天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

咳をしても一人・・・

2024年09月02日 19時00分20秒 | 日記
 今朝の下野新聞に、尾崎放哉の「咳をしても一人」を
 種田山頭火の句だと思っていたと言う人の記事が載っていました。
 この記事、下野新聞のオリジナルの記事ではなくて、
 「あなた発 特命取材班」とのコーナーに、
 「全国のパートナー紙とともに」の副題のように
 他県の新聞の記事のようです。
 この記事は京都新聞の記事を転載したものでした。
 調べてみると、この京都新聞の記事は、今年の5月10日の記事でした。

 内容そのものは、京都市に住んでいる58歳の方が、
 「咳をしても一人」を山頭火の句として覚えていて、
 周囲の近い年齢の人もそう覚えていたとの事でした。
 その方は、教科書にそのように載っていたと覚えていたようですので、
 当時の教師が間違えて教えてしまったのかも知れません。

 放哉と山頭火はともに明治生まれで、ほぼ同世代です。
 ともに放浪の俳人で、
 定型に縛られない自由律俳句の両巨頭として知られています。
 しかも、放哉は東京帝国大学卒で、山頭火は早稲田大学中退で、
 京都に暮らした自由律俳句の俳人の荻原井泉水に師事し、
 荻原が主宰した新傾向俳句機関誌『層雲』に
 作品を発表したことも共通しています。

 更に、1916(大正15)年、
 放哉が香川県の小豆島で亡くなったとの知らせを聞いた山頭火は
 「鴉啼いてわたしも一人」の句を詠んで、放哉にささげています。
 この句には「放哉居士の作に和して」という言葉が添えられていますので、
 「咳をしても一人」をイメージしたのでしょう。

 尾崎放哉は東京帝大を出て生命保険会社に入り、
 出世コースを歩んでいましたが、
 性格的な問題などから会社を辞め、
 最後は小豆島の庵寺で極貧のなか、
 ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら
 俳句を作る人生を送り、そこで亡くなりました。
 その性格などから、周囲の人とのトラブルもあったとの事ですが、
 僕は、余り詳しく読んだ訳ではないので、よく分かりません。
 句も、
 いれものがない両手でうける
 こんなよい月を一人で見て寝る 位きり知りません。

 山頭火は昔から好きで、その日記を読んだ事があります。
 放哉が絶対的な孤独を求めたのに対し、
 山頭火は一人で放浪の旅に出ますが、先々で知り合いを訪ね、
 あるいは頼ったりしていて、放哉とは少し違うような気がします。

 今は、山頭火の日記は青空文庫で読めます。
 宜しければお時間のある時にでも読んでみて下さい。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/47356_34230.html

コメント
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