彦四郎の中国生活

中国滞在記

4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した➋―祇園祭の由来と歴史―1968年の映画「祇園祭」、中世1500年代の祇園祭を描く

2023-07-29 17:18:43 | 滞在記

 1968年11月23日に公開された映画「祇園祭」は、公開から2カ月間余りで約30万人の観客動員数を記録し、これまでの公開後2週間の映画観客動員数記録としては、空前の大ヒット作品となった。京都市出身の作家・西口克己の同名小説「祇園祭」を映画化したものだった。私も映画は、大学生時代の1970年代に、京都映画サークルの上映会で見たことがあった。映画で描かれる時代背景は中世1500年代の1500年~1533年頃。

 映画の主役は中村錦之助、そして三船敏郎と岩下志麻。他に、田村高廣・志村喬・北大路欣也・高倉健・渥美清・中村賀津雄・下元勉・田中邦衛・佐藤オリエ・伊藤雄之助・永井智雄・美空ひばりなどなど‥。物語のあらすじは大まかには次のようなものだった。

 足利将軍(室町幕府)の世継ぎ争いに端を発した応仁の乱(1467年~77年)は、京都の町を荒廃に陥れた。笛の好きな織物職人の新吉(中村錦之助)は、土一揆(農民一揆で馬借も加わった)のあったある夜、笛の上手な不思議な女・あやめ(岩下志麻)を知り、荒れた御堂の中で一夜を共にした。翌朝、家に帰った新吉は、母が武士に殺されたのを知った。一方、相次ぐ一揆に手を焼いた幕府管領の細川晴元は、京の町の町人を集めて一揆の本拠地である山科に攻め入らせた。そこには虐げられた農民に味方する馬借(運送業者)の頭・熊佐(三船敏郎)がいた。新吉たち町民は武士たちとともに、熊佐たちの一揆勢の一隊と戦ったが、武士たちは逃げ、結局は町衆たちは武士たちに利用されているだけだった。

 戦いが終わって、新吉の心には武士階級に対する不信感が強くなった。町衆たちも税金を支払わないことで対抗しようとしていたが、そのためには町衆の団結力を見せる必要があった。そこで新吉は、戦乱で三十三年間も途絶えていた町衆の祭典・祇園祭を再興しようと考えた。新吉はその相談に、貧乏公家の言継(下元勉)を訪ね、そこであやめと再会した。言継はあやめに祇園祭の祇園ばやしを習えと勧めたが、それをあやめは断った。彼女は河原者(被差別地区の住民で、町衆からも差別されていた。)の娘で、町衆とは素直に心を通じ合えなかったのだ。その頃、幕府管領は税金を払わない町衆に、関所を設け関税を払わせることで対抗した。そのため、京に入る食料は欠乏し、町人たちは飢えに苦しんだ。

 新吉は、殺されることを覚悟で熊佐に会いに行き、米を運んでくれるよう頼んだ。熊佐は一言のもとに拒絶したが、そこに現れたあやめの説得で、新吉の依頼を引き受けたのだった。熊佐の一隊が、米を運んで京の町に現れた時、町衆は熱狂して出迎えた。やがて、いつか身分を越えて心の通じ合うようになった新吉とあやめは、祇園ばやしなどの笛の練習に幸福な日々を送るようになった。

 祇園祭の準備は着々と進んでいた。一方。武士たちはこの祭りを中止させようとしていた。ついに祭の日が来た。盛大に装いを凝らした山鉾がゆるゆると動きだした時、武士たちや比叡山延暦寺の僧兵たちが立ちはだかった。だが、彼らは熊佐たち馬借の一隊に退けられた。しかし、物陰から放たれた矢で新吉は重傷を負ってしまう。胸に矢をつき立てたまま、新吉は熊佐の手を借りて山鉾に上がった。蒼白な顔で仁王立ちになった新吉の姿は、京の町衆の象徴のような状況となり、武士や僧兵たちはあまりのその気迫に手出しができなかった。山鉾巡行の道が開き、再び山鉾が動き始めた時、新吉はそのままの姿勢で息絶えていた。

■当時、立命館大学文学部日本史学科の教授だった林屋辰三郎の「町衆論」も参考にしながら、西口克己が小説「祇園祭」を執筆した。農民・町人・被差別地区住民が団結して、時の支配階級である武士や寺社勢力に立ち向かう姿が描かれている映画だ。応仁の乱後、1485年~1493年までの8年間、京都府南部の山城地方では、「山城国一揆」が起きて、農民や国衆の36人を代表として自治を行った歴史的背景もあった。

―祇園祭の由来と歴史―

 平安時代前期の869年、京都で疫病が流行したり、全国的な天地異変が頻繁に起きたこの時代、広大な庭園だった神泉苑(中京区の二条城南にある)に、当時の日本の国の数にちなんで66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるように祈ったのが始まりとされる。2019年には、この祇園祭の1150周年を祝うほど、長い歴史をもつ祭りだ。八坂神社は明治時代になるまでは「祇園社」と呼ばれていた。現在の山鉾巡行の始まりの原形は、鎌倉時代末期の1321年頃からとされている。(※猿楽などの演目や鷺舞など、さまざまな付祭の芸能も祭り期間中に演じられるようになった。)

 室町時代になると、京の町の商工業者(町衆)の自治組織が誕生し、町ごとに趣向をこらした山鉾も作られ巡行するようになり、室町時代中期には洛外洛中図屏風に見られるような、今日につながる山鉾巡行などが成立したものと考えられている。そして、応仁の乱による33年間の中断を経て、1500年に、祇園会(祭)が再興された。1533年には祇園社(八坂神社)の本山である比叡山延暦寺の訴え(当時は神仏習合の時代)により祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は延暦寺側や幕府の祇園会中止命令に反して、(神事は中止されたものの)山鉾巡行は行われたという。このことから、当時すでに、この祇園会(祇園祭)は、町衆がその中心を担っていたことがうかがえる。

 ■映画「祇園祭」は、この1500年の祇園祭再興と1533年の出来事を時代背景として描かれたようだ。

 1600年の関ヶ原合戦の年、祇園祭での山鉾巡行は中止となった。その後、江戸時代に発生した京都の三大大火事によっても山鉾は大きな被害があったが、山鉾巡行などの祇園祭は行われ続けた。さらに、1864年の「禁門の変」による「どんど焼け」で京都の町は戦場となり、多くの家屋や山鉾も焼失した。しかし、焼失を免れた山鉾だけで巡行した。そして、第二次世界大戦により、1943年から1946年の4年間は、祇園祭での山鉾巡行は中止された。

 ■山鉾巡行が始められた室町時代中期から、この山鉾巡行が中止になったのは、1600年と1943年~46年の二つの時期だけだったが、2020年・21年は、新型コロナ禍のため、山鉾巡行が中止されることとなった。そんな歴史をもつ祇園祭。

 

 


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