天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

田中正造・・・

2024年09月06日 19時33分41秒 | 日記
 今日のニュースを見ていたら、
 足尾銅山鉱毒事件の追及と被害民の救済に半生をかけた
 田中正造(1841~1913年)の没後111年の9月4日、
 本葬が営まれた
 栃木県佐野市金井上町の春日岡山惣宗寺(佐野厄よけ大師)で
 112回法要があり、約110人が参列したとの毎日新聞のニュースがありました。
 主催は
 一般財団法人「田中正造記念協会」(理事長=金子裕・佐野市長)で、
 毎年恒例の講演会も開催しているようです。

 あれ?と思ったのは、
 9月1日、田中正造の112回忌とカツ子夫人の89回忌の法要が、
 佐野市小中町の浄蓮寺で営まれたとの記事が
 下野新聞に載っていたからです。
 正造は晩年、生家の土地や建物を若者の教育などに活用してもらいたいと
 小中町に寄付しました。
 その維持管理などを担う「小中農教倶楽部」が毎年この時期に、
 田中家の菩提寺である同寺で
 法要を行っているとの記事を読んだからでした。

 正造は、1913年(大正2年)9月4日、71歳で亡くなります。
 9月6日に、群馬県館林市の雲龍寺で密葬が行われ、
 10月12日に佐野市の惣宗寺で本葬が行われました。
 参列者は一説に30万人ともいわれています。
 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨されました。
 このため、墓は6箇所にあります。
 上記の浄蓮寺にも惣宗寺にも雲龍寺にも墓があります。

 法要がどうして別々に行われるのか分かりません。
 毎年行われているのでしょうね。
 法要が複数で行われる方が、正造の供養になるのかも知れません。

 田中正造と言えば、1901年(明治34年)12月10日に行った、
 明治天皇への直訴事件です。
 途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗しましたが、
 東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、
 直訴状の内容は広く知れ渡りました。
 直訴状は、幸徳秋水が書いたものに
 田中が加筆修正したと伝えられています。
 田中は即拘束されましたが、
 政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし、
 即日釈放されました。
 この直訴状は残っていて、
 2014年(平成26年)5月21日に、
 渡良瀬遊水地や田中の出生地である
 佐野市を訪れた上皇様に伝えられました。
 直訴未遂から実に113年後のことでした。

 田中正造の旧宅には以前行った事があります。
 下記に写真などがありますので、宜しければご覧ください。
 http://tennnennkozimitearu.seesaa.net/article/a61367793.html

コメント
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