モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

江戸文化の振興“江戸天下祭”開催される!

2007-09-30 16:33:11 | 近代遺跡
“江戸天下祭”を見てきました。
祭りの後は酒がつきものですが、
ちょっと二日酔い気味で、今週は結果、1週間酔いでした。

さて、
“江戸天下祭”は、江戸開府400年を記念して2003年に復活した祭りで、
2年ごとに開催され、今年が3回目に当たります。
このお祭りを、東京丸の内仲通りで見てきました。
時折、小雨が降り前日とはうってかわった寒い日でした。

祭りのステージは、日比谷公園をスタート地点に、丸の内仲通りを通過し、
皇居前広場がゴールとなるが
このコースを、山車(だし)、神輿(みこし)などが練り歩いた。

江戸火消しの木遣りの唄              手古舞(てこまい)
 
先頭は、江戸木遣り(きやり)の唄が、
火消しの装束で鳶の人たちによって唄われました。
重い木材などを運ぶ時の労働歌が、今では、祭礼の祝賀として唄われます。

続いて、山車(だし)や神輿(みこし)を先導する舞としての
手古舞が踊られました。
男性風の扮装で、花笠を背中に背負い、ズボン風の袴(はかま)を着用し、
派手な刺繍の襦袢を方肌脱ぎにし、反対側は広袖のブルーの着物を着ている。
ファッションのおきて破りの得意な若者が、
この粋でいなせなセンスにそろそろ気づいてもいいのだが・・・

“江戸天下祭”は、江戸文化を復興する新しいイベントだが、
“天下祭”は、江戸城内に祭りの行列が入っても良いという幕府公認の祭りだけを言うそうだ。
数ある祭りのなかで、日枝神社の山王祭・神田明神の神田祭だけが“天下祭”であり、
それぞれ2年おきに開催されて今日に至っている。

朝鮮使節使
 


今回のハイライトは、山車・神輿だと思うが、“朝鮮通信使”の行列が新鮮だった。
“江戸天下祭”参加の理由は、
豊臣秀吉の朝鮮侵略により国交断絶していた関係を修復するために、
民族衣装をまとい楽団つきで使節使が江戸幕府に派遣されるようになった。
いまから400年前の1607年というから
“江戸天下祭”の重要なイベントとなる。

衣装の色彩感覚・音楽が、日本人にはないセンスであり、
400年前の彼らと我らの生活を彩る文化の違いが浮き彫りとなっていた。
しかし、この使節使の衣装・デザインなどは、古くなく今でも通用すると感じた。

山車(だし)
 

むしろ違和感を覚えたのは、
山車・神輿を作った我々の文化のほうであり、朝鮮使節使以上に遠い存在と感じた。

江戸と明治は連続していなかったと今でも思うが
あらゆる価値観を破壊して来たがゆえに、
ルーツすら否定しかねなくなり、
新興国民となりかねない。

江戸文化を復興させることが、
これ以前の我々の歴史とのブリッジを架けることに結びつき、
我々の文化が美しく感じられるようになるのではなかろうか?
と”江戸天下祭”を見ていて感じた


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近代遺跡探検④ 西海橋(saikaibashi)から見る針尾無線塔(hariomusenntou)

2007-09-11 05:13:04 | 近代遺跡
長崎 ⇔ 佐世保(西海橋)(針尾)

西海橋と針尾


佐世保から長崎に行く途上に“西海橋(saikaibashi)”がある。
いまは、新西海橋が出来たが、西海橋から新西海橋のほうを見ると
その先に、摩訶不思議な光景が見られる。

橋の向こうに3本の塔がそびえている。

西海橋周辺は、リアス式海岸のように陸と海が凸凹に入り組んでおり、
フラクタル図形の幾何学的な美しい景観が見られる。
この景観の真っ只中に、3本の塔が天に延びている。

取材時の写真が見つからないので、インターネット上に掲載されている写真を参考にさせてもらうと、西海橋から見える光景はこんな感じだ。
(写真)針尾送信所無線塔

(出典)ト⁠リ⁠ッ⁠プ⁠ア⁠ド⁠バ⁠イ⁠ザ⁠ー

写真は、建設中の新西海橋だが、その右手奥に3本の柱が立っている。

これが針尾(hario)の無線塔だ。
現在は、海上保安庁佐世保海上保安部針尾送信所という。

この“針尾の無線塔”の建築が始まったのは、1918年(大正7年)で
旧海軍が、東南アジア周辺海域での艦船・潜水艦などとの交信の必要性で
長崎県佐世保市針尾に建設された。

3本の塔は、1辺の長さ300mの正三角形の位置に建てられ、高さは135m。
コンクリートの厚さ76cm、塔の一番下の直径が12.12mであり
この巨大さに驚く。
内部は結構広く、確か、内側に階段があったような記憶がある・・・・

針尾送信所内の地図


建設開始年は、“軍艦島”の高層住宅が建設された1916年(大正5年)から2年後であり、
この当時の建築先端技術がここ“針尾の無線塔”に投下されている。

そしていまは、現役として活用することも出来ず、
さりとて、新しい役割を創りだすことも出来ず
お役ごめんとなり打ち捨てられている。

針尾の無線塔は、
日米開戦直前の1941年12月2日、広島湾にいた連合艦隊旗艦「長門」から発信され、
太平洋に展開する連合艦隊に対して、「ニイタカヤマノボレ 1208」を送信したといわれている。
ブッシュ米大統領から、ビンラディンに匹敵するといわれた、真珠湾奇襲攻撃の暗号電文である。

送信所としては、千葉県船橋市の行田無線塔、愛知県刈谷市の依佐美無線塔など複数候補があるみたいだが、
真偽のほどを明らかにする価値よりは、
現存する針尾の無線塔の保存・活用を検討する方に歴史的な価値があると思う。


1769年 ジェームズ・ワットが新方式の蒸気機関を開発してから
歴史が大きく動き始めた。
石炭、鉄、セメントそして蒸気機関の時代に突入した。
蒸気機関車が実用化されたのは、1830年でありリバプールからマンチェスターまでの路線が運営された。

現在のセメントの基本が作られたのもこの頃であり、
1824年イギリス人ジョセフ・アスプジンによってポルトランドセメントの製造法特許が確立した。
高層建築のベースとなる鉄筋コンクリートが考案されたのは、1892年のフランスであり、
世界初のコンクリート建築は、
1904年のフランス、オーギュースト・ペレによるフランクリン街のアパート建築であった。
20世紀は鉄・セメント、石炭に変わる石油そして原子力の時代でもあった。

日本の20世紀の曙を作った痕跡が九州にある。
石炭の軍艦島、鉄の八幡製鐵所、無線電波の針尾の送信塔など・・・・・

しかも、理屈ではなく
西海橋からみる“針尾の無線塔”は、不思議な美しさを 見るものに与えてくれる。

この光景は、日本的ではない。
どこなのだろうか ? 
という不思議な光景だ。


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近代遺跡探検③ 軍艦島はインスタレーションのミュージアムと思う

2007-09-07 07:03:49 | 近代遺跡
時折 強い風と雨が横殴りに吹き付けます。
台風の目が上空を通過するかと思いましたが、
左側を50kmほどそれて、北上中です。

セージ類は避難させましたが、大型のもの、地植えのものは避難できず
強い風に相当いじめられており、午前中一杯はまだまだ続く模様です。

今日は、ハーブ関係は中止せざるを得ませんので、
書きかけ中の近代遺跡の復活です。
気分的にはちょっと異なりますが・・・・・



1974年4月20日から“端島”は無人になった。

外界から隔絶されたところでは、その環境に適合するために、
特異の進化をすることがある。

ダーウインの進化論で有名になった“ガラパゴス諸島”の生物は、
南米の種に近似するが、他の大陸から隔絶した島独特の進化をしていた。

生命起源と“端島”のビジネス的・生活的社会構造とはもともと異なるが
社会を形成し維持発展させようとする意思・意図をその社会の遺伝子とすると、
オープンな社会から隔絶された“端島”の社会の遺伝子は、
戦争という狂気の時期をはさみ、
産業革命後の勃興から衰退までのライフサイクルを
特異な進化を遂げ
短時間で駆け抜けていった。

そして、歴史から消えていった。

その遺物・遺産・化石が“軍艦島”である・・・と思う。

生活があった“端島”。
生活が消えてしまい入れ物・容器・殻だけが残ってしまった“軍艦島”。

“軍艦島”は恐ろしい。 そして 美しい。
これが実感だった。


長崎市高島町“端島”の広さは6.3haで、後楽園ドームのわずか1.35倍だ。
このスペースに、7~9階建ての高層アパートを林立させ、
炭鉱という一点で結びついた人々が、最盛期には5千人強が住んでいたという。

1960年には、日本一人口密度が高いところだったというから
人が働き・住む 極限のスペースのデザインの結果が“端島”そのものだとも言える。
労働は、海底深く。
休息は、空高く。高層住宅で。
島からの出口は、船だけ。


1980年代の後半に、“軍艦島”に上陸し調査した。
海上タクシーで船着場に着いたが、
もはや、船を寄せ付けない船着場となっており、外海の波の荒さとあいまって
上陸しにくい。

“軍艦島”を歩き
圧倒される存在感に、
目線は下を向きがちになり敗者のポーズとなる。
“常識”が破壊され、“美”も否定され、永続性がない“効率”のむなしさを感じた。

そこには、絵画、写真、漫画などでは感じられない、“生”“ナマ”“ライブ”があった。
“軍艦島”は、体感の芸術 インスタレーション(Installation art)そのものだ。
人間が見捨てていったモノ・コトが“軍艦島”であり、
入場禁止だが、バーチャルでなくリアルに、その現実を体感できる。

“軍艦島”には、“ハレ”の場がデザインされており、子供達にはプール、
大人には映画館だ。
茶色と灰色が多い廃墟の中で、映画館の外壁タイルはカラーだった。
なまめかしいときめきを感じ、唯一ホットした瞬間だった。
ここにも世俗があった。
安心を覚えた。


無人島は、ロビンソン・クルーソーの漂流記のように、生きることについての強烈な願望がある場所だと思うが、
“軍艦島”には、これが感じられない。
それよりも、人間の知識・技術などの驚異と脅威を感じる。
私達が創ったもの。そして、見捨てたもの。
その壊れていく強烈な恐怖感と美しさ。
そのミュージアムだと思う。
いまとなっては。

シリーズ参照
(軍艦島①) 
(軍艦島②)



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近代遺跡探検② 軍艦島は小型高性能!

2007-09-01 10:39:47 | 近代遺跡
“軍艦島”は、長崎市高島町端島という。

長崎港から伊王島、高島までの定期航路はあるが、その先の端島まではない。
現在では、船会社が軍艦島回遊クルージングを不定期で実行しており、
このようなクルージングに参加するか、海上タクシーをチャーターする以外
“軍艦島”に近接できない。

上陸は禁止である。
特に、1991年の台風で外壁が破壊されるなどの被害があり危険な状態にあるようだ。



1980年代の後半に、三菱社が所有している時に上陸したことがある。
この時は、ヘルメットを借り、上陸するものには事前に生命保険をかけるなど
万一の災害に対処した記憶がある。


“端島”が歴史に登場するのは、石炭が発見されてからだ。

江戸時代文化7年(1810年) 草木も生えていない小さな岩山の瀬で石炭が発見された。

1890年に三菱が端島炭鉱を購入。
ここからが、本格的な炭鉱開発がなされ、護岸工事をして埋め立て、居住面積を拡大していった。

採炭事業及び鉱員などの従業員の生活とを効率的に結びつけるために、
狭い島を、当時の最先端技術を使い、高度利用することになる。

1916年(大正5年) 鉄筋コンクリート造り7階建ての鉱員社宅を建築。

これは日本初の高層住宅であった。
関東大震災後に原宿に建設された“同潤会青山アパート”は、
遅れること、1927年(大正16年)の建設であり、“端島”に先端技術が投下されていた状況がわかる。
なお、“同潤会青山アパート”はすでに取り壊され、安藤忠雄氏の設計により
2006年2月11日 表参道ヒルズとして生まれ変わった。

5階以上の鉄筋コンクリート造り建物は、閉山までに18棟建てられており、
狭い島に林立していた。

海上からこの姿を見ると、軍艦そっくりであり、“軍艦島”という別名が付いたが、
命名者は、1923年(大正12年)の長崎新聞のようだ。

日本のお家芸である“ものづくり”。
このエッセンスの一つとして、“小型化高性能”というコンセプトがある。

これまでの既存機能・商品を、小さくしてさらに機能・性能アップということだが
テレビ、電話、車、住宅まで世帯商品から個人商品になり市場・需要を創造してきた
要因の一つでもある。

“端島”は、“軍艦島”となることで、
三菱が購入した1890年から1974年の閉山までの、
わずか84年間をハイスピードで駆け抜けていった。

そこには、“小型化高性能”という技術が駆使されてきたが、
エネルギーの元である動力源が、ゼロサムで切り替わったために
いまは、廃墟となっている。

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近代遺跡探検 軍艦島①

2007-08-31 10:21:31 | 近代遺跡
“お役ごめん”をいろいろな言い方がある。
退役(役割を退く)、退職(職を退く)、退社(会社を辞める)・・・・・

1974年からお役ごめんとなり、これを契機に人々から見捨てられたところがある。
かつては、日本経済成長の原動力であり、先端技術が集積したところでもある。
繁栄しているところには人も集まり、面積あたりでは日本一の人口集積密度をも誇った。

1974年1月15日 クローズ。
ここから、居住者人口ゼロとなった。
そしていまは、廃墟となっている。


1974年という年は、第1次オイルショックの年であり、
産業・生活そのものの基盤が、石炭から石油に完全にシフトしていた。
その石油が手に入らない、手にいれるには大幅な値上げに応じなければならない
という異常事態が起きた年だ。

狂乱物価・超インフレ・景気の減速・戦後初のマイナス成長・高度成長の終焉
買いだめ・モノ不足・テレビの深夜放送の中止・ガソリンスタンドの日曜休業・・・・・

成長という右肩上がりが、戦後初めて否定された年でもあった。
それだけ、1974年までには石油依存度が高く、
日本の産業・我々の生活は、中東からの石油中毒症状になっていた。

現実により希望が幻想だったことが証明された同時期に、
炭鉱が消えていった。




(出典:地図はGoogle Earthより)

長崎港から長崎汽船の船に乗って南西方面に約36分乗ると、高島に到着する。
高島は、人口778人(2005年1月)と日本でも人口の少ない町だ。
この町に、人口ゼロの“端島”がある。
“端島”は、高島の海岸から目で見える距離にあるが、上陸禁止の島だ。

高島から見える“端島”は、切り立った大型船のへさきからともまでの横顔が見られる。

“端島”は、別名“軍艦島”という。

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散歩コースにある“近世の遺跡” 高梨家のミュージアム

2007-08-30 11:58:31 | 近代遺跡
散歩コースの途上に“上花輪歴史館”という古い建物と庭園がある。
現在は改修のため閉鎖中で、3年後の4月にならないとオープンされない。





オープンになったら改めて野田としょうゆの歴史について探索をしたいが、
“近代遺跡”とは何ぞやというところで今回は展開したい。

その前に、“上花輪歴史館”について最小限度の紹介をすると、
この建物は、野田しょうゆの出発点である高梨本家の建物であり、
いまでは、国指定名勝となって保存されている。
個人宅がきちんと保存され国指定名勝となるのは稀有のようだ。

この建物を説明するには、
しょうゆの歴史について触れなければならないが、
詳しくは、キッコーマンのしょうゆ博物館をご覧いただきたい。

野田しょうゆの今日の原型は、
1661年 高梨家がしょうゆの醸造を現在の上花輪で始め、
約100年後に茂木家でもしょうゆ醸造を始めた、
江戸時代にしょうゆの産業地 野田が形成されたということのようだ。

その後、1917年(大正6年) 茂木・高梨・堀切家などが合併し、
現在のキッコーマンの前身である、野田醤油株式会社が発足し今日に至っている。

高梨家では、徳川光圀が大日本史編纂した江戸時代あたりにしょうゆ醸造を始め、
1917年に野田醤油(株)として合併するまでしょうゆ醸造を行ってきており、
約250年の歴史がある。

なぜ野田がしょうゆの産業地として発展したかといえば、
江戸時代の産業構造と直結していたと言える。

一般的には次のような説明になる
①大江戸100万人の消費地を後背地に控える。
②そこまでの輸送手段は、川船であり、大量の物資を江戸まで3~4時間程度で輸送できる。
(当時としては相当なスピード)
③しょうゆの原材料である、大豆・小麦は、霞ヶ浦周辺の常陸(ひたち)、千葉県中南部の下総(しもふさ)、
塩は当初は行徳など、江戸川・利根川を利用し輸送に便利。
④ここまでをまとめると、野田は、江戸川、利根川に挟まれた中州のような地形であり、
しょうゆの生産・流通・消費ともに当時としては最高にちかい地の利があった。
⑤加えて、江戸初期のしょうゆは、“くだりしょうゆ”と呼ばれる上方からのもので、
地場で作られるしょうゆの倍以上と高価だった。
品質の向上とともに、“くだりしょうゆ”を駆逐(くちく)していくという、
価格競争力が働き、江戸、日本、そして世界へと市場を拡大していく。


さて、
“近代”以前・以後を区分けする見方として、“蒸気機関”の存在がある。

1769年 ジェームズ・ワット(James Watt)が、新方式の蒸気機関を開発した。
それまでは、石炭を掘ると水が湧いてくるが、この水を人力・馬の力(馬力)を使って坑道から排出していた。
石炭を燃料とする蒸気機関が開発され、馬力の飼料代より安価であったことが
蒸気機関の普及を促進し、ご存知の通りの産業革命へと歴史が進行した。

ちなみに、茂木家が味噌醸造からしょうゆ醸造に転じたのが1766年であり、
ジェームズ・ワットが蒸気機関を開発した時期に重なる。
江戸幕府の鎖国政策が、野田のしょうゆ産業を結果としてバックアップしたとも言える。

野田には、“蒸気機関”以前の産業構造が、遺跡・ミュージアムとして保存されており、
高梨・茂木家などの保存の努力はたたえられるものである。

しかしながら
“蒸気機関”以後の産業は、生産設備を始め、流通・消費・生活まで激変させたが
これらが保存されているとは言いがたい。

特に、九州には、日本の歴史の曙が神話の時代から存在するようで、
“近代遺跡=蒸気機関が変えた産業・社会装置の遺物”に限っても貴重なものがある。

“近代遺跡”は、保存・保護する価値が見出されず
存在しているものは、効率が悪く、再活用がなく、忘れられた存在として
「廃墟」となっている。

最近、朝日新聞でも“近代遺跡”が取り上げられたりしたが、
1980年代後半に行った“近代遺跡発見の旅”を、資料を探して残しておきたい。


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左甚五郎の作品といわれる「薬医門(やくいもん)」

2007-08-10 07:07:45 | 近代遺跡
旧花野井家の住宅は、流山にあったものを寄贈により現在地(野田市清水公園)に移転させたが、
この入り口にある門も同じ運命にある保存物のようだ。



この門は、
日光東照宮帰りの左甚五郎が、上原家に寄宿し、その際に一夜で造った門だそうだ。

門構えから“薬医門”と呼ばれており、上原家からの寄贈でもある。

まず、“薬医門”だが、
構造は、前方2本の太い柱、後方2本の細い柱で屋根を支え、頑丈な造りとなっている。
名前のいわれは、“矢食い(やぐい)”つまり、矢の攻撃を防ぐ門からきたとも言われる。
或いは、医者の門として使われたことからいわれるが真偽はわからない。

左甚五郎が一夜で造った門に関しても、左甚五郎が実在していたか、
或いは、腕のよい職人集団で左甚五郎を名乗っていたか真偽は定かでない。

伝説では、左甚五郎は、日光東照宮の“眠り猫”を作った腕のいい彫刻職人だが、
全国であまりにも多くの作品があり、生没が定かでないことから実在が定かではない。

上原家の薬医門。
左甚五郎でなくとも一夜にして作るには大変な代物ではあるが、
日光街道の途上にある野田ならではの歴史ロマンでもある。

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中世からの語りかけ「旧花野井家の住宅」

2007-08-09 06:56:58 | 近代遺跡
野田市にある清水公園には、17世紀後半のものと推定される古民家が、
国指定の重要文化財として保存・展示されている。

この古民家の旧住人は、花野井家。

江戸時代幕府直轄の牧場を管理する仕事を“牧士(もくし)”というが、
花野井家は代々が小金牧(こがねまき)の牧士を勤めていた。

いまの時代“牧士(もくし)”という職業が何たるかわかりにくいが、
小金牧は、現在の野田市から習志野市までの広大なスペースを有し、
5000頭以上もの放し飼いの馬を育てていたようだ。
近代になり蒸気機関が発明されるまで、馬力は重要な戦略商品であり、
“牧士(もくし)”という職業の重要性が理解できる。

花野井家の住宅は、東関東古民家の典型だそうで、
間口15.451メートル 奥行9.108メートル 平面積142.68㎡というから、
現代においてもさして大きくない住宅サイズだ。



間取りは、現代風に言うと4LDK+土間になる。
囲炉裏を中心にした板張りのリビング(広間)を中心とした生活スタイルで、
このリビングが家のセンターにある。
このリビングを取り囲むように、左手に土間とキッチンである台所かまどがあり、
右手に居室がある。

土間部分は、上下に分かれ、下手の入り口部分が農耕器具など生産にかかわる道具がおかれ、
上手は、かまど3つが置かれ台所となっている。

かやぶき屋根のため、かまど・炉辺の煙は重要な役割があり、煙で薫蒸(殺菌・殺虫)している。
今でも、かやぶき屋根を維持するために時々かまどをたいて煙を出しているそうだ。

土間とリビングルームとは、腰掛の高さぐらいの段差があり、嫁・姑にはつらい段差だったであろう。
土間で食する風習を何故作らなかったのだろうか疑問でもある。
きっと女性の意見を取り入れることなく、
囲炉裏に座って待っている男の目線しかなかったのだろう。

食生活での欠点はあるが、
囲炉裏を中心としたリビングが生活の中心であり、
食・暖・談に関して家族、一家という共同体の結束は固そうだ。

現在の住宅は、玄関から自室に家族の目に触れずにいける構造が多いが、
花野井家のシンプルな構造から学ぶことがありそうだ。





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キッコーマン御用蔵 散歩コースの近代遺跡探索①

2007-08-08 06:34:39 | 近代遺跡
江戸川沿いに遊歩道がある。

ここは、いつもの散歩コースの一つであり、
この遊歩道は、休日ともなると、ジョギング・マラソン・自転車ロードなどで
汗を流す人々で賑わう。

河口から37㌔にある野田橋付近に、
白い壁、黒色の屋根瓦、池にかかった朱色の橋、池で泳ぐ白鳥2羽といった
絵に描いたような典型的なお城みたいな建物がある。




この建物は、キッコーマンの御用蔵と呼ばれている。

皇室御用達のしょうゆを製造し保管しておくための工場で、江戸城を模したものといわれており、
この御用蔵は1939年に完成し今日に至っている。

キッコーマンの前身である野田醤油株式会社は、1917年(大正6年)の設立であり、
22年後には、皇室御用達の醸造所を作ったことになる。

この御用蔵は、今では観光資源として価値がありそうだが、
行列を作ってヒトが群れていることはなく、ひっそりとたたづんでいる。

やはり、単独で観光資源として成立させることは難しい。
ゾーンとしての開発が望まれる。
そこで、散歩コースに従って観光資源探索をしてみる。

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江戸下町風景 神田明神下⇒神田明神⇒聖橋

2007-06-22 01:04:03 | 近代遺跡
神田明神下といえば銭形平次が住んでいる長屋があるところであり、
銭形平次が投げた銭は寛永通宝だった。


この銭は、幕末まで造られたポピュラーなもので、それまでは、永楽通宝など外国製の貨幣が流通していたが、
寛永通宝がこれらを駆逐したというから如何に大量に作られたかがわかる。

だからこそ惜しげもなく投げ銭が出来たのだろう。

銭形平次捕り物帳は、野村湖堂の作品だが、あたかも史実であるがごとくイメージされるのは、
小判を投げ銭として使うとリアリティがないが、寛永通宝ならばありえる。
というディテールを押さえているところにもありそうだ。

ちなみに現在の古銭としての売買価値は、製造年代で異なるが100円程度からとなる。

地下鉄千代田線湯島駅を下車し、この神田明神下界隈を夕方に散策した。

だいぶさびれたかもわからないが、“神田明神下”はやはり魅力があり、
入ってみたい店がいくつかあった。


神田明神下 左々舎(ささや)
神田神保町を中心とした界隈は、出版社が集中しており、作家などがカンズメにされた
山の上ホテルとか、憂さを晴らした飲み屋などが現存するが、

この左々舎も作家など出版関係者が多いらしい。

しかし今日は、神田錦町のいつものバーで待ち合わせをしているので、後日探検をすることにした。

神田明神下から坂を上がっていくと、神田明神がある。
神田明神に関しては、別途書いてみたいので、本日はこれまで。



神田明神を抜けると聖橋に至る。
聖橋周辺は、地下鉄丸の内線、JR中央線、総武線がクロスし、
神田川の開けた都市空間の先に、秋葉原のネオンがきらめいている。
時間は、19時を過ぎたあたりでトワイライトゾーンのエンドにあたるが、
昼と夜の境目であるこの時間帯は、都市を魔力的に魅了する瞬間がある。



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