モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その34:大航海時代の脱線編③:そして、パイレーツ(海賊)が残った。

2008-02-29 08:06:38 | ときめきの植物雑学ノート
『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』
カリブ海の海賊を“パイレーツ・カリビアン”というが、
2007年5月に公開された『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』及び
12月に発売されたDVDは、ともに従来の記録を塗り替える人気で、
興行収入・DVD販売額とも新記録だったようだ。
マイナスが多きいものほど刺激が強く、これがプラスに転換するのだろうか?
或いは、略奪という行為は、スカッとする爽快感があるからだろうか?
私もこの映画を楽しんで見てしまった。

この、カリブ海の海賊(Pirates)を生み出したのは、スペインである。
かつてポルトガルから学習したことを、フランス・イギリスなどから挑戦をうけているのだが、
海賊が快適に暮らせる、安全で収益性が高い環境を提供したのがスペインだった。

(地図)カリブ海の島々とエスパニョーラ島



スペインが支配した島々の悲劇
海賊が快適に暮らせるその1は“安全性”だが、
エスパニョーラ島は、コロンブスが到着した島で、新世界最初の植民地がここにつくられた。
最初の町は、イサベラ女王を讃えヌエバ・イサベラと命名されたが、
ハリケーンで破壊され、島の対岸にサント・ドミンゴをつくった。

きっとこのあたりから呪われていたのかもわからないが、
コロンブスと同行し、唯一残っている航海日誌の著者であるラスカサス神父(Las Casas, 1484-1566年)は、
島には人が「巣に群がる蜂のようにひしめき合って暮らしていた」と書き記し、
1492年のエスパニョーラ島の人口を、少なくとも300万人と推定している。
(ヨーロッパの学者は、1桁少ない20~30万人という人口説を唱えているようだが、
この当時の食糧生産から見て300万人は生存可能のようだ。)

1500年初めにこの島で砂金が見つかりゴールドラッシュで湧いた。
当然労動力として島のインディオが酷使され、
また、ヨーロッパから持ってきた病原菌で次々と倒れていき、
金が枯渇した1518年には島のインディオの人口は1万人になり、
わずか20年で壊滅状態までに至った。

1501年に総督となったオバンドは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)を実施したが、
先住民を奴隷として酷使する制度となり、また彼が築いたスペイン人の15の町は、
1605年にはすべて放棄され、人口はサント・ドミンゴ周辺に集められ、
カリブ海諸島の大部分は、野生植物に覆われ、野生の犬、豚、馬、牛などの生息する僻地となってしまった。
人がいない、海賊が休息・生活する場を提供してしまった。

海賊ビジネスの高収益性
カリブ海の島々は、16世紀半ばからヨーロッパ各国の海賊・密輸船が横行する場所になってしまった。
1577年には、エリザベス女王が、カリブ海での私略船(海賊行為)に財政支援を与えることとなり、
公然とスペインに対抗するまでになった。
何故かというと、
海賊行為は、ハイリスクだがハイリターンでありやめられない。ということだ。

イギリス人の有名な海賊ドレイクは、1577年12月世界一周の海賊航海にプリマス港を出港した。
彼の航海からリターンの大きさをつかんでみると・・・・
マゼラン海峡を超えたドレイクは、チリーバルバライソを襲撃、ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃、
エクアドルのサンフランシスコ岬沖合で財宝を満載したカカフェゴ号を捕獲、グアテマラの港町グアタルコを襲撃、
サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣言。
1580年年9月 ドレイクは3年にわたる世界一周を終え帰還。
英国の国庫収入を上回る60万ポンドを持ち帰り財政建て直しに貢献した。

海賊は繁栄したが、先住民の遺伝子は残らなかった
海賊ビジネスは、
英国の財政基盤を強化し、スペインの無敵艦隊を破り大西洋を支配する原動力となるが、
カリブ海にはスペインに帰還する金・銀などを乗せた船を襲う、パイレーツ(海賊)が
フランス、イギリスの後押しを受け増殖し残った。

また、
エスパニョーラ島の現在は、西側1/3がハイチ共和国、東側2/3がドミニカ共和国で、
人口計1648万人となるが、その大部分はアフリカからつれてこられた奴隷の子孫であり、
インディオの遺伝子は伝わっていないというから信じられないことが現実に起こった。

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一雨ふって クロッカス(Crocus)もつぼみから花へ

2008-02-28 07:56:39 | その他のハーブ


一昨日は夜半から久しぶりの雨。

この雨が、寒風で時を待っていたクロッカスを刺激したようだ。

朝方には、つぼみを持ち始め、時間とともに成長している。

隣では、陽ざしの当たる順番でつぼみを持ち始めた。

葉が出始めてから10日目。

着実に春をキャッチしている、このおおよその時間感覚がうれしい。

もう少しでオンシーズンだ。

そして、お昼頃には陽ざしに誘惑され 花びらを開いていた。

今年一番の花でした。



クロッカス(Crocus)
・あやめ科サフラン属
・原産地は地中海
・秋植え球根春咲き
・花が先に咲き葉はその後
・同じ属にあるサフランは秋咲き
・花言葉は、「青春の喜び」「信頼」
・水はけが良い、日当たりの良い場所が適地
・花が終わると葉が茂るが、これを切らないで球根に栄養を与えるようにする。
・また花のお礼の肥料を与える。

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その33:大航海時代の脱線編②:挑戦者のハイリスク・ハイリターン戦略

2008-02-27 07:49:46 | ときめきの植物雑学ノート
アドベンチャーポルトガル
ポルトガルは、国内の統一を1249年に実現し、大西洋に面したリスボンを首都としたのは1260年頃である。
そして、海外の交易に目を転じるようになった。
航海王子として知られているエンリケ王子(1394-1460)がアフリカ西海岸攻略に乗り出したのは
1415年頃からで、黄金・奴隷を求めてアフリカ航路開拓が進んだ。
しかも、1488年には、バルトロメオ・ディアス(1450?-1500)により
アフリカ南端の喜望峰にまで到達しており、東廻りインド航路開拓は着々と進んでいた。

一方のスペインは、
現在のスペインを二分していたカスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドとの結婚により、
両王をいただくスペイン王国が誕生したのは、1479年のことである。

ハイリスクハイリターンの海賊事業(利益率の高い領域)に進出
ポルトガルと較べてスペインは、国内統一で約2世紀、海外交易進出で約1世紀遅れた。
この遅れを取り返すのが、ポルトガルへの挑戦であり、ポルトガルからの学習でもあった。
ポルトガルから学んだことは、海賊行為であり捕虜(奴隷)・戦利品の獲得が危険ではあるが
利益率が高かいということであった。
遅れて参入した者は、信頼・商流(物流と商いの仕組み)・販売などのネットワークを新たに構築する時間が足りない。
短期間に収益の高いところで儲けるには、搾取・略奪・戦争であることを学んだ。
国は、これらに5分の1税と高い税をかけビジネスとして認知した。

ビジネス初期のハイリスク・ハイリターンは、山賊ではなく海賊行為であった。
山賊は元手が要らないが、海賊の場合は、優秀な船(速い、大きい、攻撃の武器が優れている)と人への巨額な投資が必要となる。
イサベラ女王は、600トン級の大型船建造には助成金を出し奨励するなど海外進出を助成し、
結果として、短期的な収益獲得としての海賊産業を助成・育成することになる。

このスキームが、スペインを短期間で世界No1の帝国にし、
No1になってからこのスキームを切り替える人材・エネルギー不足から
崩壊のスピードを速めた。と考える。

この当時のポルトガルの人口が150万人、スペインの人口を500万人と見ると、
(1500年頃のヨーロッパの総人口は14世紀のペスト、百年戦争などでの人口減があり
56百万人と見られている)
命がけでハイリスク・ハイリターンを追及する少数精鋭でなければ冒険行為は出来ない。
その少数精鋭の征服者といわれる略奪産業の初期の軌跡は以下のようになる。

(出典)カリブ海の地図


『スペインの植民地探索と開発』
1. エスパニョラ島の金の開発
・ シバヨ、サン・クリストバル地方で有望な砂金が見つかる。16世紀に入ってから年産2トンの実績を上げる。ゴールドラッシュは1515年頃まで続き、エスパニョラ島には8,000人のスペイン人が集まった。
2. 香料諸島に通じる海峡の探検
・ 1505年1508年専門家会議を行い、探検船の派遣を決定。北アメリカ、南アメリカ、ラ・プラタ河口までの地域を探検。
3. 南の大陸の探検
・ 1499年アロンソ・デ・オヘーダ、ペロランソ・ニニョ、アメリゴ・ヴェスプッチがベネズエラに航海
・ 1500年ファン・デ・ラ・コサ、ロドリーゴ・デ・バスティダスがパナマ地峡地域の探検と植民の糸口を作る。
・ 1501年9月スペイン国王は、ニコラス・デ・オバンドを総督として派遣。1509年まで統治。オバントは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)(注1)を実施する。
・ 1504年頃コサは、ベネズエラ沿岸からウラバ湾に入り金を手に入れる。また、奴隷狩りを行う。(致命的な失敗で、先住民の敵対心をあおる)
・ 1509年コロンブスの子ディエゴが総督として着任。
・ 1511年ディエゴ・ベラスケスがキューバを征服。金が発見され、1518年までゴールドラッシュで沸く。征服者にエンコミエンダで住民を与えられ、強制労働などにより人口が激減
・ 1512~1513年ポンセ・デ・レオン、フロリダ探検を行う。
・ 1513年パスコ・ヌニェス・デ・バルボアたちは、パナマ地峡を横断し太平洋を発見。ただし、太平洋とは知らず、大きな湾だからサン・ミゲル湾と命名。
・ ペドラリアス・ダビラは、1519年太平洋岸にパナマ市を建設。
・ 1517年ユカタン半島マヤの神殿都市を偶然発見。
・ 1518年キューバ総督ベラスケスは、未知の国探検をフェルナンド・コルテスに命じる。コルテスメキシコ上陸後ベラクルス市を建設。
・ 1518年カルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 -1556年)アフリカ人奴隷をインディアスに輸送する許可を与える。カリブ海諸島での先住民が絶滅などしたので、労働力不足を補うために実施された。1519年以降サント・ドミンゴはカリブ海での奴隷市場としてにぎわう。
・ 1520年アステカ帝国首都テノチティトランを征服しここにメキシコ市を建設。これ以降、カリブ海諸島での金ブームが去りまた人口減もあり関心は内陸部に向かう。
(注1)エンコミエンダ(encomienda)
新大陸植民地での初期の原住民統治制度。原義はスペイン語で“信託”。1503年の国王命令により、インディアス統治官オバンド(Nicolas de Ovando)によって制度化され、09年の国王政令で追認、12年のブルゴス法で細目が定められる。
この制度は、自腹を切って渡航した武装集団=征服者(コンキスタドール)を活用する以外スペインの王権の権利を確保することができなかったので実施されたが、
先住民の奴隷化など略奪・搾取を認める制度となった。

土地に縛り付けられ移動性が極端に低かった封建時代の統治のスタンスは、
“納税者を生かさぬよう殺さぬよう”というものであった。
“生かさぬよう殺さぬよう”ここには、長期的な利益最大化という考え方が反映しており、
人間のギリギリまでを追求した厳しい収奪の考え方だ。

コロンブス以降、新大陸に来たスペイン人は、国家としてポルトガルから学んだ
最も収益性が高い事業は、“海賊行為”であることを熟知していた。
タネをまき、作物を育てて原価を回収するなどという収益獲得の考えには至らず、
果実だけを根こそぎかき集めていく狩猟採取的な植民地経営を行った。
根こそぎとり終わったら、次の果実に移っていくというさすらい人となってしまった。

新大陸での終わりがまだ見えない“発見”の連続、
この広がっていく世界に対する自分の寿命が限られていることでのあせり
欲が欲を加速させ、更に大きな欲でないと刺激を満たせなくなった感覚の麻痺
投資回収を手早くスピーディに行いたいという投資家の締め付け

ポルトガルに遅れていたというコンプレックスが
手っ取り早い方法を見つけ突き進んだところ、最初は合理的でも狂気になっていったのであろうか?
21世紀の地球環境では難しいが、焼き畑農業のほうがまだ永続性があるし、
“生かさぬよう殺さぬよう”は、人間の知性を持った温かみすら感じるほどの
植民地経営を行ってしまった。


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もっちり・さっぱりのジャガイモステーキ

2008-02-26 07:57:51 | 男の料理
ジャガイモを買い過ぎてしまい、チェックしてみたら芽が出ていた。
ナス科の植物は、どこかに毒性部分があり、
ジャガイモの場合は、芽にある。

それにしても、芽が5~10㎜も伸びたジャガイモは、どこか地球離れしたところがある。
標高2000メートルを超える南米アンデス山脈の山麓が原産地であり、
1533年にインカ帝国を亡ぼしたスペイン人のピサロは、黄金に目がくらみ
地下に眠る金以上の価値があるジャガイモに気づかなかったそうだ。

さて、この芽が出すぎたジャガイモをどう処理をしようかと悩んだが、
つぶしてせんべいみたいに薄くした、ジャガイモステーキを作ることにした。
しかも、カレーのサイドメニューとして成立させる必要があり、
超ピリカラのカレーに対しての脇役だから、さわやかさにしたい。

(写真)オーロラソースかけジャガイモステーキ


工夫は、2タイプのみじん切りしたタマネギ。
炒めたタマネギにはコクをだしてもらい、生のままのタマネギではさっぱり感を出したい。

【材 料】(4人分)
・ジャガイモ    5個(一人1個見当)
・タマネギ     1.5個
・ベーコン     ハーフカット4枚
・ニンニク     2片
・しょうゆ     大さじ1杯
・みりん      大さじ1杯
・コショウ     少々
・片栗粉      適量
・バター      適量
・オーロラソース  ケチャップ1:マヨネーズ1を混ぜる。

【作り方】
1.ジャガイモの皮をむき5㎜程度のスライスにする。これを電子レンジでやわらかくなるまでチンする。(10分程度で様子を見る)出来上がったらつぶして冷ましておく(さまさないでもOK)
2.タマネギ、ニンニク、ベーコンを荒みじん切りし、油を引かないフライパンできつね色になるまで炒める。この時タマネギは1個分だけを使い、1/2個分は生で使うのでとっておく。(これがさわやかさその1)
3.つぶしたジャガイモに2で炒めたものと、生のタマネギを加えよく混ぜる。コショウは好みで入れる。(少量がいいです)
4.ハンバーグの形をつくる感じで、8個ぐらいつくり、これに片栗粉をつける。
5.フライパンでバターを溶かし、片栗粉をつけたジャガイモステーキを焼く。両面とも狐色に焼きあがったら完成。
6.オーロラソース(ケチャップ1:マヨネーズ1)をつくり、これをかける。

【感 想】
・ジャガイモ、バターと想像しただけでむねやけがしそうだが、これが意外とあっさりしているので驚き。タマネギが利いている。
・さらに、オーロラソースが適度の酸味を加えてくれるので、更にさっぱりとして食べることが出来ます。
・1食事で1個がいいと思います。残りは、翌日の朝食にコーヒーでいかがでしょうか?
・材料は冷蔵庫にあるもので簡単につくれるので、不意の来客の酒のつまみとしてもいけそうです。ソースをかえると、コロッケになってしまいそうですがこれもありです。

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その32:大航海時代の脱線編①:略奪ごめん!権利・利権の源は?

2008-02-25 09:13:33 | ときめきの植物雑学ノート

“発見”“拾った物”“奪ったもの”“育てたもの”は誰のもの?
コロンブスが新大陸を発見して、ここを領土とするなど新たな利益機会が生まれた。
この新たな利益機会の権利を、追従するであろう競争相手から守るために
・権利を発生させ如何に保護をするか?
・どのような利権の開発・開拓投資を行ったか?
・そしていかに投資回収をしていったか?
ヨーロッパ人にとって認識していない新大陸、歴史初の巨大な利権開発事例をレビューしてみたい。
何故ならば、冒険であっても、その行為には投資家がいて出資があったからこそ実現した。
大きなリターンは“権利”を“権益”にしなければ実現しない。
さて、スペインはどういう利権開発をしていったのだろう!
新大陸での“権利”の正当性化と、そこでの“権益”の作り方についてのプロセスの確認からしてみよう。

世俗のNew権利を裏付けていたのは、ローマ教皇。
ポルトガルは、スペインに先立ち15世紀初めから1世紀半にわたり海外に進出した。
人口100~150万人のこの小国ポルトガルが海外進出した要因は、
自国だけでなくヨーロッパ中の金・銀を吸い尽くしていた“香辛料・薬草などのアジアの物産”の魅力のようだ。
インドにいち早くたどり着き、アジアの物産、特に香辛料をわが流通に乗せたい。
あわよくば、生産地・生産システムを横取りしたい。
こんな明確な動機があった。

地中海経由は、ヴェネチア、オスマン帝国、カイロの商人などが抑えているので、
アフリカ喜望峰周りでの新ルートを開拓せざるを得ない。
1482年には、ギニア湾岸にミナを建設し、ここを拠点として金・奴隷・胡椒・象牙などの貿易で潤ったが、
このような、利権・権益を世俗で認められるように保証させておく必要があり、
1455年にローマ教皇から大勅書を獲得した。
これが大きな意味を持ち、これ以降、教皇が保証し、国王が運用する二人三脚での
新世界の略奪と秩序を形成する時代にはいった。

大勅書の内容は、「キリスト教の布教をするかわりに、すでに発見したさらにはこれから発見する非キリスト教の世界における征服と貿易の独占権と聖職叙任権を国王に与える。」というものであった。
困ったときの神頼みではなく、困ってはいないが、いずれ追従者が来た場合の正当性を担保した。
新世界への十字軍という気構えもあったのだろうが、この時代の征服とは、戦費を賄う
戦略品の徴収(現代では略奪というが)は当然でありこれをも意味している。

(写真)世界を二分した子午線(赤線左がスペイン領)


新世界をスペイン・ポルトガルで山分けする企み
1492年のコロンブス新大陸発見後の1494年に、
それまでの条約を見直して新しい条約がスペインとポルトガルとの間で結ばれた。
トルデシーリャス条約というが、両国で、世界を二分して支配するという大胆な条約だ。
スペインの領土は、西アフリカベルデ岬諸島西方370レグア地点に引かれた子午線(西経46度30分)の西側(図上では赤線の左側) と決められ、
アフリカ・アジアはポルトガルに任せ、新大陸すべてをスペインが支配する意図を持ったが、
この時期は、世界の地理的な認識ができていなかったため、南アメリカのブラジルは、
この子午線より東側に入るのでポルトガル領となるなど後日不都合なこともあった。
この条約締結も教皇の調停で決着している。

オスマン帝国とは対立していたが、ヴェネチア共和国などのイタリアの国家を含めた協議があってもしかるべきと思うが、
そうはなっていない。
たった3人で世界を山分けし、キリスト教の布教と切り取り自由の免罪符との交換。
イスラムのジハードも含め、宗教の怖さがここにある。
全ての根源を神から預託されているという論理には何でも出来るという怖さがある。
やはり気をつけよう。

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その31:本草書のトレンド④ 16世紀新世界に関する本草書ブーム

2008-02-22 08:03:43 | ときめきの植物雑学ノート
本草書のトレンド④ 16世紀新世界に関する本草書ブーム

プラント・ハンターのパイオニア、エルナンデス
1570年 医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(1514-1587)は、
スペイン国王フェリペ二世から植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命された。
やはり、腕っ節が強い海賊タイプだけでは物事が進まないことがわかり、
植物・薬草の専門家を送り込まなければならなくなったのだろう。

1571年、彼は、息子のJuanを連れてメキシコに行き、中央メキシコなどを精力的に歩き
薬草及びその情報の収集、サンプルの収集・分類、先住民などからのヒアリングなどを5年間行い
1577年にメキシコを去るまでに800の木版画を取り入れた20冊の原稿を2年間で作成した。
新世界メキシコの動植物を記述した博物誌としては、初めてであり、
この成果は、帰国後のヨーロッパで発表された。

しかし公開・出版はされなかった。
なぜかというと、植民地メキシコの動植物の情報は、
先行するスペインにとって重要な機密情報に当たると判断されたからだ。
このエルナンデスの原稿は、Escorial王立図書館に保存されたが、
残念ながら、この原稿を預けた王立図書館が火事になり原稿は消失した。
しかし、部分的な原稿はメキシコに残っており、メキシコの聖ドミンゴ修道院の修道士によって
エルナンデス死後の1615年にメキシコで出版された。


by Francisco Hernandez (1514-1587). The Rerum medicarum Novae Hispaniae thesaurus seu Plantarum, animalium, mineralium mexicanorum historia

アコスタの新大陸自然文化史
フランシスコ・エルナンデスがメキシコに向かった1571年
イエズス会の修道士ホセ・デ・アコスタ(José de Acosta 1540-1600)は、新赴任地ペルーに向かった。
アコスタは、布教のかたわらでペルーの自然、先住民の生活、言語、習慣などの観察、
動植物の調査などをおこなった。
1576年にはアコスタはペルーの菅区長となり、1588年ローマに向けて旅立ったが、
このときには、これまでのペルーの観察などで書いた原稿を持っていき、
1589年『新大陸自然文化史』7巻中のうちの最初の2巻のラテン語版をサラマンカで出版。
1590年『新大陸自然文化史』(Historia natural y moral de las Indias)全文をスペイン語で公刊した。

エルナンデスの大作は、出版されなかったために評価を受けなかったが、
アコスタの博物誌は、新世界を理解するうえでの良き手引書として高い評価を受けている。

カカオについて記述されているアコスタの観察眼の一部を抜粋紹介すると
“カカオは貨幣としても使われる。このカカオの主な効用は、それからチョコラーテというおかしげな飲み物を作ることである。これはあの地方で愛好される奇妙きてれつな代物で、慣れていない人には、見ただけで吐き気をもよおすものもいる。何しろ上に泡が浮き、くそかすのようなものが煮えたぎっているのだから、よほど念を押さない限り安心してもめない。だが結局は愛好される飲み物でインディオでもイスパニア人でも自分の土地を通る主人たちにこれをささげる。”
(注)チョコラーテの語源は、ナワトル語のchocolatlから出た。



新大陸関係のの本草書
ヨーロッパで始まった植物学への関心は、半世紀遅れの16世紀中頃以降に、
新大陸の自然・社会・生活などにも関心が向かった。

それまでは、中世の奇妙奇天烈な迷信というメガネで新大陸を見る兆候があった。
代表的なのは、エル・ドラード(黄金郷)神話であり、黄金郷を求める異様な情熱が始まり、
アマソーナス、パタゴニア、カリフォルニアなどの地名に騎士道物語から取られた情熱の名残が残っている。
しかし、現地での経験・観察を基にしたリアルな記述が、
迷信・誤解などを消していく役割を果たした。(相当長い時間がかかっているが・・・・)
その先駆けが、博物誌のブームでもある。

【新大陸の博物誌】
・1498年ころ、コロンブスの第二次航海に同行したヒエロニムス会の修道士ラモン・パネー
コロンブスから依頼された信仰と偶像崇拝に関する『インディオの信仰ならびに習俗に関する報告書』を提出。
ヨーロッパ人がインディオの文化を調査してまとめた最初の文書。
・1525年 ゴンサロ・フェルナンデス・デ・オビエド・イ・バルデース(マドリード生まれ1478-1557)
スペイン、トレドで『インディアス博物誌要約』を書く。1534年ラテン語版とイタリア版。
1555年ロンドンで英語版が公刊。
・1552年 フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ『新大陸概史』サラゴッサで第一部・二部を出版。
1553年には縮刷版が出版され、スペイン語版・イタリア語版・フランス語版・英語版に翻訳出版された。
・1553年ペドロ・デ・シエサ・デ・レオンの『ペルー誌第一部』がセビリアで出版。
・1555年アグスティン・デ・サラテの『ペルー発見征服史』がアンヴェールで出版。
・1560年代イタリア人ジェロニモ・ベンゾーニの『新世界史』がヴェネチアで出版。
・1589年ホセ・デ・アコスタの『新大陸自然文化史』7巻中のうちの最初の2巻のラテン語版が
サラマンカで出版。1590年『新大陸自然文化史』全文がスペイン語で公刊。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
⇒Here フランシスコ・エルナンデス メキシコの自然誌を発表(1578)【その31】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

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その30:スペイン無敵艦隊の王、フェリペ二世の問題意識

2008-02-18 08:48:19 | ときめきの植物雑学ノート
スペイン無敵艦隊の王、フェリペ二世の問題意識

大航海時代のスペイン王の国庫は空っぽ!
医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez:1514-1587)
1567年スペイン国王フェリペ二世(1527-1598)の私的侍医となる。

フェリペ二世は、スペイン最盛期の国王であったが、父親から多額の借金も引継ぎ
王室の国庫はデフォルト(借金踏み倒し)を何度か行い、しのいでいる状況であった。
だから、アメリカ大陸の植民地経営には関心が強く、
新世界の有用植物を貴金属と同じように資産として捉えていた。
特に薬用植物に関しては、高価であり輸入に依存していたので、国庫負担を減らすことでも関心が高かった。
ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・チリ唐辛子・カボチャ・トマト・インゲン豆など
新世界の食用植物は、いまではメガ級の世界でも重要な食材となっているが、
これらに関してはあまり関心がなく、タバコを除き利権化することが出来なかった。

プラント・ハンターの元祖、フェリペ二世
1570年 フランシスコ・エルナンデスを植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命した。
コロンブスが新大陸に到着してから78年も経過したが、
この間に、輸入に頼っていた高価な“しょうが(生姜)”を、1530年頃にメキシコにもって行き
植民地での栽培に切り替えることに成功した。
など小さな成果はあるが、フェリペ二世の期待値には届かない。

フェリペ二世の指示は明確で、
・薬草に詳しい全ての人間から情報を収集すること
・薬草など個別の特徴などの内容を得ること
・植物(苗)・種子を得ること
薬用植物をターゲットとしたハンティングそのものであった。
これが、組織的・戦略的な“プラント・ハンター”の始まりでもあり、
新世界の資源・資産を把握・評価する手法の第一歩でもあった。

“しょうが(生姜)”は、いまでは日本食には欠かせない食材となっているが、
インドなどを原産地とした熱帯植物で、この当時は、非常に高価な香辛料であった。
しかも中継貿易を支配していたヴェニス・ポルトガルの商人に利益を搾り取られていた。
この状況を、植民地の薬草を使って変え、既存利権構造の破壊が目的となる。

わき道にそれるが
重商主義時代の国家間の争いには、背後に植民地での植物が絡んでいる。
スペインのタバコ利権を壊すためにイギリス・オランダが挑戦し、
オランダのコーヒー利権を壊すためにイギリスが紅茶を育てかつ争い、
イギリスが確立した紅茶に対しては植民地アメリカが戦った。
など、植民地という新しい経営資源を使った国家間の競争戦略であり、パターン化すると
・原価ゼロの構築(コスト優位性の構築)
・代替物・競争物の構築(競争優位性の構築)
・強権での集権化(選択と経営資源の集中投下)
昨今の企業戦略と同じことを異なるフェーズでおこなっていたことになる。

フェリペ二世は、統治と意思決定に優れたセンスを持った国王のようであった。
書類王とも言われ、晩年に修道院で隠遁するまで、決裁の連続であったという。
新世界メキシコの組織だった動植物の調査研究がなされたのは、フェリペ二世の英明と思う。

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春のあしおと クロッカス(Crocus)の芽

2008-02-17 08:54:21 | その他のハーブ



陽射はよいが、強烈な寒さで庭仕事もなかなかやる気になれない。
本当に気象の長期予報はあたらないものですね~

今年の準備をそろそろしなければならないので、
昨日、鉢と土の手入れをおこなった。
陽射があるので汗は出るのだが、鼻水まで出てしまう。
温度センサーの鼻は正直です。

その鉢の脇から。クロッカスの芽が出始めており、
間違いなく春が近づいている。

クロッカス(Crocus)
・あやめ科サフラン属
・原産地は地中海
・秋植え球根春咲き
・花が先に咲き葉はその後
・同じ属にあるサフランは秋咲き
・花言葉は、「青春の喜び」「信頼」
・水はけが良い、日当たりの良い場所が適地
・花が終わると葉が茂るが、これを切らないで球根に栄養を与えるようにする。
・また花のお礼の肥料を与える。


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その29:タバコの煙で精霊との交信

2008-02-16 11:08:20 | ときめきの植物雑学ノート
タバコの煙で精霊との交信

ロスのダウンタウンから日本人街に行く途中は危険地帯で近寄らないようにとも言われる。
真夏なのに、焚き火を前に火に見いれられた男達がいる。
何をするでもなく、一日中火に取り込まれてしまっている。

確かに、チロチロ燃える炎の動きはジッと眺めていても飽きることがない。

この感覚のスモール版がタバコの煙にある。
照明を落としたバーで、ダウンライトの明かりを浴びた領域をタバコの煙が通り過ぎる。
青紫がかった一筋の煙。
数式では表現できない軌跡。
この美しさと不思議さを感じた瞬間から、浮世から離れ、表現しようも無い世界に入れる。
科学では表せない世界を直感し、この感覚と一体化したいという思いにはいる。
無私。滅私。忘却。逃避。・・・・・・
或いは、精霊との交信。
とでも言うのだろうか。

南米コロンビア・メキシコには、幻覚をもたらす植物が多いという。
代表的なものが、ナス科のチョウセンアサガオ属の植物で、毒性が強く幻覚作用をもたらす。
(最近は、日本の公道にも生えているというから注意を要する。)
これらの特性を熟知していた専門家によって儀式・治療などで使われていたという。
この専門家をシャーマンといい、霊との交信で最も多く使われた植物が実はタバコだったという。
タバコの煙は、霊への贈り物で、お願い事との互恵による交換という意味合いを持つ。
コロンブスへの乾燥した草の贈り物は、先住民の最高のもてなしの儀式だった
ということがわかったのは相当後のこととなる。

現在でも青森県の恐山には、イタコと呼ばれる巫女がおり、先祖の霊との交信を手助けしてくれる。
このようなシャーマニズムは、北アジア特有という説もあるが南北アメリカにもある。
自然の中に霊が宿るという一神教ではない精神風土の形成は、
モンゴロイドの大移動との関連があるのだろうか?

最近では、焚き火は環境問題を起こし、タバコの煙は健康問題を起こしており
精霊への贈り物という悠長な状況ではなくなった。
地球が狭くなったがゆえに、精霊の居所も無くなりつつあるのだろうか?
或いは、非科学の居場所がなくなりつつあるのだろうか?
シャーマンが有していた幻覚作用をもたらす植物の膨大な知識と使い方は、
コロンブス以降の500年間で煙のごとく消えてしまったという。

ただ新大陸の植物は、地中海を中心としたイスラム・ヨーロッパの植物学を
1000年以上も支えてきたディオスコリデスの見識では歯が立たないことが明確になった。
ようだ。

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その28:コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

2008-02-14 09:07:22 | ときめきの植物雑学ノート
コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

1492年10月15日、コロンブスたちを歓迎する先住民から、一束の乾燥した葉が贈られた。
しかし、コロンブスたちはチンプンカンプンだったようだ。
枯葉のゴミをもらったとでも思ったのだろうか?

こんなシーンが、書かれた写本がある。
コロンブスと同行した、ラス・カサス(Bartolome de Las Casas,1474~1566)神父が編纂した
本のお陰で,タバコが発見されたいきさつが後世に伝わった。



コロンブスがこの枯葉をタバコと理解し、ヨーロッパに持って帰ったわけではないが、
半世紀後には、ポルトガル・ベルギー・スペイン・イタリア・イギリスなどでも栽培されるようになり、
16世紀末には、フィリピン・インドへ、
17世紀初めには、ジャワ・日本・中国・西アフリカまで広がった。
コーヒーを上回るスピードで栽培・消費が伝播した。(⇒その24参照)

では誰が新大陸からタバコを持ってきたのだろうか?
先住民がタバコを吸っているのを初めて目撃したヨーロッパ人は、
下士官のヘレス(RodrigodeJerez)と通訳のトレス(LuisdeTorres)といわれており、
ここまで記録が残っているのに、移植・栽培した記録が定かではない。

これは、新大陸に行った船乗りなどが、死刑になりかねない危険物であるタバコを
密輸で持ってきたことしか想定できない。
実際そうらしいが・・・タバコ喫煙の習慣を持ち帰ったヘレスは、
帰国後異端尋問にあい、口から煙を出す悪魔ということで7年間も投獄されたようだ。

合法ではないので、タバコ移植・栽培の記録を残すことが出来ず、
悪いことは刺激があるためか、普通以上に普及が速かったのだろう。
いいうわさは足が遅いが、悪いうわさは足が速いという口コミの原点がここにも見られた。

この暗闇的な商品を日向に出したのが
スペイン人の医師で、植物学者のニコラス・モナルデス(Nicholas Monardez 1493-1588)で、
1571年『新世界の薬草誌』で、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減すると
タバコ擁護論を展開した。

この1570年以降から、ヨーロッパでのタバコ消費がスタートし、
高価な薬としてのタバコから、気分転換としてのタバコへと消費の捉え方が変化する。

モナルデスは、新大陸のハーブに自分の名前をつけたグループ(シソ科モナルダ属)を
発見したり、ヒマワリを栽培し世界に伝播させたり、タバコ以外でも活躍している。
だからこそ、タバコに関しての推奨が効果的に効いたのだろう。

コーヒーもタバコも薬効がある薬として、ほぼ同じ時期に原産地を離れヨーロッパ
そして世界へと伝播することになるが、
タバコの場合は、煙のようにかすかで中心が見えずに確信がもてない。


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