モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

バー「あり地獄」

2004-12-27 17:50:30 | グルメ
「あり地獄」と呼んでいるバーが銀座の片隅にある。

洋酒文化を創り支えた歴史あるカウンターバーが姿を消しつつある中で、生き長らえて欲しい店が一つある。
この店は、地下1階がカウンターバー、地下2階はカラオケルームとなっている。
マスターの井上さんは、酒、銀座のマスターと言うほど詳しく、あと10年頑張ってもらうと生き字引として国宝に匹敵する銀座宝を授与される?

この店の、地下2階のカラオケルームを仲間内で「あり地獄」と呼んでいる。
「飲みに行きましょうか?」
「あり地獄行く?」
「今回はパス!」
ごくごくうちわの仲間でこんな会話がされる。

この「あり地獄」に入ったら、なかなか脱け出し岐路につく事が出来ないばかりか、結果、元気が吸い取られて抜け殻になってしまうから怖い。
この前などは、タクシーに乗り、頭から生暖かいものが落ちてきたので触ってみたら、血だったので驚いた。
「あり地獄」は、元気だけでなく、血まで吸い取るところなのだ。?????

カラオケがあるからでもなく、また、お酒があるからでもなく、ママが美人だからでもなく、なんとなくなのだ。
なんとなくがこの「あり地獄」の魅力なのだが、実は、本当の魅力は、落ちたら死んでも抜けられない「地獄」そのものの存在を求める精神構造にあるのだと思う。
極めれば一つが全てと言い切れる。
しかし残念なことに、私たちは多くの選択肢を提供され、選択することに疲れと焦りを感じ始めていないだろうか?
選択の余地のない状況にいたい。でも、選択のない状況は怖い状況でもあり、限りなく健全に疑似体験で済ませたい。

この店は、私達仲間の元気と血を吸い取ることによってこころを健康にしてくれているのだろう。
いいかえれば、この店は、アルコールと長時間の肉体的な苦役を行うことによっていらないものを捨てる儀式を行い、このことによって一時の抜け殻人間を生産し、家庭にそして会社に送りだす機能を果たしており、この機能・役割が理屈では説明できないが、気持ちいいのでまたはまりに行くのだ。

いや失礼! もっと率直に言えば、体力、時間を消費尽くさないとTHE ENDとならない、わがままな客の欲望を受け止めてくれるありがたい店なのだ。
これを「あり地獄」なんていって申し訳ない。



コメント

今日はクリスマスなんだ~

2004-12-24 20:27:47 | Weblog
古の頃、私にもクリスマスというものがあった。

北国仙台の町のとある教会では、クリスマスに教会に来ることが出来ない信者家庭を祝福するために
有志によるクリスマスを祝う出前サービス(聖歌隊と言っていた?)を12月24日の24時を頂点に行っていた。
15~20人はいたであろうか、松明・提灯等を持ち、道々寒さと戦いながら賛美歌を歌い、歩いた。
寒い、足が痛い、眠い。
たどり着いた家で、賛美歌を歌い、クリスマスを祝う。
そこで振舞われた甘酒1杯の体を突き抜けるおいしさ。
暗闇の中でのロウソクの小さな明かり、深々とした寒さの中での甘酒のぬくもり。

身体全体をつつむ苦が圧倒的なのに対して、ほんの手のひらにのりそうな小さな心地よさ。
この心地よさをもう一度体験できるのだろうか?
この心地よさを感じることができるのだろうか?

「ときめき」を発見する探検隊をスタートする。 今日から。
探検と言っても冒険をするわけではない。見えている「モノ」「コト」を「ときめき」がなくなった私が、見直す旅である。

コメント