モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No28:プリングルが採取したサルビアとテワカン・バレー、その10

2010-11-30 14:05:47 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No28 

26. Salvia stolonifera Benth. (1840). サルビア・ストロニフェラ

(出典) Iris' Tuin


(出典)Robin’s Salvia

プリングルは、サルビア・ストロニフェラをメキシコ南西部のオアハカ州2500mのところで1894年6月23日に採取した。
このサルビア・ストロニフェラを最初に採取したのは、ロンドン園芸協会が1836年にメキシコに派遣したプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)であり、1837年にメキシコの南西部で発見し採取した。

学名の種小名“stolonifera”は、“匍匐し枝を生じる”という意味であり、草丈60㎝程度で匍匐性があり、直立の花序には濃い目のオレンジ色の美しい花が咲く。
ハートウェグは、珍しい花だけでなく、園芸的に価値のある花を採取した目利きだなと感心し、その後にプリングルなども採取しているが、園芸市場への導入はつい最近のようだ。耐寒性もあるので、日本に導入されれば人気となるサルビアだろう。

27. Salvia sessilifolia A. Gray ex S. Watson (1887) サルビア・セシリフォーリア

 
(出典) jstor plant sience

このサルビアを最初に発見したのは、パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)であり、1886年2月にハリスコ州リオ・ブランコの峡谷の底で採取した。
プリングルは3年後の1889年2月に同じくハリスコ州グアダラハラでこのサルビアを採取している。
メキシコだけでなく、アフリカ東岸のインド洋上にあるマダガスカル島にも生息し、世界的に珍しい種のようだ。
ハーバード大学のグレー教授とグレー植物標本館の学芸員ワトソン(Watson, Sereno 1826-1892)が1887年に命名したが、学名として認められたのは、グレー達よりも早く1881年に発表した英国キュー植物園に勤務した植物学者ベーカー(Baker, John Gilbert 1834-1920)「Salvia sessilifolia Baker,(1881).」の方である。
ということまでしかわからない。
素晴らしいサルビアであるという紹介はあるが、チェックできた写真はわずかであり墨を塗ったように暗くて良くわからない。マダガスカルでは門外不出の植物であり、特定の植物園などでしか見られないようだ。

28. Salvia tehuacana Fernald (1905). サルビア・テワカナ
サルビア・テワカンを最初に採取したのはプリングルであり、1901年8月にメキシコシティの南東にあるプエブラ州テワカンの石灰質の丘で採取した。名前も採取したテワカンに由来してつけられている。
しかし、その後誰も採取していず、植物情報も皆無に近い。

メキシコの古代遺跡跡、テワカン・バレー
代わりに、プリングルが採取したテワカンは、メキシコ原産の植物の歴史を証明する面白いところで、アステカ時代の重要な食糧となっていたトウモロコシ、カボチャ、豆、アマランス、チアなどが出土した。アフリカが原産のひょうたんも出土しているので、古代ロマンの物語もありそうだ。
ひょうたんは不思議な植物だ。アフリカ原産で、耕作化されたのはアフリカとアジアの二つの流れがあるそうだが、テワカン・バレーで発見されたのはアジアに起源を持つものであり、モンゴロイドの大移動と共にアメリカ大陸に持ち込まれたのだろうか?

(地図)テワカン・バレーとオアハカ・バレー

(出典) PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences)

(写真)テワカン・バレー風景

(出典) Photograph by WWF-Canon/Anthony B. RATH

テワカン(Tehuacan)市は、メキシコシティの南東、シェラマドレオリエンタル山脈のテワカン・バレーに位置し、1540年に建設されたメキシコでも古いスペインの植民都市だ。
このテワカン市があるテワカン・バレーは、写真のように乾燥した地域で、テキーラの原料ともなる品種があるAgave(アガベ、リュウゼツラン、竜舌蘭)、多肉植物のHechtia(ヘクチア)、サルビア、サボテンなどが生息し、その30%はここ固有の種といわれているほど貴重な植物が生息している植物相が豊かなところだという。

このテワカン・バレーには、紀元前9000年頃からの狩猟採集生活、紀元前1500年頃からの農耕生活の遺跡が発見され、そこからはメキシコ原産の植物の種などが出土した。半乾燥地のために遺跡の保存状態が良く、豊かな植物相のところでもあり、ここにある洞窟からメキシコ原産の植物が多数発見されている。
発見者は、アメリカの考古学者マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918 – 2001)で1960年代にトウモロコシの起源を探索する調査をテワカン・バレーで行い、コスカトラン洞窟(Coxcatlan Cave)から、トウモロコシ、カボチャ、いんげん豆、ウリ、ひょうたんなどを発見した。
世界三大穀物である小麦、米そしてトウモロコシはイネ科の植物であり、トウモロコシだけが祖先が良くわかっていない。メキシコ原産であることは間違いないようで、テワカン・バレーでの発見がこれを裏付けた。

アメリカ大陸に渡ったモンゴロイドは、文字を持たなかったがゆえに歴史には謎がある。アステカの四大食糧であるトウモロコシ、いんげん豆、アマランス、チア、それに、唐辛子、カボチャ、ココアなどメキシコ原産の重要な食糧になった植物の起源を後に整理しておきたいと思った。

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No27:プリングルが採取したサルビア、その9

2010-11-24 11:24:29 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No27 

メキシコはさすがにサルビアの宝庫だ。4-5mにも育つサルビアがあった。隠しようもないほどの巨木だが、1700年代後半に発見されてからプリングルが1902年に採取するまで100年間もの採取記録の空白があった。

20. Salvia prunelloides Kunth (1818)  サルビア・プルネロイデス

(出典)morning sun herb farm

サルビア・プルネロイデスは、草丈が30cm程度の低いサルビアで、地下茎で広がる。開花期は夏からで小さなブルーの口唇型の花が咲く。下唇に当るところには白いマーカーが入る。
No15:パーマーが採取したサルビアに記載したSalvia forreriと間違えられるほど良く似ている。

このサルビアの最初の発見・採取者は、フンボルト探検隊のボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)で、プリングルは、1892年9月21日にメヒコ州で採取した。

21. Salvia pubescens Benth. (1835). サルビア・パベセンス

(出典) flickr

サルビア・パベセンスは、3メートルまで生長する大型のサルビアで、大きな真っ赤な花が咲く。最初の発見者は、その生い立ちが良くわからないアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)で、プリングルは、1906年10月8日にメキシコ、ゲレーロ州の3000mの山中でこのサルビアを採取した。
公園などの植栽として使ってみたいサルビアだ。

22. Salvia recurva Benth. (1848). サルビア・レクルバ

(出典)Robin’s Salvias

何と美しいサルビアだろう。枝は木質化し樹高2mを超える比較的大型のサルビアだ。しかし育てるのは難しそうだ。というのは、難しい環境に自生しているからだ。
サルビア・レクルバは、中央メキシコ・グアテマラで、一年中温かく湿度が高い3000mもある山の北の斜面にしか生育しないというので、温室で気温・湿度・日光をコントロールしなければならない。
最初の発見・採取は、1843年にJurgensen,C. という者がメキシコで採取している。
プリングルは、1904年8月22日にイダルゴ州で採取している。

23. Salvia semiatrata Zucc. (1830). サルビア・セミアトラータ

(出典)モノトーンでのときめき

渋い赤紫の萼に包まれたbicolored(二色の)ブルーの花、ハート型のつや消しされた中での輝く緑色の葉が美しいサルビアで、気に入った一品でもある。
しかし、夏の猛暑で枯れてしまい、あわてて枯れ枝を切ることで根だけは何とか生き残らせることが出来た。
このサルビア・セミアトラータは、誰が最初に採取したかわからない。命名したのは、ドイツの植物学者でミューヘン大学教授ツッカリーニ(Zuccarini, Joseph Gerhard 1797-1848)で、シーボルトの日本植物の分類などで『日本植物誌(Flora Japonica)』を共著したことで知られているが、メキシコの植物をも研究していた。
ツッカリーニは、誰が採取したメキシコの植物標本を研究したのだろうか疑問が生じた。考えられるのは、フンボルト探検隊の植物標本ではないかと思うがその証拠は見つかっていない。
一方、プリングルは、1894年8月2日オアハカ州の2000mのところで採取した。

24. Salvia sessei Benth. (1833). サルビア・セッセイ

(出典) flickr

サルビアはすごい。これまでは1-2mぐらいの小さな潅木が多かったが、サルビア・セッセイは、4-5mの大きな潅木で、ライム色の葉、うすい赤色の大きな花が素晴らしい。サルビア・レグラ(Salvia regla)に似ているが、レグラは直立の2mの潅木なので、それよりも大きなサルビアだ。

メキシコ中央部の高度2100mまでの松林や森林の端に生息し、最初の発見・採取者は良くわからない。
「The New Book of Salvias」の著者Clebsch, Betsyは、1787年からのスペインのセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)探検隊が採取したと書いている。
そうかもしれないなとは思いながらも、命名者である英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)は、どこでメキシコの植物標本を手に入れたのだろうかなと疑問に思ったが、ベンサムは、パリでドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)のコピーを手に入れ、これに感動し植物学に邁進するようになったという。ベンサムが、採取者セッセに奉げたサルビアなのだろう。
その後、キュー植物園に席を置いたベンサムは、キュー植物園の組織力を生かして集めた英国の植民地の植物相の研究を行ったので、彼が命名した植物は数多い。
プリングルは、1902年にモレーロス州クエルナバカの450mのところでこのサルビアを採取している。

25. Salvia setulosa Fernald (1901). サルビア・セツロサ

(出典) senteurs du quercy

このサルビアは、プリングルが最初の発見者で、1900年9月1日にモレーロス州クエルナバカの2400mのところで採取した。
60㎝程度の草丈で耐寒性が弱く短い花序を伸ばしブルーの花を咲かせる。似たサルビアが多く、独立した品種なのか議論が起きる可能性がある。

(続く)
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No26:プリングルが採取したサルビアとチア(Chia) その8

2010-11-19 10:58:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No26 
メキシコのサルビアには、見てくれだけでなく中身が優れているのもあった。チアといわれる種でその物語でもある。

19. Salvia rhyacophila (Fernald) Epling (1939). サルビア・リアコフィラ


(出典) flickr

サルビア・リアコフィラは、耐寒性がある一年草のハーブで、草丈1m、ブルーの花は10cmと大きい。葉はサラダで食べられ、タネはケシの実のようにサクサクとしておいしいという。
しかも体内で作れない必須脂肪酸が多く含まれるというからありがたいサルビアだ。
こんな素晴らしいサルビアだが、最初の発見は、1900年10月17日と大分遅くにメキシコ、モレーロス州クエルナバカでプリングルが発見・採取している。
新種としての命名は、それよりも遅れて1939年にアメリカの植物学者・プラントハンターのエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)がしている。

ところで、このサルビア・リアコフィラは、No15:パーマーが採取したサルビアの(7)に記載したサルビア・ヒスパニカ(Salvia hispanica L.(1753))に姿・形からハーブとしての性質まで良く似ている。

(写真) Salvia hispanica

(出典)Robin’s Salvias

ハーブとしての性質でどこが似ているかというと、必須脂肪酸が豊富なところだ。
体内で作られないので食物として摂取しなければならないものを必須脂肪酸と言うが、その中でも特に作りにくいのがリノール酸とリノレン酸というものだそうだ。

サルビア・ヒスパニカは、リノレン酸を64%も含んでいて、エゴマ、キウィフルーツを上回り食物の中で最高の含有量という。
このサルビア・ヒスパニカは、アステカ時代はチア(Chia)と呼ばれていた。正確にはタネのことを指しているが。
サルビア・リアコフィラも同じくチア(Chia)と呼ばれている。

アステカ文明を支えた四大食物
スペイン人が侵略する以前のアステカには、食糧となる重要な栽培植物があった。
スペイン人が記載している重要な食物として、トウモロコシ(maize or corn)、豆(beans)、チア(Chia)、アマランス(amaranth)があげられている。

人間にとって必要な栄養として、炭水化物(糖質)、たんぱく質、脂質を栄養の三大要素といい、ミネラル、ビタミンを加えて栄養の五大要素というが、。アステカ人の栄養として、トウモロコシ、豆、チア、アマランスはバランスが取れていたという。
しかし、チアとアマランスは、コロンブス以降の世界に伝播・普及しなかった。それにはわけがあった。

アマランスは別途説明するとして、チアの起源と歴史でこれを垣間見てみよう。

文字を持たなかったアステカ

(地図)首都テノチティトラン(Tenochtitlan)

(出典) wikipedia

アステカ王国の首都テノチティトラン(Tenochtitlan)は、テスココ湖に浮かぶ島に最盛期で30万人が居住する当時のヨーロッパにもない大都市であり、湖周辺の都市と橋で結びその中核としてまるでネットワークのハブとして高度な文明を誇っていた。

このような都市を作れるくらいなので、土木・建築そして天文学に基づく暦に優れた才能を発揮したが、アステカの文明は文字を持たなかった。
文化・歴史は、絵と文字が一体となり記録か記憶されたメディアによって伝承されるが、文字を持たなかったために、そして、コルテスの征服による虐殺と伝染病によりアステカの人口が激減したために、記録と記憶が消され謎を持った文明となってしまった。

唯一例外は、“絵文字”を持っていたことだ。

この絵文字を編集し、アステカの人々から聞き取り調査をして著述された作品が残っている。1500年代はまだ印字と印刷機がなかったので手書き原稿とこのコピーである写本コデックス(Codex ,Codices)だった。

スペイン征服以前のメキシコがわかるコデックス(Florentine Codex)

(出典)wikipedia

スペインのフランシスコ会の宣教師 Bernardino de Sahagun(1499 –1590)が、原住民からのヒアリングを行い、現地生まれの改宗者に教えるテキストとしてナワ語・スペイン語・ラテン語で1540-1585年の間に著作したのが“Florentine Codex”といわれるもので、タイトル名は英訳で「General History of the Things of New Spain」というようにスペイン征服以前のメキシコのことがわかる唯一に近い百科事典でもあるという。

原本はスペイン政府が破棄して存在しないようだが、またそのコピー(写本)も公開されたのは1979年であり、よほど知らしめたくなかったのだろう。
Florentine Codexは、主要なところはナワ語で書かれている。フィレンツェの図書館に現存しているのでフィレンツェ・コデックスと呼ばれている。
この写本にチア(Chia)を始めとしてトウモロコシなどアステカの重要な農産物に関して記述されていた。

チア(Chia)の歴史
ところで、1521年にアステカ王国を亡ぼしたコルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)は、チアとアマランスの栽培を禁止した。その理由は、宗教的な儀式に使われていたためであり、この儀式自体を禁じたためである。
ローマカトリック教を普及するためという大義名分もあるが、コルテスの目の前で捕虜になったスペインの兵士が、ピラミッド上の神殿で人身御供として虐殺としかいえないような儀式をする宗教を許すことは出来なかったのだろう。
この儀式にチアとアマランスが使われていたので栽培の禁止となり、耕作面積が減り品種改良どころか雑草化するだけとなった。

確かに、切腹という儀式も日本の美意識から生れたものだろうが、異なものかもわからない。他殺でもなく自殺でもない死は摩訶不思議と思う。これを文化摩擦というのだろう。

フィレンツェ・コデックスよると、チアの歴史は相当に古いことがわかった。
食物として最初に利用されたのは、紀元前3500年で、紀元前1500年から紀元前900年の頃には貨幣の代わりとして利用されたという。また、征服した支配地から租税としてチアが納められていたようだ。
そして、生贄をささげる儀式で神に奉げられもした。

コルテスが攻め亡ぼした頃の首都テノチティトランには、大人口を支える大きな市場があり、そこではココアの豆が貨幣のかわりに使われていたという。重要な植物が媒介となり交換されていたが、チアは生贄の儀式に使われていたために栽培禁止となり、ヨーロッパの世界に伝播することもなかった。

征服者のスペイン人は、かわりにヨーロッパの野菜を持ち込み栽培させたという。

チアの食物としての評価研究をした米国の大学の結果では、大さじスプーン1杯のチアと水で24時間のエネルギー消費をまかなえるというレポートがあった。
征服者コルテスは、チア(Chia)、アマランス(amaranth)のこんな能力を直感して栽培禁止にしたのかもわからない。
元気で抵抗されたのではたまらない。これが統治者の本音だろう。

当事者にもこの気持ちはわかる。ネ!
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No25:プリングルが採取したサルビアと ドゥ・カンドール その7

2010-11-15 09:32:57 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No25 

プリングルが採取したサルビア・プルケラの命名者はDCだ。
理科の時間に乾電池を直列でつないだものをDC(direct current)と呼んだが、植物学では略してもいいほど有名なスイスの植物学者ドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)を指す。
彼は、メキシコに探検に出かけなかったはずなのに、多くのメキシコ原産の植物に命名している。どこからか植物標本を手に入れているはずだが、謎として残っていた。
この謎に多少の光りが見えてきた。

18. Salvia pulchella DC. (1813). サルビア・プルケラ


(出典) wikimedia


(出典) annie’s annuals

プリングルは、草丈40-60㎝、小太りで愛嬌のある朱色の花が咲くサルビア・プルケラを1902年10月7日にメヒコ州で採取した。“pulchella”は、prettyと同じでありラテン語で“愛らしい”を意味する。確かに小太りで愛らしいサルビアだ。

記録されている最初の採取者は、フンボルトとボンプランであって1800年代の初期に採取しているが、それ以前に誰かが採取している。
というのは、フンボルト探検隊が採取した植物の多くはクンチ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)により命名されその発表は1818年だが、スイスの植物学者ドゥ・カンドールが1813年に命名している。

ドゥ・カンドール(de Candolle)とモシニョー(Mociño)の接点
ドゥ・カンドールにメキシコの植物標本を提供し、自分の名前を隠さなければならなかった人物がいるのだが誰だかわからなかった。

おおよその見当では、1787年から1803年までメキシコの植物相を調査したセッセ探検隊に参加した植物学者・プラントハンターのうちの誰かで、1803年にセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)と一緒にスペインに戻ったニュースペイン(=メキシコ)生れのモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)ではないか?
ということがわかった。

ドゥ・カンドールは、1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をし、
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。

レリティエール自身1800年に暗殺されていて、彼が友人から預かった植物標本などをスペイン政府が返還を求めていたので、これが原因で暗殺されたという説もある。
というように、ドゥ・カンドールは、国家機密として取り扱われていたメキシコの植物情報に接するルートがあった。

スペインに行ったモシニョーは、ナポレオンのスペイン統治を支持したためフランス軍の撤退後に逮捕され、何とかフランスに逃亡した。
モンペリエ大学の植物園で数年過ごし、ここの医学部で植物学教授を1808-1816年までしていたドゥ・カンドールに出会い、モシニョーがマドリッドから隠し持って行った植物標本・植物画などをドゥ・カンドールに見せたという。
ドゥ・カンドールは、その貴重な価値に気づき真剣に学び、彼の著作Prodromusにメキシコの植物を記載したという。
こんな経緯があるから、誰が採取したか記述できなかったのだろう。

セッセとモシニョーの植物コレクションと原稿は、一世紀以上も忘れられ、後に変なところから出てくる。
改めて、1787年からのセッセのメキシコ植物相の調査探検隊を調べなおすことにした。

学術といえども政治と無縁でいられなかった時代の学者・文化人は大変だった。
政治の安定による平和を切に望みたい昨今であり、ナショナリズムというエゴ・我儘を生のままで出さない賢明さをもちたいものだ。
また、これまで私益を追及してきた人々が、国益を声高に叫んでいるのもナショナリズムを鼓舞するようでいただけない。
せめて調理するスキルと素材を料理するというクリエイティブな時間の余裕を持ちましょう!
そして、目の前にサルビア・プルケアがあると、ささくれだった心も微笑んでしまうだろう。
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No24:プリングルが採取したサルビア と テキーラ その6

2010-11-11 08:49:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No24 
プリングルの名前を冠したサルビア・プリングレイを採取したテキーラ地方はテキーラの発祥の地だった。その歴史も楽しめる。

17.Salvia pringlei B.L. Rob. & Greenm. (1894). サルビア・プリングレイ

(出典)Robin’s Salvias


(出典)plantsystematics

プリングルが1893年10月2日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラの近くに位置するテキーラの発祥地で有名なテキーラの峡谷の崖下でこのサルビアを発見・採取した。
彼のスポンサーでもあるハーバード大学のグレー植物標本館の館長に1892年に就任したロビンソン(Robinson, Benjamin Lincoln 1864-1935)が、プリングルの名前を取りサルビア・プリングレイと命名した。

ロビンソンの前任者ワトソン(Sereno Watson 1826-1892)までは、プリングルは、ハーバード大学から年俸などの契約があったが、ワトソンの死でこれが反古にされ、ロビンソンからは栄誉だけもらうことになった。プリングルの経済的に厳しい時期の始まりだった。

もう一人の命名者グリーンマン(Greenman, Jesse More 1867-1951)は、ハーバード大学を卒業し、ベルリン大学で博士号を取得した植物学者で、ミズリー植物園の学芸員、のちにワシントン大学植物学の教授となった。

このシリーズNo20 で掲載した12.Salvia iodantha Fernald(1900). サルビア・イオダンタと類似ではないかという説もあるが、確かに似ている。

テキーラの街の歴史
ところで、プリングルはこのサルビアを「テキーラ」で採取している。

テキーラの街は、1530年、クリストバル・デ・オニャーテ(Cristobal de Onate)がこの地を征服し、修道士フアン・ガレーロ(Juan Galero)率いるフランシスコ会修道士が、チキウイティージョ(Chiquihuitillo)から連れてきたインディオ達と一緒に今日のテキーラに定住し、1538年にはテキーラは村に発展した。

というのがテキーラの街のスタートだが、ついお酒のテキーラが気になり脱線して書くことにした。

テキーラ誕生の経緯
ジン・ウオッカ・テキーラは、無色透明な蒸留酒でホワイトリカーとも呼ばれる。焼酎もこの仲間に入るが、単独で飲むと、安くて、酔いが速いのでヘビードリンカーと若者に支持されるお酒となっている。
アダルト向けにはカクテルのベースとして使われ、映画・小説の脇役として欠かせない。テキーラをベースにしたマルガリータなどはその代表だろう。グラスの縁をライムで湿らしたところに塩を塗り、テキーラ+オレンジ風味のホワイト・キュラソー+ライムジュースをシェイクしたカクテルだが、量を飲まない方が良い。
ちなみに、同じ組み合わせでウオッカベースのものを“カミカゼ”というので、ホワイトリカーベースのカクテルは、特攻精神で飲みすぎると地雷原を千鳥足でさまよい自爆しかねない。

テキーラの誕生は、1500年代末のスペインの税金問題だった。
1521年にアステカ帝国を亡ぼしたコルテスは、スペインから持って来たブランデーが底をつき食習慣での差し迫った問題に直面した。そこで、1521年以降1525年頃の間に、スペインからブドウの苗木を輸入し、メキシコでのワインの生産に乗り出した。
1500年代末にはスペインからワインを輸入しないでも良いくらいに自給自足が出来るようになったという。

ワインの輸出関税が入らなくなって困ったのはスペインの国王フィリップ二世で、1595年に新しいブドウ園をメキシコ及びチリなど他のスペインの植民地に植えることを禁止した。

ヨーロッパの人々にとって、水は雑菌に汚れていたので水を飲む習慣がなく、アルコール度の低いワイン・ビールは食習慣として定着していたので植民地としては困った事態になった。

そこで目をつけたのは、スペイン人が侵略する前からあった地酒のmezcal(メスカル)”だった。
メスカルは、ハリスコ州グアダラハラから北西65㎞のところにあるテキーラ周辺が原産の植物、“blue agave”を原料として発酵させて作るドブロク(プルケPulque)を一回蒸留させたものだ。
原料となるブルー・アガベの学名は、アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)で、和名ではリュウゼツラン属(竜舌蘭)なので、サボテンからテキーラを作ってはいない。

(写真) アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)

(出典)cactus-succulents

スペイン人は、アルコール度数が低く不純物が多い発酵酒を蒸留させて不純物を取り除いて飲むことを実行していたようで、この蒸留の技術はスペイン人が自ら持って来たと思っていたら、フィリピン人が持ってきたようだ。
不思議なことに、1500年代中頃には大型の軍艦・商船として使われていたガレオン船でチャイニーズ・インディアンと呼ばれたフィリピン人がアカプルコ等メキシコ沿岸に来航し商取引を行っていたという。

確認してみたら別に不思議なことではなく、メキシコを征服したコルテスは、次の目的である太平洋を西回りで横断しインドネシア東部にある香料諸島(モルッカ諸島)に到達させるためにアルバロ・デ・サアベドラ探検隊を1527年に派遣した。
サアベドラは、香料諸島のティドーレ島に到着し、その後メキシコに戻る試みを二回したが風に乗ることが出来ず失敗して途中で亡くなった。

コルテスがメキシコを征服していた同じ頃、世界一周の航海をしたマゼランが1521年にフィリピンに到着したが、実際の植民地化は、1565年にセブ島に植民地の基地を作ったときから始まる。この帰りにフィリピンからメキシコへの航路を発見し、フィリピン、メキシコのアカプルコ間でのガレオン貿易が始った。

このガレオン貿易の船に醸造酒を蒸留する機器があった。というのが新しい説のようだ。

(写真)ステンドグラスに描かれたスペインのガレオン船

(出典)dmstainedglass

この頃、メキシコ、ハリスコに到着したスペインの貴族Don Pedro Sanches de Tagle, Marquisが、メスカルワイン(mezcal wines)を生産し始め、1600年頃に蒸留器を導入してテキーラの大量生産工場を初めて作り、今日のテキーラの基礎を作った。
1608年には出荷に対しての課税がされた記録があるのでテキーラの消費が拡大した証拠でもあろう。
プリングルがメキシコ探検をしていた時期でもある1885年にはアメリカにも輸出されるようになり、メキシコの主要輸出品まで成長する。
世界的な普及は1968年メキシコオリンピックの時のようだ。そういえば、この頃38-40度ある高アルコールのテキーラをがぶ飲みして酔っていたことを思い出した。

プリングルの功績を忘れるほどお酒の歴史は面白い。ということにいまさらながら気づいた。脱線を愉しむことにしよう。

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No23:プリングルが採取したサルビアと18世紀のスペイン その5

2010-11-07 08:39:38 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No23 

18世紀頃のスペインは何をしていたのだろう
さて、今回はちょっと趣向を変えて前から疑問に思っていたさわりの部分にふれて見たい。
1492年にコロンブスがカリブ海の島に到着してから、中南米でのスペインの活動が始った。そしてユカタン半島にスペイン人が到着したのは1517年であり、ここからメキシコの征服が始まる。
コルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)がアステカ帝国を滅ぼしたのは1521年なので、わずか30年という速いスピードでアメリカ大陸に植民地を作ったことになる。

しかし、メキシコの植物に関しては、記録に残そうという努力がなされていない。
英国が海外の主要なところに探検隊を派遣する18世紀中頃から記録が始っているが、これ以前の200年以上がよくわからない。
この時代の価値あるものといえば、金・銀・宝石を除くと植物などの生物資源となる。食糧・薬・香辛料・繊維・住宅・船などの建築資材・燃料などなどである。
スペインは、メキシコを初めとした植民地の植物に関心がなかったか、有用性に気ずかなかったか、意図して隠したかのいずれかであり、さてさて、何だったんだろう?
という疑問がついて廻っていた。

いまのところの答えは、“有用性に気づかずに隠した”というややお馬鹿チャンのようだったと思う。
その一端、きれ端をサルビア・ポリスタキアでも感じる。

16. Salvia polystachya Cav.(1791)サルビア・ポリスタキア

(出典)Robin’s Salvia

サルビア・ポリスタキアの花写真は、横に倒れて咲いているように撮られているものが多い。1-3mまでブッシュ状に育つ大柄なわりには枝が弱いので多くの花をつけた花序の重みに耐えられない。
開花期は9月から晩秋まででバイオレットブルーの花が多数咲く。
夏場に雨が多い温暖なところが適地で、メキシコ中部からパナマまでの1000-3000mのところに生育する。
日本でも生育可能であり、サルビアだけのガーデンで栽培してみたい一種と思う。

プリングルは、このサルビアを1894年から10年間にわたりメキシコの各地で数多く採取している。彼以前に採取時期がわかっているのは、このシリーズNo7に登場したハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)が1839年にグアテマラで採取していた。

伝統的には、胃痛・頭痛を和らげるハーブとして使用されていたので、中南米では広く知られているサルビアなので征服者スペイン人が採取しているはずだが、やはり見つかった。

サルビア・ポリスタキアの発見者Sesséと命名者の関係
サルビア・ポリスタキアは、1786年に時のスペイン国王カルロス三世(Carlos III, 1716-1788)にメキシコの大規模な植物・動物などの資源を調査する提案を行い、その中心メンバーとして探検で活躍したセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)が発見・採取していた。

そして、命名したのは不思議なことに2名いる。スペインの大植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)が1791年に、同世代で年齢的には5才年長の医師・植物学者オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)が1798年に同じ名前で命名している。

(写真) カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph))肖像画

(出典) Royal Botanical Garden of Madrid

(写真) オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de)肖像画

(出典) felipecastro.wordpress

オルテガは、1771年から1801年まで王立ドリッド植物園の教授で、リンネの著書をスペイン語に翻訳しているのでリンネ体系支持の学者ともいえよう。しかし、この二人は、王立マドリード植物園の園長と植物学の教授という関係でありながら晩年は対立していたようだ。

15世紀末のコロンブスから始った大航海時代以降のスペインは、植民地化するために使ったコスト(国王又は投資家から集めた投資金)を早急に回収するために、中南米植民地の金・銀・財宝・労働力としての原住民を略奪することに熱中していた。
いわば狩猟採取的な植民地経営がなされていて、定着して耕作(Cultivation)するにはなかなか至らなかった。

18世紀になって、英国・フランスなどの科学的な調査探検に刺激されたのか或いは対抗したのか、開拓・開発的なことに投資するようになった。前回(No22)触れたマラスピーナの太平洋探検隊(1789-1794),セッセのメキシコの植物相探検隊(1787-1803)などであり、他にもペルー、ニューグラナダ、フィリピンなどスペインの植民地の植物相調査を行っている。これらの探検隊の成果をマドリードで検証していたのが植物学の範囲では前述したカバニレスとオルテガの二人だった。

しかし、探検隊に同行した科学者達の貴重な報告書は機密として取り扱い公表されないことが多い。マラスピーナの太平洋探検隊紀行記は出版禁止となり、セッセの探検の成果が公開されたのは1887年なので100年後のことだった。
この点で、英国の探検隊のオープン性と際立った違いとなっていて、英語で読む限りのメキシコの植物情報に関しては、1500年~1700年代の300年間が空白に近い状態となっている感がある。(スペイン語では多少あるようだが手に負えない。)

改めて、スペイン征服時代の探検史を紐解いてみようと思い、セッセのメキシコ探検隊は後日掲載したい。

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No22:プリングルが採取したサルビア その4

2010-11-03 10:16:51 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No22 

プリングルは、1902年10月7日にメヒコ州でサルビア・パテンスを採取しているが、その100年以上前のプラントハンターと植物学者の葛藤の痕跡を取り上げる。

15. Salvia patens Cav. (1799).


(出典)モノトーンでのときめき

サルビア・パテンスは、小さな花が多いサルビアのなかでも大柄で美しい透明感のあるブルーの花が咲く。日本でも人気があるサルビアとなっているが、その由来に謎が多かった。

これまでわかったことは、
1.園芸市場への導入は、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようであり、これはハートウェグのところを参照していただきたい。

2.一方学名は、1799年にこの当時のスペインの大植物学者で、ダリアをヨーロッパに導入したマドリッド植物園の園長カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されている。

新たにわかったことは、
カバニレスにサルビア・パテンスの植物標本を提供したのは、或いは、奪われたのは、フランスに生まれスペインで活躍したプラントハンターで植物学者のNée, Luis (1734-1801)だった。つまり、Neeが最初の発見・採取者ということになる。

(写真)Née, Luis の肖像画

(出典)ウイキペディア

Néeはどんな経緯でメキシコに行ったかといえば、
スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。
この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真) マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro)

(出典) Museo Naval de Madrid

(地図) マラスピーナ探検隊の航路


(出典)ウイキペディア

この探検隊は、1789-1794年の間に行われ、南アメリカ大陸を廻りメキシコのアカプルコに到着したのが1791年で、そして、カルフォルニア・アラスカを探検してアカプルコに戻ってきたのが1792年なので、Néeがメキシコの植物を採取したのは1791年から1792年のこの時期だろう。

英国の場合は、プラントハンターと植物学者は分業と協業の関係にあり、新種と同定し学名をつけるのは植物学者の役割だった。
Neeは、この探検隊での同僚のチェコの植物学者Tadeo Haenkeが採取した植物について記述・命名してスペインの科学ジャーナルに1801年に発表しているので、単なるプラントハンターでもなく植物学者としての向上心があったようだ。

彼らは、この探検で数多くの植物を採取したが、サルビア・パテンスがそうであったように、Neeが採取した植物の大部分は、大植物学者カバニレスが命名し栄誉を得ている。

スペインに帰国後のNeeの足跡が良くわからない。また死亡時期も文献によって異なる。
Née の死亡時期を1801年と書いたが、カリフォルニア、アラスカなどで採取した植物の記述がこの時期にされているのでおかしいことになる。1803年又は1807年死亡という説が妥当であり、晩年が良くわからないがスペインに失望し、ナポレオン革命が進行中のフランスに戻ったという説がピッタリとくる。

苦労して採取した手柄を奪われ、怒り・絶望でスペインを離れたという説があるが、さもあらんと思う。
こんな美しいサルビアにも、世俗の争いがあったようだ。

さらに追加すると、探検隊の隊長マラスピーナは、政府転覆の陰謀の疑惑で捕まり、1796年から1802年まで刑務所に入れられた。
彼が書いた膨大な報告書は発禁処分となり後に散逸した。膨大な投資を行った探検の結果を活かさなかったスペインはその閉鎖性が人・モノ・カネ・情報を集めることが出来なくなり国際的な競争力を失っていくことになったのだろう。
しかし、大航海時代のスペインは論理的でないところが面白い。

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No21:プリングルが採取したサルビア その3

2010-11-01 13:15:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No21 
COP10、生物多様性条約第10回締約国会議が無事終了した。議長国として日本の果した役割は評価されてよいものだろう。
この「生物多様性」が突如出てきたという感をぬぐえない方も多いと思うが、生物の原産地国とこれを利用する国との戦いが現実にあるということで、ミドリムシが将来の食糧にも航空機用の燃料にもなる可能性があるなど、生物(動物・植物・微生物)の価値がますます高まることは間違いない。

プラントハンターが活躍していた時代でも、薬用植物、建築資材となる樹木など人間の生活に有用性な生物に関しては持ち出し禁止などの方策が取られていたが、これがますます厳しくなってきた。
ということを頭の隅においていただき、メキシコのサルビアを数多く採取したプリングルの足跡を追いかけてみたい。

多様な植物の宝庫メキシコの気候


植物の宝庫メキシコの気候について簡単に触れておく。
メキシコは緯度的には熱帯に位置するが、米国と接する北部は標高1000m前後、中央部は2000m前後もある高原の国であり、さらに、南北に二つのシェラマドレ山脈が貫くのでメキシコ湾側の東側は雨量が多く、西側は乾燥した気候となる。
気候図を見てもらえばわかるように、メキシコの北西部は乾燥した砂漠性気候、北東部はステップ気候、その中間に地中海性気候地帯がある。中部はサバナ気候地帯が占め、ユカタン半島の付け根は熱帯雨林、熱帯モンスーン気候と多様な気候地帯がある国だ。
この多様な気候が、多様な生物を育てる環境となり、植物の宝庫ともなっている。
南アフリカ、中国雲南地方なども植物の宝庫であったが、まだまだ未発見の植物があるかもわからない。

プリングルは、メキシコの各地を探検し、プロのプラントハンターとして数多くの植物を採取した。ここでは、サルビアに特化して彼が採取した品種を紹介しているが園芸種として現存しないものが結構ありそうだ。

14. Salvia leucantha Cav. (1791). 


(出典) モノトーンでのときめき

今では日本の秋を彩るサルビアとなりつつあり、英名では、「メキシカンブッシュセージ(Mexican Bush Sage)」と呼ばれるようにメキシコ原産のブッシュ的に大株に育つ。
目立つ花なのでスペイン人によって1700年代に発見されたようだが誰かはわからない。このシリーズNo9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)が、1849年4月にコアウイラ州サルティロで採取したのが記録に残る最初となっている。
プリングルは、これより遅れて1902年10月16日にメヒコ州でこのはなを採取している。原種はベルベット・タッチの白い花だが、赤紫の花もある。この種は、サルビア・レウカンサ‘ミッドナイト’(Salvia leucantha 'Midnight')である。
植物情報に関してはここを参照していただきたい。

15. Salvia littae Vis. (1847).  サルビア・リッタエ


(出典)Robin’s Salvias

サルビア・リッタエは、メキシコ、オアハカ原産で、湿ったオークの森の端に群生し、花穂は30cmほどに成長し秋から冬にかけて赤紫色のベルベットのような生地の花が咲く。ライムライトの萼がこの花色をさらに引き立て魅力を増す。茎は横に広がり地面に接するとそこから発根する。

命名は、イタリア,パドーヴァ大学の植物学教授Visiani, Roberto de (1800-1878)が1847年に記述しているが、この初期の採取者はわかっていない。プリングルは、1894年10月18日にオアハカ州の2700mのところでこれを採取している。

16. Salvia lycioides A. Gray (1886). サルビア・リシオイデス


(出典) Robin’s Salvias

サルビア・リシオイデスは、Canyon sage(峡谷のセージ)とも呼ばれるが、メキシコ北部から米国南部の乾燥した石灰質の峡谷に自生し、草丈30-45cmと丈が低く横に広がるように生育する。
プリングルがこのサルビアの第一発見者で、メキシコ北部にあるチワワ州のサンタ・エウラリアで1886年10月2日に採取している。サンタ・エウラリアは、1652年にスペインのキャプテンDiego del Castilloによって創られた鉱山町でチワワ州では最も古い集落のようだ。
このサルビアの青花はとても美しいが、出自はまだ混乱があるようだ。葉は灰緑色なのでサルビア・ムエレリと混同することもないが、サルビア・グレッギーと交雑しやすいのでその変種と間違えられるようだ。

17. Salvia melissodora Lag. (1816)  サルビア・メリッソドラ


(出典)Botanic Garden

No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ

メキシコ、シエラマドレ西側の山脈地帯で、チワワから南のオアハカまでの1200-2500mの乾燥した山中に自生し、そのたたずまいは上品であり灰緑色の葉からはグレープの香りがし、Grape-scented sageとも呼ばれている。すみれラベンダーの花にはミツバチ・蝶・ハチドリなどがひきつけられ、初霜の時期から春まで開花する。
日本で育てる場合は、温度管理が重要で軒下などの日当たりが良いところで育てる。
メキシコのタラフマラ族のインディオに解熱剤として長く使われてきたハーブでもある。
1837年にハートウェグがメキシコで採取したのが記録に残る最初だが、命名は、スペインの植物学者で1800年にカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)と出会い彼の弟子になり、後にマドリード植物園の園長となったMariano Lagasca y Segura (1776 -1839)が1816年に「Salvia melissodora」と命名したので、メキシコの植物調査を行って1803年にマドリッドに戻ったセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)探検隊の採取した植物標本に含まれていたのかもわからない。
プリングルは、1903年10月6日にこのサルビアを採取しているので、ハートウェグよりかなり遅れた採取だ。

18. Salvia mocinoi Benth.(1833) サルビア・モシノイ

  
(出典)Conabio

このサルビアは、スペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)が時期不明だがメキシコで採取している、1803年以前であることは確かなようだ。
プリングルは、1899年2月8日にメキシコ、モレーロス州の2200mのところで採取している。しかし、植物情報が少なくわずかに青紫の花が咲くサルビアということしかわからない。

19. Salvia occidentalis Sw. (1788). サルビア・オキシデンタリス


(出典) Institute of Pacific Islands Forestry

サルビア・オキシデンタリスは、1788年にスウェーデンの植物学者スワーツ(Swartz, Olof or Olavo (Peter) 1760-1818)によって命名されている。スワーツは、ウプサラ大学でのリンネの弟子であり、多くの弟子が世界の植物調査に出かけたように彼も1783-1786年に北米・西インド諸島、特にジャマイカの植物調査を行う。
このサルビアは、West Indian sageとも呼ばれ、西インドの先住民が歯痛の時に使っていたという。
アメリカ南部からメキシコ、カリブ諸島の50-1000mの低地の比較的湿ったところに生息し、丈が低く横に広がりブッシュを形成し、大き目の卵形の葉、ブルーの小さな花が咲く。しかし、植物情報は豊富でない。
多くのプランとハンタが中南米・カリブで採取しているが、時期不明なものが多い。ダーウイン(Darwin ,Charles Robert 1809-1882)が1835年にガラパゴス諸島で採取したのが記録に残る最初のようだ。
プリングルは、1900年5月10日にベラクルーズ州ハラパでこのサルビアを採取している。
ダーウインが上陸した頃のガラパゴス諸島は、囚人の流刑地だったというので、囚人達も歯が痛いときはこのサルビアを使っていたのだろう。

(続く)

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