◆前号で「幽霊子育飴」のことを紹介したが、幽霊飴伝説がおきた1600年初め当時の飴は「箸に巻いた水飴」であったようだ。水飴であれば、生まれて間もない乳飲み子も舐めることができたかもしれない。この「幽霊子育飴」の1袋500円のものを2袋買ったが、1袋には30個ほどが入っていた。中国の閩江大学4回生たち40人ほどの土産物としても購入した。「日本文化論」の授業の1コマとして、「日本の闇文化―日中比較、霊・妖怪・呪術の世界」を扱う予定だ。この「幽霊子育飴伝説」も紹介したいと思っている。
六道の辻の「飴屋」の近くに「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」という寺がある。平安時代初めの延暦年間(782〜806)に創建された。平安京成立と同時に創建された寺である。境内は冥界への出入り口と考えられていた。平安京に住む人々は古くから、都の碁盤の目の外に異界があると考えていたという。碁盤の目の街中から鴨川を渡り、松原通りを東へ。清水寺方面にゆるやかに上がるこの道は、都の葬送地「鳥辺野(とりべの)」へと続いていた。
途中、あの世とこの世の境目は、"六道の辻"と呼ばれ、ここに六道珍皇寺が立つ。「死者と最後のお別れ、野辺の送りをしたのがこのお寺。この世の最終地点」の場所であった。清水寺に隣接する南側の「鳥辺野山」の山麓から中腹にかけて、現在もとても広くて大きな墓地が見られる。
小さな寺の境内に入って行くと、右手に「お堂」が見えた。ここに「閻魔大王座像」が置かれていた。年に数回ある公開日以外は、お堂の中を覗ける小さな穴からその像を見ることができる。堂内には、小野篁(おののたかむら)の像も見えた。この小野篁は、あの有名な小野小町の祖父にあたる人だ。篁は平安時代前期の文人官僚で、冥界に行く神通力をもっていたと言われている人である。
境内に残る井戸から夜ごと冥途へ通い、亡者(もうじゃ)の罪を軽くすべく、閻魔庁の冥官として働いたとも伝わる。冥界への入り口はすなわち出口でもある。京都のお盆は、迎え鐘を鳴らし先祖の霊を迎える「六道まいり」から始まり、有名な「五山の送り火」に終わる。「京都の人々は、生活の延長線上にご先祖が眠る場所がある」と認識してきたようで、「来世はそんなに遠い所ではない」と思われてきたふしがある。8月7日から10日の「六道まいり」には、10万人もの人この寺を訪れるという。水木しげるさんも、「地獄絵」なるものを描いている。(左から5・6番目の絵)
ここ六道の辻には、「六波羅蜜寺」もある。平安時代の951年、時の天皇の第二皇子として生まれた「空也上人」の有名な木像や「平清盛」の座像などがある寺である。平安時代末期の「平氏政権」時代には、ここに平家一門の邸宅が立ち並び、政務の中心地であった。「平家でないもの人にあらず」と権勢をふるったが、「おごれるもの久しからずや」となる。「六波羅」とは「六原」(六道の原っぱ)から由来している言葉のようだ。現在もこのあたりは「六原」とも呼ばれている。
むかしはこの辻には「六つのお堂」があったのだが、現在は3つが残されている。そのうちの一つが「子育て地蔵・六原地蔵」が祀られている「弘法大師」ゆかりの「西福寺」という小さな寺であった。
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