長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

未来へつなぐ生き方を感じる場所

2013-09-19 09:36:36 | Weblog

昨日は、あまりに天気がいいので、朝起きたら飯も喰わず、

車にのって、「やさと」にいってきた。筑波山の麓にある里山がきれいな日本の原風景みたいなところ。

天真庵の珈琲用の石臼の故郷でもある。その縁で知り合いになり、ちょくちょくお邪魔する「しげふじ」

というお蕎麦屋さんにいく。お店の前には里山を借景にした田んぼが広がっている。ちょうど先日が稲刈り

の日だった。実りの秋。窓から見える田んぼの左はしに、まだ稲刈りをしていない穂が黄金色の穂を秋風に

ゆらしながら優美にたたずんでいる。「渡舟」(わたりふね)という酒米。晩稲(おくて)の原種なので、一般のものより

収穫がおそく、10月の始めくらい。背も高く、収穫の寸前に台風にあうことが多く、品種改良を繰り返し、山田錦

という酒米ができた。お茶も品種改良で「やぶきた」種が主流になった。う

その「渡舟」を再興したのが、しげふじの主人。農業関係の仕事を退職した後、60歳にして、渡舟の田んぼの里山

が見える場所に蕎麦屋をつくり、毎朝石臼でやさと産の大豆を挽き、下関のにがりをつかって、愛情たっぷりの豆腐をつくり、

地元産の蕎麦粉を打って、野趣満天の蕎麦を供す。豆腐を食べながら、グラスワインよろしくグラスに「渡舟」(純米)を

なみなみ注いでもらって、景色を酒肴に一杯。豆腐とおからで一杯。絞めの蕎麦で一杯。昨日は主人と蕎麦談義を

しながらもう一杯。幸せいっぱい、夢いっぱいの昼酒。

今日は仲秋の名月。今宵も酒が美味い日だ。

この「やさと」で、年に一度の「八豊祭」(やっぽうまつり)が10月20日(日)に開催される。

場所は朝日里山学校(茨城県石岡市柴内630) お問い合わせは、八豊祭実行委員会(080-3114-2014)

閉そく感や、ささぐれた人間関係に疲れた人や、「違う生き方」(人間本来の生き方)なんかを模索しているような

人はぜひ参加してほしい。当日は東京から「やっほう天ぷらバス」も運行します。(屋形船みたいに中で

天ぷらをくう、というのではないよ。家庭用の油を再利用したエコバス)

明日は「ダメ中」 だめから始める中国語。  水餃子をみんあでつくって、食べる予定。

 

 


書をしてみない会

2013-09-17 07:54:46 | Weblog

昨日は上原英里さんのシャンソン。前日から「台風直撃」の予測だったので、

キャンセルなんかがあったけど、大ファンの人たちが集まって、素敵な会になった。

東京はそうでもなかったけど、「一生に一度あるくらいな被害」にあったところの方々

には、くれぐれもお見舞い申し上げます。なんか不思議な天気が続きますね。

台風で飛ばされた青い柿をひろった彼女がその話をしながら「枯れ葉」にまつわる曲を

歌う。恋をしていたり、人生のきしかた、行く末を考えながら、街を歩いていたりすると、

見る景色、聴こえてくる音楽も、似て非なる次元に誘なわれる。

最近お客さんとよく「7年後のオリンピックの時には、何している?東京にいる?この世にいる?」

というような話をする。原発や戦争、天変地異・・・外敵な要因で明日をも知れないところに立っている。

もしも「人生があと3日になったら・・・どうする?

一日は、お世話になった人と酒を酌み交わし、二日目は、ジャズがシャンソンかクラシックを「生」で聴き、

最後の日は、蕎麦を打ち、好きな掛け軸を掛け、その日に咲いた花を花器に投げ入れ、星野村の玉露をていねいに入れ、

気のおけない茶仲間たちと茶会をしたいものだ。

今日は「書をしてみない会」

若い大型新人がひとり入門。文人たちが文花という名の街にやってきて、「個の花」を咲かす日。


台風がやってくる その弐

2013-09-16 07:44:23 | Weblog

ではないけど、風が強くなってきた。

今朝は「卵かけごはん」。ごはんに卵をかけ、一気呵成に喰らう、というのは幸せな朝ごはん。

でも、ちょうど雨風がピークになりそうなので、いつも遠くから来られる方なんかは、おでかけをひかえた

ほうが賢明かも。こちらも窓に養生テープ(養生ってこの字なの?)を張ったり、プランターを片付けたり・・・

ぼろ家ならではの準備をしながら、16時まで平常営業。

19時から「シャンソン」

この時間になれば台風一過も落ち着き、素敵な時間になりそうな予感。

時間も自然だけど、人間は自然の中に内包される小さな動物。その中で「生かさせている」ことに感謝。

明日は「書をしよう会」

掛け軸なんかを家に飾る、という習慣も生活様式もなくなりつつあるけど、昔からそこがその家の主の

「信条」や「おひとがら」を現していたし、その家の人たちにとっても、「小さな美術館」であり、人生の妙味や

感性を育んだりする空間だった。見直されてくるといい、と、つくづく思う。


台風がやってくる

2013-09-15 08:27:29 | Weblog

昨日は、お客さんに宮内庁御用達の「ぶどう」をいただいた。皮も肉厚で、光合成を

たっぷりやってきて、ついさっきまで自然の中にいた、みたいな野趣があり、美味かった。

最近の休みは、秩父の山奥にある蕎麦屋にいって蕎麦前の酒を秩父豆腐で飲み、りす蕎麦を

手繰って、温泉に立ち寄ってくる、というのが多かったけど、今週は「八郷」にいってみるとするか。

そこの蕎麦屋の主人は、「渡舟」(わたりぶね)という酒米を復活させた。お店の前はその渡舟の田んぼに

なっていて、それを眺めながら、純米酒「渡舟」を飲むほど幸せな「そば前」はない。やはり酒肴は、石臼で

毎朝大豆を挽いてつくる豆腐。その石臼と、うちの珈琲の石臼が同じ作家なので、その縁で通うようになった。

60才から初めて「10年やる」と決め、そろそろだ。明日は敬老の日だけど、その対象から程遠いほど元気な70歳。

「かくありたい」という自分の目標みたいな人だ。

今日は日曜日なので16時でお店をしめ、「蕎麦打ち教室」。

明日も16時で閉店。19時から上原英里さんの「シャンソン」(そば会付 4000円)


長生の秘訣

2013-09-14 08:40:08 | Weblog

今朝の新聞に、心臓移植したネズミは、そのままだと8日しか生きないのに、

オペラの「椿姫」を聴かせると28日生きた、とあった。モーツァルトだと20日らしい。

免疫力を高めるらしい。

昨日はN響の山根さんのクラリネット、同じくN響の中竹さんのヴィオラ、松岡さんのピアノのコンサート。

副題が「ドイツ、スイス、フランスのロマン・・・美和子さんに捧ぐ」というタイトル。N響でよくピアノを

演奏会していたピアニスト・金崎美和子さんの追悼コンサート。前回、彼女がピアノを弾いてくれて、

M・ブルッフの「クラリネット、ヴィオラ、ピアノのための8つの小品」の1・2・7・8をやってくれた。

「次回は、残りの3・4・5」という約束を天国に持っていかれた。松岡美絵さんが、「それでは」

ということで、素敵なトリビュートな演奏会になった。還暦の坂を超えず、風のようにいったけど、

いつまでもふれあった人の心の中に生き続け、彼女のピアノの音は、聴いた人の脳裏に未来永劫鳴り続ける

に違いない。「八つの小品」を目をつむって聴いていたら、一階の寒山拾得の絵が笑ったような気がした。

寒山詩に「八風吹不動天辺月」「八風吹けども動ぜず 天辺の月(はっぷうふけどもどうぜず てんぺんのつき)」というのがあるのを思いだした。「自分を惑

わいろいろな出来事に動じず、強く生きていこう」というような意味だろう。「月」の縁起ではないが、前日中竹さんちの「ルナ」(インコ)が旅立ったらしい。

人生はいろいろな風が吹いたり、泣いたり笑ったりしながら、旅をするようなもの。つまの間の旅だから大切にしたい。

仙崖和尚の「堪忍」と書かれた詩を思い出す。「気にいらぬ風もあろうに柳かな」

16日(月)の夜は「シャンソンの弾き語り」をやります。秋の月を愛でながら、おいしい酒を飲みながら、「今」を感じたいものだ。感謝。


今日は秋のクラシックコンサート 16時閉店

2013-09-13 08:19:00 | Weblog

昨日は午前中は「卒啄珈琲塾」、午後は「無茶しいの会」だった。

すみだ珈琲さんにいただいたパナマを焙煎してみた。ありのままの自分を「ただ」咲かせる

ような梅や桜みたいな作為がない自然な感じがよい。オリンピックがきまって、ざわざわしてきた。

自然は「ただ」が多いけど、人間がやることは「作為」があって、ぷんぷん臭うこと多し。

今日はヨーロッパ演奏から帰国したばかりのN響のやまねさん、中竹さんがきてコンサート。

ピアノは松岡さん。素敵な演奏になりそうだ。洒落ではないけど、昨日のお茶会では「円相」の話で盛り上がった。

お坊さんや書家が、「○」を書く。あれを円相という。仏教の「空」でもあるし、それより根本の「無」でもあるし、

仙崖和尚は円相の横に、「これ喰うて、茶飲め」と賛を入れた。まるを饅頭にみたてた。くすっ、と笑えるような彼らしいユニークで酒脱な

感じもするけど、「まんじゅうでもお米でも、いただくものは、喰いつくす。飲むものは飲みつくす。なんでも徹底的にやりなさい」ということだろう。

「喫茶去」も訳せば「まあ、一服」。ただそれだけのことだ。その「ただ」の中に、いろいろな味わいや教えがつまっているところが、いい。

無茶しぃの会に、若い青年がまじめに通ってきている。彼のおじいちゃんは、700年も続く、岐阜の山の中のお茶の生産地で

茶畑をやっていた。みな高齢であるのと、「やぶきた」などの人間の都合で改良された品種がはびこってきて、本来の在来種が苦戦を

強いられているのを知って、なんとかそのお茶を蘇らせようとがんばっている。小さな一歩だけど、なんか見ていてほそえましいし、

彼ら若者がそんな動きに躍起になる姿に、清風を感じる。「歩歩起清風」。小さな一歩一歩だけど、その一歩が、清らかな風に

なる。来年の茶摘みの時には、その村にいって「蕎麦会」をやる約束をした。

日曜日は「蕎麦教室」   月三回にしているけど、間に合わなくなりそう。

敬老の日の16日は上原英里さんの「シャンソンのライブ」があるので16時閉店。19時から4000円(そば会付き)

 

 


水は深く掘れ

2013-09-12 07:55:38 | Weblog

そんな禅問答みたいなタイトルの本を読んだことがある。

今朝の朝刊で、灘高の国語の名物教師の記事を読んだ。

小説「銀の匙」一冊を3年かけて読むユニークな授業で知られ、伝説の国語教師と呼ばれた神戸市の進学校灘中・高校の元教諭、橋本武(はしもと・たけし)氏が11日午後、神戸市中央区の病院で死去した。101歳。京都府出身。

おばあちゃんの箪笥の中からでてきた「匙」から、めくるめく空想が展開されれる小説。作者の「日本人らしさ」が、随所にちりばめられていて、

読むと「日本人にもどっていく」感じがする。ぼくもリョックの中には、「草枕」と「銀の匙」は、水や乾パンみたいに防災グッツのようにいつも入れていて、

いつでも読めるようにしている。灘高にいく元気と実力はなかったけど、先生の国語の講義は聞いてみたかったと思う。うすっぺらく浅いトレンドに右往左往

したり、ささくれだった人間関係の中を溺れそうになったりなったりするけど、「水は深く掘れ」という言葉をふいに思い出した。

昨日は「卒啄珈琲塾」と「無茶しぃの会」をやった。お茶は二階で三回やった。原稿もなにもないけど、静かに正坐し、水が沸いてお湯になる音、

温めた急須から「こぼし」に水が落ちる音、お茶を吸いきる音・・・静寂の中にある「刹那」に神経を研ぎ澄ませながら、お茶を飲むのは

ほんとうに至福の時だ。人生はこころひとつのおきどころ。無茶しいの会のひとりが、「無私の日本人」(磯田道史  文芸春秋)を

貸してくれたので、今朝はやく起きて読破。穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月、というあまり知られていないが、人間らしく

生きた三人の日本人を紹介している。ふたりは、煎茶とも深くかかわった人。この本を読むと、お茶や酒が美味くなる?

本日もまた同じことをやる。日々是好日。


卒啄珈琲塾&無茶しぃの会

2013-09-11 08:05:29 | Weblog

今日は恵みの雨が朝から降っている。小さな庭の木々たちも、「雨だ~」と

喜んでいるようだ。今日は「資源ゴミ」の日。ビンとカンと分け、ペットボトル

や、ダンボールを束ねて、指定された場所に持っていく。「燃えるゴミ」の時は、

「みられ方」が問題になるけど、資源ごみの場合は、自転車でそれらを集めにくる

人たちの視線を気にしなくてはいけない。彼らと同じ目的を持った人だと思われる

と、「なわばり争い」にまきこまれる。どうも、ぼくはそのあたりの人たちと縁があるみたいだ。

木曜日は自分の煎茶のお稽古に表参道にいく。一昨年のある日、日本でも著名な陶芸家の

個展に招かれ、いつものように紺の作務衣を来ていった。上野で飲む約束があったから、

かっぱ橋で買い物をして地下鉄で上野駅についたら、へんな男が近づいてきて、耳元で

「いい仕事紹介しますよ」ときた。陶芸家の個展会場やアーティストのオープニングパーティー

では、「作務衣」は制服みたいなもんだけど、雑踏の中では、ニートか浮浪者かなんかに見られるのだろう。

ま、こんなことも「紙一重」の問題。911から12年になる。311から2年半になる。

オリンピックが東京で行われることになって、またマルチ商法の会場になったみたいに

「フワフワ」(商品のよしあしとはかい離して、お金だけが興味のある人らが、なんか楽しそうにフワフワしている)

した雰囲気になってきたけど、これから本当に裸の「人間力」が問われたり、

ほんとうの人間らしさ、みたいなものをしっかり持たないと、「おわり」になりそうな気がする。

二年前から毎日300トンも原発の汚染水が海に流れていて、今のこの星の人間の叡智ではまったく

解決策もなく、きっとこれから7年間も変わらないいわば「お手上げ」みたいなところに、「おてもり」

で無理やりきまったオリンピックに、世界中の人が来て、騒ぐほど、この星は平和なんだろうかね?

 

 

 


不思議なおばあちゃんの絵

2013-09-10 08:06:03 | Weblog

天真庵のピアノの横に、赤い箱(リボンがかかっている)をもったおっばちゃんの絵がある。

開店した時からずっと飾ってある。ひとりで珈琲を飲む時も、家族で蕎麦を手繰ったり、

夜の寺子屋やコンサートの時も、額縁の中で、静かに微笑んでいる。いろいろな人が

その絵の作家のことや、モデルは誰(ひょっとして、女将さん?)とか、ある近所の方は

「あきたら、私にゆづって」とか・・・。そんな中、ある若い女性が「このプレゼントは、家族か知人に

いただいた時の笑顔?それとも、これから孫か誰かに手渡す喜び?」とつぶやいた。

なるほど、人によって、いろいろな見方があるんだなあ、と思った。

今日は「もえるごみ」の日。お店の人たちは、「ごみ券」を購入し、それを張って出す。

途中で蕎麦を打ったり、珈琲を入れたりして、新しいゴミができる。回収は8時半なので、

だしたゴミ(ごみ券が張ってあるので、わかる)袋をあけて、新しいゴミを入れる。

その時の人の視線もさまざま。背中に「笑」とか書いたTシャツの時や、「死神」と墨字のTシャツ

の時もある。ひょっとしたら、世間の人は「ごみ袋をあさりにきている人」だと思っているのではなかろうか、

いやその時の様子を幽体離脱して自分で見ても、そう思うに違いない。

「目あき千人、めくら千人」「わかる人はわかる わからない人はわからない」世の中はそんなもんだ。

でも孔子先生がいったように,人不知而不慍、不亦君子乎「人知れずして、慍(うら)みず」ということを大事にしたい。

明日明後日は「卒啄珈琲塾」と「無茶しぃの会」

珈琲やお茶の世界に踏み込むと、「もてなし」の真髄の旅、みたいなものをしたくなる、いやするようになる。

人生の旅にもにた「こころの旅」だ。同じ時代を同じ風景を楽しみながら旅する仲間といっしょに「お茶する」瞬間瞬間を「喫茶去」という。

芸術の秋。素敵なコンサートが目白押上。

13日(金)MUSICA LIBERA TOKYO

演奏:山根孝司(クラリネット)・松岡美絵(ピアノ)・中竹英昭(ヴィオラ)

19時開場 19時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)

16日(月・祭) 弾き語りシャンソンライブ

演奏:・上原英里(ヴォーカル&ギター)

19時開場 19時半開演 ¥4,000(お酒・料理付き)

 

 


日本一の奇祭 ぼした祭り

2013-09-09 07:38:27 | Weblog

敬老の日に、熊本でそんな名前のお祭りがある。

「ほぼぶらじる」(ボボブラジルという伝説のプロレスラーがいた)とも少し関係あるけど、「ぼぼ」という言葉は九州ではいみ嫌う、という

か、あまり昼間から口にだす言葉ではない。お祭りには昔からつきもんだけど、きっとその

お祭りも、由来は「ぼぼした祭り」だったのではなかろうか。もうひとつは、熊本城の加藤清正公

が秀吉の命を受けて、朝鮮に出兵し、「ほろぼした」を祝う凱旋のお祭りがもとになっている。

どちらも、公共の電波にはのせにくいものなので、知る人しか知らない奇祭として(もちろん、熊本の人は知っている)

現在にいたる。でもこのお祭りを見たら、どうして高千穂あたりが天孫降臨の地なのか、宗像大社がなぜ女人禁制なのか、

なぜ大宰府がおかれたのか・・・とか、いろいろなことが、「すー」とわかる。そんな不思議な祭り。今は「藤崎宮秋の大祭」という。

お祭りは「ライブが一番」というのも、このお祭りを見るとよくわかる。

うちでは、その日はえりちゃんの「シャンソン」のライブがある。シャンソンもお祭りといっしょでライブが一番。