モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ときめきの植物雑学 その9 :『植物と社会との出会い』① パースペクティブ

2007-12-27 22:51:24 | ときめきの植物雑学ノート
その9 :『植物と社会との出会い』① パースペクティブ

ヒトにとって重要なものは活用され、石・粘土・紙等の何らかのメディアに“記録”される。
植物は、Herb・本草・食料など様々な言い方があるが、
“ヒトに役立つ雑草”がヒトの歴史の中で
どのような出会いと記録があったかを追いかけてみようとしている。
植物と人間の出会いに、ヒト社会の考え方の変遷があるはずで
農閑期のテーマとしてアプローチしている。

その1~その3では、1600年頃の絵画という切り口でこれを見た。
その4~その8では、大航海時代のアメリカ大陸原産のジャガイモ・サツマイモが
世界に伝わっていくプロセスを追いかけてみた。
これからしばらくは、“植物学”に至る科学という切り口から
「植物と社会の出会い」をのぞいてみることにする。

16世紀から17世紀は、歴史的なターニングポイント期であったようだ。

前の時代である中世は、
政治・経済よりも宗教が上位にあったがために、
いまでは考えられないロジックでモノゴトが決まり、動いていた。

この時代の西欧の科学は停滞しており、
ギリシャ・ローマの文化を引継ぎ育てたのは、イスラムの世界であった。
しかも、インドから導入した数字(のちにアラビヤ数字)・ゼロの概念・十進法を
イスラムが発展させた代数学・幾何学は
西欧社会の近代科学を芽生えさせる土台となった。

16世紀・17世紀は
ベーコン(英・1561-1626)、デカルト(仏・1596-1650)の科学的な思考方法を基礎に、
物理・数学・化学・医学そして、私のテーマでもある植物学などの自然科学が
科学として確立していく“科学革命”が進んだ時代でもあった。

科学が未来を照らす“光”とすると、
未来を予測できない不安が闇を作り、“差別”“蔑視”“排除”などに“暴力”が結びつき
ユダヤ人、ハンセン病患者、ジプシーなどが差別を受け、排除される危害を受けた。
“魔女狩り”は、中世末期に始まり18世紀に終わったが、
ピーク期がなんと、16世紀、17世紀であるから驚きだ。

近代科学が誕生するその時期に、ぬぐいきれない汚辱が同時進行していた。
変革期につきもののようであるが、
変革の山が高ければ高いほど、闇の谷は深く、人間の英知という光が届かない。

別立てテーマで触れることになると思うが、
“魔女”の中には、ハーブと薬効を熟知していた、今でいうとナチュラリストもいたようだ。
差別された階層で“知りすぎている”ことは、差別している暗愚な階層にとって
面白いはずがない。

科学と非科学が同時期に進行した16~17世紀。
それは、ルネッサンス・大航海時代が用意した舞台でもあるようだ。
大航海時代がもたらした珍しいものを集積する『植物園』が出来たのもこの時代だ。


ナチュラリストの流れ
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国


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ときめきの植物雑学 その8 :サツマイモの伝播④

2007-12-25 08:48:29 | ときめきの植物雑学ノート
その8 :サツマイモの伝播には、人類大移動のロマンがある

コロンブスの時代の天文学者で、地球は丸いと唱えたパオロ・トスカネリ((1397~1482)が、
地球の直径とアジアの経度の計算を間違っていたため、
コロンブスは、インドに到着したと信じて疑わなかったようだ。
迷惑なのは、アメリカの原住民だ。
インドのヒトなので、インディオ或いはインディアンと呼ばれ、
新大陸だということがわかっても修正されることがなかった。

しかし、このインディオの祖先は、アジア居住のモンゴロイドだった。
コロンブスは誤解していたが、結果的にはいいとこを突いていたようだ。

ベーリング海峡を陸路で越えたモンゴロイド
5~6万年前に、
アジアとアメリカ大陸とを結ぶベーリング海峡を越えたモンゴロイドが
アンデス地帯にたどり着いたのは、紀元前8000年頃といわれている。
紀元前2500年頃から農業がはじまり、紀元前1200頃には土器がつられ、
トウモロコシ栽培が始まった。

太平洋をカヌーで超えたモンゴロイド
一方、いまから5万年前頃、東南アジアから太平洋に乗り出した人々がおり、
ニューギニア高地人、オーストラリアのアポリジニなどの先祖に当たる。
この時期は、氷河期の後半にあたり、アジア大陸から新天地への民族大移動があったとも言える。

さらに、いまから5000~7000年前に、
アジア南部・中国南部・台湾あたりから海を渡った人々がおり、
ニューカレドニアの北側にあるビスマルク諸島・ソロモン諸島・フィジー・トンガ
サモアなどの南太平洋諸島に移り住んだ。
この人々はラピタ土器といわれる美しい文様の土器とアウトリガーカヌーといわれる
カヌー本体の片側或いは両側に浮きをつけ安定性をましたカヌーを発明し、
東はペルーに近いイースター島、西はビスマルク諸島、北はハワイ、
南はニュージランドまでの広い地域に移動・定住・混血を繰り返した。
彼らは、海のモンゴロイドともいえ、
共通の言語(オーストロネシア語)、高度の造船・航海術、美しい文様の土器、
食料となる樹木・根茎類を持って移動した。

南アメリカ大陸で出会ったモンゴロイド
陸路でベーリング海峡を渡っていったモンゴロイド。
海から島伝いに南太平洋一帯の島々に渡って行った海のモンゴロイド。
彼らは、アンデス山脈の裾野で交わり、
海のモンゴロイドが、サツマイモを南太平洋の島々に持って帰った。

という説がかつては“ひょっとしたら”という歴史ロマンであったが、
最近では科学的に有力な説になっているようだ。
航海技術があれば、フンボルト寒流を乗り切って戻ることが可能だからというだけでなく、
3500年前の南米インディオのミイラから、氷河をわたってきた人間ではありえない、
暖かい温度でしか生きられない寄生虫の卵が見つかり
ベーリング海峡を超えてやってきたモンゴロイド以外に
海からやってきたモンゴロイドがいるということのリアリティが高まっている。


(地図出典) http://www.yashinomi.to/semi/yashidai1_04.html
『ポリネシア考古学一 ハワイ人のルーツを探る 』篠遠喜彦(しのとうよしひこ)

食べ物を調理・加工・貯蔵保存するために土器が生み出され、
実用に美を加味した美しいラピタ土器を持っていた海のモンゴロイドは、
サツマイモなどのイモ類を手にいれることにより、
土器というものを使う文化を必要としなくなった。
というのも面白い。
縮小再生産的で企業人には支持されそうもないが、
“必要ないものはいらない”ということでの価値連鎖の再構築は
地球環境に負荷を与えない発想ともなる。
きっと、“ラピタ文化”が地球を救うのではないだろうか!

植物が生活の中心にある
また、人類の大移動は、飢餓という現実に直面し、
これを乗り越える高度な文明と最低限しか持っていけないミニマルな選択が欠かせず、
生存に直結する食料(動植物・種)がその中心とならざるを得ない。
ということが確認できた。
つまり、どんなときでも、植物が生活の中心にあるのだ。
ということだろう。

アメリカ大陸が原産のジャガイモ・トウモロコシ・トマト・かぼちゃ・パイナップル
イチゴ・チョコレート・とうがらしなど、これらがなかったら今日の我々の食事が
つまらないものになりそうだ。
これらの作物は、産業革命以降の西欧型社会の生存を支えてきたといっても過言ではない。
一方、アメリカ大陸原産のサツマイモ・ヤム芋などは、
どちらかといえば非西欧型社会に定着し、この生き方をもっと学ぶ必要がありそうなこともわかった。

最大のわき道にそれるが、
日本人のルーツは、どうもラピタ文化を持っていた人々とは、
無縁でもなさそうだ。
だとすると、我々の遺伝子の中には、今使っていないこの楽観的で、アドベンチャーで
多くを望まない洋々たるアイランドスピリッツ(島国根性)がありそうだ。

これまでの雑学ノート
 
その1:花卉画(かきが)の誕生

その2 : 花の値段

その3: 17世紀の絵画の値段

その4:世界を変えたジャガイモの物語

その5 :サツマイモの伝播①

その6 :サツマイモの伝播②
サツマイモ>ジャガイモ Way? ⇒ サツマイモは媚薬と信じられていた


その7 :サツマイモの伝播③
ペルー沖から102日の漂流で南の島に!



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冬至のかぼちゃ料理

2007-12-24 10:02:28 | 男の料理



12月22日は冬至。
Βカロチンが豊富なかぼちゃは風邪に効き、冬を乗り切るための食慣習として
“冬至の日はかぼちゃ料理”という連関が定着しつつあるが

『ん』の付くものを食べると幸運に恵まれるという言い伝えがあり、
なんきんかぼちゃ、レンコン、ニンジン、ぎんなんなど
『ん』が2つ付くくせのある旬の野菜を食べろということだろう。

かぼちゃ、レンコン、ニンジンなど子供に好かれそうではなく、
先々消えていく食材の路線を進んでいる感がある。

でも、身体にいいものが一杯ある食材であり、生き延びてほしいものだ。

かぼちゃの煮込みといえば、煮物になってしまうが、
おばあちゃんのお茶請けにでもしないと食べきれない。
煮物はやめて、南欧プロヴァンスのラタトゥイユとすることにした。

相方に、セロリ、赤・黄ピーマン、ズッキーニ、ニンジンをいれ、
『ん』が2個もはいった大幸運を呼ぶ野菜の煮込みとなった。

これら素材の味を引き出すために、調味料は、バジルと塩だけ。

にんじんは甘みが出、ピーマンは肉厚のところがジューシーになり、
セロリはシャキシャキとした苦味、ズッキーニがこの苦味を中和する。
そして、かぼちゃがこれらを強烈に包み、甘さと独特のエグさで刺激する。

少量の塩は、素材の味を引き出す。
ほんのちょっとのバジルが、料理に仕上げる。

材料(4人分)
鳥もも肉          500g
かぼちゃ          1/4
ジャンボピーマン(黄)     1個
赤ピーマン         5個
セロリ           2本
ニンジン          1本
ズッキーニ         2本
バジル           小さじ1杯
塩             小さじ1杯
水             400cc
A:つけ汁
しょうゆ          大さじ1杯
酒             大さじ1杯
みりん           大さじ1杯

作り方
1.鶏肉は皮・筋を取り一口大に切る。これをしょうゆ、酒、みりんをあわせたつけ汁につけておく。
2.野菜は、一口大に全てきる。
3.かぼちゃは、煮崩れしやすいので、電子レンジでくしがとおる程度にチンする。
4.ニンジン、セロリ、ピーマン、ズッキーニなどの野菜をフライパンで炒める。かるく油がとおったら鍋に移す。
5.鶏肉を炒め、別の器に取っておく。
6.野菜に水400ccと、塩・バジルを入れ10分中火で煮込む。
7.10分たったら、鶏肉とかぼちゃを入れ、5分中火で煮込む。
8.味を見て、塩・黒コショウで整える。(多分必要ないと思いますが・・・)

※ 野菜スープでないので、水を多くしない。
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ときめきの植物雑学 その7 :サツマイモの伝播③

2007-12-23 09:45:45 | ときめきの植物雑学ノート
その7 :ペルー沖から102日の漂流で南の島に!

サツマイモは、紀元前3000年頃には、メキシコを中心とした熱帯アメリカで幅広く栽培されており、
紀元前1000年頃に南太平洋諸島にあった。
コロンブスがアメリカ大陸を発見する2492年も前に、南太平洋諸島にあったことになる。

”あった”という言い方には、
1、もともと存在していた。
2、原産地から誰かが持ってきた。(伝播した)
3、原産地に南太平洋諸島の誰かがとりに行った。
という3つの意味があり、
これらを検証してきた知見があるのでこの確認から始めよう。

1の“もともと存在していた”ということであれば、
原産地とほぼ同じ紀元前3000年頃に南太平洋諸島に存在しているはずなので、
最初に否定される。

2の“原産地から誰かが持ってきた”に関しては、
南アメリカ大陸から南太平洋諸島までの大海原を渡れるかどうかを確認・実証する必要があるが、
ノルウェーの海洋生物学者で探検家のトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl,1914-2002年)が、
1947年に、ペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島までの8千kmを
コンティキ号と名づけられたインカ帝国時代の造りを模した筏(いかだ)で
漂流航海実験を行い、102日後に漂流・到着し成功した。
この実験により、
ペルーから南太平洋ポリネシアへの移動が技術的に可能であることが証明された。

しかしながら、南アメリカ大陸の太平洋側には、
フンボルト海流という強い寒流が流れており、風上に向かって航海できない筏では、
このフンボルト海流を乗り越えることが出来ない。
実際、漂流実験をしたコンティキ号は、軍艦に曳航されフンボルト海流を越えてから実験をスタートしており、
南米大陸の住民が、南太平洋までサツマイモを持っていくのは難しそうだ。

そうなると、
南太平洋諸島に居住している人間が、紀元前1000年も以上前に、
大航海をしていたということになり、
南アメリカ大陸の植物を持ち帰り、その中で、サツマイモだけが生き残った。
ということになりそうだ。

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困った時の神頼みの一品 『豚肉ときのこのソティー季節野菜添え』

2007-12-21 09:07:54 | 男の料理
メニューを考えることが出来ない時がある。

よくあるケースは、
金曜日に飲みすぎた時の土曜日の晩御飯のメニュー。

頭がまわらず、胃袋が欲しがらず、
手の内にあるレシピカタログを眺めれども見えず。
どうしようもない状態に本人はなってますが、

家族の期待値があるので、
手を抜きたくもなし、店屋物に頭を下げるのも嫌で、・・・・

こんな時のメニューを一つだけ持っている。
まあ~長年の経験が生み出した技でしょうか?
味のミスがないので味覚が狂っていても大丈夫。という優れものです。

豚肉ときのこのソティ&季節の野菜(ほうれん草の胡麻和え添え)


簡単・手早く・食材の味を引き出すので狂いがありません。
調理方法で重要なのは、
豚肉を包丁の背で十分にたたき筋を切りやわらかくする。
ここに、塩・こしょうをふり、出来れば30分寝かせる。
これだけです。

後は、焼くだけ。
豚肉は、油をひいたフライパンで、蓋をし、片面を焦げ目が出るまで焼き、蓋を取って裏返してもう片面も火が通る程度に焼きます。
焼きあがったら、ちょっとしょうゆをたらして香りが出たら出来上がりです。

このフライパンで、バターをひとかけ入れ、バターライスをちょっと作るとGoodです。

きのこ類のソティーは、
仕上げでオイスターソースとしょうゆを使うとしゃれた味になります。

手を加える必要がなく、味も失敗しない、便利なメニューです。
多用すると飽きるので、手持ちのメニュー開発でしょうか・・・・


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ときめきの植物雑学 その6 :サツマイモの伝播②

2007-12-20 08:38:03 | ときめきの植物雑学ノート
その6 :サツマイモ>ジャガイモ Way? ⇒ サツマイモは媚薬と信じられていた

コロンブスがカリブから戻る時に、サツマイモをスペインにもって帰った。
これ以降のスペイン船は、船倉にびっしりサツマイモを積んで戻ったそうだから、
ジャガイモとは歓迎のされ方に雲泥の差があった。

しかも、
スペインのフェルナンド王とイサベラ女王は、サツマイモ大好きときているから
上流階級に入らないわけがない。
また、宮廷の庭園でも栽培したというので、サツマイモのパトロンは明確に出来上がった。

また、普及活動も行った。
娘婿のイングランドのヘンリー8世に奨めたところ、サツマイモ大好きになったという。
甘くておいしいだけでなく、 “媚薬”効果があるというところが気に入られたようだ。
ヘンリー8世の宮廷では、サツマイモを土台に砂糖をこってり使った嗜好品がブームとなり、
1680年代まで宮廷ファッションとして続いたようだ。

サツマイモは、高価で“媚薬”神話があり、
サツマイモは金持ちの食べ物、ジャガイモは貧乏人の食べ物。
そういうイメージがスペインで出来てしまった。

いまでは、サツマイモに“媚薬”効果があると信じるヒトはいないと思うが、
不老長寿と並び、最後の金の無駄な使い道という点では、
昔も今も変わっていないようだ。

実際の成分では、
糖質、ビタミンC、食物繊維が極めて多く、腸内環境を快適にする食材であり、
皮ごと食べるとガスを発生させにくくするので、これがお奨めです。

このサツマイモが紀元前1000年頃に、南太平洋諸島にあった。
どうして?
これが次回のテーマです。
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ときめきの植物雑学 その5 :サツマイモの伝播①

2007-12-19 09:23:23 | ときめきの植物雑学ノート
その5 :サツマイモの伝播①

サツマイモは、ジャガイモ同様にアメリカ大陸で広く栽培されており、
1492年にコロンブスが新大陸を発見した際に、
栽培地域が限られていたジャガイモを除くと、主要作物にはほとんど接触していたようだ。
そして、ジャガイモ同様にヨーロッパに渡り、日本に伝播してきたと思いたいが、
どうも違うようで、そこにはミステリーと歴史ロマンがある。

まず、サツマイモのルーツから確認しよう。
サツマイモは、紀元前3000年頃には、メキシコを中心とした熱帯アメリカで幅広く栽培されており、
寒冷地でのジャガイモ、温暖なところでのサツマイモという違いはあるが、
主要作物として定着していた。

カリブ人はタイノー語で“パタタス”と呼んでおり、英語ではこれを“ポテト”と呼び、
コロンブスがスペインに持ち帰り、ヨーロッパに伝播した。

わき道にそれるが、別途草本関係に関しては書く予定ですが・・・・
イギリスの著名は草本家であるジョン・ジェラード(1545 ―1611)が
ジャガイモとサツマイモを、著名な本で間違って記載したため、
“ポテト”とはサツマイモで、ジャガイモは“ヴァージニアのポテト”となってしまった。

紀元前1000年頃には、南太平洋の島々に伝播しており、
日本への伝播も、南太平洋経由ではいる可能性がある。

日本人のルーツに関しても、南太平洋から、大陸からなど様々あるが
ジャガイモにはなかった伝播のミステリーがありそうだ。
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瓶だし紹興酒を中心としたアレンジコース 神田神保町SANKOUEN(サンコウエン)

2007-12-18 10:54:33 | グルメ

瓶だし紹興酒がうまい店が神田神保町すずらん通り沿いにある。

中華料理店だが、「SANKOUEN」となると単なる中華料理店ではない。
西洋料理の経験があるシェフがいるのではないかと思えるほど、
横浜中華街では味わえない味がある。

1階入り口を入って左手にウエイティングバーを兼ねたカウンターがあるが、
このカウンターの左端がお気に入りの席で、
目の前に、瓶だし紹興酒の“瓶”がある。

これを眺めながら、
ロック、熱燗などもいいが、常温で飲むのが一番味がわかってうまい。

この日のメニューだが、
白菜のクリームソース煮が食べたかったので、
また、自分でもつくりたいのでその参考もかねて
近いメニューがあったが、無理をお願いしてつくってもらった。

この1品が決まると、
瓶だし紹興酒に合う1品を選ぶことになり、地鶏の季節野菜炒めをお願いした。
最後の仕上げは、当然チャーシューメンのチャーシュー抜きネギソバとした。


白菜のクリームソース煮


   地鶏の季節野菜炒め


白菜のクリームソース煮は、とても中華とは思えない味で、
1cmぐらいの短冊に切られた白菜がシャキッとクリームソースとからまり、
おいしくいただけた。
古本屋さんをうろうろして冷えた身体を温める最適な一品だった。
う~む。
これを再現するのは厄介だな。ドロットせずにサラリと仕上げるのは・・・

身体が温まり、エンジンが廻り始めたので、
瓶だし紹興酒を1杯だけ飲むことにした。もちろん常温で。

口に含むと、多少とろみがあるスッキリした甘さが舌をうち、
飲み干すと、くどい後味が残らない。
アルコールというものを飲んでいるのだ、ということを意識させないので
水ではないが、水みたいな気分にさせる。

かって、グラスが面倒になり、デキャンタで頼み、相当飲んだことがあるが、
同量の日本酒を飲んだ場合は、翌日完全に使い物にならないこと間違いないが、
瓶だし紹興酒の場合は、そうならなかった記憶がある。

水みたいな気分とは、こんな経験からもきている。

地鶏というだけに固めの鶏肉が、野菜・きのこなどとからまり、
紹興酒の味を消してしまう。

仕上げのチャーシュー抜きネギソバは、
胃にやさしい上品なスープと細めんがマッチし、結構な本日のコースでした。

神田神保町には、中華のいい店がまだある。

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ときめきの植物雑学 その4 :世界を変えたジャガイモ

2007-12-17 09:34:10 | ときめきの植物雑学ノート
その4:世界を変えたジャガイモの物語

大航海時代は、新世界の珍しいものがヨーロッパに、
そして、オランダを通じて日本にも入ってきた。
今日、食卓或いは外食の中心を占めている食材がアメリカ大陸から入ってきた。
ジャガイモ、トウモロコシ、サツマイモ、トマト、唐辛子、インゲン豆、ピーナッツ、
かぼちゃ、パイナップル、カカオなどなどである。
これらがなかったら、今の食事はとてもつまらなく、どうなったのだろうかと思わざるを得ない。

全ての始まりは、ここから始まる。
1492年 スペイン王室の支援を受けたコロンブスがカリブ諸島に到達。
1519年 スペイン人エルナン・コルテスがメキシコのアステカ帝国の首都テノティトランに到着。
1532年 スペイン人フランシスコ・ピサロがインカ帝国の首都クスコに到着。

大航海時代は、新世界の動物・植物・鉱物など珍しいものが、
ヨーロッパに伝わり、普及していくことになるが、
このうち、珍しい植物に絞って、その伝播と普及の過程を見ることにより
人々・社会に及ぼした影響を確認してみようと思う。
最初は、世界の食卓を変え、ジョン・F・ケネディ大統領等を生み出したといっても良い
ジャガイモの物語でもある。

1532年 スペイン人フランシスコ・ピサロがペルーを侵略し、
皇帝アタワルパを拉致・処刑し、インカ帝国は崩壊した。
スペイン人は、黄金を略奪したが、地下に息づく黄金には気づくのが遅れた。

アンデス山脈とその周辺地域には、紀元前1000年頃には、
ペルーの海岸周辺とアンデス山脈山間の高原に都市が建設され、高度な文明が発達していた。
この文明を支えたのが、ジャガイモとトウモロコシであり、
ジャガイモ・トウモロコシは世界をも変えることになる。

ジャガイモは、“塊茎(かいけい)”といわれる地下に入った茎(くき)の部分に栄養分が蓄積されるが、
1500年代のヨーロッパでは、ニンジンなどの根菜(こんさい)は知っているが、
ジャガイモのような植物の知識がなかった。
だから、フランシスコ・ピサロは、ジャガイモを“味の良いトリュフ”といっていた。

この“味の良いトリュフ=ジャガイモ”は、
スペイン人によってヨーロッパに伝えられ、
1576年にスペインに、1586年頃にはイギリスに伝わり、
日本には、1600年ごろにオランダ船によりジャカルタ港より運ばれた。

ジャガイモは、遅くとも紀元前7000年頃には栽培されていたようであり、
8500年もの間アンデス山脈の山麓の地下にいたジャガイモは、
わずか30年であっという間にヨーロッパに広まり、
オランダの海外進出にあわせてアジア、日本にも広まった。

アンデスの涼しい昼、凍てつく夜にもかかわらず良く育つジャガイモは、
悪環境でも育つ生存能力の高さ、小麦・トウモロコシなどよりも、耕作地単位あたりの収穫量の多さ、
ビタミン・でんぷんを大量に含む栄養価の高さなどの優れた能力がすぐには評価されなかった。
むしろ、ゴツゴツした不気味な地下茎は病気の原因ととして恐れられた時期があった。

北ヨーロッパの国々がジャガイモを主食にするようになったのは、18世紀になってからで、
飢饉がジャガイモの決定的な優位性を明確にした。
地上に出来る穀物が耐えられない気候条件でも、地下茎のジャガイモは、影響を受けず収穫が出来た。
このジャガイモと親密な付き合いを持ったのがアイルランドの人々だ。

湿度の多い涼しい気候のアイルランドには、17世紀の中頃には定着し、
18世紀の末ごろには、一人当たり一日2キロ以上のジャガイモを食べられるようになった。
この栄養のある食料が安定的に供給されるようになり、アイルランドの人口が増加した。
ジャガイモが入ってきたあたりの1584年のこの国の人口は、320万人であり、
1841年には800万人までに増加した。

しかし、1845年~1849年の4年間にわたり、
ヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が発生し壊滅的な被害を受けた。
アイルランドでは、大飢饉となり、
1851年に実施された調査では、アイルランドの人口は655万人となり、
145万人が亡くなったと推計されている。
食べれないところでは生きていけないので、この大飢饉を契機として人口の大移動が始まり、
200万人ものアイルランド人がアメリカ、オーストラリア、カナダ等の新天地に移住した。

アイルランドの小話に、「仕事がなくなったらアメリカに行って大統領でもやるか」
というものがある。
ケネディ、ニクソン、レーガン、ジェファーソン、クリントンは、アイリッシュ系で
ジャガイモが大統領にしたといっても良い。

フランシスコ・ピサロ一行は、インカ帝国の黄金に目がくらみ
地下に隠れている“黄金=ジャガイモ”の価値には気づかなかったようだ。

3000㍍もの酸素が薄いところで、
昼は10℃、夜は-10℃という寒暖の格差があり、
決して肥沃とはいえないような畑で
棒で穴を掘って種芋を植え
収穫までの期間が3ヶ月もあればよく
しかも収穫量が多い
こんな素晴らしい作物は他にない。

間違いなく、ジャガイモは、地球の人口増加を支え、そして、食を豊かにしてくれている。

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ときめきの植物雑学 :その3 17世紀の絵画の値段

2007-12-16 10:09:56 | ときめきの植物雑学ノート
その3: 17世紀の絵画の値段

その2では、
絵画の主役となった花の値段について書いたが、
17世紀は如何に人件費が安いとはいえ、
ユリの花1本の値段が、役人一人の年間給与に当たるというから
“記憶”だけでなく、 “記録” にとどめておきたくなって当然だ。

しかも、自己顕示欲を満足させる感動的な“記録”でなければならないはずだ。
感動的な記録となるためには、メモ的なスケッチデッサンではだめで、
絵画でなければならなかったと思う。

“記録”にとどめるには、描きたい衝動だけでは後世に継承することは出来ない。
そこには必ず、社会の仕組みとリンクしたファシリティ(装置)があるはずで、
“役に立つ”“美しい”“見せたい”“商売にしたい”などの社会・経済的なモチベーションがあるはずだ。

こんな近代人の欲求を持った金持ちが出現するか、
描きたいという欲望を持った絵描きと、
これを広める流通・広告代理店的な機能を持ったファシリティがなければ、
自然物を主役とした静物画の中で、花に絞り込んだ花卉画は成立しない。

わき道にそれるが、この当時の価値観として、“花は美しい”という概念はなかったようだ。
ユリ=聖母の純潔というような宗教的物語の中での象徴として描かれており、
ヤン・ブリューゲルからファシリティが整い、突然変わったとも言えそうだ。

17世紀初頭のオランダには、
16世紀からの商業・軽工業の発展で、富が蓄積してきており、
専門特化されていく画家と、その作品を受容するパトロンが存在していた。
17世紀オランダのパトロンは、
個々の裕福な市民、各種の同業者組合、宗教関係の同信会、市庁舎、自警団の役割の市民隊、
養老院・病院などの施設の理事会などであり、王侯貴族・教会が支えている他国と大きく異なる。

また、これまでの絵画の取引は、
画家のアトリエで直接取引、宿屋・額縁屋で展示販売というのがルートだったが、
1630年代には、パトロンと専門特化した画家をつなぐ機能としての専門画商が出現した。

専門画商の新しい機能は、絵画制作の“プロデューサー”であり、
画家との1年契約で、画商のいうとおりの絵を描くことで、
年間1,200ギルダーという報酬を支払った。というから
完成した作品の取り扱いだけではなく、顧客が求めるものを制作するプロデューサーともなった。

当時のフェルメールが生まれ育ったデルフトの町の賃金水準は、
大工仕事の手間賃が1日当たり1ギルダー、年間で200~300ギルダー、
陶器工場の経営者の年間収入が800ギルダーというから、
画家の収入水準は非常に高いといえる。

では、絵の値段はいくら位したのだろうか?
フェルメールが死亡し、その後の借金返済のために1696年に競売にかけられた
作品でみると
『牛乳を注ぐ女』(アムステルダム美術館) 175ギルダー
『デルフト眺望』(ハーグ マウリッハイム美術館) 200ギルダー

アムステルダムの市民隊から注文を受け制作したのが
レンブラントの大作『夜警』であり、この絵の値段は1600ギルダーだった。

当時の超一流画家の絵の値段はやはり高かった。
頂点が高ければ、裾野が広くなるのはモノゴトの基本構造であり、
これを維持できるパトロンがいたので、植物の中での花に特化した絵の分野が成立した。

宮崎県串間市の沖合いに幸島(こうじま)という無人島があり、
ここのサルは、砂が付いたサツマイモを海水で洗い、塩の調味料をつけて食べたサルがいることで有名だ。
この新しい習慣が、同時多発的に他府県のサルでも観察され、
幸島のサルが脱走し、塩水で洗ったサツマイモはおいしいという普及活動をおこなったとしか考えられない。
しかし、幸島は無人島であり海を渡らないといけないない、
相当のスピードで全国行脚をしなければならないなど
新しい文化の普及活動を幸島のサルが実施するのは困難であり、
ある一定の環境が整うと、同時多発的に文化が花開くと考えると納得するところがある。

花卉画(かきが)は、オランダだけでなく、
17世紀初頭のヨーロッパ各国で同時に花開いており、
“花の美しさ”に気づいたのではないだろうか。


前編はこちら
<ときめきの植物雑学>
その1:花卉画の誕生

その2: 花の値段

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