モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー

2010-07-25 13:48:31 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No11

お奨めしたいメキシコのサルビアがある。
英名の“ジャーマンダーセージ”のほうが通用しているが、最初に誰が採取したかわかっていない。が、1800年代の早い時期に既にヨーロッパの庭で栽培されていたというので、このこと自体サルビアとしては珍しく米国では1980年代に導入されたようだ。
花色は光を反射させないためか渋いブルー、葉は灰緑色で小さな楕円形、草丈30cmぐらいの小潅木なのでこじんまりしている。このサルビアを見ていると、落ち着いた気持ちになれる。

「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」
ジャーマンダーセージ(Germander sage)



“ジャーマンダーセージ”こと「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」は、初期に誰が採取したかわからないが、1793年にスペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されている。この頃からヨーロッパに持っていかれ庭で普及したのだろう。
再発見は、ドイツ生れの医師・薬剤師のシャフナーが1876年9月メキシコで採取している。その後、パリー(Parry,Charles 1823-1890)とパーマー(Palmer,Edward 1829-1911)が1878年にメキシコのサン・ルイス・ポトシの2000-2500mの山中で採取している。
(「ジャーマンダーセージ」に関してはここを参照)

パリーとパーマーはいずれ触れることになるが、記録に残る第一発見者のシャフナー(Schaffner, Johann Wilhelm、又は、Schaffner, Jose Guillermo 1830-1882)は、ドイツ、ダルムシュタットで生まれ薬剤師としての訓練を受けた。メキシコに移住し、1852-1857年の間は、薬剤師として勤め、1871-1874にハイデルベルク、ミュンヘン、ウィーンで医学を学び、1875年から死亡するまでサン・ルイス・ポトシで医者・薬剤師を開業する。そしてこの頃から植物の収集を始める。
という程度しかわかっていない。だから、どこかの植物園やスポンサーのために植物を採取するのではないので、プラントハンターというよりはプラントコレクターという方が適しているだろう。

彼が採取した植物は、キュー植物園のデータに182種登録されているので、趣味の領域を超え本格的に採取したといえる。
このうちサルビア属の植物は6種類が含まれていて、その中に“ジャーマンセージ”と呼ばれる大好きな「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」があった。

シャフナーの植物標本のコレクションは、彼の死後にドイツ出身の薬剤師ヴィゲナー(Vigener, Anton 1840 -1921)が買い取り、温泉がある保養地ヴィースバーデンにある博物館(Museum Wiesbaden)に寄贈している。
ドイツの保養地バーデンバーデンにもカジノ、ミュージアム、クアハウスなどが小川をはさんだこじんまりした街並みにあったが、ヴィースバーデンにはカジノつきのクアハウスがあるそうだ。

シャフナーが住んでいたサン・ルイス・ポトシは、メキシコを縦に貫く二つの山脈のうち東側にあるシェラ・マドレ・オリエンタル(Sierra Madre Oriental)の標高1850mの高地にある州都で、1583年にフランシスコ会派の入植から街づくりが行われ、フランスのルイ9世の名を取ってサン・ルイス(セントルイス)とつけられた。
ポトシが加えられたのは、この地域で金・銀を産出したので、1545年に発見されスペインを大国に押し上げる原動力となった南米ボリビアのポトシの銀山にあやかったという。

もっとも、これらの金銀財宝を略奪するためにカリブ海には英国・フランスの非公式公認海賊が横行した。映画“パイレーツオブカリビアン”の世界であり、彼ら海賊が中南米の植物をヨーロッパにもたらした可能性も高い。(とても歴史に残せないとは思うが?)この時代の珍しい植物は、高価な絵画か宝石なみの価値があったので、心優しくなくても取り扱えたが、生きたまま持ち帰るのが難しいので手を出しにくかったのだろう。

シャフナーが採取したサルビア

2.Salvia macellaria サルビア・マセラリアの謎
学名の「Salvia macellaria」は、1939年に米国の植物学者・プラントハンターのエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)によって命名されたが、シャフナーは、1876年にサン・ルイス・ポトシのSan Miguelito山でこのサルビアを採取している。
しかし、このサルビアは謎のサルビアのようで、今もって確定していない。命名したエプリング自身が、“Salvia greggii と Salvia chamaedryoides の自然交雑種である可能性が高い”と述べている。
おや?この組み合わせは、「サルビア・ムエレリ(Salvia muelleri)」と同じではないか!
「S.ムエレリ」も好きな花だが、その出自には疑問のところがある。

(写真)「S.マセラリア」として販売されていたSalvia greggii hybrid
  
(出典)Plantdelights.com
http://www.plantdelights.com/Catalog/Current/Detail/salvia_california_sunset_05952.html

「サルビア・マセラリア」として販売されている花色で青紫、イエローオレンジなどがあるが、イエローオレンジの花色に関しては、「サルビア・グレッギー」の交雑種とわかってきたようだが、青紫色の花色となると「サルビア・ムエレリ」に限りなく近くなる。キュー王立植物園でもこのサルビアを間違っていたようなので素人には難しいのだろう。
(「S.ムエレリ」に関してはここを参照)

3. Salvia neurepia サルビア・ネウレピア
  
(出典)Botanic Garden
http://www.botanic.jp/plants-sa/salneu.htm

1876年にシャフナーがサン・ルイス・ポトシの森の中で発見し、「サルビア・ネウレピア(Salvia neurepia)」と命名したが、1939年にエプリングによってサルビア・ミクロフィラの変種「Salvia microphylla var. neurepia」と修正される。

秋に赤い花を開花させ、葉は小さな楕円形でフルーツの香りがするので、Fruity littleleaf sageとも呼ばれる。

4.Salvia oresbia サルビア・オレシビア(=Salvia darcyi)
  
(出典)Sue Templeton's Nursery
http://www.salviaspecialist.com/itm10103.htm

「サルビア・オレシビア(Salvia oresbia)」は、1876年にシャフナーがサン・ルイス・ポトシの山中で採取しているが、1991年10月20日に英国のコレクターであるコンプトン(Compton, James A. 活躍時期:1994)がメキシコで採取し、別名の「サルビア・ダルシー(Salvia darcyi J.Compton)」として1994年に登録した。今では、「サルビア・ダルシー」の方が有名であり、発見にまつわる逸話の方もよく知られている。
というのは、手柄を横取りしたというか新発見の植物の命名での英国人の身びいきがあった話である。

米国のYucca Do Nurseryは、1988年からメキシコの植物調査を始め、オーナーの
ローリー(Lynn Lowery)は、若手のジョン・フェアリー(John Fairey)とカール・ショーンフェルド(Carl Schoenfeld)を連れて行った。この二人が野生種の「サルビア・ダルシー」を1988年に発見した。

Yucca Do Nursery は、1991年に英国のメキシコ探検隊を案内することになり、この隊員の一人であったコンプトンがシェラマドレオリエンタルの山中で「サルビア・ダルシー」を採取し、英国の植物学者で後にミズリー植物園のダルシー博士(D'Arcy, William Gerald 1931-1999)にちなんで名前をつけた。
Yucca Do Nurseryが無視され、後に発見したコンプトンの命名が採用された経緯はこんな感じだった。

メキシコに住み着いたシャフナーとこのシリーズNo10で登場したギエスブレットの二人は、その居住地での素晴らしいサルビアを採取しており、通り過ぎる旅行者にはない選択眼がありそうだ。

ところで、Yucca Do Nurseryの探検隊はメキシコで重要なことを体感しているという。メキシコ人達が自分たちの植物の価値に20世紀後半になって気づき始めた。ということであり、プラントハンターの活動が制約される時代に入ることを意味する。
そして、100年以上も遅れて、サルビアはまさに21世紀になってその価値を認められる。
コメント

No10:メキシコに留まったリンデン探検隊メンバー、ギエスブレット

2010-07-17 11:35:50 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No10

ギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)は、何とセンスのよいコレクター(プラントハンター)なのだろう!
彼が採取したサルビアを確認していたら欲しいものばかりだ。日本ではまだ馴染みがないものが多く、メキシコのサルビアの多様性に感嘆する。

Who ?? ギエスブレット?
ところで、ギエスブレットだが、彼は、シリーズNo4で取り上げたベルギーのプラントハンター、リンデン((Linden, Jean Jules)のところで、小さく登場していた。だから無視しようかと思ったが、彼が採取したサルビアが無視できないのでとりあげることにした。

それをレビューしてみると次のようになる。
1835年9月25日にリンデン、フンク、ギエスブレットは、ベルギー政府の支援でアントワープからブラジルのリオデジャネイロに向かい12月27日に到着した。

ここで三名は、ブラジルの動植物の収集捕獲と調査をおこない、1837年3月にベルギーに戻る。

1837年9月に二回目の探検として三名はキューバに向かい12月にはバナに到着した。翌年1838年には動植物の捕獲収集と商業情報の収集を目的にメキシコを探検し、この年の8月には、ベルギーのもう一人のプラントハンター、ガレオッティと一緒に四名でメキシコ最高峰のオリザバ山に登頂した。
リンデン、フンク、ギエスブレット、ガレオッティがメキシコで出会ったということがこの先の展開の道筋を創るので覚えておいて欲しい。

リンデンは黄熱病になったので一人残り、フンク、ギエスブレットは、1840年9月にベルギーに戻る。一方、リンデンは、同年12月にベルギーに戻り、先に帰った二人と再会する。
ガレオッティも、1835-1840年のメキシコ探検旅行から1840年に帰国する。

さてここから四名は三つのコースに分かれ、それぞれの関係は扇のような関係となる。
リンデンとフンクはランの育種園ビジネスに向かい、ガレオッティはサボテンの育種園ビジネスを立ち上げる。
ギエスブレットは、メキシコに戻りヨーロッパの顧客に植物を収集・栽培して供給するビジネスを展開することになる。
より具体的に説明すると、リンデンとフンクにはランを栽培して供給するビジネス、ガレオッティにはサボテンを収集し供給するビジネスであり、ヨーロッパの植物園・植物愛好家には植物とその標本を収集提供するビジネスである。

この構想は、オリザバ山登頂の時に話し合われたというから面白い。
1840年に彼ら四人はベルギーに戻るが、その後の行動は、回り道をしないで直線的に行動しているので相当な信頼関係が形成されたのだろう。肉体的・精神的に厳しい時を一緒に乗り越えた人たちは、未来を共有できる“仲間”となれる。を地でいっているようだ。

ギエスブレットに関しては、これ以上の目ぼしい情報がない。あるのは彼が収集した植物となる。
ちなみに彼が採取して記録に残っているものを見ると次のようになる。

キュー植物園: 80種(内サルビア3種)
ミズリー植物園:264種(内サルビア12種)
アーノルド樹木園:188種(内サルビア9種)

それにしても、ギエスブレットのセンス、サルビアを見る目は素晴らしい。

ギエスブレットが採取したサルビア

1.Salvia atriplicifolia (受理された学名は、「Salvia cacaliifolia又は、Salvia cacaliaefolia」)

(出典)Wikipedia

「Salvia atriplicifolia」は、1864年10月メキシコ・チャパスの山中でギエスブレットが採取したが、受理された学名は、ベルギーのプラントハンターで盟友のリンデンが同じチャパスで採取した「サルビア・カカリフォリア(Salvia cacaliifolia)又は、(Salvia cacaliaefolia)」となる。
園芸市場への導入は、アイルランド生れの園芸家ロビンソン(Robinson,William 1838-1935)が1933年に英国に持ち込み、米国では、1970年代にサンフランシスコのゴールデンゲートの下にある森林公園ストリビング植物園(Strybing Arboretum)、ロスアンゼルスにあるハンティングトン植物園が導入し、 1980年代の後半には好感度の高い花になったという。
そういえば、ゴールデンゲートの下に植物園があるのは知っていたが、ナパ・ヴァレーでワインを飲むことだけに気を取られてしまったな・・・と反省を。

このロビンソンは、 "野生の庭"と呼ばれる別荘風の小さな庭づくりに革命的な思想を持ち込んだ園芸家及び園芸ジャーナリストであり、1870年にアメリカの園芸家との交流と植物探索の旅に出かけている。この時にメキシコ、オアハカのシェラにも旅をしているので、メキシコの植物を庭に導入することに抵抗感は無かったのだろう。
整然とした幾何学的な庭にはサルビアは導入されにくいが、“野生の庭”という考えが出来たから導入しやすくなったというのには実感がある。

2.Salvia disjuncta
    
(写真出典)Plannt Delights Nersury
http://www.plantdelights.com/Catalog/Current/Detail/08469.html

「サルビア・ディスユンクタ(Salvia disjuncta)」は、メキシコ、オアハカ及びチアパス州の2300-3400mの比較的高いところの暖かく湿った山中に生息し、ギエスブレットは1864年にチャパスの山中で採取した。
庭への導入は、大分たった1980年代の後半にサンフランシスコのストリビング植物園(Strybing Arboretum)の学芸員が採取し、1993年に育種園などに販売を始めた。
開花期は10月から霜が降りる頃までだが温暖なところでは冬中咲くので貴重な花かもわからない。花色は赤色で花数は少ない。樹高は1.3mで根に近いところは木質化する。
日本ではまだなじみのないサルビアだが、茎、葉、花とバランスが良さそうなサルビアなので欲しい一品でもある。

3.Salvia chiapensis(Chiapas sage)


ギエスブレットは、メキシコ・チアパスの山中で「サルビア・チアペンシス(Salvia chiapensis)」を採取した。時期は良くわからない。
1895年に米国人のネルソン(Nelson, Edward William 1855-1934)も採取しているが、この花が庭に導入されたのは、1981年のカリフォルニア大学植物園バークレーの探検隊がチアパスで採取してからであり、1991年までこの植物園の園長を務めたOrnduff, Robert (1932-2000)がリードした探検隊だったのだろう。彼は、メキシコから「サルビア・メキシカナ‘ライムライト’」の親となる「サルビア・メキシカナ(Salvia mexicana)」を採取している。
「サルビア・チアペンシス(Salvia chiapensis)」は、“チアパスセージ(Chiapas sage)”とも呼ばれるように、チアパスの2100-2900mの霧の多い湿った地域で生息し、草丈50-60㎝で横に広がり、花茎を伸ばしその先に鮮やかな桃色の花を8-11月まで咲かせる。光沢のあるオリーブ色の葉も美しい。

4.Salvia miniata(Belize sage)

出典)Wikipedia

ギエスブレットは、チアパスの森林の中で「サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)」を発見採取した。時期はわかっていないが、1846-1870年の間だろう。
この「サルビア・ミニアタ」は、メキシコのチアパスからベリーズ、グアテマラの600mと低く、温暖で霧が多い湿った山腹に生息し、“ベリーズセージ(Belize sage)”とも呼ばれる。開花期は7月から霜が降りるときまでで、燃えるような赤色の花が多数咲く。光沢のある緑色の大きめの葉との組み合わせは素晴らしい。
しかし、何時、誰が庭に持ち込んだか良くわからない。しいて言えば、1990年代の早い時期にサンフランシスコのストリビング植物園(Strybing Arboretum)が導入したようだ。

5.Salvia carnea

(出典)The National Gardening Association

「サルビア・カルネア(Salvia carnea)」は、1864-1870年の間にメキシコのチャパスでギエスブレットが採取した。
これ以前に採取したのがフンボルトとその盟友ボンブランであり、メキシコ滞在の1803-1804年に採取したのだろう。
ガレオッティもこのサルビアを1840年に採取している。ガレオッティはこのサルビアに「サルビア・マーテンシィ(Salvia martensii)」と命名したがこれは学名として受理されなかった。

最初に命名された名前が優先されるというルールがあるので、これを採取したコレクター、或いはプラントハンターに名誉が讃えられることになる。
このような経緯があるが、この「サルビア・カルネア」は、室内庭園のスペースがあったら素晴らしい景観をつくる感じがする。注目したいサルビアだ。

6.Salvia cinnabarina
    
(出典)cabrillo callege
http://www.cabrillo.edu/academics/horticulture/salvias/html/cinnabarina.html

「サルビア・シンナバリナ(Salvia cinnabarina)」は、鮮やかな朱色の花と緑の葉がとてもエレガントで、まるでパイナップルセージと呼ばれる「サルビア・エレガンス(Salvia elegans)」に似ている。
このサルビアは、ギエスブレットがメキシコのチアパスで1864-1870年の間に採取しているが、それ以前にこのシリーズで登場したガレオッティが最初のコレクターのようであり、リンデン、グレッグ(1849年)も採取している。
種小名のcinnabarina は、ラテン語であざやかな朱色を意味するcinnabarinumから来ている。

まだまだ魅力的なサルビアを採取している。続きを書くかちょっとためらっている。書かない場合を考えてギエスブレットが採取したサルビアを記載しておく。

付録:ギエスブレットが採取したサルビア
(1) Kew植物園に記録されているサルビア
Kew植物園には全部で80種、サルビア属では3種が記録されている。
1.Salvia atriplicifolia Fernald
2.Salvia disjuncta Fernald
3.Salvia ghiesbreghtii Fernald

(2) ミズリー植物園に記録されているサルビア
ミズリーには、全部で246種を採取、サルビア属では12種が記録されている。
4.Salvia cacaliaefolia Benth
  Salvia cacaliaefolia Benth.
5.Salvia carnea Kunth
6.Salvia cinnabarina M. Martens & Galeotti
7.Salvia coccinea Buc'hoz ex Etl.
  Salvia ghiesbreghtii Fernald
8.Salvia holwayi S.F. Blake
9.Salvia karwinskii Benth.
10Salvia oblongifolia M. Martens & Galeotti
11Salvia recurva Benth.
12Salvia reptans var. reptans Jacq.
13Salvia rubiginosa var. hebephylla Fernald

(3) アーノルド植物園に記録されているサルビア
全部で188種、サルビア属は9種が記録されている。
  Salvia atriplicifolia Fernald
14Salvia chiapensis Fernald
  Salvia chiapensis Fernald
  Salvia disjuncta Fernald
  Salvia ghiesbreghtii Fernald
15Salvia miniata Fernald
16Salvia multiramea Fernald
  Salvia rubiginosa Bentham var. hebephylla Fernald
17Salvia venosa Fernald
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No9

2010-07-12 13:21:20 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No9:チェリーセージ(Salvia gregii)と米国西部のフロンティアマン、グレッグ

(写真)サルビア・グレッギー


日本でもチェリーセージはポピュラーな花になった。暑さ寒さに強く、四季咲き性があるこの小潅木は,葉からセージ特有の薬臭い香りがストレスを癒す働きがある。
しかしチェリーセージは、3種類の異なる種の総称として使われていて誤解が生じていることも否めない。

基本種でもある「サルビア・グレッギー(Salvia gregii)」は、メキシコ北東部の塩を意味するサルテヨ(Saltillo)で、アメリカ人の探検家・商人・医師・地図製作者のグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)が1848年に発見・採取した。
サルティヨは、スペイン人が作った街で400年以上もたつ古い街であり、現在ではメキシコのデトロイトといわれるほど自動車産業が進出している。近くにはチワワ砂漠があるので乾燥した温暖なところのようだ。

ハーバード大学アーノルド植物標本館のデータには、グレッグは379種類の植物を採取しているようだが、サルビア属ではこの「サルビア・グレッギー」1種しか採取していない。というのも不思議だ。

「サルビア・グレッギー」に関してはここを参照

米国西部のフロンティアマン、グレッグの生涯
(写真)グレッグ

(出典)the Old Lewiston Schoolhouse Library and Museum
http://www.oldlewistonschoolhouse.org/web7.htm

グレッグに関しては、「サルビア・グレッギー」で以前に書いたものを加筆して紹介する。
グレッグは、多才な発展途上中の人だったようだ。
44歳でなくなっているが、彼が活躍していた時代は、日本では江戸から明治という激動の頃であり、米国では、東から西へというフロンティアスピリット真っ最中の時期でもあった。
彼を称して米国ではアメリカのフロンティアマンと呼んでいる。直訳すると「辺境の人」ということのようだが、イリノイ、ミズーリで育ち1824年彼が18歳の時に教師となったが、これ以降から「フロンティアマン(辺境の人)」として大きく人生が変わっていく。

彼は慢性消化不良と結核で病弱であり、1831年5月、彼が25歳の時に医者から自然の多いところで療養すると良いと言われ、学業をあきらめサンタフェ(Santa Fe、現在は米国ニューメキシコ州だがこの当時はメキシコの領土)行きの隊商に加わり貿易商になることを決意した。8週間で彼は完全に回復し、サンタフェで、貿易商サットン(Jesse Sutton)の帳簿係りの仕事を見つけ、そして、米国と北メキシコとの貿易商を目指した。

(地図)グレッギーが貿易商として活躍した地域(緑のピン)by google


1830年代に彼は、バン・ビューレンがあるアーカンソー州の北部にあるミズリーとサンタフェとの間での貿易取引に従事し、アーカンソーのバン・ビューレンからメキシコのチワワまでの新しい通商路のコースを切り開いた。
このコースの途中には、インディアンの居住地があり、西部劇で見る幌馬車に乗り点在する家々・村々を廻り、自然の脅威だけでなくインディアンにも襲われたようでありまさに西部劇そのものだったようだ。

このコースは、後にカルフォルニアの“ゴールドラッシュ”にあやかろうとする山師達のルートとなり西部開拓史のインフラとなるほどポピュラーになったという。
また、後の1849年からの米国陸軍マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)の西部入植者の護衛通路でもこのルートが使われた。

グレッグの健康も回復し商いも順調に行き10年後にはかなり成功したという。しかし、彼が非凡なのは、38歳の時の1844年にサンタフェでの商売での経験をまとめた『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』という博物誌を出版したことだ。斜め読みする限りでは、観察眼に優れ当時の情景が浮かんでくる読み物となっている。


この本は大成功を収め、米国だけでなくイギリス、フランス、ドイツでも翻訳され出版されたというから、商人から一躍著述業・文化人となり、地図、地質、木の種類、人々の生活、政治状況などの権威ともなる。いわば、米国南西部とメキシコの北部地域の博物学・文化人類学・植物学・政治経済学などの権威となったのだ。

米国南西部から北メキシコ地域は、それだけまとまった情報が無かった地域であり、1850年代後半には、米国国務省も西部への入植者の事故・死亡の多さへの対処を考えざるを得なくなり、マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)を呼び寄せ西部移住のガイドブックをつくることになる。マーシー大尉は、西部への幌馬車隊入植者に付き添って護衛する任務をテキサス州などで行っていて、地図などを作っていたので適任者だった。

マーシーが1859年に作成したのが「大草原の旅行(The Prairie Traveler: A Hand-book for Overland Expeditions)」で、西部入植者のガイドブックとして実践に基づいたマニュアル本となっておりベストセラーとなった。

西部開拓史初期におけるグレッグそしてマーシー大尉の足跡の大きさがこれらからも伺える。

貿易商から探検家・植物プラントハンターへの変身と人脈
『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』を出版した翌年の1845年に、グレッグは医学の学位をとるためにケンタッキー、ルイスビルの医科大学に入学し、1848年春まで一時医者をサルテヨ(Saltillo)で開業した。健康であれば学業をあきらめずに医学博士としてのコースを歩んでいただろうからこの果せなかった夢を実現したかったのだろう。

この医者時代に、ドイツ生まれで1833年のドイツでの学生主導での反乱・革命に破れスイス、パリなど逃亡生活を余儀なくされ、1835年に米国に移住した医師・植物学者・ナチュラリストのヴィスリゼヌス(Wislizenus ,Frederick Adolphus 1810‐1889)と知り合い、植物学にも興味を抱くことになる。

ヴィスリゼヌスは、1839年からセントルイスに転居し、1846年まで同じドイツ出身でミズリー植物園の創設者でもあるエンゲルマン教授(Engelmann, George 1809–1884)のもとで働き、1846年5月4日から1847年6 月8日までサンタフェ、エルパソ、チワワを通過してコアヴィラ(州都がサルテヨSaltillo).まで自費での探検旅行をした。しかし、テキサスへの領土野心を持った米国がメキシコに宣戦布告をしたのが1846年5月であり、スパイと疑われて6ヶ月拘留された。
この旅行では、帰国後の1848年に探検記を出版、また462種の植物を採取し、このことで彼を有名にした。

グレッグは、ヴィスリゼヌス、エンゲルマン教授と知り合うことで、プラントハンターとしての環境を整えたことになる。

この頃の米国とメキシコの関係
(地図)1847年までのメキシコの領土

(出典)ウィキペディア

米国は、現在の米国の中部全体に位置するルイジアナを1803年にナポレオン時代のフランスから1500万ドルという破格な安い値段で買収した。この時のルイジアナは、現在の米国全領土の1/4を占めほど広大な地域であり、この買収によって、太平洋岸の西部地域に進出する意欲が高まり多くのアメリカ人がメキシコ領北部そしてその先の太平洋側に流入してきた。

一方メキシコはといえば、1821年にスペインからの独立を宣言するが、この頃から現在のテキサス州に当たるコアウイラ&テキサス州(州都サルティヨ)にアングロサクソン系の入植者が来るようになり、1836年にはメキシコから分離独立してテキサス共和国をつくった。
ここが火種となり、1845年に米国はテキサス共和国を併合し、1846年5月にメキシコに宣戦布告をしアメリカーメキシコ戦争が勃発する。
この戦争はメキシコが敗北し、1848年2月のグアダルーペ・イダルゴ条約で、テキサス、カリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北の領土を割譲し、メキシコは国土の半分ちかくを失った。

グレッグは、この戦争が起きた地域のことをよく知っているエキスパートであり、通訳・ガイド・通信員としてドニファン大佐(Doniphan, Alexander William 1808 – 1887))の隊に加わり、地図作成の情報を陸軍省のために収集した。
グレッグに植物学を教えたヴィスリゼヌスは、6ヶ月間メキシコ側に拘束されていたが開放された後は、ドニファン大佐の隊と共に行動しているので、ここでも二人は出会いがあった。
そして、「サルビア・グレッギー」は、この時に発見して採取したようだ。

グレッグ、サンフランシスコまでの新ルート開拓に向かう
メキシコとの戦争が終わった後のグレッグは、さらに未開拓地でありゴールドラッシュで沸いている米国西海岸のフロンティアにスイッチを切り替えることになり、1848年にメキシコ西部からカルフォルニア・サンフランシスコまでの探検旅行を行うことになる。

探検の目的は、太平洋に至るルートの発見とそのための地図作製、樹木・植物探索などで7人の探検隊を組織して出発した。道々緯度・経度を測ったり樹木植物の収集などを行ったので一日3~4km歩くのがやっとで、たちまち手持ちの食糧が底をつき飢餓との戦いでもあったようだ。ハーブといえば価値観があるが、野草を食べ飢えをしのいでいたという。
山を越え森林を抜け餓死直前に海に出会い、目的の太平洋に至るルート開拓が出来た。

がしかし、この探検隊はこの後仲間割れをして分裂してしまう。隊長グレッグと一緒に行動すると飢えてしまうということを知ったせいでもある。
グレッグはサンフランシスコに戻る途中に悪天候にあい落馬した。そして動けない彼は見捨てられ餓死した。1850年2月25日だった。

44歳の若さであったが、彼の名は、西部開拓史に残る探検家であり、採取した植物などは、セントルイスの著名な植物学者エンゲルマンに送っていたので、23種にグレッグの名前が残り、サルビア・グレッギーはそのうちの一つだが、米国の大植物学者グレイ(Gray,Asa 1810‐1888)によってその功績を讃えられ名付けられた。

さらに、サンフランシスコの南にフンボルト湾があるが、ここは1775年にスペイン人によって発見されたがそれ以降忘れられていた。グレッグ隊が再発見をしてそれを確認するために派遣されたモーガン将軍とローラヴァージニア達が1850年3月にフンボルト湾と名付けたという。

教師、行商の商人、雑貨屋の店主、医師、地図測量技師、探検家、ナチュラリスト、植物コレクター、作家などいくつもの顔を持つグレッグ。
好奇心がフロンティアを拡張しそれぞれに水準の高さを足跡として残していった。
「サルビア・グレッギー」は、フロンティアに咲いていた花であり、フロンティアをいくつも乗り越えていったヒトの花でもあった。
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No8

2010-07-05 08:56:20 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No8: メキシコのサボテンを世界に広めたプラントハンター、ガレオッティ

そういえば、シリーズN04のベルギーのプラントハンター“リンデン”のところでこんな記述をした。
「リンデン探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。」

この時はリンデンと同郷のベルギーの探検家としてしかガレオッティを認識しなかったが、リンデンたちと行動を共にすることによってプラントハンターとして育っていったようだ。
リンデン探検隊は1838年にメキシコ探検に来ているが、ガレオッティは、1835年大学卒業後直ぐにメキシコの地質学的なリサーチに派遣されて来ていたので、リンデン達よりもメキシコ探検の先輩であり、地質学的な探索だけでなく、プラントハンティングにも興味関心が広がっていったのだろう。

ガレオッティの生い立ち
ガレオッティは、1814年にパリで生れ、1830年8月にベルギー独立の革命がおきるがこの直後あたりにベルギー・ブリュッセルに父親と共に移住し、有名な地質学者で地図製作者でもあったファンデルマーレン(Vandermaelen, Philippe 1791-1869) が1830年に設立した“Etablissement Géographique de Bruxelles”で学んだ。直訳するとブリュッセル地理学院とでもなるのだろうか?

ガレオッティは優秀な卒業論文を書き、1835年にベルギーのアカデミーから金メダルを受賞したが、この授賞式には出席せずにメキシコに出発し、その年の12月に到着している。
彼がメキシコに行ったのは、ファンデルマーレン兄弟がスポンサーとなり、中央アメリカの地質学的な情報を収集するためであり、メキシコには1835-1840年までの5年間滞在し、オリザバ山の登頂、Chapala 湖の地図と博物誌などの作成が実績として残っていてこれらが本来の探検旅行の目的であった。
スポンサーのファンデルマーレン兄弟は、家業がフランダースの裕福な石鹸メーカーであり、フィリップは家業を継がずに地図製作者として名を上げ、中央アメリカの地図製作のための情報を収集するためにガレオッティをメキシコに派遣した。

しかし、ガレオッティは、このメキシコ滞在期間中に植物学への興味を深め、数多くの植物、特にサボテンを採取して1840年にベルギーに戻った。彼が集めた植物と標本は、後にブリュッセル植物園が購入している。

帰国後、ブリュッセル大学で地質学を教える職を提供されたが、これを断り、郊外で育種園を経営するビジネスを選択し、帰国直後の1840-1841年に、サボテンなどを輸入して販売するビジネスを具体化するためにメキシコに旅行した。

開業資金面では、彼の友人である数学者のケトレ(Quetelet, Lambert Adolphe Jacques 1796 –1874)に出資を頼んだが、彼は、サボテンとガレオッティの夢を理解することが出来なかった。そこで資金調達のために、彼のメキシコでの植物コレクションの一部(8000標本)を売ることにしたが、その中のたった一つのサボテンが労働者の一年の賃金に当たる500フランで売れたというから好事家のマーケットが成立していたようだ。
やはり、事業を立ち上げるのは大変だ。

この育種園では、植物学者マルティン(Martens, Martin 1797-1863)と一緒に働き、ガレオッティが採取した植物の同定・分類などを担当し、多くの植物に命名者として“M.Martens & Galeotti”と足跡を残している。
ただし、同定するための過去の植物情報が少なかったためか、或いは、唯我独尊だったのかわからないが、先に発見され命名されているモノが結構あり、マルティンとガレオッティが命名した植物名は受理されないものが多い。
植物命名の総本山であるロンドンのリンネ協会、キュー植物園などとのネットワークが無かったのか、この権威を認めていないためなのか、或いは園芸ビジネスに主眼を置き学名などに気にもとめていなかったのか、チェックが甘かった。
ガレオッティの採取した植物を調べていてこれには大分泣かされた。一つの植物品種には一つの名前というリンネの考えは正しいし間違いが排除できる。と調べることに無駄に近い汗をかきながら思った。

ガレオッティの育種園は、経済危機も影響し1849年頃倒産する。
この頃のヨーロッパは10年周期で景気の変動があったが、ジャガイモの根ぐされ病、ペストの流行などで1845-1849年のアイルランドの大飢饉は、100万人が餓死し100万人がアメリカなどへ移住したという。ケネディ家もこの時の移民の一人であり、アイルランドからの移民の子孫から米国大統領を輩出するが、これは後のことであり、ヨーロッパでは経済危機と革命の嵐が吹き荒れる時期にガレオッティの育種園が倒産した。
ガレオッティの育種事業は10年持たなかったが、メキシコのサボテンを世界に広めたのはガレオッティであることは間違いない。

1852年からはブリュッセル植物園と一緒に園芸誌“d’Horticulture pratique”の編集を始め、1857年に最初の発刊を行った。
また、倒産後の職としてブリュッセル植物園に1853年から彼が亡くなる1858年まで園長として勤め、彼の個人的なコレクションは死亡後に植物園が買い取った。
44歳と早世であったが、メキシコのシダ、サボテンなどで新しい種の発見など成果を残している。

ガレオッティが採取したサルビア
キュー植物園の植物標本登録データベースには、ガレオッティがメキシコで21種のサルビアを採取したと記録されている。そのうちのいくつかを紹介する。

(1)Salvia longispicata
 
(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm

ガレオッティが1840年にメキシコ南西部で発見・採取した「サルビア・ロンギスピカタ」は、標高400‐2000mの地域に自生する1.3mぐらいの小さな多年生の潅木で、青紫の花を長い花序にコーンのようにスパイク状に密集してつけるので“ロンギスピカタ”(long+spike)という種小名がつけられた。
しかし、実物の写真を掲載しているところが少なく、現在はあまり栽培されていないのだろう。この写真も実物とマッチしているかどうか疑問のところがあるという。

この「サルビア・ロンギスピカタ」は、「サルビア・ファリナケア(Sslvia farinacea)」との自然交配で“ラベンダーセージ”で知られる「サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')」が誕生していて、こちらの方が有名になっている。

(写真)サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')

※ サルビア・インディゴ・スパイヤーの説明はこちら

(2)Salvia chrysantha (類似:Salvia lasiantha(True Species))
(写真)類似のサルビア・ラシアンサ(True Species)

(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm

採取年は不明だが、学名は「サルビア・ロンギスピカタ」同様に1844年にMartens &とGaleottiによって命名されているので、1840年頃採取されたのだろう。採取した場所は、メキシコ中部のザカテカス州カニタス・デ・フェリッペ・ペスカドル付近の山中。というところまではわかったが、このサルビアの植物情報がなかなか見当たらない。仕方ないので類似の「サルビア・ラシアンサ」の写真とその植物情報を記述する。
「サルビア・ラシアンサ」は、冬に開花するサルビアで温室で育てる必要がありそうだが、赤紫の萼とオレンジの花のコンビネーションが見事な花だ。こんなサルビアもあったのだと感心してしまう。

(3)Salvia galeottii(同義 Salvia coccinea)

「サルビア・ガレオッティ」は、1840年6月にメキシコ、ベラクルーズの近くにあるハラパ(Jalapa)でガレオッティによって採取され、1844年に「Salvia galeottii」と命名された。しかしこの花は、「サルビア・コクシネア」と既に違った学名で1777年に発表されておりこれが優先されている。
「サルビア・コクシネア」は、日本でも普及していて、園芸品種を含めてピンク、レッド、ホワイトなどカラフルな花色が楽しめる。
(写真)サルビア・コクシネア

サルビア・コクシネアの説明はこちら

(4)Salvia martensii (同義:Salvia carnea var. carnea)

(サルビア・カルネアの写真リンク)The National Gardening Association

「サルビア・マーテンシィ」は、1840年にガレオッティがメキシコ南西部で採取したサルビア。1844年に「Salvia martensii」と命名されたが、「サルビア・カルネア(Salvia carnea var. carnea.)」と同じであり、メキシコシティから南西方向に150km行ったところにあるバレデブラボ地域に自生する。夏から秋にかけて長い花穂を伸ばし、淡いピンクの小さな花をつける。木質性の1.2mぐらいの潅木で、温暖なところでは一年中花をつけるというが、耐寒性が弱いようなので育てにくいようだ。

雑 感
1830年にオランダから分離独立したベルギーは、北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏で、現在でもこの違いが解決しないで分離独立の動きがあるという。
この新興国ベルギーのプラントハンターであるリンデンとガレオッティには、生涯プラントハンターを追及した英国のプラントハンターとは異なり、スポンサーから独立した財政基盤を創ろうとする共通した行動が見られた。この違いはどこから来ているのだろうかという疑問と興味がわいてしまった。

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