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彦四郎の中国生活

中国滞在記

「夏草や 兵どもが 夢の跡」―信長軍による二度の落城悲話・戦国の平山城「疋壇城」址

2019-07-28 06:04:43 | 滞在記

 日本に帰国した7月3日(水)の次の週に、故郷の福井県南越前町の自宅に戻って、一人暮らしをしている母親に会いに行こうと思っていた。だが、孫娘の緊急入院により延期した。無亊に退院の見通しがたった7月15日(月)、福井県の家に向かった。京都市から琵琶湖西岸の湖西道路を北上して滋賀県湖北のマキノ町に着く。マキノ高原の500本ほどのメタセコイヤの大木の並木道が美しい。国道161号線の「山中峠(国境)」を越えると福井県だ。敦賀に向かって、長くなだらかな峠道を下って行くと「疋田」の集落がある。ここは古代の昔から、近江(滋賀)と越前(福井)を結ぶ交通の要衝地だった。

 ここ疋田には、戦国時代の平山城「疋壇(ひきだ)城」址がある。故郷に帰る道すがら、この城址には時々立ち寄って城址を眺めながら戦国の世のことを、特に越前の戦国大名・朝倉氏の滅亡について思ったりする。この疋壇城がある場所「疋田」は、古代の平安時代前期までの「日本三大関所」と云われた「愛発(あらち)関」があった場所だ。(※他の二つは「不破関(関ヶ原)」と「鈴鹿関(三重県亀山)」)

 疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に越前国の戦国大名朝倉氏の将・疋壇氏によって築かれた。疋田の地は、越前と近江の湖北地方を結ぶ柳ヶ瀬越・塩津越・海津越といった道がすべて集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防衛拠点としての役割を果たしていた。

 城は小高い丘の上に築かれ、本丸曲輪を中心として、二の丸曲輪、三の丸曲輪がみられる。本丸曲輪の周辺は石垣がつかわれ、その周囲にはかなり深い空堀が巡らされている。城の背後は高い山々が迫り、街道に面した前方を川が流れ、天然の堀となっていただろうと推測される。城の周囲の東・西・南の三方にはそれぞれ出城があったことも古文書であきらかになっている。かなりの規模の平山城だったようだ。

 本丸の下の空堀の斜面からは今、朴木(ほうのき)が高く葉を繁らせている。春先には高貴な香りがする朴木の白く大きな花が咲き、ここで死んだたくさんの兵士たちの霊を慰めていることだろう。城と背後の山々の間を今、北陸本線(JR)の列車が通っている。

 本丸周辺の石垣、それよりも低い本丸曲輪は今、畑地となり初夏の花々も咲いている。落城にともない、ここでたくさんの朝倉方の武士たちが討ち死にをした。元亀元年(1570)、織田信長の数万の軍により、第一次越前侵攻がおこなわれた。敦賀の朝倉方の要衝の城である手筒山城とそれに連なる金ケ崎城が落城した。これにともないここ疋壇城も落城した。織田の軍勢が越前国の朝倉氏の本拠地一乗谷への侵攻のために木の芽峠を越えようとする時に、信長と同盟関係にあった湖北の戦国大名・浅井長政が反旗を翻し、敦賀に向かった。浅井軍と朝倉軍とに挟撃されそうになった織田信長は、関難のすえ 朽木越えから京都に逃げることができた。

 それから3年後、戦国大名や本願寺勢力などの信長包囲網を弱体化させた織田軍団は、再び浅井・朝倉連合軍と対峙する。姉川の戦いを経て、その後、浅井氏の居城・小谷城を包囲する。越前から浅井支援に小谷城周辺に布陣する朝倉軍。朝倉軍の布陣が崩壊し始め、越前に撤退を始めたが、近江と越前の国境である刀根坂(峠)での撤退戦で朝倉軍は壊滅的な敗戦をきっした。

 朝倉軍は敦賀に向かって敗走するが、ここ疋壇城に敗走する兵士約2500人を収容する。疋壇氏の城兵500人と合わせた約3000人が城を守って籠城するが、織田軍により落城し、城兵のほとんどが討ち死にすることとなった。城主・疋壇二郎三郎も討ち死にした。天正元年(1573)8月14日のことである。その6日後の8月20日、朝倉氏の本拠地・一乗谷に侵攻した織田軍によって朝倉氏は滅亡した。

 本丸曲輪から二の丸曲輪にかけても石垣がある。かなりの石垣を使って防備を強化していた城であることがみてとれる。北国なので7月中旬になっていてもまだ、アジサイが美しく花を咲かせている。城址は今、夏草に覆われている。じっとこの城址を眺めていると、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が東北の平泉で詠んだ、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句がうかんでくる。

 松尾芭蕉の俳句集・『奥の細道』は、芭蕉が江戸から北上して東北路、そして日本海側の秋田県象潟に、そこから北陸路を新潟・富山・石川・福井を経て、美濃(岐阜県)の国の大垣までの道中600里(2400km)の旅で詠んだ俳句集だ。江戸を3月27日にたち、8月20日に大垣に到着している。途中、敦賀を通り俳句も作っているが、ここ疋田を通り、刀根坂峠を越えて柳ヶ瀬街道をすすみ北近江の木ノ本に到着し、北国街道を歩き大垣に向かった。ここ疋壇城址に立ち寄っているかもしれない。立ち寄ったとすれば8月中旬、夏草の繁る季節だろう。

 空堀に今は 蔦に覆われた高い樹木が育っている。当時の境目の城としては石垣がけっこう見事だ。二の丸曲輪のあった広い平地は、かって小学校があった。北陸本線を特急「雷鳥・サンタ―バード」が通過して行った。三の曲輪には今、人家がある。この城址の本丸曲輪の畑をつくっている人の家だ。三の曲輪の斜面にもアジサイが群生していた。

 疋田の地は、敦賀から水運を巡らせてここまで小舟で荷を運び、ここから方々に分かれる街道の峠越えをして奥琵琶湖の港まで荷が運ばれた。ここから琵琶湖までの運河を作ろうとした計画も、平安時代から江戸時代の歴史上何度かあった。

 この疋田地区に山地から流れる川が合流するところがある。「戦国武将の墓」と呼ばれるところだ。戦いで討ち死にした天正元年の武士たちの亡骸や朽ちた墓が、道路工事などの際に 多く見つかった場所だという。

 疋田からの深坂古道がいまも残る。奥琵琶湖に至る峠道だ。さまざまな歴史的に有名な人もここを通ったのだろう。

 昔の「愛発(あらち)」の地名が残るこのあたりの、疋田から500mほど行った奥野という集落に、今は無住となっている小さな寺がある。この宗昌寺は、天正元年の疋壇城の落城とともに討ち死にした城主・疋壇二郎・三郎一族の墓などがある。

 天正元年の朝倉氏の滅亡後、ここ越前国を本拠地とした信長の武将だった柴田勝家。本能寺の変での信長の死後、明智光秀軍との天王山の戦いで勝利した羽柴秀吉との対立が深まり「賤ケ岳の戦い」へとなっていく。その際に、勝家軍の巨大陣城として「玄蕃尾城」が刀根坂峠をやくする場所に築かれた。ここ疋壇城からもほど近い。玄蕃尾城址は、幻の城といわれていたが1980年代になってようやくその場所が見つかった。山中に忽然と姿を見せたその遺構の見事さにはほれぼれさせられる。現在「国指定」史跡となり整備がなされている。戦いに敗れて敗走する勝家軍の兵士たちの一部も ここ疋田を通って 敦賀・木の芽峠・府中を経て勝家の本拠地・北ノ庄城(福井市)に逃れたのかと思う。

 

 

 

 


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