彦四郎の中国生活

中国滞在記

韓国高校・春の選抜、民族系高校での甲子園は初出場―京都における北朝鮮系と韓国系の二高校

2021-03-22 07:41:52 | 滞在記

 春の選抜高等学校野球大会が3月19日より甲子園球場で始まった。昨年は新型コロナウイルス感染拡大を受けて中止となっていたので2年振りの開催となる。京都から京都国際高校が初出場している。この高校は民族系学校で、2004年までは京都韓国中高等学校という校名だった。

 民族系学校をルーツにもつ高校が甲子園での全国高校野球大会(春・夏通じて)に出場するのは初めてである。同校の卒業生はじめ、在日コリアンから喜びの声が上がっている。この京都国際高校は朝鮮半島の韓国系学校だが、京都には京都朝鮮中高級学校という北朝鮮系の民族系高校もある。京都市の南に韓国系、北に北朝鮮系のそれぞれの民族系学校が位置している。地元の京都民報(新聞)の「チーム一丸で歴史をつくろう―民族学校ルーツで初」の見出し記事や朝日新聞の京滋版の「一生懸命さ、22年前も今も」の見出し記事が掲載されていた。

 2つの記事によると、京都国際高校(旧京都韓国中高等学校)は1947年創立。2004年に京都国際中学高等学校となり、日本の中高一貫校として日本の文科省より日本の中学・高校として認可された。(このため、卒業生は韓国と日本の両国から卒業資格を得ることができるようになっている。) 90年代になり生徒数が激減するなか、生徒獲得の起爆剤として期待されたのが99年に創立された野球部だった。在校生で野球経験者が1人だけというなかで、初めて参加した同年夏の京都大会初戦では0対34の記録的なコールド負け。対戦相手は前年の夏の甲子園で準優勝した京都成章高校だった。

 「選手がボールを獲ってアウトにするだけで歓声があがるような状態。野球がまともにできるチームの状態ではなかった。」と、この試合は語られる。京都国際高校の小牧監督(37)は、コールド試合となったこの試合で、京都成章の二塁手として同校と対戦。「打球が飛べばヒットになった」と当時を振り返っている。その後の猛練習を経てわずか4年後の2003年の夏の京都府大会でベスト8入りをした。

 同校の卒業生たちは、「大変な思いをしながら学校をつくった先輩たちがいて、差別や日韓関係の悪化で苦しんできた歴史もあります。在日コリアンの人口も減るなか、本当に良いニュースです。スタンドで応援し、勝ったら校歌を一緒に歌いたい」、「民族学校をルーツにもつ学校で、甲子園出場という新しい歴史をつくりたいという思いが実りました。さまざまなルーツをもつ人が日本の中で暮らしているということを日本中だけでなく、世界に発信できる。全力でプレーしてほしい」などと語る。この2021年選抜高校野球で、京都国際高校は1回戦で宮城県の柴田高校と対戦する。昨日、21日(日)は雨の為全試合が延期となったため、京都国際VS柴田の試合は23日予定から3月24日(水)の第二試合(11:40から)に順延となった。

 日本全国には約4800の高等学校があるが、京都国際高校の偏差値は35と全国の高等学校の中では最下位近くに位置するが、それでも近年(2019年)の大学進学実績では、神戸大1名・同志社大2名・立命館大学4名などの進学者を出し始めてきている。生徒数は各学年45名。

   京都国際高校には7〜8年ほど前に一度行ったことがあった。甲子園出場という新聞報道を目にして、この3月15日(月)の午後、京都国際高校に行ってみることにした。京都国際高校の周囲には、泉湧寺や東福寺などの大きな伽藍をもつ古刹がある。緩やかな坂道を車で上る。道の両脇に古刹の塀が続く。高台にある京都市立日吉ヶ丘高校が見えてくる。

 この日吉ヶ丘高校からさらに山頂方面に続く道路を上って行くと京都国際高校がある。正門を入り守衛さんに来訪を告げる。甲子園出場を1週間後に控え、諸般の事情で学校内は一般には公開していないのでとのことだった。車を校内の駐車場に停めて、許可された範囲まで行ってみた。野球部の部員は北は北海道など全国から来ていて、多くが寮生活を送っているようだった。その寮があった。寮から京都市内を眼下に見渡せた。正門付近から東山三十六峰の一つの峰に近い校舎の建物が森林越しに少し見えた。

 この後、守衛さんが気を遣ってくれて、学校の校舎などの撮影が可能かどうか学校の教務教員に連絡をとってくれた。5分ほどして教務教員の人が正門まで下りてきてくれて、「せっかくお越しいただいたのですが、敏感な時期なので、一般の方には学校の構内の開放はお断りしています。すみませんが」との話。韓国や北朝鮮にルーツをもつ学校へのヘイトなどの問題も起こる可能性もあるので、かなり学校側としても警戒をしているようすでもあった。事情を察して学校をあとにした。

 翌日16日(火)、午前中に中国の大学とのオンライン授業を終え、この日の午後、京都銀閣寺にほど近い娘の家に孫3人の子守の手伝いに行くこととなった。娘の家に行く前に、久しぶりに京都朝鮮中高級学校に行ってみることにした。京都朝鮮中高級学校は実に久しぶりだった。1970年代前半の大学生の3・4回生時代、銀閣寺に隣接する下宿に暮らしていたので、銀閣寺に隣接するこの京都朝鮮にもよく散歩に行って、サッカークラブの練習のようすなどもよく眺めていた記憶がある。久しぶりに来たという感じだった。

 疎水沿いの哲学の道の小橋を渡り、銀閣寺参道の商店街のゆるい坂道を上ると正面が銀閣寺山門。右の道をゆくと15mほどでかっての下宿だが、そこを左の方の道を進むと大文字山や如意が岳、京都朝鮮学校に至る道となる。銀閣寺の塀沿いの道を行くと、大文字山と京都朝鮮中高等学校の分岐地点に。すぐに京都朝鮮中高級学校はある。学校正門には、通称「三本ペン」の校章があった。この校章は三本のペンと三つの小さなハンマーが描かれている。ペンとハンマーはそれぞれ勤勉と勤労を表す。

 1970年代当時も今も学校名は「京都朝鮮中高級学校」と、今と変わらない。いわゆる北朝鮮系の学校なので、70年代当時は運動場に面する校舎の中央には金日成主席(現在の金正恩主席の祖父・建国の英雄)の大きな肖像画が掲げられていた。しかし、今は掲げられていなかった。また、70年代当時は男子生徒は日本の高校生と同じ黒の詰襟学生服だったが、女子生徒は朝鮮民族の伝統服の黒のチョゴリだった。

 京都朝鮮の背後にある山は大文字山や如意が岳。運動場から大の字の一部が見える。また、背後の山々には中尾城や如意が岳城、将軍山城など中世・室町1500年代の山城がある。かってこの時代に戦乱の地となったところでもある。

 韓国もそうだが、北朝鮮も伝統的にサッカーが国球的なお国柄だ。この京都朝鮮高級学校もかって全国高校サッカー選手権大会(2003年)に京都府代表として民族系学校としては初出場したことのある学校だった。1994年~96年にかけて、日本の高校インターハイ大会や全国大会への参加がようやく認められ、インターハイには京都府代表として2回出場もしていた。中学生と高校生が、他のクラブと狭いグラウンドを共有し、ともに練習に励んだところだった。クラブ部室の建物やサッカーゴールが置かれていた。また、吹奏楽部も2006年と2012年に、京都府代表として関西大会に出場している。

  偏差値は公開されていないが高くはないと思われる。しかし、大学進学実績としては京都大学・神戸大学・東北大学などの国立大学や同志社・立命館・関西・関西学院などの各大学に進学している生徒も少なからずいるようだ。日本全国には、この朝鮮高級学校(高校)は9校ある。(北海道・東京などの関東圏3校・京都・大阪・神戸・広島・九州)。また、京都と滋賀には朝鮮初級学校(小学校)は3校ある。(京都市2・大津市1)

◆大阪府には、韓国系にルーツをもつ高校として大阪建国高校があり、北朝鮮系にルーツをもつ高校として大阪朝鮮高級学校がある。この大阪朝鮮も吹奏楽部は大阪府代表となったこともある。ラグビー部は1999年と2003年、2020年に大阪府代表として全国大会に出場している。2020年は全国大会ベスト4。

 久しぶりの京都朝鮮中高級学校をあとにして銀閣寺山門に戻り、娘の家に向かう。銀閣寺山門の左隣は浄土院というお寺。8月16日の大文字(五山の送り火)をとりおこなう寺院だ。学生時代の下宿の大家さんが大文字保存会の会長だったので、7月~8月期間に大文字の送り火で使う薪(まき)を山に手伝いで運んだこともあった。

 かっての下宿だったところの敷地は、銀閣寺(慈照寺)に買い取られて2階建ての新しい建物となっている。その建物の2階部分は銀閣寺の売店だ。下宿の2階の4畳半の部屋からは正面に吉田山がどんと望めた。銀閣寺の裏山から夜に一升瓶(清酒)を片手に銀閣寺境内に忍び込み息を潜めて、本堂や厨から離れた山手の義政の井戸のあたり宴会をしたこともあった。今、娘が暮らす家の近くに、赤提灯居酒屋「夢二」という店があり、さまざまな大学の学生たちなどで、何かしらの議論をしていた店でもあった。下宿の隣の部屋の京都大学フランス文学科の学生は学生運動で警察に逮捕され、いつのまにかいなくなった。そんな時代だった。

 元下宿跡地から法然院に向かう。山ぎわの石垣が苔むした小路に椿がたくさん落ちている。家々には季節の花で海棠(かいどう)や馬酔木(あせび)などが咲いている。哲学の道の桜の蕾は1~2輪が開花し始めていた。娘の家に向かう。

 京都朝鮮学校といえば、映画「パッチギ」。2005年に全国で上映され、その年のキネマ旬報最優秀作品賞(1位)なども受賞した作品だ。監督は井筒和幸。映画の題名「パッチギ」とは、朝鮮語で「突き破る、乗り越える」の意味。1968年の京都を舞台に、日本人と在日朝鮮人の青春群像を描いた。若者たちの心の叫びが深い感動を呼び起こす映画だ。日本と在日朝鮮の高校生が巻き起こす恋、友情、ケンカといった様々な事件を、涙と笑いをたっぷり盛り込み描いた超ド級の青春エンタテイメント映画。

 1968年、京都市の府立高校の平凡な2年生の康介(主人公)が、担任の先生から京都朝鮮とのサッカー親善試合を申し込みに行くよう頼まれ、親友と一緒に、或る日、恐る恐る 他校生徒との喧嘩沙汰の絶えない京都朝鮮に行く。康介は音楽室でフルートを吹くギョンジャ(ヒロイン・沢尻エリカ)に一目ぼれをする。そこから青春群像の物語が始まる。映画には、「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」などの曲が流れる。出演者には、塩谷舜、高岡蒼佑、沢尻エリカ、真木よう子、小出恵介、オダギリジョー、加藤亮、余貴美子、大友康平、笹野高史、三石研、前田吟などの層々たる配役。

 映画ロケの撮影は京都市内各地で行われた。京都朝鮮の高校生たちが銀閣寺参道の坂道を駆け下るシーンでは、道の両脇に並ぶ商店街のみなさんが、撮影のために、朝6時7時から店を開けていかにも営業しているよう演出に協力。また、1968年という設定のため、昔の看板を設置したり、新しい幟(のぼり)は一時的に下げてくれるなど。撮影場所は円山公園、鴨川、宝ヶ池、銀閣寺参道、賀茂大橋、祇園、新京極、京大西部講堂、哲学の道などなど。

 京都市内には朝鮮初級学校(小学校)は3校あったが、現在は2校となっている。最も朝鮮にルーツを持つ人たちが多く暮らしていたのはJR京都駅の南にある九条界隈だった。この界隈にあった京都朝鮮第一初級学校が、2009年にヘイト集団に襲撃をされるという事件が起きた。(当時の児童数150人)  ヘイト集団は「在日特権を許さない市民の会(在特会)」のメンバーなどの右派系団体。

 まず校門前で拡声器街宣活動のヘイトを展開。「ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。なめとったらあかんぞ。叩き出せ。」「日本から出ていけ。何が子供じゃ、こんなもん、お前、スパイの子供やないけ」「約束というもんは人間どうしがするもんなんですよ。人間と朝鮮人とは約束は成立しません」などと怒声を上げ、朝礼台を門扉に打ちつけ、サッカーゴールを横倒しにするなどの騒ぎを起こした。このため、4人が逮捕・起訴された。京都朝鮮襲撃事件と呼ばれる事件だ。

 映画「パッチギ」で朝鮮高級学校の番長(ヒロインの兄)を演じた高岡蒼祐の演技も強烈な印象を残した。この番長のモチーフ(モデル)ともなったとも言われる一人の実在の人物が2017年に64歳で亡くなった。大阪ミナミ在住で、破天荒な生き様を周囲から愛された在日朝鮮人の朴安鍚(パクアンソ)さんだ。映画の中にこんな場面がある。—李アンソン(番長)が、サッカー・ワールドカップ(W杯)出場の夢を目指すため、北朝鮮への帰国船に乗ることを周囲に宣言する―。

 実在の朴アンソさんは、大阪朝鮮高級学校サッカー部で活躍しながらも、当時の大会規定で全国大会に出場できなかった。この実体験を、井筒監督は主人公に反映させていた。朴さんは生きていれば私と同じ年齢だ。

 この1年、週に一度は娘の家に孫の世話の手助けに行く。そして今、午後5時半ころに、銀閣寺バス停には下校する京都朝鮮中高級学校の生徒たちがバスを待つ。女生徒たちの制服はチョゴリではなく、普通の制服に変わっている。学校のリュックカバンにはピンク色の「KYOTO」だけの文字が。生徒たちは京都府内や滋賀県内から通学してきているようだ。大阪府や和歌山県、奈良県からは大阪朝鮮中高級校に通学する。そして兵庫県内などからは神戸朝鮮中高級校へ。

 歌「イムジン河」の歌詞、「イムジン河 水清く とうとうと流る 水鳥自由に群がり飛び交うよ‥‥誰がこの祖国を 二つに分けたのか‥」。南北朝鮮半島の統一を、朝鮮半島民族の人々はもう70年も待ち望んできた。私も民主的統一国家としての統一を望む。しかし、金王朝とも呼べる実質・皇帝制度の北朝鮮の政治体制とそれを支持し支える大国の中国。民主主義国としての南北統一はなかなか難しい。そんな70年にわたる歴史に、日本在住の朝鮮半島にルーツをもつ人たちは、これからも翻弄され続ける年月がまだ続く。一党独裁・個人独裁の政治体制・権力構造は本質的に人々を分断する政治体制だ。

 新型コロナウイルスのパンデミックを巡ってアメリカ国内では反中国感情が高まっているが、アジア人へのヘイトや暴行、集団殺人事件などが最近では顕著になってきているとの報道もされる。その国に住む外国人へのヘイト、愚かしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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