国名は黄寿丹。
・ 原産地は中国で朝鮮半島、中国、日本にも分布する。
・ 雌雄異株で、開花期は3-4月で2-3cmの黄色の4枚の花弁が枝一杯に咲く。
・ 乾燥させた実は、古くから漢方薬として解熱剤、消炎剤、利尿剤、排膿剤、腫瘍・皮膚病などの鎮痛薬に用いられる。

命名者:
Vahl, Martin (Henrichsen) (1749-1804)Vahl, Martin (Henrichsen) (1749-1804)
デンマーク、ノルウェーの植物学者、1801-1804(死亡)までコペンハーゲン大学の植物学教授。ウプサラ大学でリンネに教えられた弟子の一人で、1783~1788年にヨーロッパと北アフリカでいくつかの植物探索の旅行をした。

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鯛のポワレ

2010-04-12 10:03:50 | 男の料理
(写真)鯛のポワレ
  

サクラが咲く頃の鯛は美味しい。
ただ、骨が鋭いので自宅では煮付け以外調理してまで食べることはあまりない。

取立ての新鮮な鯛が売られていたので、サクラ見物の後には鯛ということでチャレンジしてみた。
鯛めしは骨をとるのが面倒なので、フライパンで簡単に作って見ることにした。
パリパリの皮と焦げた味、淡白な白味の味を引き立てる和風ソースと洋風ソースの組み合わせが意外と美味しかったのであわてて写真を撮ってみた。

【材 料】 (4人分)
・鯛         4切れ
・塩・コショウ    適量
・小麦粉
・オリーブオイル   適量
・大根おろし
・ポン酢
・えのきだけ     1パック
・バター       
・白ワイン      適量

【作り方】
・ 大根おろしを作っておく。エノキダケの根を取り食べやすい半分に切っておく。
・ 鯛のウロコを取り、塩、コショウをし、小麦粉でまぶす。
・ フライパンにオリーブオイルを熱し、鯛の皮目を下に焦げ目がつくまで焼く。身の厚いところはスプーンで熱したオリーブオイルをかけ、裏返して火を通す。
・ 鯛を取り出し、ソースとしてバターとエノキダケをフライパンにいれ炒め、仕上げに白ワインをいれる。
・ お皿に、鯛、大根おろし、エノキダケを盛り付け、ポン酢をかけて食べる。

お奨めの点は、鯛の皮がこんなに美味しかったのは意外そのもの。それに、淡白な白味が、和風とバターが入ったエノキダケがミックスするとさっぱりした味にコクが加わりステキな味でした。
“ポワレ”は、フライパンでオリーブオイルを敷き、白身魚を小麦粉をつけないで両面を蒸し焼きする調理法だが、ソースを絡ませるには軽く小麦粉をまぶすとよい。

サクラ見物の後にお奨めですが、
サクラも、サクラ並木もいいけど、こんな風景が似合っています。

(写真)清水公園花ファンタジアから見たサクラ
  

  
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No2

2010-04-10 19:17:08 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)

(写真)サルビア・ミクロフィラの園芸品種“ホットリップス”の花


「サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」は、メキシコ・チワワ周辺が原産地で、アメリカ合衆国南部からメキシコ南部までのゴツゴツとした岩肌の荒地に分布し、その樹高は1m程度の潅木に生育する。
種小名の‘microphylla’は、ギリシャ語で“小さな葉”意味するように、卵形のザラザラした小さな葉であり、押しつぶすとミントのような薬臭い香りがする。花柄を摘んだ時に漂うこの香りがなんとも言えず気持ちがよい。

葉の形で、細長い楕円形の「サルビア・グレッギー」と区別されるが、「サルビア・ミクロフィラ」は他種と交雑しやすく、数多くのハイブリッド品種が生み出され、わかっているだけでも45種がある。実際はもっとあるのだろう。

この「サルビア・ミクロフィラ」が園芸市場に登場したのは、1990年代からのようでわずか20年で日本の庭にもかなり普及している。
しかし、ヨーロッパ人に発見されたのは1800年代の初め頃であり、庭に普及するまで150年以上が経過している。その素朴な美的価値が評価されるまで結構長い時間がかかった。

英名では、葉の特色から“Baby sage,”、或いは、発見者の一人であるグラハムの名を取って“Graham's sage”とも呼ばれる。
日本の園芸店では、「S.グレッギー」「S.ミクロフィラ」「S.ヤメンシス」3種及びその交雑種を含めて“チェリーセージ”として販売されていることが多い。

この3種は、メキシコの1000-3000mのところに生育しているが、低地から「S.グレッギー」、2000m前後のところに「S.ミクロフィラ」、この自然交雑種である「S.ヤメンシス」が2500m前後のところまで入り混じって咲いているという。
ということは厳密に言うと生育温度の違いがあるので、この「チェリーセージ」という表示はそろそろやめてもらいたいものだ。

「サルビア・ミクロフィラ」を発見したプラントハンター
「S.ミクロフィラ」は、“グラハムのセージ”とも呼ばれているので、“プラントハンター、グラハム”というタイトルで書き出そうかと思っていたが、意外なことを見つけてしまった。

大探検家の“フンボルト”とその盟友“ボンプラン”が出てきてしまったのだ。

これは後ほど明らかにすることにして、
キュー王立植物園のデータベースでは、「サルビア・ミクロフィラ」の採取者(プラントハンター)として4名が記録されている。
1.グラハム(Graham ,Robert 1786-1845)
2.クォールター(Coulter, Thomas 1793-1843)
3.プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)
4.s.coll:不詳

グラハム(Graham ,Robert 1786-1845)は、スコットランドの医師・植物学者で1821年にエジンバラ大学の植物学教授となり、1820年から死亡する1845年までは王立エジンバラ庭園の管理者でもあった。彼は1830年にメキシコで「サルビア・ミクロフィラ」を採取した。記録上ではこれが最も早い採取年であり、“グラハムのセージ”といわれた理由がうかがえる。

クォールター(Coulter, Thomas 1793-1843)は、アイルランドの医者・植物学者・探検家で、1800年代初期にメキシコ・アメリカ南部の植物探索をした探検家として知られている。この時期はわからなかったが自ら未来を切り開くために、メキシコの金・銀鉱山の町Real del Monteの会社の医者として勤め、この期間にメキシコ・アリゾナ・アルタカリフォルニアの植物探索を行い、1834年にアイルランドに帰国する。
メキシコ滞在の1824年から1827年までの3年間にわたるベラクルーズへの探検旅行は、スミソニアン研究所(スミソニアン協会は1848年に設立)が支援したようであり、アメリカとの交流もあったようだ。
アイルランドに戻ってからは、ダブリンのトリニティ大学に植物標本館を作りそこの管理者となった。
このような経歴から見ると、「サルビア・ミクロフィラ」を採取したのはグラハムと同じ頃のようだ。

プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)は、アメリカの植物学者というよりはプラントハンターで、35年をかけて北アメリカ特にメキシコの植物カタログを作るのに精力を傾け、約20,000種という驚く数の植物を採取し、1200もの新しい種を発見し記述した。
サルビアの新種でも27種を発見していて、「サルビア・ミクロフィラ」に関しては、1885年メキシコのチワワ付近の岩山で発見採取した。
この圧倒的な数を誇るプリングルは、プラントハンターとしても稀有な存在であり、別途このシリーズでとりあげたい人物なのでこの程度とする。

「サルビア・ミクロフィラ」の学名は、“Salvia microphylla Kunth”で、1818年にクンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)によって命名された。
クンツは、ドイツの植物学者で、1820年からベルリン大学の植物学教授。1829年に、南アメリカに出航して、3年の間、チリ、ペルー、ブラジル、ベネズエラ、中央アメリカ、西インド諸島を旅行し、この当時のアメリカ大陸植物相の権威でもあった。

命名の時期が1818年であり、このことは、グラハムが採取する1830年以前に「サルビア・ミクロフィラ」を採取して発表したもの(文献・ヒト)があることになる。

さらにクンツのことを調べると、
クンツは、1813-1819年の間、中南米の探検からパリに戻ってきたドイツの探検家フンボルトのアシスタントとして働き、フンボルトと彼の盟友ボンプランが採取した植物を分類し、これらを元に新世界アメリカの植物相を書いた画期的な本「Nova genera et species plantarum 」(1815-1825)がボンプランの名前で出版された。クンツも著者として末席に記載されている。

「サルビア・ミクロフィラ」は、この本に掲載されていたのだ。

フンボルトとボンプランはいつメキシコの植物探索をしたか?
フンボルト(Humboldt, Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von 1769-1859)は、ドイツの博物学者・探検家・地理学者で、1796年に母親から膨大な遺産を引き継ぐ。名も無きプラントハンターは写真すら残せないが、フンボルトは違った。立派としか言いようがない肖像画(Joseph Karl Stieler作)が残っていた。

この膨大な遺産を元に1799年から1804年までラテンアメリカの探検を行い、この探検にはフランスの植物学者・探検家ボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)が同行した。

(写真)フンボルト探検隊の行動マップ


フンボルト及びボンプランのラテンアメリカ探検のことは他の文献・資料にお譲りすることにして、メキシコ、「サルビア・ミクロフィラ」との係わり合いに焦点を絞ることにする。

フンボルト探検隊は、南米探検のあと太平洋側のメキシコ、アカプルコに1803年3月22日に上陸した。陸路でメキシコシティに向かい1803年4月12日に到着した。
1804年3月7日キューバに向けて出航するまでの約1年間はメキシコの各地を探索する旅を行った。
「サルビア・ミクロフィラ」は、この1803年から1804年のメキシコ滞在の時に採取されたことになり、1830年に採取したグラハムより早く発見したことになる。
そしてこれらの標本をクンツが分類し、新種には新しい名前を命名して出版することになる。

メキシコ後の植物学者ボンブラン
フンボルト探検隊は、1804年5月20日にフィラデルフィアに到着し、6月1-13日はワシントンにてトーマス・ジェファーソン大統領と複数の会議を行う。そして、1804年8月3日にフランスのボルドーに帰還し、1804年8月27日にナポレオンが皇帝になる直前のパリに到着した。
フンボルト、ボンプランは時代の寵児として、パリで大歓迎されたことは言うまでもない。

(写真)ボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre)
         
出典:Australian National Herbarium

パリ帰国後のボンブランは、ジョゼフィーヌ皇后に珍しい植物の種を献上するなどをし、彼女が1799年に購入し、いつくしみ育てているマルメゾン庭園の管理者に1804年に就任し、1814年にジョゼフィーヌは死亡するが、翌年の1815年までこの地位に留まる。

この間のボンブランは、ラテンアメリカ探検旅行で60,000種に及ぶ植物標本を採取し、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版した。

また、1812-1817年にはマルメゾン庭園にある珍しい植物を書いた「Description des plantes rares cultivées à Malmaison et à Navarre」を出版している。この本の植物画はルドーゥテ(Redouté,Pierre Joseph, 1759-1840)が54点を描いている。

ジョゼフィーヌ死亡後のボンプランは、1816年に南米ブエノスアイレスに渡り、南米で波乱万丈の人生を送ることになる。
南米を探索したプラントハンターのところでまた登場してくれると思われるので続編を書きたいものだ。


【マルメゾン庭園の参考】
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No1
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No2
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No3


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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No1

2010-04-07 15:51:47 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No1:サルビアに魅せられて!

「セージ(Sage)」に魅せられてしまった。
何故だろうと振り返ってみると、葉・茎などから“薬臭い”香りがするが、この香りに魅せられたのではないかと思う。

初めの頃は、セージも、ハーブも、ましてや サルビアも区別がつかなかった。
とにかく“薬臭い”植物を集め育てたものだが、今では、“サルビアフリーク”になってしまった。

どのくらい栽培しているか正確に数えたことはないが、シソ科及びサルビア属の草花を中心にハーブ系の多年草の草花などを、地植えでなく鉢植えで毎年150品種前後は栽培しているようだ。生育環境が異なる植物を育てるには、鉢植えほど便利なものはない。

(写真)コモンセージ(Salvia.officinalis)の葉


コモンセージに関してはこちらを参照

サルビアは、現在の植物分類ではシソ科サルビア属(和名ではアキギリ属)に属し、世界には900種類以上あるという。熱帯から温帯地方に分布し、地中海沿岸、中南米に多く分布する。特にメキシコはサルビアの大産地であり300種類はあるという。

古代より薬効がある植物は珍重され宗教と医療に利用されてきたが、地中海沿岸に原生するサルビアは薬用として使われ、ローマからフランスを経てイギリスに伝わり「セージ(Sege)」として呼ばれるようになった。
サルビアの語源は“治療する・回復する”を意味するラテン語の“サルヴェオSalveo”だが、フランスに伝わり“ソージュSauge”となり、イギリスでは「セージ(Sage)」となったという。今では、サルビア属の植物で薬効があるものを「セージ(Sege)」と使い分けて呼ぶ。

サルビアには、神話の時代に生きているサルビア(=セージ)と、コロンブスの大航海時代以降ヨーロッパに入ってきた中南米のサルビアとの2系列があり、後者にはこれらを発見・採取したプラントハンターという人間の物語があることも魅力的だ。
国家の威信を背負った有用植物の探索とは異なり、珍しい・新しい・美しいという心をときめかせる価値を求めて未開拓地を探索するプラントハンターの物語でもある。

ところが、意外と植物を誰が採取したかという記録はあまり明確ではない。
今では、新種の発見者が申請登録できるようになっているが、世界の登録機関として、キュー王立植物園を中心にハーバード大学植物園、オーストリア国立植物園とで運営している“The International Plant Names Index(IPNI)”がある。こんなところでも、バンクス卿を初めとしたイギリス人の情報のセンターでありたいという志が生きているからすごい。

新種のサルビアが発見されIPNIの記録に残るようになったのは、1812年にイギリスの園芸家バーチェル(Burchell, William John 1781-1863)が 南アフリカで「Salvia namaensis Schinz.(1890) 」を発見した時からであり、それ以前は年代不詳となる。
バーチェルに関してはここを参照

コロンブスから約300年間が空白期間となるが、どこかに、名も知らないプラントハンターの痕跡があるかもしれないので、この足跡探しも楽しみとなる。

まずは、サルビアの宝庫メキシコを探検したプラントハンターに焦点をあててみる。
IPNIのデータには1829年以降の54人のプラントハンターの名前が残されている。彼らが発見したメキシコ原産のサルビアとその探索の旅でどのような物語があったのかを出来る限りプレイバックしてみる。
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宿根ビオラ、ラブラドリカの花 と プラントハンター、パーシュ(Pursh,)

2010-04-04 10:15:25 | プラントハンター物語(未分化)
(写真)ビオラ・ラブラドリカの花


「ビオラ・ラブラドリカ(Viola labradorica)」は、アメリカ合衆国北東からカナダにかけての湿っぽい森林地帯が原産地で、パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)が発見し採取した。

発見時期は定かではないが、パーシュは、1806年にフィラデルフィアがあるペンシルバニア州の山からニューハンプシャーまで、徒歩で銃を肩にかけ犬だけを連れてアメリカ北東部の探検旅行をしたので、この時期に採取したものであろう。
パーシュが発見した品種として9種が登録されているが、内8品種がビオラ属であり、可憐な「ビオラ・プリムリフォリア(Viola primulifolia)」も含まれている。

パーシュが活躍した時代背景
植民地への課税から端を発して重税感がある紅茶の焼き討ちが1773年にボストン港で行われ、植民地の権利と自由を求めてアメリカ独立戦争が始った。1783年パリでの会議でアメリカ合衆国の独立が承認され、1789年にはフランスでも自由・平等。博愛を旗印としたフランス革命が勃発した。この二つの革命は、貴族・僧侶・商工業者・農民という移動性が少ない階層的な社会に新しい概念の階層=市民が登場することになり、市民革命とも呼ばれる。
また折から始っていた蒸気機関を使った産業革命が進行しており、植民地と本国との資源とそれからできる製品・商品との新たな関係づくりが始り、これらを軸としたヒトとモノの移動が活発になった。

18世紀後半から19世紀の前半はこのような時代背景の下で、植民地或いは自国の資源調査が組織的に行われ、植物の世界でも無名のプラントハンターが活躍することになる。
組織的に行われたがゆえに、無名のプラントハンターでも痕跡・足跡がどこかに残っているので記録をさかのぼることが可能で、一匹狼的なプラントハンターは歴史に残れない。
またパーシュの活動期の北アメリカでは、イギリスとフランスの覇権争いがあり、東海岸から西海岸にいくにはまだ地図すら出来ていない広大な未開拓地が広がっていた。

アメリカのフローラを著した『パーシュ(Pursh, Frederick Traugott)』
パーシュには肖像画がない。
パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)は、ドイツで生まれ正規の教育を受けることなくドレスデン植物園で実践的な植物育成を学び、彼が25歳の時の1799年にアメリカに移住する。

アメリカでは当初幸運に恵まれ、ランドスケープデザイナーでフィラデルフィアの“The Woodlands Cemetery”を開発したWilliam Hamilton(1745–1813) アメリカの大ナチュラリスト John Bartram の息子でジェファーソン大統領の友人、大博物学者William Bartram (1739-1823)  植物学者Benjamin Smith Barton(1766-1815)等のもとで働くなど、当時のアメリカの知識ネットワークの中に入り込むことが出来た。

パーシュは、1805年には、Benjamin Smith Bartonのもとで植物採集などの仕事を得、彼のパトロンで二回のプラントハンティングの探検旅行を行った。バートンの目標は、北アメリカの植物相をまとめた大ミュージアムの建設と出版であり、そのためにパーシュをアシスタントとして採用したが、皮肉なことにこの目論見の一つがフランスからアメリカに植物探索で来たプラントハンター、ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)によって打ち砕かれてしまった。
※ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)に関しては文末に参照を掲載

ミッショーは、1802年にマダガスカル島で熱帯病で死亡しているが、アメリカ探検旅行に同行した彼の息子がまとめ1803年に「Flora boreali-Americana」として出版した。

ミッショーは1785年11月にニューヨークに到着し、1796年にアメリカを出発しフランスに帰ったので、1799年にアメリカに移住してきたパーシェとの接点はないが、アメリカ独立戦争でフランスを味方に引き入れた建国の父の一人ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)を中心にしてフィラデルフィアの同じ人脈につながっていた。

フランス革命後の新政府からの経済的支援がなくなったミッショーは、経済的に困窮し、1792年に新たなスポンサーとしてAmerican Philosophical Society及びジェファーソンに米国北西部探検計画を提案し1793年に受理されたが実現できなかった。原因は東海岸だけの米国が西海岸まで勢力を拡大することを望まない英・仏・スペインとの国際関係にあるようだが、ジェファーソン自体は、米国の内陸部の探検と西海岸の開発は、中国・アジアとの交易をにらんだ願望としてもっていたようだ。

ジェファーソンが大統領の期間(1801-1809)に、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition 1804-1806)としてこれが実現し、ミッショーの提案どおりにミズリー川上流から太平洋側に通商できる陸路を開拓することが出来た。

この副産物として、1805年にルイス・クラーク探検隊が集めた植物などの標本がジェファーソンのところに届き、この評価をバートン(Benjamin Smith Barton)が行った。
パーシュは、この頃からバートンにアシスタントとして雇われているので、この標本を間違いなく見たようだ。

しかし、バートンは動きが鈍く一向に取り組まないので、ルイス隊長にパーシュと会うように入れ知恵をするものが現れた。
パーシュは1807年にルイス隊長と会い、探検隊の採取した植物カタログを作成することで採用されるようになり、バートンがパトロンとなるパーシュの第二回の探検に出発するまでの限られた時間を含め、1808年までに採取された植物のイラストと説明を完成させた。

ミッショーが計画してから15年後にパーシュが米国北西部の植物の同定を完成させるが、いつの世も同じで、パーシュの成果を横取りするものが現れる。バートンを初めとした大学者のようであり、パーシュが完成したイラスト・説明などはこれらの人々が絡みその所在がわからない部分があるという。
名もなきプラントハンターが世に出るための大きな挫折を経験したようだ。

しかしながらパーシュも然るもので、これまで自ら採取した植物標本、バートンがスポンサーで採取した植物標本、ルイス・クラーク探検隊が採取した標本などの大コレクションとともに、キュー王立植物園を創立したバンクス卿健在のイギリスに1811年11月に到着した。
自らこの北米の新しい植物相の記述のセールスを行い、1788年にリンネ協会を創設しその理事長となったスミス(Smith, James Edward 1759-1828)がこれに乗り、1797年に北米の植物相探索のためにマッソン(Masson, Francis 1741-1805)をプラントハンターとして送り出したバンクス卿が関心を示さないはずがない。

パーシュは、当時の最先端の情報が集積されているバンクス卿、リンネ協会のスミス、オックスフォード大学などのライブラリー・植物標本を閲覧する権限を得、北アメリカの植物相の完成に屋根裏の小部屋に監禁されたような状態で取り組む。エネルギー源はビールでありアルコール中毒でもあったようだ。

1813年11月にパーシュは、北米植物相を記述した「Pursh's Flora」の原稿を完成させ、そのコピーを支持者に配布した。
印刷タイトルは「Flora americae septentrionalis」又は、「A Systematic Arrangement and Description of The Plants of North America,」

正規の教育を受けなかったパーシュが、世界の植物情報の総本山でもあったイギリスで、その中核に入り込み、ミッショーが記述した時より10年遅れて北米の植物相をまとめることが出来たのは、学歴・経歴よりも経験と情報量という現場主義がこの当時のイギリスにあったのだろう。パーシュ絶頂の時でもあった。

1816年にパーシュはイギリスを去りカナダに向かった。
しかし、いいことはなかった。
期待していた探検プロジェクトは、隊長が暗殺され中止となり、出版印税もライバルの新作が出たため減少するなど歯車が逆回転し始めた。追い討ちをかけるように、これまでの植物のコレクションなどがモントリオールの住居が火災になり消失した。
貧困とアルコール中毒で健康を害し失意の中で46歳の生涯を終えた。

パーシュは肖像画がないだけでなく葬式・お墓のお金もなかったようだ。
ロンドンに留まっていたら、出版後の講演などで食べていけたのかもわからないが、現場の匂いがしないところには本物のプラントハンターは居続けられないのだろう。

しかし、この時期からのプラントハンターは、珍しい植物を集めたいという願望を組織或いはシステムとして具体化しているので、植物園、博物館、園芸協会、園芸・育種会社などのニーズをとらえなければならなくなって来ている。
パーシュはロンドンに留まるかフィラデルフィアに戻ればよかったのだろうが、フィラデルフィアには戻れなかったのだろう。

(写真)ビオラ・ラブラドリカの葉と花


宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレア
・ スミレ科ビオラ属の耐寒性がある多年草。
・ 学名は、Viola labradorica Schrank 。英名は、アルペン・ヴァイオレット(Alpine violets)またはラブラドール・ヴァイオレット(Labrador Violet)と呼ばれ、流通名としては黒葉スミレとも言われる。
・ この品種は、原種ビオラ・ラブラドリカの園芸品種ラプラドリカ・パープレア(Viola labradorica purpurea)。
・ 原産地は、北アメリカ北東部でラブラドール、ニューハンプシャー、ニューヨクの湿っぽい森林地帯の樹の下に生息。
・ 草丈10cm程度で、黒ずんだ葉と紫色の花のコントラストが美しい。
・ 開花期は比較的長く、3~5月で夏場も咲くことがある。
・ ツツジとかツバキの木下の植え込みで半日陰が適している。
・ 腐葉土の多い湿った土壌を好む。

※ミッショーに興味があれば下記を参考
その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①
その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②
その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③
その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④
その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final
その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編
その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係
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