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彦四郎の中国生活

中国滞在記

祇園祭―蟷螂(とうろう)山が作られたいわれとは―南北朝時代の武闘派公家・四條隆資と男山の八幡宮

2019-07-26 18:03:26 | 滞在記

 (男山)石清水八幡宮は、平安京の裏鬼門を(南西方角)を守る神社として平安時代初期の860年に創建された。現在の社殿は織田信長の社殿修復、豊臣秀吉の廻廊再建、豊臣秀頼の社殿再建、徳川家光の社殿造営によるものだ。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と称され、また日本三大八幡宮の一つである。

 神社のある男山(標高160m)の峰々の麓には「丹波山地や京の都から流れる桂川」・「琵琶湖から流れる宇治川」・「伊賀・奈良から流れる木津川」の三川が合流し、淀川となり瀬戸内海に流れる。近世までは琵琶湖・京都(平安)・奈良(平城)・大阪(難波津)・瀬戸内海を結ぶ水運大動脈の要衝の地でもあった。今、男山山麓にある一の鳥居や頓宮のそばにある池には、純白の蓮や睡蓮の花が咲いている。

 四年前の平成27年に国宝に指定された石清水八幡宮の社殿群。この本殿を囲む瑞垣の欄間彫刻群でひときわ目を引くのが「蟷螂(カマキリ)」の彫り物である。神社建築の中にカマキリの彫刻があるのはここだけのようだ。中国の故事にちなんだ「蟷螂の斧(とうろうのおの)」をイメージしたものだが、この蟷螂の彫り物は江戸時代初期の家光時代の造営時に造られたものらしい。

 そして、祇園祭では、御所車の上に乗ったカマキリのからくりが人気を博する蟷螂山(とうろうやま)がある。実は、この蟷螂山のからくりカマキリは、この石清水八幡宮の欄間彫刻のカマキリ(蟷螂の斧)をイメージして造られたものだ。そして、石清水八幡宮のカマキリは、その蟷螂の斧のモデルとなった人物がいて造られている。南北朝時代(室町時代初期)の武闘派公家といわれている南朝方の公家武将・四條隆資(しじょうたかすけ)[1292-1352]である。

 南朝方と北朝方(足利幕府方)で争いを続け、後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞などの南朝方の天皇や武将が死去したあとも戦いは続き、足利幕府内での「観応の擾乱ともよばれる戦いの中、京の都を奪還するために南朝方の後村上天皇がこの男山に仮御所を置き、足利軍と対峙した。しかし、時の利あらず、南朝方はこの男山からの撤退を余儀なくされた。この撤退の殿(しんがり)の将を受け持ったのが四條隆資であった。

 迫ってきた足利の大軍に立ち向かい、孤軍奮闘、南朝方の撤退をなんとか成功させた。この孤軍で戦う姿が「蟷螂の斧」に喩えられ、石清水八幡宮の欄間彫に彫られ、そののち、蟷螂山がそれをモデルに造られたとされている。だから、御所車(公家の乗り物)の上でカマキリが戦っている。この「男山の戦い」1352年で隆資は死んだ。男山の麓の八角堂の近くには「血洗いが池」というこの戦いの石碑が立てられている。

 7月17日、今年も祇園祭の山鉾巡行がとりおこなわれた。午前9時に出発した先頭を行く「長刀鉾」は、四条通を東に進み、午前9時半頃に四条河原町の交差点にさしかかった。

 稚児が乗る長刀鉾はこの交差点で四つの車輪の下に竹を敷いて「辻回し」という方法で90度方向転換し、北上を始めた。

 昨年に引き続き、2番くじをあてた「蟷螂山」。2番を連続して当てる確率は136分の1とのこと。今年は、この蟷螂山をじっくりと見るために山鉾巡行を見にやってきた。34基ある山鉾のうち、からくりがあるのはこの山だけ。蟷螂の斧のようにカマキリの腕が動き、羽根が広がりすぼむ。

 非力な小さな生き物のカマキリが象や獅子立ち向かうがごとき動きは、人々の喝采を浴びている。その動きを見ながら、「中国共産党一党独裁下」の表現の自由や人権という考えが まったくないこの国で、大学教員として仕事をし ブログを閉鎖されながらも なんとか生活して 耐えながら頑張っている自分と重なってしまうようにも感じる 蟷螂山のカマキリだ。頑張れ、蟷螂の斧。数年前の宵山で蟷螂山に行き、カマキリの可愛らしい絵が入った布バックを買った。こんど8月末から再び中国に行く時にこれを持って行き、部屋に飾っておこうかと思っている。

 京阪電車「出町柳」付近の寺の門壁に短歌が一首書かれていた。題は「蟷螂山」。「蟷螂の 斧とハいへと 油断なく 大敵ニ向ふ 意気乃貴さ」(蟷螂の 斧とはいえど 油断なく 大敵に向かう 意気の貴さ) と。

  四条通を2つ目の鉾「函谷鉾」が通る。この鉾も中国の「函谷関(かんこくかん)」の故事にちなんだものだ。この日、四条河原町にある高島屋の正面玄関ホールに「祇園祭」の古絵図屏風が陳列されていた。

 この日の山鉾巡行の最後の殿(しんがり)は、華麗な船鉾だった。三条大橋のたもとに行くと、百日紅(さるすべり)の花が咲き誇っていた。三条京阪の駅に行くと、中国からの母と娘の観光客が 中国古代の服装をしていたので、「写真を撮らせてもらってもいいですか」と中国語で話しかけて撮らせてもらった。中国古代衣装は美しい。

 2歳半となった孫娘の栞(しおり)が、7月6日(土)ころより40度の高熱を発症し、なかなか熱がさがらないので、7月8日(月)に行きつけの近くの病院が紹介してくれた大きな病院に、娘の夫が仕事を休んで連れて行き診察を受けた。診察・検査の結果、病名が告げられて即入院となった。5歳までの子供がよくかかる 血管内の炎症をともなう病気だ。この日から24時間の家族の誰かが病院ベット横での付き添いが必要と告げられた。経過が良くて1週間、長引けば1か月間の入院治療が必要とのことだった。個室ではなく、小さな部屋にカーテンで仕切られたベットに、小児ばかりが3~4人が入院・入室している。子供の泣き声はお互い様という部屋だった。付き添い人用のベットがないのはつらい。

 娘は生後6か月の次女を抱えた身なので、病院付き添いの常時シフトには入れない。ちょうど私が中国から夏休みで帰国しているので、娘の夫(高校教員)と私の妻(小学校教員)と私の3人で付き添いシフトをとることとした。他の二人が平日は学校勤務に行くために、私は主に午前6時から午後4・5時ころまでのシフトに入った。早朝5時ころに自宅から病院に向かい、6時頃に病院に到着し付き添いを交代していた。病院の敷地内はもちろん禁煙なので、煙草の喫煙をするのにけっこう苦労もした。7月13日(土)からは、娘の夫の母(滋賀県東近江市在住)がシフトに入ってくれることなった。

 幸い、1週間後の検査結果により退院ができることとなったので"みんなで喜びあった"。悪ければ1カ月間ほどのシフト体制をみんな覚悟していただけによかった。徐々に元気を取り戻してきた栞。今では元気に幼稚園にも通っている。7月23日(火)、少々の雨も降ったりやんだりの不安定な天気の中、鴨川上流の「八瀬」の渓流に、娘と2人の孫娘と私の妻の5人で行き。1時間ほどの川遊びをした。

 

 

 

 

 


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