モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No14: アマランス(Amaranth)の起源と伝播

2013-02-17 13:43:51 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No14

アマランサスの起源

1960年代にアメリカの考古学者マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918 – 2001)は、メキシコ、プエブラ州テワカン・バレー(Tehuacan Valley)でトウモロコシの起源を調べる考古学的な調査をしていた。

(地図)テワカン・バレーとオアハカ・バレー
 
(出典) PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences)

このテワカンバレーは、半乾燥地帯で紀元前9000年頃からいくつかの小集団が洞窟に住んで狩猟採取生活を営み、紀元前1500年ころからは農耕生活が始まった遺跡があるところで、紀元前8000-5800年頃には、野生の植物食料のより集中的な収集と処理の痕跡が発掘された挽き石に残っていて、カボチャ、唐辛子、アマランス、野生のトウモロコシまたはブタモロコシの意識的な栽培の初期の証拠が発見された。

そして、テワカンバレーにあるコスカトラン洞穴(Coxcatlan Cave)では、紀元前6500-5,000年までにトウモロコシ、カボチャ、チリペッパー、アマランスを栽培していたようだ。

ウィスコンシン大学(1950-1967)及びカリフォルニア大学ロサンゼルス校(1967-1995)の植物学・地理学教授でアマランサスの分類と分布の研究に貢献したサウアー(Sauer,Jonathan Deininger 1918-2008)は、これらの証拠からアマランサスは少なくとも6000年前に穀物として中央アメリカで栽培されるようになったと結論づけた。そして、見つかる最も古い種はAmaranthus cruentusで、アステカ人が栽培していたAmaranthus hypochondriacusは、少なくとも1500年前には使用されるようになったという。

テワカンバレーの洞窟からは、この二つの品種のタネが見つかっていて、アマランスのこの2種の原産地はメキシコとグアテマラで、野生の草から食料としての栽培は6000年前以前に始まっていただろうとサウアーは結論付けている。
トウモロコシと違い、アマランスは栽培が容易なのでさもありなんと思う。

テワカンバレーの洞窟を利用した部族は、様々な食料を狩猟採取し、洞窟周辺でトウモロコシ、カボチャ、チリペッパー、アマランスなどを栽培していたが、これらの栽培植物の食料に占める割合は6%程度と見られているので、まだまだ小動物・昆虫などの狩と採取が中心であり農耕社会への転換はまだ大分先のことになる。

アンデスのアマランサス
アマランサスにはもう一つの重要な品種がある。Amaranthus caudatusであり、ペルーの1500-3500mのアンデス山中が原産で、いつごろから人間の手によって栽培されたかその起源は定かではないが数千年の歴史があるという。アンデスのインカ族にはキウィチャー(Kiwicha)と呼ばれ、高タンパク質で栄養バランスが良いアンデスのスーパー穀類として主要な食料となっていた。

コロンブス以前のアステカ、インカ帝国のユニークな農法
アステカの5大食物は、アマランス、トウモロコシ、豆、チア(Salvia hispanica L)と呼ばれるセージ、およびトウガラシであり、この5つの食物は、栄養的にも非常にバランスが取れているという。

スペインのコンキスタドール、コルテス(Hernan Cortes, 1485-1547)は、1521年にアステカ帝国の首都テノチティトランを3ヶ月も包囲してアステカ帝国を滅ぼしたが、征服後にアステカ人の残虐な宗教に結びついたアマランスとチアの栽培を禁止しキリスト教への改宗を教会と一緒になってすすめた。
そのためにかアマランスは忘れ去れ、1970年代に入ってやっと復権・注目されるようになった。

(地図)首都Tenochtitlanとチナンパ(Chinmpas)
 
(出典)wordpress.com

人工浮島チナンパでの栽培
アステカ時代のアマランス、トウモロコシ、豆、カボチャ、トマト、トウガラシ、花などの栽培は、首都テノチティトラン(Tenochtitlan)があるテスココ湖周辺の浅瀬に、チナンパ(Chinampas)と呼ばれる縦30m、横2.5mの長方形の囲いを作り、泥・湖底の沈殿物・腐敗した植物などを積み上げて人工の浮島を作りここで栽培した。
チナンパの食料生産量は、1年に3回の収穫をしたようなので当時の首都テノチティトランの20万人とも言われる人口の胃袋の1/2から2/3を賄ったというからかなりの生産性が高い農法だった。

また、チナンパとチナンパの間は、カヌーが通れる程度の間隔がある水路なので、湖底の堆積物をも肥料として使い、他の肥料(人糞など)や収穫した食料の運搬にも便利で、車輪・車という概念を持たなかったアステカ文明にとっては水路を活用したチナンパ農法は好都合だったのだろう。

このチナンパという栽培方法は、ソチミルコ(Xochimilco)で紀元1150-1350年頃に湿地帯という不毛の地を食料生産地へと逆転の発想で切り替え生み出されたものであり、1325年に建国されたアステカ帝国がチナンパを引き継いだ。そしてチナンパのあった湖は埋め立てられ、今ではメキシコシティの観光名所、Floating Gardens of Xochimilcoとして残っている。

そういえばイタリアの水の都ヴェネチアも敵が侵入しにくい湿地帯に逃げ、ここに迷路のような水路を作り居住地を造ったようだが、”悪環境は(逆にもっと悪い環境から)生きやすい”ということなのだろう。ただし、知恵が働けばという条件を見落とさないようにしないといけないようだ。

コンパニオン・プランティング(Companion planting)
チナンパという人工の浮島だけで感心してはいられない。もっとすごいことがなされていた。農薬というものがない時代、悪天候だけでなく病害虫も食料となる植物をだめにして飢饉となった。
アメリカ大陸原産のトマト、ジャガイモ、トウガラシ、インゲン豆などは、連作障害が起きやすい植物として今では知られているが、アメリカ大陸のネイティブは、長い耕作の経験でこれを克服し、連作しない農法(輪作)および病害虫を防ぐ方法を生み出していた。コロンブス以前のヨーロッパでは知られていなかった「コンパニオン・プランティング」というものだ。

チナンパでは畝を高くしてトウモロコシが植えられ、その周りにインゲン豆とカボチャが植えられた。トウモロコシはインゲン豆がつるを伸ばし絡まる支柱役となり、インゲン豆はトウモロコシが不足する肥料分の窒素を供給し、カボチャは地面を這い大きな葉で地表を覆い水分の蒸発を抑えるだけでなく、チクチクする髭が病害虫の進入を防ぐ役を務めているという。そしてアマランスはチナンパの縁に植えられた。
植物同士が助け合う混載の方法をコンパニオン・プランティングというが、今では、農薬を使わない農法として或いはガーデニングで注目される存在となっている。

効率を追求するがために、大量の生産が期待できる品種に絞って、単一栽培の長期化が飢饉をもたらした例として、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し壊滅的な被害をもたらし、アイルランドでは人口が半減したという。
ジャガイモの原産地南アメリカのアンデス地方では、単一品種の栽培ではなく多品種を同じ畑に植え、その多様性で全滅という最大のリスクを乗り越えてきたが、このノウハウをジャガイモとともに輸入しなかったために起きてしまった。

アマランスから脱線してしまったが、アマランスの伝播と復権を次回のテーマとするが、アステカ、インカの知恵の見落としとなりそうだ。

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No13: アマランス(Amaranth)の品種と特徴

2013-01-07 11:15:31 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No13

ヒユ科アマランサス属(Amaranthus)には約70の種があり、そのうち60種はアメリカ大陸原産という。自然交配がしやすいので雑種が多く分類が難しいようだ。
属名のアマランサスは、ギリシャ語のamarantos(しおれることのない)に由来し、不死を象徴する。
アマランスは、茎・葉は野菜として食べ、ほうれん草のような味がするという。実は粉にして小麦粉のように調理し、或いはポップコーンのようにして焼いて食べるので、小麦・米などより利用するところが多い有能な植物だ。食用だけでなく、観賞用としても価値があり、薬用植物・染料としても使われていたので、オールマイティな有用植物といえるだろう。
コロンブスがアメリカ大陸に到着した1492年以降、メキシコ原住民の人口が激減した。その理由として、農場・鉱山などでの重労働による搾取、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病などがあげられるが、人身御供をする宗教と結びついたアマランスの栽培禁止による身体を維持する食料・栄養摂取の激変も大きな要因となっていたようだ。
食料としてオールマイティな存在であったアマランスの禁止は、同時代の日本人に米の栽培・摂取を禁止するようなものに近い。

穀類として使用されたアマランスには重要な種が三つあり、メキシコ・グアテマラ原産が二種(Amaranthus cruentusとAmaranthus hypochondriacus)、三番目の種が古代アンデス地方の住民の食料であったAmaranthus caudatusという。

アマランスとはどんな植物かというところをこの三品種にスポットを当ててみていこう。

(1)Amaranthus cruentus L.(1753) アマランサス・クルエンタス

(写真)Amaranthus cruentus

 
(出典)fine gardening

 
(出典)Plants For A Future

アマランサス・クルエンタスは、Purple amaranth, Red amaranth, Mexican grain amaranth(メキシコの穀物)とも呼ばれ、和名ではスギモリケイトウで知られる。
耐寒性が弱い1年生の草丈2mにも育つ顕花植物で、夏に赤紫の花が咲き実を結ぶ。
メキシコ・グアテマラが原産地で、紀元前4000年頃にはメキシコあたりの中央アメリカで食料として使用されていた。
その姿は観賞用としても素晴らしいが、種子はタンパク質が豊富で最近では健康食品として使用されている。

(2)Amaranthus hypochondriacusL.(1753)アマランサス・ヒポコンドリアコゥス

 
(出典)University of Wisconsin-Stevens Point
 
 
(出典)ミズリー植物園

アマランサス・ヒポコンドリアコゥス(Amaranthus hypochondriacus)は、Prince-of-Wales'-feather(ウェールズの王子の羽)、prince's-feather amaranthと呼ばれ、草丈120cmとアマランサス・クルエンタスよりは小さめの一年草で北アメリカ南部が原産地で、現在では熱帯・亜熱帯・温帯地方で観賞用、穀物として栽培されている。

(写真)The Prince of Wales's feathers
 
(出典)Flickr.com
※ The Prince of Wales's feathersとは、イギリス連邦の国王の後継者のバッジで、三つの白い羽を束ねる金の王冠から成る

栽培品種はその原種がよくわからないがAmaranthus hypochondriacusは、米国南部および北メキシコ原産の野生種Amaranthus powellii S.Wats.(1875)とAmaranthus cruentus のハイブリッドではないかと考えられている。

Amaranthus powellii について簡単に触れておくと、green amaranth(緑のアマランス)、Powell's amaranth (採取者パウエルのアマランス)と呼ばれるように緑色が特色のアマランスで、1874年に米国アリゾナでこの品種を採取したパウエル(Powell,John Wesley 1834-1902)を記念してこの名前がつけられた。

(写真)Amaranthus powellii S.Wats.(1875)
 
(出典)New England Wild Flower Society

(3)Amaranthus caudatus.L.(1753)  アマランサス・カウダトゥス>

 
(出典)ミズリー植物園

アマランサス・カウダトゥス(Amaranthus caudatus)は、南アメリカペルーのアンデス原産でアフリカ、インドでも自生している。草丈150cm程度で夏場に赤紫の房状の垂れ下がった花が咲く一年草または二年草で、英名ではlove-lies-bleeding、velvet flower、tassel flower amaranthと呼ばれ、和名ではひも状のケイトウという意味合いでヒモゲイトウと呼ばれる。
アンデス地方では若い葉を野菜として使い、実は穀類として朝食に食べ、このアマランスのことをスペイン語でキウィチャー(Kiwicha)と呼んでいる。

英名の“love-lies-bleeding”とは、エルトンジョンの亡き友にささげる歌「Love Lies Bleeding」ではなく、“葉野菜として利用される若葉”のことを意味する。

(写真)アマランスの実
 

この種の祖先は、Amaranthus quitensisとも推測されており、栽培を通じて品種改良されてきたようだ。このアマランサス・クイテンシスを採取したプラントハンターはフンボルト南米探検隊の植物学者ボンプランがエクアドルで採取している。

(写真)Amaranthus quitensis Kunth
 
(出典)wikipedia
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No12: 征服者が禁止したアマランス(Amaranth)

2013-01-01 08:17:24 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No12

INTRODUCTION
コロンブスが来る前のメキシコ、アステカ王国の主要食料は、トウモロコシ、インゲン豆、トウガラシ、かぼちゃ、そして小麦・米に匹敵する穀類のアマランスだった。
トウモロコシ、インゲン豆、トウガラシ、かぼちゃはヨーロッパ、そしてアジア、アフリカに伝播し、世界の主要な食料となったが、アマランスだけは伝播しなかった。

アマランスは、荒地・乾燥地でも栽培出来て、栄養素が豊富で、小麦などに含まれるたんぱく質グルテンがないなどの特色があり、やっと1970年代になってから再評価されるようになった。ソバもグルテンが含まれていない穀類だが、グルテン拒否症とも言われるセリアック病(Celiac disease)患者にとっては選択肢が広がる貴重な穀類となる。
また、土壌の乾燥などで食糧生産が困難になっているアフリカなどの地域ではトウモロコシだけでなくアマランスは救いの穀類となりそうだ。

何故アマランスがトウモロコシなどとは異なり世界に伝播しなかったかといえば、アステカ王国を滅ぼした征服者スペインの統治政策がアマランスの栽培を根絶やしにしたからだ。

(写真)テノチティトラン(Tenochtitlan)
 
(出典)ウィキペディア

アステカ王国を征服したコルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)が、テスココ湖中にある人口20万人以上が住む人工の島でその当時の世界有数の大都市、アステカの首都テノチティトランを訪れたのは1519年11月8日だった。
アステカのライバルであるトラスカラ王国の大部隊がコルテスの同盟軍としてテスココ周辺に侵攻しているとはいえ、コルテスの部下はわずか500人の兵、馬16頭であり策を練らない限りアステカ王国を支配すことが出来ない。
アステカ王モクテスマ2世をコントロールすることによって間接支配を狙ったが、コルテスの留守中にアステカの祭典に恐怖を覚えた兵が虐殺を始め、これに激高した住民が反乱を起こしモクテスマ2世を暗殺した。翌1520年6月30日にコルテス達はやっとのことでテノチティトランを脱出した。
1521年に再度アステカに進攻し、テノチティトランを包囲して3ヶ月以上の攻防の末8月13日にテノチティトランは陥落したが、アステカ軍に捕らえられたスペイン兵が神殿の上に引き連れられ人身御供として神にささげられた光景をまざまざと見たコルテス以下のスペインの征服者は、テノチティトランを徹底的に破壊した。(現在のメキシコシティは、この破壊された瓦礫の上に作られた。)
そして、教会とともにアステカの宗教を邪教として弾圧しキリスト教への改宗をすすめた。

(写真)アステカの神殿
 
(出典)NHK

アマランスとアステカの宗教との関係
さて、ここからが本題になるが、アマランスはこの宗教と密接な関係があったので、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的に徹底的な弾圧にあい、スペインの統治が拡大するに従いアマランスの耕作地も減り、忘れられた存在となっていった。

アステカ人を含む中央アメリカの宗教は多神教で、その中でも太陽の神・軍神Huitzilopochtli(ウイツィロポチトリー)がテノチティトランの守護神として崇められていた。というのは、この神が放浪していたメシカ族をワシがサボテンに止まっているところ、後のテノチティトランに導いたからだ。

(写真)アステカの太陽の神Huitzilopochtli(ウイツィロポチトリー)
 
(出典)Codex Telleriano-Remensis
※ 16世紀にメキシコで描かれたアステカの原画の写本

12月7日から26日までがHuitzilopochtli(ウイツィロポチトリー)のお祭りで、紙旗で家と木を飾りつけ行列を作り歌・踊り・祈りをし、最後のハイライトが人身御供の心臓を神に供えるという。
そして、Huitzilopochtli(ウイツィロポチトリー)の大きな像はアマランスの種と蜂蜜でつくり、これを小さく壊して食べお祭りが終わりとなる。
スペインの征服者にとって見れば、アマランス≒Huitzilopochtli(ウイツィロポチトリー)となるので、アステカ人の主食といえども許すわけにはいかなかったのだろう。

そして、アマランスは400年以上もの間忘れられた存在となり、耕作地ではなく路傍の雑草として時が経過した。
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No11:トウモロコシの世界への伝播

2012-02-29 20:51:40 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No11
コロンブス探検隊との出会い
1492年10月12日コロンブス(Christopher Columbus、1451年頃-1506年5月20日)探検隊は、2ヶ月航海してカリブ諸島のひとつの島に到着し、この島をサン・サルバドル島と命名した。
ここから旧大陸と新大陸の文化の交換が始まることになる。その代表例がコロンブスたちは梅毒を持ち帰り、旧大陸からはコレラ・ペストなどが持ち込まれることになる。

ヨーロッパ人で初めてトウモロコシに出会ったのは、コロンブス隊が10月28日にキューバ島を発見し、(コロンブスは、大きな陸地なので中国にたどり着いたと死ぬまで思っていたようだが) 奥地を探検するために派遣された二人のスペイン人であり、島に住むアラワック族はこれを“マイス(Mays)”と呼び、「人間ほどの背の高さがあり、腕の太さほどの穂をつけ、えんどう豆ほどの大きな粒をつけていた。」と記述されているのでこの頃には今日のトウモロコシに近い姿となっている。

コロンブス以降にアメリカ大陸に来たヨーロッパ人、例えば、メキシコのアステカ帝国を滅ぼしたコルテス、ペルーのインカ帝国を滅ぼしたピサロなどいたるところでトウモロコシとその多様な調理方法に出会うことになる。
つまり、コロンブスが新大陸を発見した頃には既に南北アメリカにトウモロコシが伝播していたことになる。

メキシコから南北アメリカへの伝播
メキシコ南西部のバルサ川流域で8700年前以前に栽培化されたトウモロコシは、南北アメリカに伝播し、中南米ではカボチャ・インゲン豆・アマランス、南米ではジャガイモ・キノア(チチカカ湖周辺が原産の穀類)などとともに重要な食料として普及し独自の文化を形成していく。
何時頃、何処まで広がったかというと、3200年前頃には南西部の米国、2100年前には東部米国、紀元700年頃にはカナダまで商取引のルートで広がったといわれている。

アメリカ大陸から他の大陸への伝播
中南米原産のタバコ、トウガラシ、ジャガイモ、トマトなどの普及はかなり時間がかかったが、トウモロコシの普及はかなりスピーディだった。1500年にはセビリアで栽培され、1500年代の半ばには地中海に広がり、後半にはイギリス、東ヨーロッパまで栽培が広がった。
また、スペイン・ポルトガルの商人によって1500年代初めにはアフリカ、アジアにも広まり、日本には1579年にポルトガル人が四国にフリント種(硬粒種)をもたらしたという。この説は『本朝世事談綺』(菊岡沾凉作の江戸享保時代の随筆)によるが、『大日本農史』(明治23年編纂)によると後奈良天皇天文四年(1535年)に中国より来るという説もある。
どちらが正しいかわからないが、トウモロコシは100年もかからずに世界を一巡したことになる。

急速に世界に広まった理由としては、トウモロコシの生産性の高さによる。小麦よりも3倍の収穫量があるトウモロコシは、貧困層の食糧として受け入れられただけでなく、増加しつつある人口の胃袋を満たす食料ともなった。
どんな食べ方がされたかというと荒引きされたトウモロコシの粉を熱湯に入れ、かき混ぜながらドロドロの粥として煮て食べたようだが、空腹を少ない食料で満たす代用食として貧しい地域(寒冷地・山間部など)に入っていった。
この食べ方は、いまでは北イタリアの名物料理“ポレンタ(Polenta)”として知られるが、栽培しやすく生産量が多いトウモロコシが小麦粉・キビに取って代わったという。

余談になるが、アメリカ大陸原産の植物は、スペイン・ポルトガルの商人がアフリカ・アジアなどの自国の植民地に普及させ、ヨーロッパでは地中海貿易を通じイタリアに入り定着したものが多い。トウモロコシ、トマト、ズッキーニ、トウガラシ等でありイタリア料理を彩る食材となっている。
何故スペイン料理を彩る食材にならなかったのだろうかという疑問があるが、食の基本は保守的であり、新大陸の怪しげな食材を拒否できるリッチマンと、食べられるのであれば危険をものともしないプアーマンとの違いがあったのだろう。16世紀のイタリアは飢饉が何度も襲い貧しかったことは間違いない。この貧しさが新世界の食物を取り入れ世界に冠たるイタリア料理を作り上げたのだから歴史は面白い。

メキシコ原産ではないという説
コロンブス以前に中国にトウモロコシが伝播、或いは中国原産のトウモロコシがある と主張する意見もある。
或いは、インド北東部のアッサム地方、中近東原産という説もあった。

ドゥ・カンドル(August Pyrame de Candolle 1778-1841)の息子アルフォンズ・ドゥ・カンドル(Alphonse de Candolle 1806-1893)の大著『栽培植物の起源』は、トウモロコシについての説明を次のような書き出しで始める。

『トウモロコシは、アメリカの原産物であり、そして新世界の発見後に旧世界に移入されたに過ぎない。』
21世紀の今日でもトウモロコシの原産地に関して異論があるが、19世紀末においてもアルフォンズ・ドゥ・カンドルと異なる意見が多々あった。

その誤解の原因が16世紀の西ヨーロッパでトウモロコシのことを“トルコの麦(Bie de Turquie)”と呼んだことにあると断定している。
丁度、メキシコから中米原産の七面鳥が英語でターキー(Turkey)と呼ばれたようにトルコ原産を意味していず、スペイン・ポルトガルから地中海貿易を経てトルコに入り、ここから西ヨーロッパに広がっていった流れを受けている。

“トルコの麦”という記述を最初にしたのは、フランスの植物学者リュエリウス(Johannes Ruellius1474-1537)であり1536年の出版物に記述しているので、かなり早い時期からこの名前がついていたことになるが、原産地を紛らわしくしたことは否めない。

世界最古の栽培植物といわれるヒョウタンにも、南アフリカ原産というのが定説となっているが、中南米原産という主張もあり、トウモロコシにも同じような主張がありこれはこれで面白い。
人間の手により世界に普及した栽培植物の祖先・原産地を、さかのぼって特定化するのは困難だなということがよくわかった。しかし、遺伝子を調べれば何らかの決着がつく時代になっているので、古の本草書の比較研究だけでは当てにならないので本草書研究者泣かせになってきた。

トウモロコシのトピックス
世界的な人口増加と異常気象による干ばつなどで穀物の値段が上昇傾向にある。下記のグラフを見ても特に米の国際価格上昇が著しい。成長著しいアジアの主食である米なのでこれからも油断は出来ない。
トウモロコシの価格も上昇しておりこれまでの二倍になっている。この理由は再生可能なエネルギーであるバイオマスエタノールの原料としてトウモロコシ・サトウキビなどの需要が増加しているためで、食糧以外にも使われるトウモロコシの潜在的な力が値上がりの要因となっている。
トウモロコシの消費分野を知るとさらに驚く。
人間の食糧として食べられている割合はたったの4%であり、その多くは家畜の飼料(64%)、コーンスターチやコーン油などの加工品(32%)に使われていて、家畜を育て肉類を生産する役割に貢献している。さらには、車などを動かすエネルギーとしての役割も発見され、トウモロコシの潜在力に感心する。


(出典)「社会実情データ図録」
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No10:トウモロコシの起源、その3.バルサ流域での考古学調査での発見

2012-02-14 12:02:02 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No10

トウモロコシの祖先を特定化する難題は、2000年代になってから急展開したというからつい最近のことになる。
遺伝子の分析と澱粉粒子の分析という新しい科学的な手法が開発され、考古学に応用されるようになって急展開した。

澱粉粒子の分析は、
それ以前の考古学が乾燥した地層で化石化した植物の残存物を発見しこの地層の年代を測定することによって栽培されていた年代を割り出していたのに対して、
石の表面に付着した澱粉から植物を割り出すのでゴミ捨て場として使用された洞窟近くの沼に沈殿した残留物からも植物を特定化できるという。

アメリカ大陸の古代文化には、コロンブス達がやってくるまで鉄の時代がなかった。
武器としての矢じりは石であり料理で使う包丁も石で、トウモロコシは硬い皮を叩いて磨り潰しこれを食していたようなので石の表面には澱粉が付着する。
澱粉は熱にさらされない限り種特有の形態を持つので、種の特定化が可能だという。

この澱粉粒子分析を使いトウモロコシの祖先である野生のテオシント(Zea mays subsp. parviglumis)の考古学的な証拠を発見したのがテンプル大学人類学の女子卒業生だったDolores R. Piperno(1949- 、現スミソニアン国立自然史博物館)だった。

異分野からのチャレンジャーがトウモロコシの祖先を見つける

(写真)  Dolores R. Piperno(ドロレス・ピペルノ)

(出典)スミソニアン国立自然史博物館

ピペルノは、1971年にニュージャージ州カムデンにあるRutgers Universityを医療技師の学士で卒業し、フィラデルフィアにある病院の血液センターの研究技師として血液検査の技術開発も含めて5年間勤め、1976年にフィラデルフィアのテンプル大学で子供の頃から興味を持っていた人類学コースで大学院に再入学した。
この大学でパナマ共和国の熱帯雨林考古学を研究していたRanere, Anthony の研究室に入ったことから熱帯での栽培植物の考古学という道に踏み込むことになる。

大学から考古学に入ったならば、新しい考古学の技術開発に踏み込むこともなかっただろうが、実験・検査、顕微鏡の活用という医学的スキルを身につけたピペルノは、高温多湿で植物を腐敗させ痕跡をとどめない熱帯地方で、植物の種類を特定化する科学的なアプローチを開発していくことになる。

博士過程で取り組んだのは、植物の細胞に含まれるガラスの元ともなる珪素であり、腐敗しても残るので熱帯での栽培植物の考古学に利用できないかを研究した。
特にイネ科の植物は (トウモロコシもイネ科の植物だが) 珪酸を含むので、この形態などから種を見分けることが出来るという。

1988年にピペルノは植物珪酸体分析を用いた考古学の「Phytolith Analysis: An Archaeological and Geological Perspective」という最初の本を出版した。そして、この年にスミソニアン協会が生涯スタッフという地位を提供するまでになった。

1990年代の後半からは、珪酸体分析が出来ない植物のために澱粉粒子分析という新しい方法を模索し始めた。
この1990年代後半には、ウィスコンシン大学のJohn Doebleyが遺伝子の分析から、『メキシコの熱帯の中央バルサ川流域がトウモロコシ栽培の発祥地で、そこに生息していた野生のテオシント(Zea mays subsp. parviglumis)が現在のトウモロコシの祖先である。』
と発表していたが、栽培されていたという考古学的な証拠はまだ見つかっていなかった。

バルサ流域にあるXihuatoxtla Shelter(キシュアトキツラ洞窟)
2000年に入ってピペルノと彼女のチームは、バルサ川流域の遺跡と3つの湖沼でサンプルを集めそれらを分析したところ、
1万4千年前にはバルサ流域に人類が生活した痕跡が見つかり、
氷河期が終わる1万年前ころから温暖になりつつある熱帯低地ではこの環境変化への対応が進み、
8千年前にはトウモロコシとカボチャが人間の手により栽培されていた証拠を湖の沈殿物から発見し、
7千年前には焼き畑農業がされていたことがわかった。

これは素晴らしい発見であり、これまでの知見を覆すものでもあった。
何しろ熱帯低地で農業がかなり早い時期に始まっていたということすら想像していなかったのだから。

2005年からテンプル大学のRanere, Anthonyをリーダーとする大掛かりな調査が始まり、ピペルノもメンバーとして加わった。
他のメンバーとしては、スミソニアン熱帯研究所のIrene Hols、テンプル大学のRuth Dickau、英国のエクセター大学José Iriarte   などであり、
資金は、全米科学財団、米国地理学会、ウェンナー・グレン基金、スミソニアン国立自然史博物館、スミソニアン熱帯研究所、テンプル大学教養学部などが拠出した。

この調査では、中央バルサ川流域の人が住んでいた痕跡がある15の洞窟のうち4つを掘り、そのうちの一つであるXihuatoxtla Shelter(キシュアトキツラ洞窟)から8700年前にトウモロコシとカボチャが栽培されていた証拠を発見した。
この事実は2009年に発表されたのでつい最近のことであり、まだ紆余曲折はありそうだが、

1. 現在のトウモロコシの祖先は、バルサ・テオシント(学名:Zea mays subsp. parviglumis)であり、(遺伝子分析からJohn Doebleyが結論付ける)
2. 人間の手による栽培はメキシコのゲレーロ州バルサ川流域で少なくとも8700年前に始まった。(Anthony Ranere、Dolores R. Pipernoチームの調査)
3. そしてこの野生種バルサ・テオシントを最初に採取して命名したIltis & Doebley

この人達のリレーによってここまで明らかになった。
イルチス、ドエブリー、ピペルノは畑違いから情熱を持ってひたすら邁進した。このパッションに敬服し、徹しきった生き方に共鳴する。彼らがいたからこそ、長い間謎だった“トウモロコシの祖先”がやっとわかるようになった。

(写真)  Xihuatoxtla Shelter(キシュアトキツラ洞窟)

(出典) the National Academy of Sciences

ところで、キシュアトキツラ洞窟について触れると、写真のようにヒトがかがまないと入れないような洞窟で、広さは75㎡で、今で言うと3LDKぐらいのスペースだろう。

この地面を掘ると、5つの時代の層が見つかり、遊牧民がキャンプ地として使っていたと考えられていたが、そこから出土した物を調べると、叩いたり磨り潰すのに使用した石(調理道具)からトウモロコシやカボチャの澱粉が付着しているのが見つけられた。
放射性炭素年代測定法で最も古いE層の年代を調べると8990年前以前であり、人間の手によって既にトウモロコシの栽培が始まっていたことがわかった。
アメリカ大陸での農業の歴史は、氷河期が終わる1万年前頃から始まっていたようであり、温暖化で絶滅したマンモスなどの大型哺乳類を追いかける遊牧狩猟生活から、小動物・木の実・エビ・貝などの狩猟採取生活に移行し、トウモロコシ・カボチャなどの栽培も加わっていた。

(写真) Xihuatoxtla Shelter(キシュアトキツラ洞窟)から出土したもの

(出典) the National Academy of Sciences

1 A層(1240-1000前)陶器や土器の破片、黒曜石刃断片、多少の現代の瓶ガラス
2 B層(2980-2780前)、陶器や土器の破片、黒曜石刃断片、ナイフ、チョッパー(刻み用)ひき臼
3 C層(5590-5320前)、陶磁器作り以前の時代で、こて(穴をあける)ナイフ、ハンド石ミリング石をはがして薄片にしたもの
4 D層(8990-8610前)チョッパー(なた、肉きり包丁)、こて、彫刻用の石、ナイフ、両面調整石器、ミリング石(たたき、粉引き)、ハンド石
5 E層E(8990前)茎、ギザギザが入った石、槍の穂先、南京かんなのような石、先が尖った彫刻用の石、ハンド石


(出典) the National Academy of Sciences

トウモロコシ栽培のきっかけは、あくまでも推測だが、山火事がありその跡にポップコーンが散乱し、食べてみたらなんら問題がなかった。
野生のテオシントが群生しているところでポップコーンを見つけたので、この雑草を育て、その中で多くの実をつけるテオシント(突然変異種)を選んで育てるようになり、これが今日のトウモロコシになったのかもわからない。
野生のバルサ・テオシントは、実が少なく殻は固いのでちょっと手が出にくい。
ポップコーンが美味しかったので、固い殻を叩き割り、磨り潰して、料理することに気づいたのだろう。

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No9:トウモロコシの起源、その2

2011-12-23 14:21:36 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No9
遺伝学の手法を使ったドエブリーがトウモロコシの祖先を絞り込む
メキシコ、グアテマラ、ニカラグアに生息する5つの野生種テオシントがトウモロコシの起源に関係したことが明らかになり、その中ではバルサバレー(Balsas River Valley)で発見された野生種のバルサ・テオシント(学名:Zea mays subsp. parviglumis)が最もトウモロコシに近いということがわかった。

この野生種のバルサ・テオシントを発見したのは、ウイスコンシン・マディソン大学の植物学教授イルチスとこの大学で博士課程を受けていたドエブリーで、1977年9月22日のことだった。

1980年に博士課程を終了したドエブリーは、ノースカロライナ州立大学に移り、遺伝学者メジャー・グッドマン(Major Goodman)の指導の下で野生種のテオシントとトウモロコシの進化の関係を調査・研究した。どんな方法で調べたかは後で説明することにして、誰もが想像もしなかった結果を発見した。

それは、 『バルサ・テオシント(学名:Zea mays subsp. parviglumis)が遺伝的にトウモロコ(Zea mays subsp. mays)と最も近い。』 ということだった。
言い換えると、現代のトウモロコシの祖先は、バルサ川流域を原産地とする野生のテオシント、パヴィルミス(学名がZea mays subsp. Parviglumis)であり、古代の遊牧民がこの種を栽培し始めて今日の洗練したトウモロコシに至った。ということになる。

見た目の形態が大きく異なるパヴィルミスとトウモロコシなので“信じられない”というのが当然で、ドエブリーの遺伝子学からの主張が正しいのならば、「古代の遊牧民がパヴィルミスを栽培した」という痕跡がどこかにあるはずだ。

ドエブリーが主張した時期に考古学的にわかっていたことは、メキシコシティの南東部にあるテワカンバレーにあるコスカトラン洞窟(Coxcatlan Cave)で8千年前(紀元前5960年頃)に栽培された植物(トウモロコシ、ヒョウタン、スカッシュ、豆)の痕跡を見つけ、さらにテワカンバレーから160km南東に行ったところにオアハカバレーにあるギラ・ナキツ(Guilá Naquitz)洞窟で、テワカンバレーで発見したトウモロコシよりも700年も古いトウモロコシを発掘した。
このトウモロコシは、メキシカーナ(学名:Zea mays subsp. Mexicana)のようであり、この種が現在のトウモロコシの祖先に近い種とみなされていた。

パヴィルミスとメキシカーナ2種の気候的・地理的な位置関係を表したものが下記の地図になる。
メキシカーナは、寒冷な熱帯高地で生育しテワカンバレーはこの気候帯にあり、パヴィルミスは暑い熱帯低地で生育しバルサスバレーはここにある。
1970年代までは、化石などの保存状態が良い亜熱帯の乾燥した地域か寒冷な熱帯高地での考古学発掘しかされていなかったので熱帯低地は手がついていなかった。
それにしても、この2種は近いところで生育し交雑した可能性もある。

(地図)パヴィルミスとメキシカーナの地理的分布

(出典) McClung de Tapia (1992) and Matsuoka et al. (2002).

遺伝子の簡単な歴史
遺伝子の概念は、現在のチェコのブルノの司祭だったメンデル(Gregor Johann Mendel、1822-1884)によって1865年に発見された。えんどう豆の交配を繰り返し、背の高さなどの表現形質が異なるものに注目し、必ず背が高く育つ種子と、必ず背が低く育つ種子を選別し、これらを交配させてみると必ず背が高く育った。これを優性の法則というが、親から子に伝わる遺伝的な粒子があることを確信した。
後にこの粒子をウィリアム・ベイトソン(William Bateson, 1861-1926)によって1905年に遺伝子と名づけられたが、それまではこのメンデルの法則は忘れられていた。

遺伝子学が大きく進んだのは、1953年のジェームス・ワトソン(James Dewey Watson, 1928- )とフランシス・クリック(Francis Harry Compton Crick, 1916-2004)によってDNAの二重らせん構造モデルが発表されてからで、1966年にはDNAの暗号解読が完了した。

ドエブリーの手法
ノースカロライナ州立大学でのドエブリーの研究は、野生種のテオシントがトウモロコシに進化していく過程を調べるために異系酵素(allozymes)を使って調査した。
この異系酵素(一種の遺伝子マーカー)は、進化の履歴と生物の異なる種の関係を測定する時に使われる生物学的な酵素で、この酵素のアミノ酸配列を比較することによって親子などの関係がわかるという。

一種の遺伝子マーカーとして酵素のアミノ酸配列を使用したというが、遺伝子マーカーは一般的にはDNA型鑑定として知られている。
いまではサスペンスドラマを見ると犯罪捜査の必需品であり、タバコの吸い口についた唾液、血痕、髪の毛などからDNAの配列を調べ、犯人が残した遺留品に付着した血痕などのDNAと比較して同一か否かを完璧ではないが100%に近い確率で判定できる。
また親子の関係を調べるのにも使われていて、生物個体の遺伝的性質と系統(個人の特定、親子関係、親族関係、祖先など)の目印になるという。

(写真)(a)トウモロコシ(Zea mays subsp. mays)(b)パヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis)

(出典) ゲノムの変化からみた トウモロコシの栽培化と育種by山崎将紀

ドエブリー以前の種の同定は、雄しべ・雌しべ、花びらの数・形、茎・葉などの生え方など外観でわかる形態などによっていたので、野生種のパヴィルミスはとても現在のトウモロコシの祖先とは考えることすら出来なかった。

パヴィルミス(Zea mays subsp. Parviglumis)がトウモロコシの祖先だとする遺伝子学からの結論が正しいのならば、古代の遊牧民により栽培され食された痕跡がどこかにあるはずで、この発見と年代の測定により証明することが出来ることになる。

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No8:トウモロコシの起源 その1

2011-12-04 11:00:12 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No8
メキシコで農業が始まるまで

今から12,000年前までにベーリング海峡を渡ったモンゴロイドはアメリカ大陸に渡り、1,000年をかけて南アメリカの南端まで移動をしたという。

ベーリング海峡を超えたモンゴロイドは、気候の温暖化に伴い氷河が溶け水没したベーリング海峡を逆戻りすることが出来ず、マンモスなどの大型哺乳動物を求めてアメリカ大陸を南下したようだが、10,000年前頃に起きた寒冷化で多くの哺乳動物が死滅し狩猟・採取生活から狩猟・採取・農業生活に転換せざるを得なくなる。
一説によると、マンモス・象とマンモスに似ているマストドン・馬・ジャイアントビーバー・ナマケモノなど7割の大型哺乳動物が絶滅したというから原アメリカ人にとっても生存の危機が生じ、生き残るための知恵を働かさなければならなかった。

ここからが現在の企業戦略とか組織論に相通じる資源獲得の最適化が現実の歴史として現れ、マンモスという巨大な資源を獲得するための大組織では維持できないので少ない資源をスピードよく獲得する最適化が図られるようになる。

(写真)メキシコ・ゲレーロ州Teloloapanバルサス川付近の丘陵

(出典) University of Wisconsin-Madison

この10,000年前の頃の初期には、バンドと呼ばれる少人数のグループで遊牧(nomad,ノマド)をしながら寒冷化から生き残った小動物の狩り、野生植物の採取、釣り、海老などの甲殻類の採取をしていたが、時間が経過するに従い洞窟などを季節的なキャンプ地として使い、その周辺でカボチャ、スカッシュ、アボカド、トウガラシ、アマランス、そして初期のトウモロコシ等の栽培をするようになった。

キャンプ地での季節的な定住生活による原始的な農業の始まりは、少人数のバンドでの遊牧生活以上の食糧獲得が出来たのだろう。徐々に大人数のバンドとなり、5,000-3,000年前の時期になると人々は集まって定住するようになり、村と村長(ムラオサ)が登場する。

小動物の狩り、エビなどの甲殻類の採取は依然として重要な食料調達ではあるが、村の生活は農業によって維持されるようになり、トウモロコシ、豆、カボチャが重要な食糧となる。
村を維持するということは、食糧の生産だけでなく貯蔵・加工がなされるようになり、食糧獲得だけに労働力を割くのではなく、貯蔵するための容器、食糧を加工する道具などに、さらには、その容器・道具を飾るところまで労働力を割けるほどの食糧生産が出来るようになった。

農業が「定住」と「村」を創った。とよく言われるが、定住化は新たな発見をもたらし、男は狩猟に、女は採取にと分業が始まり、食べ残した物が腐りどぶろくのような酒に出会い、住居外のゴミ捨て場からは芽が出て栽培という可能性に気づき、落雷などでの焼け野原からは新芽が育ち農業の可能性など、長い年月をかけて学習をしていったようだ。ただ、狩猟生活と較べて農業はつらいようだ。狩猟生活の場合は、1日3-4時間の狩という労働時間で残りは遊びが大部分を占める。農業は労働時間が長いのでつらい。

農業の起源は、今から12,000年前頃のイスラエルあたりの西アジア、中国の揚子江中・下流で起こり世界に伝播したと考えられている。
アメリカ大陸に農業が伝播したのはモンゴロイドが持ち込んだか、食糧危機という大問題にぶつかった原アメリカ人が先祖の遺伝子的な記憶から開眼したかどちらかになるが、メキシコあたりの中央アメリカでは今から9,000-10,000年前に農業が始まったという。

トウモロコシになった野生のテオシントは?
トウモロコシの栽培は、いまから7,500-12,000年前に始まったと考えられている。12,000年前となるとアメリカ大陸にモンゴロイドが渡り、寒冷化して大型哺乳類が絶滅に近い状態になった頃にあたる。
この遊牧民達が、メキシコ・グアテマラ・ニカラグアに生えている3-5mもの大型のイネ科の雑草テオシントに目をつけ、季節的に利用するキャンプ地・洞窟などの傍の野原で栽培を始めたのだろうが、トウモロコシの祖先に関する説は幾つもがあり2000年を過ぎるまでトウモロコシの祖先となる野生種に関しては謎だった。
つまりわかっていないことは
① トウモロコシの祖先は絶滅したのではないだろうか?
② 現存しているとしたら可能性のある種を絞りきれる技術がないのでわからない。
③ 幾つかの種間の交雑或いは突然変異でトウモロコシが誕生したとすると実験でこの再現ができない。
④ 最初に何処で、何時頃に栽培されたのかその歴史的な証拠が見つからない。
などだろう。

(写真)トウモロコシ(右)と野生種のテオシント(Zea mays ssp. parviglumis)
 
(出典) University of Wisconsin-Madison

さらに、写真を見てもわかるように現在のトウモロコシと較べて野生種のテオシントであるジーア・パヴィルミスは、あまりにも小さく実は20粒位しかついていず、しかも硬い殻で覆われているのでそのままでは食べることが出来ない。
テオシントとトウモロコシとの間には大きな溝があり、「トウモロコシの祖先はテオシントではなく絶滅した。」という説があるぐらい違いがありすぎるが、原アメリカ人が種の選択と品種改良で長い時間をかけて栽培してきたから今日のトウモロコシになった。
どのくらい長い時間がかかったかといえば、5,000-6,000年もかかったという。
主食となる穀類不在時代が長かったので狩猟採取が中心の独特な文化が形成され、小麦・イネをベースに形成されたメソポタミア・エジプト・インダス・黄河文明とは異なり、石器の後の新石器文明が育たなかった。
わき道にそれてしまったが、それだけトウモロコシの祖先は栽培するのが難しい代物だった。

トウモロコシ起源説の流れ
1930年代初めに、小麦・トウモロコシなどの栽培植物の起源を研究したロシアの植物学者バビロフ(Vavilov, Nikolai Ivanovich 1887 –1943)と遺伝子の役割を発見したアメリカのノーベル賞受賞者ビードル(Beadle ,George Wells 1903 –1989)は、相次いで“トウモロコシの祖先はテオシントである”という「テオシント起源説」を発表した。
このテオシント起源説は方向として正しく、この御宣託がトウモロコシの起源探索ブームを引き起こした。
1930年代の後半にはハーバード大学のマンゲルスドルフ(Mangelsdorf, Paul Christoph 1899-1989)が、「未知の野生種のトウモロコシと近縁のTripsacum属の種との交雑で誕生した。」という説を発表したが、この説は後に遺伝学的な知見から否定された。

(図)テワカンバレーとオアハカバレーの位置
 
(出典)PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences)

1950年から1070年代までは、「トウモロコシの栽培は、メキシコのオアハカとハリスコの間の高地の盆地で始まった。」という仮説を検証する考古学的な調査に注目が集まった。

マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918-2001)が1961年夏からメキシコシティの南東部にあるテワカンバレーの発掘調査を行い、コスカトラン洞窟(Coxcatlan Cave)で8千年前(紀元前5960年頃)に栽培された植物(トウモロコシ、ヒョウタン、スカッシュ、豆)の痕跡を見つけた。

テワカンバレーから160km南東に行ったところにオアハカバレーがあり、1970年代にはこの盆地にあるギラ・ナキツ(Guilá Naquitz)洞窟の考古学的な調査が始まった。
リーダーは、マクネイシとともにテワカンバレーの調査を行ったミシガン大学のフラナリー(Flannery, Kent V 1934 - )で、テワカンバレーで発見したトウモロコシよりも700年も古いトウモロコシを発掘した。ヒョウタン,カボチャ、豆も発掘しており、最も古い栽培化された植物の痕跡とみなされた。

トウモロコシと書いたが正確には野生種のテオシントで、原アメリカ人による栽培化の痕跡があるという。トウモロコシの祖先、野生のテオシントを探す調査探検も同様に始まり、生涯をトウモロコシの起源探索にささげた米国の植物学者でウイスコンシン・マディソン大学の植物学教授イルチス(Iltis, Hugh Hellmut1925- )、その弟子で遺伝子の研究からトウモロコシの祖先を特定化したドエブリー(Doebley , John F 1952?- )達が1970年代から新種を発見・採取し命名していく。

メキシコ・オアハカバレーは標高1500m前後で、この周辺及び高地で発見された野生種は、Zea mays subsp. mexicana (Schrad.) Iltis (1972)であり、ジーア属メイズの亜種メキシカーナがトウモロコシの祖先に近いのではないかと考えられた。

この頃までは、考古学者・植物学者とも乾燥した高地だけを探索していて、メキシコ・グアテマラ・ニカラグア等の低地の高温多湿地域を探索していなかったので全ての状況を検討したわけではなかった。
局面を展開したのは、1977年にイルチスとドエブリー達がメキシコのゲレーロ州でパヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis Iltis & Doebley, (1980))を発見したときから起きた。

【ジーア属の種――――命名の年代順】
・Zea mays L.(1753)Corn
・Zea perennis (Hitchc.) Reeves & Mangelsd (1942).)Perennial teosinte(多年草)
・Zea mays subsp. mexicana (Schrad.) Iltis (1972).  Mexican teosinte
・Zea luxurians (Durieu & Asch.) R.M.Bird(1978) Guatemalan teosinte
・Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)Diploperennial teosinte(多年草)
・Zea mays subsp. parviglumis Iltis & Doebley, (1980). Corn、Balsas teosinte
・Zea mays subsp. huehuetenangensis (Iltis & Doebley) Doebley, (1990). Huehuetenango teosinte
・Zea nicaraguensis Iltis & B.F.Benz,(2000).  Nicaragua teosinte

(写真)Zea属の種の原産地(黄色のピン)

※オレンジのピンは洞窟
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No7:マヤ・アステカ文明をささえたトウモロコシ、その5

2011-11-22 20:28:12 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No7

e. Zea mays subsp. parviglumis Iltis & Doebley, (1980)
・ ジーア属メイズ亜種パヴィルミス
・ Corn、Balsas teosinte
 
(出典)Uppsala universitet

ジーア属メイズ亜種パヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis)は、写真を見てもわかるように茎が細く草丈200-500mと背丈が高く、タッセルと呼ばれる花穂は小さく、実を成熟させるのに6-7ヶ月もかかる。
生息する地域は、メキシコの西部、太平洋側にあるナヤリットからオアハカ州の標高400-1800mの低地で生育する。亜種メキシカーナ(Zea mays L. ssp. mexicana)が標高1700-2600mの高地で生息するのと較べると一般的に100mで1℃違うのでパヴィルミスの方が高温多雨なところに生息している。

このパヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis)を発見したのはイルチスおよびドエブリーで、1977年9月22日にメキシコのゲレーロ州で野生種の新種のテオシントとして採取され、1980年にジーア属メイズ亜種パヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis)と名づけられた。
種小名の“parviglumis”は、“小さな頴(エイ)”を意味し、この頴(エイ)には①穂先、②才知が鋭いという意味があるので、他のテオシントなどと較べて穂先が短いという特色から名づけられた。
コモンネームとしては、発見された場所である「Guerrero teosinte」或いは、バルサス川の渓谷が原産地なので「Balsas teosinte」と呼ばれる。
このパヴィルミスが人間によって栽培された現在のトウモロコシの祖先ではないかと言われていて、この点については後述することにする。

イルチスと弟子のドエブリー達は、翌年の1978年10月22日にハリスコ州マナントゥラン山脈で、もうひとつの重要な野生種のテオシントで学名が「ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)」と呼ばれる種も最初に発見・採取しているので、トウモロコシの起源に生涯をかけたイルチスにとってラッキーにも2年間で2つの重要なトウモロコシの野生種を採取したことになる。

しかしジーア属メイズ亜種パヴィルミスに関して言えば、45年前の1932年9月17日にメヒコ州のTemascaltepecでヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)が採取しているので最初の採取者の栄誉はヒントンのはずだがそうはなっていない。

何故という疑問が残るが、トウモロコシの祖先を探す1930年から1960年頃までの科学的なアプローチは古代遺跡に残された化石などの残留物であり、乾燥した地域での洞窟などの遺跡の発掘であった。
マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918-2001)がメキシコシティの南東部にあるテワカンバレーの発掘で最も古いトウモロコシ、ヒョウタンなどの証拠を見つけたのも1960年代だった。

言い換えると、古いものが腐らずに残る可能性が高い乾燥したところでしか出来なかった時代があり、緯度が高い寒冷地、高度が高い山岳地に限定していて、高温多湿・多雨な緯度が低いところ、高度が低い低地、湿地などは除かれていたというよりも対応できる技術がなかった。ということになる。
遺伝子技術、デンプン・花粉などの酵素の構造分析などがこの壁を打ち破ることになるが、ヒントンの頃は、何か目新しい雑草が採取されたで終わっていたのだろう。
イルチスとドエブリーがただの雑草ではないと見極めたところからヒントンが採取した雑草に名前がついた。と考えると最初に採取したということよりも、最初に違いを見分けた方の価値を認めざるを得ない。

f. Zea mays subsp. huehuetenangensis (Iltis & Doebley) Doebley, (1990)
・ジーア・メイズ亜種ウエウエテナゲンシス
・Huehuetenango teosinte(ウエウエテナンゴ・テオシント)

(出典)CIAT

ドエブリーによって「ジーア・メイズ・亜種・ウエウエテナゲンシス(Zea mays subsp. huehuetenangensis)」と1990年に命名された野生種のテオシントは、メキシコ国境の近くのグアテマラ北西にある古い都市ウェウェテナンゴの500-1700mに生息する一年草のテオシントで、草丈が5メートルまで成長する。写真を見ても丈の高さが良くわかる。
姿かたちはパヴィルミスと似ていて、放棄されたトウモロコシ畑で発見され、トウモロコシと容易に交雑し一代の雑種を作るという。

この雑種「Zea mays var. huehuetenangensis H.H. Iltis & Doebley (1980)」は、1976年1月にイルチスが最初に採取し、採取した場所であるグアテマラのウエウエテナンゴを種小名として命名された。

パヴィルミスが採取された場所に近いところ(メキシコゲレーロ州)でもこの野生種ウエウエテナンゴ・テオシントが採取されていて、1982年10月にイルチスが採取しているのでグアテマラからメキシコのゲレーロ州までの低地で生息し、交雑を繰り返していたのだろう。

g. Zea nicaraguensis Iltis & B.F.Benz,(2000)
・ ジーア・ニカラグエンシス
・ Nicaragua Teosinte

ニカラグアの太平洋岸にあるチナンデガ(Chinadega)の海抜5-15mの平野部で生育している野生のテオシントが、イルチス(Iltis, Hugh Hellmut)テキサス・ウエスリアン大学のベンツ(Benz, Bruce F.)ニカラグアにあるセントラル・アメリカン大学のグリハルバ(Alfredo Grijalva)によって1991年10月というからごく最近になって発見・採取され、2000年に新種の「ジーア・ニカラグエンシス(Zea nicaraguensis)」と命名された。

この「ジーア・ニカラグエンシス(Zea nicaraguensis)」は変わった特徴を持っていて、水位がかなり高い水浸しのところでも平気で育つという。低地で育つテオシントは、4~5mと丈が高いが、周りの雑草・樹木に負けないで光を受けるだけでなく水浸しの地でも顔を出す高さが必要だったのだろう。
20年前まではかなり広い範囲で生育していて、畑などのフェンスとして栽培され、牛などの飼料として使われていたという。しかし、今では絶滅に近く2箇所でしか生存していないという。そのうちの一箇所が6000本程度というからかなりの絶滅危機状態にある。

残念ながら写真がないが、「ジーア・ニカラグエンシス(Zea nicaraguensis)」は、グアテマラの野生種テオシント「Zea luxurians (Durieu & Asch.) R.M.Bird(1978)」に非常に近いという。

ジーア属の原種の関係

ジーア属(Zea)には数多くの種がある。その中に現在のトウモロコシの祖先が紛れ込んでいるはずだが、交雑した種ではなくテオシントと書いた野生種を絞り込むと4種になる。さらにトウモロコシの亜種4種の関係を見ると次の図が個人的にぴったりと来る。
現在のトウモロコシ(Zea mays mays)に最も近いのがメキシコの低地に生息するパヴィルミス(Zea mays parviglumis)で、このパヴィルミスに近いのがメキシコ高地に生息するメキシカーナ(Zea mays mexicana)という読み方になる。
採取された原産地ごとにそれぞれの種を地図に表示するとこの分類が良く見えてくるが次回からトウモロコシの祖先探しのまとめを試みる。


(出典) Vollbrecht E, Sigmon 2005.


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No6:マヤ・アステカ文明をささえたトウモロコシ、その4

2011-10-25 20:53:34 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No6

『全く異なる画期的な新種Zea diploperennisを発見したことになる。』というのが前号の最後だった。
その『画期的』な幾つかをまとめてみると次のようになる。

d. Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)ジーア・ディプロペレンニス(続き)
イルチスがポスターの大きさの年賀状を書いた1976年は、トウモロコシにとって画期的なイベントがいくつも始まる年でもあった。

最初に、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の命名者に名を連ねたドエブリー(Doebley , John F 1952?- )から始めよう。

遺伝学からトウモロコシの起源にアプローチしたポスト・リンネの旗手ドエブリー
(写真)Doebley , John F 
 
(出典)National Academy of Sciences

ドエブリーは、大学の専攻を生物学で始めたが、遺跡発掘などをする人類学に専攻を変え1974年にペンシルベニアのWest Chester State Collegeを卒業した。人類学での修士過程はEastern New Mexico 大学に進み、考古学的なアプローチだけでなく遺伝学・生態学・霊長類学を取り込むようになった。しかし遺伝学は苦手のようだった。1976年からの人類学での博士課程では、Wisconsin–Madison大学に進み、ここで植物学教授のイルチスと出会った。

その出会いはこんな感じだったようだ。
イルチスが「人類学者は、植物のことを何も知らない。」といっているのを聞いた学生が、「ドエブリーはそうじゃない。」といったのを聞いたイルチスが、「君のためのプロジェクトがある。」とドエブリーを誘ったそうだ。
イルチスが手がけていたプロジェクトとは、“トウモロコシと野生のテオシント(ブタモロコシ)との関係を分類し、トウモロコシの起源を明確にする”プロジェクトだった。
ドエブリーは自分で何が出来るか勝敗もわからずにこの誘いに乗ってしまい、ここから大きな変革をドエブリーが作り出すことになる。

専攻をころころ変える優柔不断なドエブリーと見られても仕方ないが、結果的には、生物学がわかり考古学・人類学がわかり遺伝学がわかるというトウモロコシの起源に関わった科学者のクロスオーバーをドエブリー個人で完結するスキルを身につけていたことになる。運が良かったのかチャンスを呼び込んだのかわからないが、師匠のイルチスではでき得なかったドエブリーのための舞台が用意されていて彼はこれをしっかりと掴んだ。

ドエブリー以前の植物の分類は、雄しべ雌しべの数・形、花弁の枚数・形、葉の生え方・形・枚数等々親の形質を受け継ぐ形態による比較で、同じ品種か違う品種かを分類していた。この分類方法を、この手法を編み出した“リンネ”主義による分類とすると、ドエルビーは、植物の形態その物を作り出す遺伝子からアプローチする手法開発にその後20年間も取り組むことになる。

今では、血液から親子の関係を明確にするDNA鑑定は広く知られるようになっているが、トウモロコシで親子の関係、親戚関係、他人を区別するだけでなく、遺伝子を組み替えてクーロンを作り出すことを可能にしたのがドエルビーなので、ポスト・リンネの旗手ドエブリーを見出したイルチスはすごい人材をハンティングしたことになる。
膨大な植物標本を作り出したイルチスだが、プラントハンターというよりは、マン&ウーマンのハンターとしての能力も優れたものを持っていたようだ。

1976年は、この年にZea diploperennisを発見することになるグアダラハラ大学の学生グスマン(Guzmán, Rafael 1950-)、この種が全くの新種だということを分析し、この種の特殊能力を発見することになるドエブリー(Doebley , John F 1952?-)が出会い、トウモロコシの起源と世界三大穀物であるトウモロコシのビジネスが大きく変わる変革のスタートの年でもあった。

ウイルスに強い耐性をもつ新種 ジーア・ディプロペレンニス
画期的なことの二番目は、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)そのものにある。それは、Zea diploperennisは、トウモロコシにとって厄介な病気を引き起こす7種類のウイルスに強いという特質を持っていたということだった。
さらに、同じ多年草のZea perennisの場合は、他種と交配しても1代限りであり孫を作れないのに対して、Zea diploperennisは自由に雑種が作れるので、これまでにないトウモロコシの品種を創れるという可能性が高まった。

ウイルスに強く新たな品種を創りえる野生の新種の発見は、その当時の社会の識者を興奮させ、ニューヨークタイムズの一面を飾ったのもうなずける。
俄然注目を集め、この遺伝子を使って科学者はウイルスに強いトウモロコシの種類を開発し、世界三大穀物であるトウモロコシビジネスに関わる企業は、旱魃(カンバツ)に強く、害虫・ウイルスに強い収穫量の多いトウモロコシを新たに生み出せるのではないかという期待からその計り知れない価値に注目した。
当然、遺伝資源の利用と保全、知的財産権など新しい問題提起も起こされた。もはや内緒でZea diploperennisをメキシコ国外に持ち出すとか、内緒で遺伝子を組み替えた実験をするとかは国際的に犯罪になる時代に入った。

ワトソン(Watson ,James Dewey 1928- )とクリック(Crick, Francis Harry Compton 1916-2004)がDNAの二重らせん構造を明らかにしたのは1953年だったが、1970年代になると遺伝子工学が発達し遺伝子の組み換え実験がなされるようになる。その最初の実験は、1971年にスタンフォード大学のポール・バーグ(Paul Berg, 1926-)によってなされた。
無秩序な遺伝子組み換えによる実験は地球にない危険な生物を生み出す危険もあり、ポール・バーグも提唱者となり、1975年にカリフォルニア州のアシロマで国際会議が開催されそのガイドラインが議論された。
核物理学者が科学の進歩を無秩序に是認したために原子爆弾を作ってしまった世界的な反省があり、分子生物学者をして自己規制をするルールを事前に作るようになった。

ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)はこんな時代背景の中で発見されたので、野生種の保存は、遺伝子工学を活用する点でも、或いは、遺伝子工学を倫理的に使わない場合にはもっと重要性を持つようになる。


Sierra de Manantlan Biosphere Reserve
シエラ・デ・マナントラン生物保護区の設立

野生種のテオシント(ブタモロコシ)は、農地の拡大などで急速に生息地が減少し生存の危機に直面している。イルチスは野生種の保存、生物の多様性を保護する環境の保護に力を入れていて、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の発見はメキシコ政府・ハリスコ州政府に環境保護の必要性を感じさせるのに十分だった。
ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)が発見されてから10年後の1987年に、発見された場所であるシエラ・デ・マナントラン(Sierra de Manantlan)に生物保護区を作った。350,000エーカー(1416k㎡)の土地を保護区としグアダラハラ大学が管理することになった。
この保護区熱帯雨林地帯が基本で、斜面にはオーク、パインが広がり、メキシコ原産の植物が多いので知られているところだが、この広さは東京都の半分以上の広さがあるから驚きだ。

(地図)Sierra de Manantlan(メキシコシティの西)


イルチスがポスターの大きさの年賀状に書いた『“荒野で絶滅している(Zea perennis)!”』は、東京都の半分以上の広さの野生種のテオシントなどを保護する保護区となり、そこにはイルチスの夢も、そして、トウモロコシを必要とする人間の夢も育まれる場が出来た。

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No5:マヤ・アステカ文明をささえたトウモロコシ、その3

2011-10-19 21:45:11 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No5

現在のトウモロコシの祖先がわからない。どこでどう育ったのかも謎だ。
謎は科学者をひきつけ、植物学者だけでなく遺跡を探索するマクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918 – 2001)のような考古学者、栽培植物の歴史を調べる農業者、メソアメリカの形成を調べる文化人類学者、種の遺伝から関係を調べる遺伝学者など様々な科学者がこの謎に取り組んでいる。

それでわかったことをダイジェストで展開するが、そもそもに遡ると野生の原種の発見とその原種が育った環境である原産地の特定化が栽培にとって重要になる。
栽培というのはヒトの手によるものでありこの歴史も面白そうだ。だが、マヤ・アステカ文明でのトウモロコシに何時たどり着き着手できるのだろうかという不安をも感じ始めている。多くの科学者がいまだ答えを見つけていないだけにトウモロコシの歴史は奥が深い。

トウモロコシ属の野生の品種・原種に興味を持ってみるには、トウモロコシの祖先の謎に関わる仮説を簡単にでもわかる方が良さそうだ。

次の文章でアンダーラインを引いてあるところがわかれば謎は解けることになる。
数千年前メキシコ周辺の中央アメリカに住んでいた狩猟採取民は、住居である洞窟周辺のテオシントと呼ばれる野生の草を育てその実を食べていた。その中からより大きな穂軸(コーン)をつける種を選択 し 改良を続け今日のトウモロコシにたどり着いた。」
“何時、何処で、誰が、何を、どうしたのか”ということを証明することになる。しかし、いろいろな説があるのでそれをまずおさらいすることにする。

トウモロコシの起源説いろいろ
1. メキシコの 一年草のテオシント・パヴィルミス(Zea mays subsp. parviglumis Iltis & Doebley)が直接栽培され、現代のトウモロコシにつながったという説。
このテオシント=野生のジーア・パヴィルミスは、バルサ川渓谷原産で、遺伝物質 の 最高 12 % をZea mays subsp. mexicana からもらったという。
この説は、バルサ川渓谷で野生種の祖先が8700年前から栽培されたという証拠を発見したことから始る。
2. 野生のトウモロコシからわずかに変化した小さなトウモロコシを栽培し、これとZea luxurians、又は、Zea diploperennisとの間での交雑に由来するという説。
3. 野生のトウモロコシ或いはテオシントの2つ以上の品種の栽培を経たという野生のテオシント起源説。
4. メキシコからグアテマラにかけての地域に自生していたテオシント,トウモロコシの亜種とされる Zea mays subs.mexicana または Euchlaena mexicanaが起源だとする説
5. トウモロコシ属と関係が深いTripsacum属のダクティロイデス(T. dactyloides)とZea diploperennisの交雑から進化したという説。

それでは、個別の種を見てみよう。

現在認められているトウモロコシ属の品種分類
現在のトウモロコシの学名は、ジーア属メイズでこの中に4つの亜種があり、そのうちの一つ“Zea mays subsp. Mays”が現代のトウモロコシをさす。この種以外は野生種のテオシントであり、学名の最後にコモンネームを記載し野生種のテオシントの区別をつけておく。
“Zea mays subsp. parviglumis”にも“Corn”と書いてあるが、最近わかったトウモロコシの祖先説による。詳しくは別途記載する。

1.Zea mays L.(1753)Corn
1-1 Zea mays subsp. mays – Maize, Corn 現代のトウモロコシ
1-2 Zea mays subsp. mexicana (Schrad.) Iltis (1972).  Mexican teosinte
1-3 Zea mays subsp. parviglumis Iltis & Doebley, (1980). Corn、Balsas teosinte
※遺伝的にZea mays subsp. Maysと似ている。古代の農民が選択的にこの品種を育て現代のトウモロコシになった特定の亜種と結論付ける。(Doebley)
1-4 Zea mays subsp. huehuetenangensis (Iltis & Doebley) Doebley, (1990). Huehuetenango teosinte
2.Zea perennis (Hitchc.) Reeves & Mangelsd (1942).)Perennial teosinte(多年草)
3.Zea luxurians (Durieu & Asch.) R.M.Bird(1978) Guatemalan teosinte
4.Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)Diploperennial teosinte(多年草)
5.Zea nicaraguensis Iltis & B.F.Benz,(2000).  Nicaragua teosinte

以上の品種を命名された年代順に紹介する。

a:Zea perennis (Hitchc.) Reeves & Mangelsd (1942). ジーア・ペレンニス
・ 多年草
・ コモンネーム:ペレニアル・テオシント(Perennial teosinte)

(写真)タッセル(房飾りのような枝)
 Z. perennis - tassels (Photo H. Iltis)
(出典)University of Wisconsin-Madison

ジーア・ペレンニス(Zea perennis)は、1942年に米国の植物学者で『The Origin of Indian Corn and Its Relatives』を共著したリーブス(Reeves, Robert Gatlin 1898-1981)とマンゲルスドルフ(Mangelsdorf, Paul Christoph 1899-1989)によって命名され、Zea diploperennisが発見されるまで唯一の多年草の植物だった。
多年草のテオシント(perennial teosinte)とも呼ばれ、草丈150-200cmで細長い茎に2-8個の直立したタッセル(房飾りのような枝)(写真)が特徴的で、ハリスコ州コリマ火山の1500-2000mmp北斜面という狭い領域に自生するという。
Zea diploperennisとよく似ているが、他品種との交配でハイブリッド品種を作ることが出来ないという。

1930年代後期にマンゲルスドルフは、「耕作化されたトウモロコシは、未知の野生のテオシントとトウモロコシ属の姉妹属ともいえるTripsacum属の種(T. dactyloides)との交雑の結果である。」という説を提唱した。
しかし、トウモロコシの起源に関わるTripsacum(Tripsacum dactyloides)の役割は現代の遺伝子のテストによって論破されマンゲルスドルフのトウモロコシ起源説は否定された。

確かにトウモロコシは、姉妹属のTripsacum dactyloidesと多年生野生のテオシントであるZea diploperennisとの交雑種から誕生したと仮定することも可能だという。 T. dactyloides は耕作されたコーンと交雑することができるが、しかし、直接的な交雑による子供たちは通常不妊症であり孫を作ることが出来ないという。
これでは姉妹属のTripsacumとの交雑では、祖先として子孫を残すことが出来ないということで「トウモロコシの起源に関わるTripsacum」の役割は否定された。

b:Zea mays subsp. mexicana (Schrad.) Iltis (1972).ジーア・メイズ・メキシカーナ
・一年草、Mexican teosinte
  画:Hitchcock, A.S. 1950
(出典)USDA

ジーア・メキシカーナは、北メキシコ、チワワ州から中部メキシコのプエブラ一帯の高度1700-2600mのところで自生している。メキシカン・テオシント(Mexican teosinte)とも呼ばれ、草丈150-400cmで、10-20の枝をつけるので実が多いことになる。また、75日未満で実を熟成させるという他種にはない特徴があり、他種よりも温度が低い環境でも早く・多くの実を熟成させる。

学名は、1972年にイリチス(Iltis, Hugh Hellmut1925-)によって命名されている。初期の採取者は不明だが、メキシコを探検したプラントハンター、プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey(1838-1911)が1892年10月にミチョアカン州で、パーマ(Edward Palmer 1831-1911)が1896年11月にドゥランゴ州で、ヒントン(Hinton, George Boole 1882-1943)も1932年9月にこの品種を採取している。
もちろん命名者のイリチスもその弟子に当たるドエブリー(Doebley, John F.)とともに1976年から10年以上にわたってグアテマラ、メキシコでこの種を採取している。

このジーア・メキシカーナは、トウモロコシの祖先に関わっている可能性がある。というのは、トウモロコシの祖先かもしれないという後で記述するZea mays subsp. Parviglumisに遺伝的形質を伝えているのでその可能性がある。

c:Zea luxurians (Durieu & Asch.) R.M.Bird(1978)ジーア・ルクリアンス
・一年草、Guatemalan teosinte
 Curtis’s Botanical Magazine, vol. 105 (1879)
(出典)plantillustrations.org

カーティスのボタニカルマガジン1879年105巻に「Euchlaena luxurians Durieu & Asch(1877)」として掲載されたが、現在の学名はジーア・ルクリアンス(Zea luxurians)となる。

(出典)University of Wisconsin-Madison

実写はイルチスが撮影した立ち枯れたものしかないが、カーティスの植物画で補うこととする。
この種は、南東部グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグアで自生する野生のテオシントで、グアテマラ・テオシントとも呼ばれる。北部に当たるメキシコのオアハカでも1845年に一度だけ採取されたことがあるが、その後採取されたことがないという。
草丈200-300㎝の一年草で、槍状の葉は30-80mmと幅が広い。根が弱いが枝は直立でタッセルと呼ぶ雄花の穂は4-20個と少なく、多年草のテオシントが二つあるがこれらと似ている。

d. Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)ジーア・ディプロペレンニス
・多年草、Diploperennial teosinte

(出典)flickr.com

ジーア属の野生種テオシント、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)は、劇的に登場する。
1978年10月22日にハリスコ州マナントゥラン山脈で発見採取され、最初の発見・採取者として命名者と同じイルチス、ドブリー、グスマンそしてもう一人命名者にはなっていないがラッセイグネ(Lasseigne, Alex A. 1944-)達四人が採取したと記録上はなっている。
しかし、物語は1976年から始る。

1976年の初めにイルチスは、世界中の植物学者にポスターほどの大きさの年賀状を送った。そこにはウィスコンシン大学でのイルチスたちのルールに則って自然環境の保全と保護を訴えた。このポスターには、1921年を最後にその姿が見られなくなった「Zea perennis」を描き、そしてこんなコピーをつけたという。 
“荒野で絶滅している(Zea perennis)!”

このポスターは、イルチスの友人であるメキシコのグアダラハラ大学植物学の教師Luz Maria Villareal de Pugaが大学の掲示板に張出し、教え子に向って「このZea perennisを見つけに行ってください。そして、イルチスが間違っているということを証明してください。」と檄を飛ばしたそうだ。

この激に刺激された学生がいた。グスマン(Guzmán, Rafael 1950-)で、ハリスコ州グアダラハラの山に行き、二日目に知識のある農民に教えられたところで実を結んでいない野生種のテオシントを掘り起こしグアダラハラ大学に持って帰った。2ヵ月後にこれが絶滅したと思われていた「Zea perennis」であることがわかった。

グスマンは、トウモロコシ起源研究の大家イルチスの鼻を明かしたわけだが、これで満足することなく、もっと大きい魚を釣った。
(写真)生物多様性のSierra de Manantlán

(出典)costalegre.com

これも友人から“「Zea perennis」が他の所にもある。”という情報を元に、マナントラン山脈(Sierra de Manantlán)の中央にあるサンミゲルという町に行き「Zea perennis」と思われるテオシントを採取し、この種(タネ)をウィスコンシン大学のイルチスに送った。1977年のことだった。

イルチスはこれを育て、「Zea perennis」同様に多年草のテオシントであるが、染色体の数が二分の一でありまったくの新種であることがわかった。
この新種に「Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán(1979)」という名前をつけ、命名者にイルチス、ドブリーと並びグスマンも栄誉を得ることになった。
“diploperennis”は外交的な多年草を意味し、他のテオシントと交雑しハイブリッドを生み出すので「Zea perennis」とは全く異なる画期的な新種を発見したことになる。

(写真)Sierra de ManantlánでのZea diploperennis

(出典)botany.si.edu
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