モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

「ジャノメエリカ」を採取した英国初期のプラントハンター達

2010-03-26 08:39:44 | プラントハンター物語(未分化)
(写真)ジャノメエリカの花


エリカ属の大原産地は南アフリカのケープ地方だが、「ジャノメエリカ(Erica canaliculata Andrews)」を採取したコレクターを調べると、イギリスの初期のプラントハンター4名登場する。
その簡単な物語を年代順にまとめてみる。

コレクター1:マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
(写真)フランシス・マッソン
         
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるプラントハンター第一号がマッソンだった。
マッソンに関しては、これまでに記載したモノがあるので最下部にリンクを記載!


コレクター2:ニーヴン(Niven, (David) James 1774-1826)
ニーヴンは、英国王立エジンバラ庭園の庭師・プラントハンターで、スコットランドのPenicuick 植物園で働いていた1798年に南アフリカ・ケープ地方に植物探索に出かけ、ニーヴンは5年間そこに滞在し多数のエリカなどを採取し本国のスポンサーに送った。
彼を支援したスポンサーは、英国東インド会社で財を形成したヒバート(Hibbert , George 1757-1837)であり、趣味の庭造りと植物学のために多くのプラントハンターを支援した。彼は特に南アフリカ・ケープ地方、オーストラリア、ジャマイカの植物に興味があった。
ニーヴン第二回のケープ地方への植物探索旅行は、1803-1812年に実施されスポンサーはジョセフィーヌであった。新種のプロテアはこの旅で発見された。
ジョセフィーヌは、バラだけでなくヒース(エリカ属)をも集めたが、その入手方法は、
英国の育種商“リー&ケネディ商会”とジョセフィーヌなどが出資してファンドを組み、ニーヴンの活動費を支援した。投資に応じてニーヴンが採取した植物の種・球根・苗木などを受け取るが、ジョセフィーヌのマルメゾン庭園はこうしてヒースが増えていった。


コレクター3:ロッジーズ(Loddiges, George 1784-1846)
(写真)"Erica muscosoides" by 「The Botanical Cabinet」
         
"Erica muscosoides" engraved by George Cooke, published in The Botanical Cabinet by Conrad Loddiges & Sons, 1823

ロッジーズは、ロンドン郊外のハックニーにドイツから移住した父親が作った小さな保育園を経営する庭師で、18~19世紀に世界の珍しい植物を集めて育てて販売しヨーロッパでもラン・ヤシ・シダなどでは有数なナーサリーに育てる。
彼のユニークな点は、科学的なアプローチに関心を持ち、ラン・ヤシなどの熱帯植物を育てるための巨大な温室をつくるとか、オーストラリアからの植物を生きたままで運搬するための“ウォードの箱(Wardian Case)”を使うなど最先端の科学技術を駆使した。この“ウォードの箱”はなかなかの優れもので、長時間の航海での植物へのダメージを軽減し、枯れ死させることなく運搬できるようになったという。珍しい植物を採取するプラントハンターが果せない生きたままで本国に届けるという役割外のことを見事に果したという。
また、ナーサリーのコレクションを精緻な版画で描いたカタログ雑誌“The Botanical Cabinet”を1817-1833年の間で発刊し、園芸の大衆化に寄与した。
この雑誌には、南アフリカ原産のエリカ属のヒースが多数描かれており、ヒースの普及にも一役買っている。

コレクター4:カニンガム(Cunningham, Allan 1792-1839)

エリカの採取はオーストラリアでの1種類だけだが、カニンガムは、マッソンに始ったバンクス卿が海外に送り出したプラントハンターの最後となる。
カニンガムは、1814年にキュー植物園の同僚ジェームズ・ボウイ(1789‐1869)とともに南アメリカの植物探索を命じられてリオ・デ・ジャネイロに到着した。
このブラジルでの植物探索は成果がなかったようであり、1816年にはカニンガムはオーストラリアに、ボウイは南アフリカでの植物探索を命じられた。

シドニーに1816年12月20日に到着したカニンガムは、オーストラリアの探険家で知られるイギリス人のオクスリー(Oxley ,John Joseph William Molesworth 1785-1828)の1817年の探検に加わり、450種もの標本を集めることが出来きプラントハンターとして成長していく。
カニンガムは、オーストラリア・ニュージランド探検を終え1831年に英国に帰国したが、彼を送り出したバンクス卿は1820年に亡くなっていた。
バンクス卿の死とともにキュー植物園の活動は低下し、海外に派遣したプラントハンターは呼び戻されるとか、給与のカットがなされたようであり、カニンガムも厳しい10年であったようだ。
カニンガムは1837年にオーストラリア政府の植物学担当として戻ってきたが、仕事が役人達が食べる野菜作りであったので翌年辞任したという。やっていられないという気持ちは良くわかる。

(写真)ジャノメエリカの花


プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、これを船で輸送する技術とネットワークとしての東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン。これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。

未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。

しかし、冒険家、探検家だけではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。

江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。

採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。

フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?

名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか? 

マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。

ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
う~ん。気づくのが遅すぎたきらいもあるが、気をつけよう私も!

(参考)フランシス・マッソン掲載原稿(シリーズ:ときめきの植物雑学ノート)
その50:喜望峰④マッソンとバンクス卿

その51:喜望峰⑤ケープの植物相とマッソン

その54:喜望峰⑧ツンベルクとの出会い

その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ

その52:喜望峰⑥極楽鳥花

その53:喜望峰⑦ソテツ

その55:喜望峰⑨エリカ

その56:喜望峰⑩イキシア
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ジャノメエリカの花 と( 次回は、採取した初期のプラントハンター達 )

2010-03-25 13:36:49 | その他のハーブ

(写真)ジャノメエリカの花


「ジャノメエリカ(Erica canaliculata Andrews)」は、11月から4月頃まで咲く有難い花だ。
和名の「ジャノメエリカ」は、釣鐘型の淡い桃色の小花から突き出る雄シベの黒い葯(やく)が蛇の目のようであるところに由来しているが、写真のアップで見るとちょっと恐い感じがする。

日本人にはまだわからない感覚だが、エリカ属の植物はイギリス人を魅了しているようだ。イギリスではエリカ属の植物などを「ヒース(heath)」と呼ぶ。
(ヒースに関してはここを参照)

ジャノメエリカ
・ ツツジ科エリカ属の常緑低木。
・ 学名Erica canaliculata Andrews。英名channelled heath、heath。和名は蛇の目エリカ。
・ 原産地は南アフリカ・ケープ地方。
・ 開花期は11月から4月、小さなピンク色の釣鐘型の花、そこから覗く黒いオシベが特徴的。
・ 樹高150-200㎝。
・ 庭木、垣根などに利用される。

命名者:アンドルーズ(Andrews, Henry Charles fl. 1794-1830)アンドルーズは、英国の植物学者で、植物画を描くアーティスト。その正確で芸術的な描き方は、カーティスのボタニカルマガジンでも紹介されただけでなく、増大する素人の園芸家の欲求を喚起する貢献をした。彼がジャノメエリカの命名者になったのは、ヒースに関する著作物が多く英国にヒースを紹介する原動力となった。

(写真)ジャノメエリカの立ち姿
        

続きは明日掲載

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早咲きサクラ、「イズタガアカ(伊豆多賀赤)」の花

2010-03-22 14:18:18 | その他のハーブ

(写真)満開のイズタガアカ(伊豆多賀赤)の花


サクラの代表「ソメイヨシノ」が咲く前に、「カンヒザクラ」と「オオシマザクラ」の交配品種「イズタガアカ(伊豆多賀赤)」が満開になっていた。

この品種は、熱海の角田春彦氏が作出した交配種で、このほかにも「大漁桜(タイリョウザクラ)」「熱海早咲き」「アカシンジュ(赤真珠)」など早咲きサクラの交配種を数多く作出しているという。

「イズタガアカ(伊豆多賀赤)」は、花弁の大きさが直系3cm、花弁が5枚、淡紅紫色の一重の花を咲かせる。開花期は3月中旬からだがちょっと早いみたいだ。

サクラの時期は、鯛、筍の時期であり、夜桜見物で冷え切った身体を熱燗と若竹の焼いたもの、鯛めしが癒してくれる。
角田春彦氏は、このセンスがわかっているのか、熱海で育種をしていたためなのか、桜鯛の漁の時期に桜鯛の花色をした交配種に「大漁桜(タイリョウザクラ)」と名付けた品種作出しているおしゃれな人のようだ。


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ミモザ、ギンヨウアカシア(Acacia baileyana)の花

2010-03-19 13:02:25 | その他のハーブ

(写真)ギンヨウアカシアの花

(野田市清水公園・ハーブ園)

「ミモザ」の花が咲いていた。
正しくは「ギンヨウ(銀葉)アカシア」と和名で呼ばれるが、早春の樹一杯の明るい黄色の花は艶やかであり息をのむ美しさがある。

「ミモザ」は、「マロニエ」同様にフランスの香りがする花樹という印象が強い。
実際、南仏カンヌの西方にある小さな町“マンドリュー・ラ・ナプール(Mandelieu la Napoule)”で「ミモザ」が咲く2月頃に“ミモザ祭り”が開催され、小さな街だがヨーロッパの観光スポットとなっているという。
日本では、野田市清水公園で“ミモザ祭り”が開催されていたという記録があったが、梅・サクラ・ツツジは数多くあるがミモザはあまり見かけない。
それにしても、黄色であふれる一面の広がり、街並みは印象的な景観を形作ることだろう。

「ギンヨウ(銀葉)アカシア」が属するアカシア属は、世界で1200種、オーストラリアには1000種もあるというが、熱帯・亜熱帯の植物なので日本では関東以西の気候温暖なところが栽培に適している。温暖なところのどこかで特色のある街づくりとして街一帯をこの花で埋めて欲しいものだ。

「マロニエ」「ミモザ」ともフランス的な香りがする樹木だが実際はそうではない。
「マロニエ」は、1576年にトルコからウィーンに種子がもたらされたので、チューリップ・ライラック・クロッカスなどと同時期にトルコ経由でヨーロッパに伝播したようだ。
(チューリップの伝播)
(クロッカスの伝播)

一方「ミモザ」は、南半球のオーストラリアからヨーロッパに入ってきたものであり、いつ入ってきたかは確認できなかったが、オーストラリアへの入植と無関係ではなく1800年代にはヨーロッパに入ってきていたようだ。「ギンヨウミモザ」の学名の命名時期が1888年でありこれ以前であろう。

「ギンヨウアカシア」の原産地は、オーストラリア南ニューサウスウェールズのクータムンドラ(Cootamundra)という小さな地域に生息する。
この植物を英名では「Cootamundra wattle」と呼ぶが、“wattle(ワットル)は、「編み枝」を意味し開拓時代の入植者が家の壁や垣根をこの枝を編んで作ったことによる。
それだけ、生活に密着した植物であるということがわかる。

「ギンヨウアカシア」のプラントハンター
この「ギンヨウアカシア」を採取したのは、ベイリー(Bailey, Frederick Manson 1827-1915)で、学名の種小名“baileyana”は、彼の栄誉を讃えてつけられている。

ベイリーは、1827年ロンドンで園芸家の次男として生れる。一家は数多くの果樹・ツタ類などを持ってオーストラリアに移住し1839年3月にアデレードに到着した。ベイリー12歳の時であり、これ以降父親の農場を手伝う。ここまでなら立派な農夫になるが転機は彼が24歳の1851年から始まる。この歳にベイリーはニュージランドに行き土地を確保して農場経営を行い、1861年から1875年までは種商をブリスベンで経営する。彼は、クイーンズランドの様々なところを探索し植物採取を行い、英国・ヨーロッパにこのタネを販売した。

ヨーロッパの育種商や園芸協会・植物園などがヒトを雇い未開拓地に派遣し植物を探索する分業システムとしての“プラントハンター”という形態から、採取した植物を育て販売する“シードマン(seedsman)”という形態がベイリーによって成された事は注目される。

また彼は農夫・プラントハンター・種商に止まることなく、1874年には植物探索の副産物として「クイーンズランドのシダ」というハンドブックを出版し植物学者としての実績も築き、翌年からは家畜と植物に影響を及ぼしている病気の原因を調査するクイーンズランド政府の植物学者となる。
ベイリーの名を冠した植物の品種が50種あるそうだが、出発はどうであれ、死ぬまで努力して勉強し続けた行為は讃えられてしかるべきだろう。

(写真)ギンヨウアカシアの樹と花
        

ミモザ、ギンヨウアカシア(Acacia baileyana)
・ マメ科(ネムノキ亜科)アカシア属の半耐寒性の常緑高木。
・ 学名は、Acacia baileyana F.Muell.。属名のAcaciaは、“トゲがある”というギリシャ語‘akazo’に由来し、種小名はこの植物を採取したコレクターによる。
・ 英名はCootamundra wattle(クータムンドラ ワットル), golden mimosa。和名はハナアカシア、ミモザ。
・ 原産地は、オーストラリア南ニューサウスウェールズのCootamundraという小さな地域に生息する。
・ 樹高5~6mと高木に成長する。
・ 開花期は3月頃で、総状花序に鮮やかな黄色の小花を多数つける。
・ 葉は、羽のような羽状でネムノキの葉に似る。葉色が銀緑色でここからギンヨウミモザの名がつく。
・ 根に根粒菌をもつので荒地でも成長が早い。
・ 日本には明治時代末期に渡来する。庭木・街路樹として利用される。
・ 香水、アラビアゴムの原料とされる。

命名者:Mueller, Ferdinand Jacob Heinrich von (1825-1896)
ミューラーはドイツで生まれ、オーストラリアで活躍した植物学者・医師。
「ギンヨウアカシア」を採取したベイリーと同世代で、彼は1847年に南極に面した南オーストラリアのアデレードに結核の療養のために到着した。

アデレードなどの南オーストラリア地域は、1836年にイギリスの植民地となったところであり、地中海性気候地帯で今ではバロッサバレーの優れたワイナリーの地としても知られる。

ミューラーは、1848年から1852年まで各地を植物探索の旅を行い、数多くの新種を発見し1852年にロンドンのリンネ協会に"The Flora of South Australia".の著作物を送った。
1853年にはヴィクトリア政府(州)の植物担当になり、植物調査特に高山植物に関心を持って探索を行い、新しい種を発見するなどオーストラリアの植物の発展に貢献した。

コレクター:Bailey, Frederick Manson (1827-1915) : 前述

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ブルークローバー(Parochetus communis)の花

2010-03-15 09:09:59 | その他のハーブ
(写真)ブルークローバーの花


心ときめく色というものがあるようだ。
色は形を得ることによってより鮮明になるが、えんどう豆に似た蝶形花はより鮮烈なインパクトを与えときめかせる。

このブルーは、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌが捜し求めた「スイート・バイオレット・オブ・パルマ(Sweet Violet of Parma)」に似ていて、二度ときめいた。

「クローバー」は、マメ科トリフォリウム属に属する植物の総称で、属名はラテン語の「tres」(三)と「folium」(葉)に由来し三つの小葉を持つことを指している。

「ブルークローバー」も、三つの小葉を持ち「クローバー」のようでもあり、「オキザリス(カタバミ)」のようでもあるが、これらとは異なる植物だ。
「クローバー」は葉の先が丸く、「オキザリス」は葉の先が割れてハート型をしているので違いがわかる。

「ブルークローバー」の原産地は、距離の離れた二箇所で、ヒマラヤ、チベットなどの熱帯高地アジアとエチオピア、ケニアなどの北東熱帯高地アフリカ。この二箇所の「ブルークローバー」は別種という見方と、起源は北東アフリカという説がある。人類の起源と大移動とともにアジアに移動してきたのだろうか?

「ブルークローバー」を採取したプラントハンター
「ブルークローバー」を採取したのは、アメリカの医者でナチュラリストのフォースフィールド、トーマス(Horsfield, Thomas 1773-1859)で、1802年にマレーシアで採取したとある。

フォースフィールドは、1800-1819年までジャワで英国及びオランダの東インド会社で医師・薬剤師として勤め、かたわら動植物を採取することを行っていた。
彼が滞在した時期は、アジアでの覇権をオランダと英国が争っていた時期だったが、彼の科学的な姿勢が政治の変化にも影響を受けずに生き残れたようだ。

アメリカ独立戦争(1775-1783)後の1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立が認められ、その7年後にはジャワに到着したことになるので、フォースフィールドは、東南アジアでの科学的な研究に従事した初のアメリカ人の栄誉を担った。

まさに、科学に真摯な姿勢で取り組んだフォースフィールドにふさわしい「ブルークローバー」の花色かもしれない。

さらに補足すると、フォースフィールドから100年後の1904年に、中国・雲南省の3000mの高地の谷間で「ブルークローバー」を採取した男がいた。

スコットランドのプラントハンター、フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)で、
西欧人として未踏の地、中国・雲南、チベットなどの植物探索をした初期のプラントハンターだ。
1904年から1932年に愛してやまなかったこの地で死亡するまで冒険に飛んだ7回にわたる探検を行い、数多くの植物を採取しツツジ、サクラソウ、クレマチスなどを英国エジンバラ王立植物園などのスポンサーに送った。
発見した新種は1200種にも及ぶという偉大なプラントハンターでもあったが、実績を著作物として残すということをしなかったために栄誉は得られなかった。しかし、現地の言葉を学び、現地に溶け込んでいき、愛する雲南の地にいまも眠る新しいタイプのプラントハンターでもあった。

「ブルークローバー」は、対照的な素晴らしい二人のプラントハンターに発見され歴史に記録された幸運な花なのだろう。

(写真)ブルークローバーの葉と花


ブルークローバー(Parochetus communis)
・ マメ科パロケタス属の半耐寒性の多年草。
・ 学名は、Parochetus communis Buch.-Ham. ex D. Don(1802年命名)。属名のparochetusは、“教区parochial、教会parish”を意味し、種小名のcommunisは、ラテン語で“一般のcommon”を意味する。
・ 英名では、「ブルーオキザリス(blue oxalis)」「Shamrock pea(えんどう豆のようなクローバー)」。「ブルークローバー(blue clover)」は育種会社の流通名。
・ 原産地は、ヒマラヤ、チベットなどの熱帯高地アジアとエチオピア、ケニアなどの北東熱帯高地アフリカ。
・ 草丈10cm程度で茎は横に匍匐して広がる。葉は3葉でクローバーに似る。
・ 開花期は冬から夏までで、えんどう豆に似た蝶形花の美しいブルーの花が咲く。
・ 湿った土壌が適していて、高温多湿に弱い。夏場は風通しの良い涼しい半日陰で育てる。
・ 繁殖は、秋に株わけで殖やす。
・ ロックガーデン、ハンギングなどに適する。

学名の命名者
Buchanan-Hamilton, Francis (1762-1829)ブキャナン-ハミルトン、フランシスは、スコットランドの医者・動物学者・植物学者で、インドに赴任し1794年から1815年までベンガルMedical Serviceに勤め、1807年から1814年まで、ベンガルの政府の指示に従って、彼はイギリスの東インド会社の管区の中の地域の広範囲な調査をした。彼は地形学、歴史、古代遺物、住民の状態、宗教、自然環境(特に漁場、森、鉱山と採石場)、農業などを調査し報告した。
1814年にカルカッタ植物園の園長に任命されたが、病になり1815年帰国する。

Don, David (1799-1841)
ドン、デビットは、スコットランドの植物学者で、ブキャナン-ハミルトンなどカルカッタ植物園が採取した植物を分類し、ネパールの植物相の著作を編集した。

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クリスマスローズ、オリエンタリス・ハイブリット紫系の花

2010-03-12 13:59:24 | その他のハーブ
(写真)ヘレボルス・オリエンタリス、ハイブリット紫系の花


花茎が真っ直ぐに立ち、まるでヤシの木の様に葉がつき、つぼみの頃はヤシの実がついたようだ。こんな雰囲気をもつ「ヘレボルス・オリエンタリス」のハイブリッド品種が赤紫の花をつけた。

同じ時期に、同種の赤系の花も咲いたが、違いはあるがその違いが微妙な色合いとなっている。

現在の園芸店では、「ヘレボルス・オリエンタリス(Helleborus.orientalis)」のハイブリッド品種が多く展示・販売されている。
この花も、「オリエンタリス」を片親とした交配品種であり、“紫系”としてしか書かれていなかった。

今では、「ヘレボルス・オリエンタリス」が交配の中心になっているため、さかのぼって突き止めることが難しくなっている。

(写真)ヘレボルス・オリエンタリス、ハイブリット赤系の花


クリスマスローズ、異種間ハイブリッドの始まり
「クリスマスローズ(Helleborus niger)」は、2000年以上前から狂気を治す薬草として使われており、原種として20種が認められているが異種間の交雑の歴史は新しい。

最初の異種間交雑は、1930年代に入ってからであり、その最初の交雑種は「ヘレボルス・ニゲルコルス(Helleborus × nigercors J.T. Wall)」のようであり1931年に作出されたのではないかといわれている。

この「ヘレボルス・ニゲルコルス」は、 「H.ニゲル」 と  コルシカ島原産の「H.アグティフォリウス」 が交配され、寒さに弱い「H.アグティフォリウス」の弱点を克服し耐寒性・耐暑性に強い交配種が誕生した。


1939年には、英国のフレデリック・スターン卿(Stern, Sir Frederick Claude 1884-1967)によって有名な品種「ヘレボルス・ステルニー(Helleborus x sternii)」が作出された。

両親は、有茎種同士で 「H.アグティフォリウス」 と 「H.リヴィダス」であり、 両親の中間的な仕上がりとなっている。
花色は(正しくは萼の色)ピンクを帯びた淡い緑色、葉は濃緑色のメタリック調で葉だけでも楽しめそうだ。
今では、「H.ステルニー」を親とした新品種も数多く作られている。

作出者のフレデリック・スターン卿(Stern, Sir Frederick Claude 1884-1967)は、英国の園芸家で、1909年にウエスト・サセックス州ワージングの近くにHighdown Gardensを創った。
この庭園は、中国・チベット・日本などでプラントハンティングをしたファラー(Farrer ,Reginald John 1880 – 1920)が採取した高山植物・樹木が植えられ、スターン夫人とともに素晴らしい庭造りを行った。

本線から脱線するが、ファラー(Farrer ,Reginald John 1880 – 1920)は、40歳でビルマの山中でなくなったが、中国・チベットなどの植物をイギリスに持ち込み、1907年に「My Rock Garden」を著しロックガーデンの様式を作り出したことで知られている。その様式美には、1903年に8ヵ月の間日本に住んでいて日本庭園の様式をも学んでいることが影響している。
貴族・富裕階級しか維持できない形式美が勝る庭園から市民・庶民が楽しめるより自然なガーデンを提唱しているので園芸の楽しみを広げる役割を果した人でもある。

1960年代からクリスマスローズの改良を行ったのは、クリスマスローズの女王といわれるイギリスの女性育種家ヘレン・バラード(Helen Ballard 1909-1995)などで、以前のコメントを参照していただきたい。

(写真)ヘレボルス・オリエンタリス、ハイブリット紫系の立ち姿
        

クリスマスローズ、オリエンタリス・ハイブリット紫系
・ キンポウゲ科クリスマスローズ属の耐寒性がある常緑の多年草。
・ 学名はヘレボルス・オリエンタリス・ハイブリッド(Helleborus × hybridus purple-flowered)。
・ イギリスでは、オリエンタリスを四旬節(Lent)に咲くのでレンテンローズ(Lenten rose)とも言う。
・ 和名は花の形が、祭りでかぶる花笠に似るので八つ手花笠とも言われる。
・ オリエンタリス(h.orientalis)種には三つの亜種があり、原産地はロシア、コーカサス地方、トルコ、黒海沿岸の石灰質の土壌に生育し、園芸品種の交配種の片親となる重要な原種。
・ 草丈20-40cmの常緑の多年草で花弁状の萼(がく)の色は黄緑色で縁は紫色を帯びる。
・ 開花期は、クリスマスローズよりも遅く2月頃から咲く。「ハルザキクリスマスローズ」とも呼ばれる。
・ 花茎は単一で先端に一輪または分岐して二輪の花をつける。
・ 花のように見える5枚の花弁は、花を保護する萼(がく)で、本来の花弁は退化して蜜を出す蜜腺となっている。
・ 受粉の仕組みは、先に雌しべが成熟しその後で雄しべが花粉を放出する。雌しべが受粉して種が出来るのが5月頃。
・ アルカリ性の土壌を好むので石灰を入れて酸性を中和する。また肥沃な土壌を好む。
・ 高温多湿には弱いので夏場は半日陰で育てる。
・ 乾燥気味がよいので、乾いたらたっぷりと水をあげる。
・ 繁殖は株分けをする。
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クリスマスローズの原種、リヴィダス(Helleborus lividus)の花

2010-03-05 19:44:22 | その他のハーブ

(写真)ヘレボルス・リヴィダスの花


「ヘレボルス・リヴィダス」の花は、“鉛色のヘレボルス”とも呼ばれるが、日本的には小豆或いは赤銅色のようであり、濃い緑色の大理石模様の葉脈が入った葉がとても美しい植物だ。
2月が開花期だが、3月に入ってから開花した。

この花の原産地は、西地中海のマジョルカ島だが野生種はこの島でも少なくなっているようだ。
クリスマスローズの栽培家・研究家でもある英国のウィル・マクルーウイン(Will Mclewin)が1991年にマジョルカ島で探索したが3本しか見つけられなかったという。
このウイル・マクルーウィンは、日本クリスマスローズ協会が主催する原種探索の旅などのコーディネーターをしていて日本でも知られた人のようだ。

クリスマスローズの原種20種のうち有茎種(一本の茎に葉と花が咲く)が3種あるが、何れも地中海周辺が原産地で、コルシカ島原産の「アグティフォリウス(H.argutifolius)」は、「リヴィダス(Helleborus lividus)」の亜種と見られていた。

確かに二つの種は、有茎種であり葉が3枚と姿かたちが良く似ているが、1789年に異なる種であるとされた。

(写真)「ボタニカルマガジン」1号に掲載されたクリスマスローズ


この命名者がキュー植物園のエイトン(Aiton, William 1731-1793)と、200年以上も刊行されている園芸誌「ボタニカルマガジン」の創刊者カーティス(Curtis, William 1746-1799)である。

Aiton, William (1731-1793)
命名者エイトンは、スコットランドの園芸家・植物学者。キュー王立植物園が設立されたのが1759年だが、この時からキューの庭師として責任ある立場に着き、バンクス卿の信頼も厚くキュー植物園の今日の基礎を築く。彼は、1789年に『Hortus Kewensis』というカタログを出版した。この中にはキュー植物園が育てている5600もの外国産の植物が収録されていて、マッソンが南アフリカケープ植民地で採取した植物も含まれている。

Curtis, William (1746-1799)
もう一人の命名者カーティスは、英国の薬剤師・植物学者で「ボタニカル・マガジン」の創刊者でもある。この「ボタニカル・マガジン」は、フランス革命の二年前の1787年2月に創刊された月刊誌であり、外国の美しい或いは不思議な花々を手彩色の銅版画で掲載し、植物相の貧弱な英国に園芸ブームを作る大きな役割を果す。

現在も「キューマガジン」として発刊されており、園芸雑誌の草分け的な存在でもある。
カーティスがクリスマスローズ、「リヴィダス」の命名者となったのは、創刊された「ボタニカル・マガジン」の第一号にリンネの体系に基づいて「クリスマスローズ(Helleborus niger)」を掲載していること等が関係しているのだろう。
「ボタニカルマガジン」に関しては、別途取り上げる。

(写真)ヘレボルス・リヴィダスの葉と花


クリスマスローズ、ヘレボルス・リヴィダス(原種)
・ キンポウゲ科クリスマスローズ属の耐寒性が弱い常緑の多年草。
・ 学名は「ヘレボルス・リヴィダス(Helleborus lividus Ait. ex Curtis)」。英名はLivid Hellebore(鉛色のヘレボルス)。
・ 属名Helleborusの語源は、ギリシャ語で「殺す」を意味するHeleinと「食べ物」を意味するboraからなる。食べると危ない毒草であることを意味しており、根には強心剤・利尿剤の効果がある成分が含まれている。種小名のlividusは、「鉛色、青味がかった灰色」を意味し、特徴のある花の色を示す。
・ ヘレボルスの原種の原産地は、ヨーロッパ、地中海沿岸、カスピ海沿岸、中国四川省までの北緯40~50度の地域に生育。原種は20種あり石灰質の土壌に生息する。
・ H.リヴィダスは、20種ある原種の一つで、その原産地は西地中海に浮かぶスペインのマジョルカ島の山麓・谷などの斜面に自生する。
・ 草丈20-40cmで、濃緑色に葉脈の筋が入り大理石のような模様をつくった丸みがある葉はクリスマスローズの中でも特色があり最も美しいと思う。
・ 花茎の先端に1~3輪の赤紫を帯びたくすんだピンク色の花をつける。
・ 花のように見える5枚の花弁は、花を保護する萼(がく)で、本来の花弁は退化して蜜を出す蜜腺となっている。
・ 開花期は、他のクリスマスローズよりも早めで2月頃が最盛期だが3月に開花した。
・ 関東地方以西では戸外で越冬できるようだが、耐寒性は弱いので防寒する方が良い。
・ 他のクリスマスローズよりは暑さには強いが、過湿には弱いので水はけが良いアルカリ性の土壌が適する。
・ 繁殖は株分けが難しい種類なのでタネを取る。種からの場合は発芽後1~2年後に開花。
・ タネを取った或いは咲き終わった花茎は取り除くようにする。花が咲かない茎は翌年の花茎となるので切り取らない。

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