MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

日本通訳翻訳学会第10回年次大会ポスター

2009年04月20日 | 通訳・翻訳研究

やっと作りました。こちらをごらん下さい。最近はhtmlをいじることはまずないので、手順をほとんど忘れてしまい、えらい苦労しました。(去年作ったはずなのにjpeg画像の作り方を忘れて茫然としてしまった。誰かやってくんないかな。)発表申込み締切は8月1日。厳守のこと。ついでに学会誌の投稿しめきりも同じ日です。

生田長江に『英語独習法』(明治43年、新潮社)という著書があって、その中の「直訳と意訳」という項目でこんなことを言っている。

「例へば、The man who met your father in Asakusa yesterday, was my brother's employee till last month.と云ふ原文を、近頃の普通に行はれる意訳でやると「昨日浅草にて汝の父に出逢ひし所の人は、先月まで我が兄弟の傭人なりき」となる。成るほど斯う訳しても大体の意味は通ずる。しかし文法上の構造は無視せられ、原文特有の味は解らなくなつて仕舞ふ。それではどうしたらばよいかと云ふに、気が利かないやうだけれど、矢張り従来の直訳で行くより外はない。即ちwhoはThe manとmet your father in Asakusa yesterdayとを結付ける関係代名詞故、原文の文脈を尊重しようとするのには、どうしても「人その人は昨日浅草にて汝の父に出逢ひし所の人は、先月まで我が兄弟の傭人なりき」と訳して見なければなりますまい。」

現在では異様に見えるが、かつてはこういうものを英語学習上の「直訳」と言っていたのである。もちろん長江は、学習者はさらに「意訳」に進み、「意訳の訳読をも或る時期に達すればやめるのです。つまり訳読をしないで書物を読むやうにならなければなりませぬ」とも言っている。
面白いのは、「漢文和訓の次第次第の容易に且つ手際よくなり来つた歴史を見ると、今日の欧文直訳も、追々上手になつて行くに違ない。また一方では其直訳文の影響を受けて、日本語日本文が一歩一歩欧文脈に接近して行く、それ故、現在の直訳に多少の弊害があるとしても、全然これを排斥し去ると云ふやうな無謀な議論は通るべきものでない」と論じていることだ。生田長江の翻訳論は『サラムボウ』序文しか知らなかったが、ここにも彼の翻訳に対する意識が伺える。ただし『サラムボウ』訳については辰野隆が「むしろ創造的でない名訳が欲しいと思うほど読みにくい訳文であった」と言っている。


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