モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No32:カルロス三世とマドリッド王立ガーデン・植物園

2010-12-12 08:12:34 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No32

フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)のメキシコの博物学的な探検は、1571-1577年に実施された。
この時の国王はフェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)で、ポルトガルを併合することによりスペインの領土が拡大し、国力が絶頂期でもあった。

フェリペ二世の視点はシンプルで、征服地から金・銀・宝石などを略奪するだけではなく、開拓を視野に入れていたようで、薬草などの有用植物を発見し、これを育成栽培することにより貿易収支の改善などを意図していた。
このような考え方があったから、王室の出資でエルナンデス探検隊が実現した。

その後、このような探検隊を派遣することもなくなり約200年が経過した。
これは何故なのだろうという疑問があった。エルナンデス探検隊の成果、報告書を使いこなせなかったためなのか、提唱者フェリペ二世が亡くなったので一件落着で忘れ去ったのか、組織として定着しにくいことをしたのか、引継ぎが出来ない国民性があるのかなど疑問は解決していない。

もっとも、この200年間のメキシコでは、領土の拡大とフロリダ、テキサス、カリフォルニアへの進出に忙しく、その過程で銀山が発見され(1545ペルーポトシ、1546サカテカス、1548シナロア、サルガード、1592サン・ルイス・ポトシなど)、花よりは銀の方がお好みだったのだろう。

新世界探検王といってもよいカルロス三世


(出典) wikipedia

エルナンデスから200年後のカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代になってからまた突然に新世界の科学的な植物探検が始まる。

カルロス三世が出資した次のような植物探索の探検隊が三つもこの時期に集中して実施され、その他にも太平洋の調査などがされた。
1.Real Expedición Botánica a los reinos de Perú y Chile(王立植物探検ペルー&チリ1777-1788)
2.Real Expedición Botánica del Nuevo Reino de Granada(王立植物探検グラナダ新王国1782-1808)
3.Real Expedición Botánica a Nueva España(王立植物探検メキシコ1787-1803) 

200年間も眠っていたスペインのこの突然変異的な変わり方には、一体どうしたのだろうという驚きがある。この組織だった動きは、後に世界の園芸市場を動かすことになる英国以上のダイナミックさがある。さらに論理的で戦略があった。

戦略的な拠点は、マドリッド王立ガーデン・植物園
マドリッド王立ガーデンは、1755年にカルロス三世の前国王の時に設立された。1759年に宮殿併設の庭園として設立された英国の王立キューガーデンよりもちょっとだけ早く設立されたことになる。

カルロス三世は、このガーデンを庭園として珍しい植物を展示するだけでなく、植物学を教え、新しい植物を発見・採取する探検を促進する拠点と考えていたという。

何時ごろからこのような考えを持つようになったか定かではないが、庭園から植物園の方向に機能を拡張したのは1770年頃なのだろう。
このガーデン初の植物学教授に任命されたのがオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)であり、彼は1771年から60歳までの1801年までこの職についていたことから推測できる。

そして、カルロス三世のビジョンの二番目は植物の研究機能を高めることで、ヨーロッパの探検隊が集めた植物の新種の収集と研究をオルテガに委任した。
三番目のビジョンが新しい植物を発見・採取する探検隊を発信・推進することであり、1777年にペルーとチリの植物相を調査する探検隊を出発させ、1782年にはグラナダの植物相調査、そして、カルロス三世が亡くなる1年前の1787年にはメキシコの調査をスタートさせた。

先王が作ったマドリッド王立ガーデンを劇的に変化させ、先進植物学の拠点となったマドリッド王立ガーデン、その中心となり推進したオルテガは、スペイン王室がスポンサードしたペルー・チリの探検隊が収集した植物について広範囲に研究成果を発表している。
わき道にそれるが、晩年のオルテガは、彼の同時代のライバルで1801年からマドリッド植物園の園長となったカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に蹴落とされる。

三つの探検隊の成果を見ることなくカルロス三世は亡くなったが、カルロス三世の考えは、イギリスの科学・探検を組織的に推進したバンクス卿(Sir Joseph Banks, 1743 –1820)と同じ時期の相通じる発想であり先見性があった。
しかし、上り坂にあるイギリスと下り坂を転げ落ちているスペインとの国力の差が継続性で違いがでたのか、植物相が豊かなスペインと貧弱なイギリスとの願望の強さの差がついたのか後世に引き継がれなかった。
長続きしていれば素晴らしい果実を手に入れられたのに、続かないところがスペインらしいのだろう。やっぱりカルロス三世は突然変異だったのだろう。

こんな背景で、セッセのメキシコの植物相調査・探検が始まる。

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No31:スペインの絶頂期にメキシコを探検したエルナンデス

2010-12-08 18:31:35 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No31

メキシコのサルビアを始めとした植物の採取記録は1800年代からしかわからない。
ということは、コロンブスから300年間、空白の期間がある。
征服者・統治者スペインは何もしなかったのかという疑問があるが、ここに焦点を当ててみたい。
価値を認めない限り、或いは、意図を持たない限り行動に至らないことはいうまでもない。植民地を増やすための探検、自国にはない原材料を入手するための探索、自国で生産した商品を販売するためのマーケット調査など、ヨーロッパの重商主義、産業革命の進展にともなってフロンティアの獲得競争が熾烈になる。
そのトップに君臨したスペインは、何もしなかったわけではなかった。メキシコで二回の大規模で科学的なアプローチによる植物・動物などの調査を行った。
初めての調査は、1570年代であり、二回目が1780年代からのセッセの調査だった。
何回かに分けて彼らの活動をフォローしてみることにする。

大航海時代のスペイン王室の国庫は空っぽ!
医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)は、1567年スペイン国王フェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)の私的侍医となる。

(写真)Francisco Hernandez 1514-1587
 

フェリペ二世は、1580年にポルトガルを併合し、1588年にエリザベス一世のイングランドに無敵艦隊が破れここから下り坂になるが、スペイン最盛期の国王であった。
しかし、国王に就任した1556年には父親から多額の借金も引継ぎ、王室の国庫はデフォルト(借金踏み倒し)を何度か行いしのいでいる状況であった。

だから、アメリカ大陸の植民地経営には関心が強く、新世界の有用植物を貴金属と同じように資産として捉えていた。
特に薬用植物に関しては、高価であり輸入に依存していたので、国庫負担を減らすことでも関心が高かった。
ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・チリ唐辛子・カボチャ・トマト・インゲン豆など新世界の食用植物は、いまではメガ級の世界でも重要な食材となっているが、これらに関してはあまり関心がなく、タバコを除き利権化することが出来なかった。

プラントハンターの元祖、フェリペ二世
1570年 フランシスコ・エルナンデスを植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命した。
コロンブスが新大陸に到着してから78年も経過したが、この間に、輸入に頼っていた高価な“しょうが(生姜)”を、1530年頃にメキシコにもって行き、植民地での栽培に切り替えることに成功した。
など小さな成果はあるが、フェリペ二世の期待値には届かない。

フェリペ二世の指示は明確で、
・ 薬草に詳しい全ての人間から情報を収集すること
・ 薬草など個別の特徴などの内容を得ること
・ 植物(苗)・種子を得ること
薬用植物をターゲットとしたプラントハンティングそのものであった。
これが、組織的・戦略的な“プラントハンター”の始まりでもあり、新世界の資源・資産を把握・評価する手法の第一歩でもあった。
この点では、16世紀末のスペインは、プラントハンターの独走的なトップランナーであった。

“しょうが(生姜)”は、いまでは日本食には欠かせない食材となっているが、インドなどを原産地とした熱帯植物で、この当時は、非常に高価な香辛料であった。
しかも中継貿易を支配していたヴェニス、ポルトガルの商人に利益を搾り取られていた。
この状況を、植民地の薬草を使って変え、既存利権構造の破壊が目的となる。

わき道にそれるが、重商主義時代の国家間の争いには、背後に植民地での植物が絡んでいる。
スペインのタバコ利権を壊すためにイギリス・オランダが挑戦し、
オランダのコーヒー利権を壊すためにイギリスが紅茶を育てかつ争い、
イギリスが確立した紅茶に対しては植民地アメリカが戦った。
など、植民地という新しい経営資源を使った国家間の競争戦略でもあった。

これをマーケティング的にパターン化すると
・ 原価ゼロの構築(コスト優位性の構築)
・ 代替物・競争物の構築(競争優位性の構築)
・ 強権での集権化(選択と経営資源の集中投下)
昨今の企業戦略と同じことを異なるフェーズでおこなっていたことになる。

フェリペ二世は、統治と意思決定に優れたセンスを持った国王のようであった。
書類王とも言われ、晩年に修道院で隠遁するまで、決裁の連続であったという。
新世界メキシコの組織だった動植物の調査研究がなされたのは、フェリペ二世の英明と思う。

プラントハンターのパイオニア、エルナンデス
1570年、医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(1514-1587)は、スペイン国王フェリペ二世から植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命された。
やはり、金・銀・宝石を略奪する腕っ節が強い海賊タイプだけでは物事が進まないことがわかり、植物・薬草の専門家を送り込まなければならなくなったのだろう。

1571年8月、彼は、息子のJuanを連れてメキシコに行き、1572年2月にベラクルーズに到着した。中央メキシコなどを3年間精力的に歩き、薬草及びその情報の収集、サンプルの収集・分類、先住民などからのヒアリングなどを行い、1577年にメキシコを去るまでに800の木版画を取り入れた38冊の原稿を2年間で作成した。
しかし、エルナンデスの探検旅行の日記・メモなどは保存されていないので、どんな調査を行ったかということがわからない。

新世界メキシコの動植物を記述した博物誌としては初めてであり、フェリッペ二世は、ナポリの出版業者Nardi Antonio Recchiにこの簡潔な要約版を作るように依頼したが、途中で死亡したので、最終的には1651年まで完成しなかった。

また、このエルナンデスのオリジナル原稿は、Escorial王立図書館に保存されていたが、残念ながらこの王立図書館が火事になり原稿は1671年に消失した。
しかし、部分的な原稿は筆写であるがRecchiのところとメキシコに残っており、メキシコの聖ドミンゴ修道院の修道士によってラテン語からスペイン語に翻訳され、エルナンデス死後の1615年にメキシコで出版された。この版はペーパーバックのように廉価版なので結構普及したようだ。

(タイトル)Quatro libros. De la naturaleza, y virtudes de las plantas, y animales que estan receuidos en el vso de medicina en la Nueua España… Mexico: Viuda de Diego Lopez Daualos. 1615.

(出典) The Internet Archive
※インターネットアーカイブ:Hernández, Franciscoの作品群が収録されている。作品画像をクリックするとページ内容が閲覧できる。

マドリッドで原本から筆写したイタリアの医師・出版業者Nardo Antonio Recchiは、1580年代にラテン語のダイジェスト版を制作し、この写本が彼の死後に手を加えられ1651年に出版された。
それまでの薬草などが書かれた傑作は、ディオスコリデス(Dioscorides紀元40-90年頃)の薬物誌で15世紀まで医学の世界で使われていた。この本には約600種の薬草などの薬が説明されているが、Recchiのダイジェスト版には、エルナンデスが記述した新世界の3000種ものハーブなどが収録されていたので驚きをもって迎えられたという。

(タイトル)Rerum medicarum Novae Hispaniae thesaurus, Rome: Vitalis Mascardi, 1651.

(出典) The Internet Archive

同時代、モナルデス「新世界の薬草誌」
エルナンデスと同時期のスペインの医師・植物学者でマドリッド植物園長のモナルデス(Nicolas Monardes 1493-1588)は、新世界に旅行はしなかったが、メキシコなどから帰国した兵士・水夫・商人などから植物の苗・標本などを購入したり聞き取り調査をし、1565年に「Historia medicinal de las cosas que traen de nuestras Indias Occidentales(新世界の薬草誌)」を出版した。この本は1577年にJohn Framptonによって英語に翻訳され出版されたので、エルナンデスの本が出版される前の新世界の植物を取り扱っていたので影響力があった。
特に、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことでも知られる。
(タバコの参照)ときめきの植物雑学:その28:コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

また彼は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込んだヒマワリをマドリッド植物園長で育て、ヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。


当時のグローバルNo1のスペインは、結構しっかりしていたなという感想を抱いたが、エルナンデスの調査結果を生かしきれたのかなという疑問も残る。
エルナンデスは、土着の薬草とその活用を調べたので、今日まで残っていたら新薬を生み出す貴重な情報が含まれていただろう。
生贄を奉げる宗教を根絶やしにするためにその宗教と結びついたハーブ類まで根絶やしにされたようだ。エルナンデスは、伝承が消えかかるギリギリの時代にメキシコを調査していたのでよけいに貴重な情報のような気がする。


(この稿は、「ときめきの植物雑学」シリーズ、 その31 にフェリッペ二世とエルナンデスに関して記載した記事を再編集した。)
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No30:プリングルが採取したサルビア その12、不明なサルビア

2010-12-05 09:10:18 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No30 

【詳細不明なサルビア】
プリングルが採取したサルビアで、植物情報が不明なもの及び画像がないものを記載する。この中には現存していないで絶滅したもの、及び、新種として認められずに正しい品種に統合されたものなどが含まれる。

35. Salvia albicans Fernald (1901)
このサルビアは、1900年9月14日にプリングルがメキシコの南西部で採取し、先に発見したSalvia brevifloraと類似であり説明は次を参照。

36. Salvia breviflora Moc. & Sessé ex Benth. (1833).
このサルビアを西洋人として最初に発見・採取したのは、ボヘミア(チェコ)の自然科学・植物学者プレッスル(Presl,Jan Svatopluk 1791-1849)とその弟の植物学者カーレル(Presl ,Karel Bořivoj 1794–1852)で、1832年頃にメキシコに植物探索に出かけていてこのサルビアを採取した。記録に残るメキシコ初期のプラントハンターの一人であり、このシリーズで取り上げようとしたが資料の少なさで断念した。
プリングルは、1903年10月22日にメキシコシティに近いモレーロス州のヤウテペック(Yautepec)でこのサルビアを採取しているが植物の詳細はわからない。

37.Salvia albocaerulea Linden (1857) 
サルビア・アルボカエルリアは、最初に誰が発見したか良くわかっていないが、1857年にベルギーのプラントハンター、リンデンを敬して名付けられた。プリングルは、1899年2月15日にメキシコ南西部太平洋岸のモレーロス州クエルナバカでこのサルビアを採取している。しかし、実物はどのようなものか良くわからない。
クエルナバカは、メキシコシティから1時間のところにあり、スペインの征服者コルテス(1485-1547)が、1530年にアステカの神殿を破壊し、その石で自分が住む宮殿を作ったところで、年間を通じて20℃という快適な気候に恵まれている。

38.Salvia arthrocoma Fernald (1907). 
メキシコ、イダルゴ州 (Hidalgo)トリニダードの深い峡谷で1904年7月16日に採取。

39.Salvia assurgens Kunth (1818). 
プリングルは、1892年7月18日にメキシコ、ミチョアカン州(Michoacán)の州都モレーリアで採取した。モレーリアは、1541年にスペイン人によって建設された古い町であり、1640年から1世紀にわたって建設が始ったカテドラル(大聖堂)がある。
最初の発見・採取者は、フンボルト探検隊のボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)であり、彼らもこの完成した大聖堂を見たのだろう。

40.Salvia axillaris Moc. & Sessé (1833).  サルビア・アクシラリス
メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取し、その後の1898年7月18日にプリングルがメキシコシティの真上に位置するイダルゴ州でこのサルビアを採取する。
サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、写真を見つけることが出来なかった。

41. Salvia candicans M. Martens & Galeotti(1844).  
プリングルは、1895年12月21日にメキシコ、プエブラ州でこのサルビアを採取している。マーティンによって命名されたのが1844年なので、大分間があってから採取された。

42. Salvia chalarothyrsa Fernald (1907).
1904年10月27日にメキシコ、ハリスコ州トゥスパンの丘でプリングルが最初に採取・発見した。

43. Salvia comosa Peyr. (1859) 
サルビア・コモサは、1859年にオーストリアの医師で植物学者ペリッチ(Peyritsch, Johann Joseph 1835-1889)によって命名され、プリングルは1903年9月14日にメキシコで採取している。
しかしこのサルビアは、後にSalvia laevis Benth. (1833)と同じであるとされた。

44. Salvia connivens Epling (1939).
このサルビアは、プリングルが最初の発見者で、1890年7月23日にメキシコのサン・ルイスポトシで採取している。
UCLAの植物学教授でサルビア属の権威となるエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が1939年に命名する。

45. Salvia heterotricha Fernald (1900).
プリングルは、1901年5月13日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラで採取しているが、このサルビアの最初の発見採取者はパーマ(Palmer ,Edward 1831 -1911)であり、同じハリスコ州のリオ・ブランコで採取した。

46. Salvia igualensis Fernald (1901).
プリングルは、このサルビアをメキシコ、ゲレーロ州イグアラの石灰質の山で1900年9月20日に採取した。
しかしながら、このシリーズNo10でとりあげたギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)が1865年11月24日にメキシコ、チアパス州で採取したサルビア・ギエスブレッティー(Salvia ghiesbreghtii Fernald(1900))と同じであり、このサルビア名が採用される。

47. Salvia laevis Benth. (1833).
メキシコに来た初期のプラントハンター、グラハム(G. J. Graham)が1830年にメキシコ、メヒコ州の州都トルーカの北西方向にある銀鉱山が1558年に発見されたTlalpujahuaで最初に採取した。プリングルは、1892年7月30日にグラハムが採取した場所より西側にあるミチョアカン州パツクアロで採取した。

48. Salvia leptostachys Benth. (1833). 
プリングルは、1900年10月18日にメキシコ、モレーロス州の古都クエルナバカでこのサルビアを採取する。

49. Salvia lozani Fernald(1907)
このサルビアは、不思議なことにプリングルしか採取していない。彼は、1904年にイダルゴ州の松林の中の湿地帯近くで採取したと記録されている。

50. Salvia nepetoides Kunth(1818)
このサルビアは、フンボルトとボンプランが1803年頃メキシコで採取したのが最初のようだが、それ以降1898年にプリングルが採取するまで記録がない。
名前の由来は、日本でも馴染みのカラミンサの学名(Calamintha nepeta)ネペタに似た花ということなので、ミントの香りがする白花なのだろう。

51. Salvia oreopola Fernald (1900)
プリングルがメキシコ、モレーロス州のクエルナバカで最初に発見したサルビアだ。

52. Salvia platyphylla Briq. (1898).
このサルビアは、プリングルが1889年7月3日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラで採取している。最初に発見採取したとされているが、このシリーズNo14 でとりあげたパーマが1886年に同じハリスコ州で採取している。

53. Salvia podadena Briq. (1898).
シリーズNo8でとりあげたガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)が最初の発見・採取者で、メキシコ、オアハカ州で1840年に採取した。プリングルは、1901年8月にメキシコ、プエブラ州で採取している。

54. Salvia thyrsiflora Benth. (1846). サルビア・ティルシフローラ
1840年以前にBarclayがメキシコ、ナジャリ州テピクで採取したとあるが、謎の人物で良くわからない。また植物情報も少ない。
プリングルは、1891年11月26日にミチョアカン州パックアロでこのサルビアを採取している。このパックアロ(Pátzcuaro)は、パックアロ湖畔に作られた街で美しい自然とコロニアル調の街並みが美しいという。

55. Salvia tricuspidata M. Martens & Galeotti (1844).
このサルビアの最初の発見者は、ベルギーのプラントハンター、ガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)で、1840年にメキシコの南西部で採取した。
プリングルは、1894年8月28日にオアハカ州の3000mのところでこのサルビアを採取した。

56. Salvia urolepis Fernald (1910)
プリングルが1903年8月25日にヌエボレオン州モンテレイで最初に発見・採取したサルビアだ。


ここまで目を通す人はいないだろうなと思いつつも、プリングルに敬意を表して書くことにした。他のプラントハンターのところで記述したサルビア21品種も残っているが、そこまでフェティッシュになることもあるまいと思いつつ割愛することにした。
しかし、最後まで目を通した方がいたとしたら感謝すると共にその動機を知りたいなというのが個人的な関心でもあり、コメントをいただければうれしい限りです。
プリングルはこれで終わりですが、まだ書きたいプラントハンターがいるので、気力が整い次第継続をいたします。
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No29:プリングルが採取したサルビア その11

2010-12-03 15:18:33 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No29 

29. Salvia texana (Scheele) Torr. (1858). サルビア・テキサナ
 
(出典) Texas AgriLife Research and Extension at Uvalde


(出典) Lady Bird Johnson Wildflower Center

テキサスからメキシコ北部にかけて乾いた岩が多いところに自生するサルビア・テキサナは、草丈30cm程度で、ローズマリーのような細長い葉に特色があり初春からパープルブルーの花を咲かせる。コモンネームは、テキサスセージ(Texas Sage)、ブルーセージ(Blue Sage)であり、テキサスの代表的なサルビアでもある。
1847年にメキシコでグレッグがこのサルビアを採取していて、ハーバード大学の植物学教授グレーの師でもあるトーリー(Torrey, John 1796-1873)が1858年に命名している。
プリングルは、1886年9月から10月の間にメキシコ、チワワ州でこのサルビアを採取した。魅力的なサルビアなので育ててみたい一つでもある。

30. Salvia thymoides Benth. (1833).  サルビア・ティモイデス

(出典)flickr

霧が多い森林ではコケが生え独特な植生を作り出すが、サルビア・ティモイデスは、霧と雨が多いプエブラ州の狭いエリアが原産地で、草丈30cm、タイムのような葉をしていて、青紫の小さな花を冬から初春に咲かせる。
名前の由来は、葉がタイム(Thyme)に似ている(=oides)ことから1833年にベンサム(Bentham, George1800-1884)によってSalvia thymoidesと名付けられたが最初の発見者はわからない。
セッセ探検隊なのかもわからない。
プリングルは、メキシコ、プエブラ州の1950mの霧が多い森林で1895年11月21日にこのサルビアを採取した。

31. Salvia verbenaca L. (1753),又はSalvia verbenacea L サルビア・バーベナカ

(出典) University of California, Berkeley

バーベナセージ(Verbena Sage)とも呼ばれるように、バーベナに似た葉を持ち、青紫の花が夏場に咲く。草丈60㎝程度とあまり大きくなく、野生種のクラリーセージ(Wild clary)とも呼ばれる。
クラリーセージ(Salvia sclarea)は、南ヨーロッパからアジアに生息するサルビアで、ロゼット状の立ち上がりで150㎝と比較的大型だ。
ちなみに、種小名の“verbena”は、葉が多い枝を意味し、確かに多すぎる嫌いがある。
古くから知られたサルビアでもあり、プリングルは、1901年7月7日にメキシコシティでこのサルビアを採取している。

32. Salvia veronicaefolia A. Gray (1886)

(出典)ミズリー植物園

写真は、プリングルが採取した植物標本で、このように整理されて保管される。
しかしこのサルビアは、プリングルだけしか採取していない。採取したのはハリスコ州のグアダラハラ1889年6月に採取している。

33. Salvia vitifolia Benth. (1835) サルビア・ビティフォーリア

(出典)Robin’s Salvias

サルビア・ビティフォーリアは、「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」でも紹介したが、サルビア・パテンスに良く似た素晴らしいブルーの花を咲かせる。

最初の発見・採取者は、謎のアンドリュー(Andrieux, G.)で、1834年6月にサン・フェリペで採取し、サルビア・パテンスを英国の園芸市場に持ち込んだハートウエッグも1839年にこのサルビアを採取している。
プリングルは、1894年5月26日にオアハカ州2300mのところで採取している。
プリングルが採取したサルビアの中でも傑作のひとつだろう。

34. Salvia xalapensis Benth. (1848). サルビア・キラペンシス

(出典)Robin’s Salvias

サルビア・キラペンシスは、明るい青紫の小さなが咲くサルビアで、初期の採取者は、1839年にベルギーのプラントハンター、リンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)であり、同じ頃にベルギーの地質学者でプラントハンターとなったガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)、そしてドイツ人のシエデ(Schiede, Christian Julius Wilhelm 1798-1836)もこのサルビアをメキシコ南西部で採取している。
シエデはあまり説明していないので簡単に紹介すると、ドイツの医者・植物学者で彼が30歳の時の1828年にメキシコに移住し、ナチュラリストのFerdinand Deppe (1794-1861)とともに、メキシコの動物・植物の標本をヨーロッパの博物館などに収集し販売する活動を始めた。1830年後半には、この商売がうまくいかず活動を断念し、1836年彼が38歳の時にメキシコで死亡した。
プリングルがこのサルビアを採取したのは、1901年6月21日にベラクルーズだった。


こうしてみると、プリングルは、1880年代から彼が亡くなる1911年までの30年間メキシコのあらゆるところを訪問し植物採取を行っていた。
物心両面で彼を支えたハーバード大学のグレーがいなければプリングルの名前もその足跡も残らなかっただろうと思う。

プリングルが採取したサルビアの中で、植物情報がわかるものに限って34品種をとりあげたが、植物情報がわからないものが数多くある。
もちろん、プリングルはサルビア以外にも多くの植物を採取しているが、これだけのサルビアを採取したプリングルのコレクションはすごいの一言に尽きる。

(後日、植物情報がわからなかったものをまとめて掲載する。)

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