彦四郎の中国生活

中国滞在記

4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した❹―後祭の花傘巡行、山鉾巡行、奉納舞、そして還幸祭—水への祈りと祇園祭

2023-07-30 13:45:22 | 滞在記

 7月24日(月)の午前中、祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行や花傘巡行が執り行われた。午前10時過ぎに四条大橋の上を花傘巡行の先頭・巫女(みこ)たちの行列が進んできた。白と赤の装束と花笠を被った女性たちは、何か神秘的だ。

 花が入った大きな籠が通る。2匹の獅子舞たちが、沿道の人たちに向かって大きな口を開ける。馬に乗った平安時代末期から鎌倉時代の装束の子供の騎馬。

 和服の着物姿の女性たちも通って行く。中国の楊貴妃・日本の卑弥呼や小野小町をイメージした女性たちも通る。京都五花街の女性たちの姿はあでやかだ。もともと、この花傘巡行(1000人余りの人による)は、1966年に前祭と後祭のそれぞれの山鉾巡行が統合されて17日に全ての山鉾が巡行することになったので、後祭の24日の日に、山鉾巡行に代わって始められたものだった。そして、2014年に再び前祭と後祭にそれぞれ山鉾巡行が行われるようになってからも、この花傘巡行は執り行われることになった。私はこの花傘巡行が好きだ。

 午前10時30分頃に、後祭の山鉾の先頭が四条大橋近くの四条河原町交差点にさしかかった。前日の宵山で見た南観音山の山鉾だ。全10基の山鉾が巡行し、そして、しんがりの山鉾は大船鉾。

 午前11時すぎに山鉾巡行を見終えて、八坂神社に向かう。八坂神社から四条大橋までの四条通に面した商店は、店先のウインドウに生け花を展示するというのも、この祇園祭の習わし。八坂神社の山門を入るとすぐに手を清めるところがあるが、ここには向日葵(ひまわり)が花手水(はなちょうず)として生けられていた。

 八坂神社の本殿前の舞殿の舞台では花街の女性たちの舞が披露(奉納)されていた。(国宝である本殿の建物の下には池があり、その池の地下水路には洞穴があり、龍神が住むとされている。)

 舞台では鷺舞(さぎまい)や少女たちの舞踊なども披露されていた。(※7月10日には、岩見神楽がこの舞台で演じられ奉納もされた。)

 そして、後祭のクライマックスが還幸祭(かんこうさい)だ。午後9時すぎから10時までに、市内中心地区に置かれていた3基の神輿(みこし)が八坂神社に戻って来る。その3基が山門前に揃い、そのようすを見るために沿道は人であふれる。

 7月25日には八坂神社の舞殿で狂言奉納が行われ、28日には、道を清める5m余りの大松明(たいまつ)に先導され、神輿が四条大橋まで運ばれ、鴨川の水でを含んだ榊(さかき)で清められる(神輿洗)。そして、31日には八坂神社内の疫神社で夏越祭が執り行われ、1か月間にわたった祇園祭が締めくくられる。

■祇園祭とはいったいどのような本質をもった祭典・神事なのだろうか。祇園祭の起源や由来、そして1000年以上にもわたって脈々と続いてきたこの祭りの本質とは何なんだろうか。祭りは、かっては祇園社と呼ばれてきた八坂神社が執り行う神事(神輿など)と、町衆が執り行う行事(山鉾巡行など)の二つの側面がある。だからこそ、日本の他の祭りでは見られない、1か月間にもわたる多彩な諸行事が執り行われる。

■おそらくこの祭りの本質の一つは、「水への信仰」だ。天地異変や疫病などを鎮める祇園祭は、「水への祈り」に本質があると思われる。京都には丹波山系にその源流をもつ鴨川や桂川という川があり、明治以降は疎水もある。そして、高瀬川なども‥。さらに、古都・京都の町の下には巨大な地下水の水脈がある。これらの水が、さまざまな禍いを清めてくれるという水への祈りだ。これが、祇園社(八坂神社)が執り行う神事に流れている。

そして、もう一つは「自治」ということだろう。室町時代の中期ころから、町衆が力をつけはじめ、この「自治」というものを大切にし始めたのだ。そのあたりことは、映画「祇園祭」にも描かれる。

■「水への祈り」と「自治」、この二つが祇園祭というものの本質的なことなのかと思われる。今日は、7月30日(日)、明日で1か月間にわたった今年の祇園祭も終わる。私の日本滞在もあと1か月余りとなった。8月31日には中国に戻ることとなる。それまでに、私は「水への祈り」、鴨川の何箇所かの源流の場所を訪ねてみようかと思っている。

 

 

 

 


4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した❸―後祭の宵山を巡る―禁門の変で焼失した「大船鉾」と「鷹山」

2023-07-30 05:28:22 | 滞在記

 1か月間にわたり繰り広げられる祇園祭は本来、山鉾の巡行は7月17日の前祭(さきまつり)と、7月24日の後祭(あとまつり)に分けて行われていた。だが、1966年から2013年までの47年間、山鉾巡行は17日にまとめて行われた。しかし、本来の2度に分けて行う祇園祭の形に戻そうという気運が高まり、2014年から前祭と後祭を実施する現在の形式となっている。

 7月23日(日)の午後、祇園祭の「後祭(あとのまつり)」の宵山を巡ってみることにし、まず「大船鉾」を見に行った。梅雨明けした京都は、連日35度余りの熱波の日々が続いていたが、女性たちの浴衣(ゆかた)姿が涼し気(げ)だ。大船鉾に登ってみることにした。(登り拝観料500円)

 24日の後祭の山鉾巡行では主役となる鉾の天井一面には板絵があった。大船の上から眺める景色はなかなか壮観。この大船鉾は、元治元年(1864年)の「蛤御門(禁門)の変」による戦火で焼けてしまった。そして、2014年に、150年ぶりに復活し、後祭の山鉾巡行のしんがりとして、その雄姿を披露した鉾だった。 

 次に南観音山や北観音山に向かう。二つとも高い鉾だ。20名余りの山伏の一団が、法螺貝を吹き鳴らしながら祇園祭の各山鉾がある町内を巡ってもいた。北観音山の鉾がある町屋に入ると、立派な書画の屏風が陳列されていた。祇園祭の各山鉾がある町内の町屋には、いろいろな屏風がこの祇園祭の期間は陳列し拝観できる。

 「光琳百花図屏風」というものも陳列されていた。この屏風絵の由来は次のように書かれていた。「尾形光琳の百花屏風を、1782年に円山応挙がある人の求めに応じて写したものである。」と‥。円山応挙による尾形光琳作品の模写だが、見事な屏風絵だ。このような屏風絵が、いたるところで無料拝観できるのも、この祇園祭の楽しみの一つだ。

 鷹山(たかやま)に行く。浴衣姿の小学生の女の子たちが粽(ちまき)などを売る掛け声がなかなかの風情。この鷹山もまた、蛤御門(禁門)の変による火災で本体の山鉾も完全焼失した山鉾だった。(1826年に、大雨により山鉾の懸装品が損傷したため、山鉾巡行に参加できなくなっていた。)そして、大船鉾の復活に触発され、鷹山のあった町内でも復活の機運が高まり、昨年の2022年、196年ぶりに復活し、都大路を巡行した。

 この鷹山の近くの町屋の「ちおん舎」という家で、「鷹と生きる時代」という講座が行われていた。会場の家には、写真展示「雪原を征く―孤高の鷹匠・松原英俊」や絵の展示「姫川明輝絵画展」(展示即売)も行われていた。狼や鷹の墨絵は、なかなか素晴らしいと思った。(特に狼の墨絵には魅了された。)

 炎天下の宵山の町中を巡っていると鷹山の山鉾の近くに「Holly,s  Cafe」という喫茶店があった。喫煙席室もあるようなので入ってしばし休息をとった。たくさんある店内の席は、宵山に来ているお客さんで賑わっていた。

 三条通を歩き、京都文化博物館に立ち寄る。京都市内にある星野画廊のコレクションより約120点が展示された「少女たち」展が開催されていた。博物館の一角の部屋には、「2023 うちわ展」(無料)も開催されていた。

 京都文化博物館より鴨川に向かって少し三条通を歩き、「イノダコーヒー本店」へ。外にあるテラス席(喫煙可)は、暑さのためか、ほとんど他の客はなし。タバコを吸いながら店の京都新聞を読んでいると、「少女たち」展のことが一面に書かれている記事もあった。テラス席の噴水から流れる水の音が、少し涼しさを与えてくれる。噴水には2匹の亀の置物が‥。

 三条通りのアーケード商店街にあった「サラセン」という名の土産物店で、中国の福建省福州市に住む王君や林君に送るものを何個か買った。三条大橋下の河原には、涼(りょう)を求める人たちが座りながら川面のに佇む。青鷺(さぎ)が魚を狙って、ずっと立っていた。時刻は午後5時頃となっていた。