MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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純粋階段

2005年07月31日 | 雑想

昔、「路上観察学会」(?)がよく取り上げていた物件。純粋階段である。純粋階段はあらゆる日常的・社会的機能から離脱して、自体として存在する。いや、近所にあるものなんですが、いつ消滅してしまうかわからないので…。

暑かったが運動量を確保するため、本郷通りを秋葉原まで(医科歯科大学から湯島聖堂の裏は日陰になっている)行き、万世橋から小川町、神保町に至る。明大の裏から「男坂」の73段の階段を登り、アテネフランセの通りに出て皀莢(さいかち)坂を水道橋に下る、というコース。三省堂書店の1階だけ覗いて、大澤真幸『思想のケミストリー』(紀伊國屋書店)を買う。

大澤のこの本の前書きにはいささか疑問。

「西洋の哲学や思想の日本語への直接の翻訳(による導入)が成功しなかったのはなぜなのか…。ここまでの考察が示唆していることは、こうである。西洋由来の概念が漢字へと翻訳されている限りはーあるいはもう少し厳密に言い換えれば、それらが「漢字かな混じり文」を規定するような態度によって導入されている限りは-、それらの概念は、日本語の話者にとって、外在的なものにとどまり、生の深部に宿るような深刻な問いに対処しうるものにはなりえなかったのではないか、と。それゆえ、日本の近代思想は、文学や文芸批評を必要としたのだ。」

こうした考え方は別に目新しいものではない。しかし、改めてこう言うからには何か新しい論拠が必要だと思うのだが、それはない。論拠はなくても説得力があればいいがそれもない。だいいち、大澤が「強度」とか「審級」のような流行の(漢字の)概念を定義もなしに使っていることで、自分の批評の対象を自ら再生産しているのに気がつかないのだろうか。この後で論じているラカンの「日本語論」もラカンの与太話であって、(ただの同音異義語の問題にすぎない)まともに取り上げる必要もないと思うが。


新刊紹介 頂き物など

2005年07月27日 | 翻訳研究

■『聖書翻訳を考える:「新改訳聖書」第三版の出版に際して』の続き。
Van Leeuwenの文章は、一読すれば分かるように、理論的な内実はほとんどない。この文章は2001年に書かれているが、その後たとえばTimothy Wilt (Ed.) (2003) Bible Translation (St. Jerome)のような研究もあるわけで、『聖書翻訳を考える』にその点についての言及がないということは、翻訳研究をふまえた聖書翻訳ではないのではないかという疑念も生まれる。Wiltの本を見れば、聖書翻訳研究の世界では「ナイダ以後」を見据え、機能主義、記述的研究、テキスト言語学、関連性理論、ポストコロニアル理論、リテラリスト、外化vs.内化など、多様な翻訳研究の進展を取り込んだ聖書翻訳研究が行われていることがわかる。単にリテラルな視点を対置するだけでは理論的反動にしかならないだろう。そのリテラリズムに戦略的視点がなければ、現在ではほとんど価値がない。そもそもナイダの理論は「普通の人のための聖書」をめざした反逆的翻訳であったとされているし、従ってその理論は(少なくとも最初は)戦略的なものだったと思う。

韓国会議通訳学会KSCIからConference Interpretation and Translation, Vol. 7 (1) (2005)が届く。論文のテーマは、媒介者のしてのダイアログ通訳者の機能、異文化コミュニケーションとしての諺の翻訳、言語の類似性が通訳と翻訳に及ぼす影響、異なる読者層に向けての翻訳:「不思議の国のアリス」を事例に、通訳教育で「実際の会議のセッティング」を作ることの利点、外国語への翻訳において学生の問題解決能力を強化する、翻訳における創造性、翻訳教育と技術的談話、翻訳能力のためのWriting Skillsを学ぶ、など。ただし、英語論文は2編のみ。

紹介が遅れたがBabel, Vol. 50 No. 4 (2004).発行がかなり遅れている。この雑誌はつまらない論文が多いのだが、今回はちょっといい…かもしれない。abstractが読める目次はこちら

小坂貴志さんからの頂き物2点。
小坂貴志(2005)『90分で学べるSEの英語力』(日経BP社)
小坂貴志・小坂洋子(2005)『アメリカの小学校教科書で英語を学ぶ』(ペレ出版)

いずれもユニークな内容だ。後者はアイディアとしては以前からあることはあったが、実際に読みやすい本にまとめた功績は大きい。通訳・翻訳ではよく背景知識の重要性が指摘されるが、この本にあるような知識はその背景知識のさらに背景となっていて、学習者にとって盲点となりがちな知識だと思う。同じ出版社から(別の著者で)中学校教科書のシリーズも出ている。


地震 新旧刊紹介 

2005年07月25日 | 翻訳研究

一昨日の地震の時はNHK情報ネットワークのビルにいた。震度4ぐらいの感じだった。たまたま荷物があったのでタクシーを拾ったのだが、原宿駅前にすでに人があふれている。ちょっと多すぎるんじゃないのと思ったら山手線のホームに電車がのろのろと到着していたので理由が分かった。四谷駅前もかなりの人がいて、タクシーを探している。中央線の電車が超徐行で駅に入っていった。地下鉄は全面ストップ。それでも都内はまだましだったわけで、ネズミランドの最寄り駅などは大変なことになっていたようだ。今回の教訓。電車は止まってしまう。携帯電話はあてにならない。(自宅の方は本が5,6冊崩れ、パソコンの位置がずれていた程度でした。)

新刊紹介。
川口喬一(2005)『昭和初年の「ユリシーズ」』(みすず書房)
ジョイスの「ユリシーズ」翻訳史・事件史のようなもの。一応資料として。

以下2点は去年出た本。
和田忠彦(2004)『声、意味ではなく:わたしの翻訳論』(平凡社)
序章ではTranslation Studiesに若干触れている(但し文献は古く、捉え方に偏りあり)。あとは翻訳にかかわる文学的エッセイというところか。

新改訳聖書刊行会(編)(2004)『聖書翻訳を考える:「新改訳聖書」第三版の出版に際して』(いのちのことば社)
事情が分からないのだが、新改訳聖書刊行会というのは「聖書は誤りのない神のことば」と信じる福音主義の教会、教派、団体が結集した会らしい。翻訳の方針は次のようなものだ。

「…R. C. ヴァンルーウェンという学者が最近『もうひとつの聖書翻訳がどうしても必要』という、刺激的な題の小論文を発表しました。言語学者や翻訳者たちがしだいにFE理論(NidaのFunctional Equivalence理論のこと)を唯一の方法とすることに疑念を持ち始めていること、むしろ我々に真に必要な、もう一つの聖書翻訳は「トランスペアレント(透けて見える)」な訳、原文の形や言い回しを残した訳、時にはとっさに意味をつかめないような、ぎこちない訳でさえありうることを、数々の翻訳例で説明します。」「『新改訳聖書』はDE理論(NidaのDynamic Equivalence理論のこと)(やがてFE理論に発展)の隆盛期に必ずしもそれに同調しなかったため、その反省期に入った今では逆に最先端にいる、といえば言い過ぎかもしれませんが、いずれにせよ、まさに「トランスペアレントな訳」を願い、めざしていたと言えるでしょう。」

また、この本では、「差別語、不快語」の改訂も問題だったようだ。放送などのマスコミの言い換えと比較すると興味深い。マスコミの言い換えとは同じところもあるが違うところもあり、放送では許容されない表現が残るケースもある。最大の問題は「らい(病)」の改訳であり、結局「ツァラアト」に落ち着いたという。
なお上記R. C. ヴァンルーウェンの論文とは、R. C. Van LeeuwenのWe Really Do Need Another Bible Translationのことであり、全文はここで読める。
明日に続く。


Leenhardtの聖書翻訳と水木しげるの「昭和史」

2005年07月20日 | 翻訳研究

以前、「異文化受容としての翻訳」という単発の講義で、ポストコロニアル翻訳の一環としてMaurice Leenhardtの新約聖書翻訳(1917)に触れたことがある。これはフランス語からニューカレドニアのA'Jie語への翻訳のことで、元ネタは Ramsay, Raylene (2004) Translation in New Caledonia: Writing (in) the Language of the Other: The "Red Virgin", the Missionary, and the Ethnographer. In: Fenton, Sabine (Ed.) (2004) For Better or For Worse: Translation as a Tool for Change in the South Pacific. だった。
Ramseyの論文の大要は以下のようなことである。

「LeenhardtはGod の訳語に聖霊、祖先、死体の意味を併せ持つbaoという言葉を大文字のBaoとして使い、新しい意味を持たせる。しかし、それによりGodは男(複数)と女(複数)から生じるトーテム(生命の力)という意味も持たざるを得なくなり、かくしてGodはモダンな両性具有の形態を取ることになる。またthe Word of God (Logos, parole)は'no' (speech + thoughts and action)と訳され、神の考えと行為の両方を指すことになった。いわばAustinのいうperformativeな言語である。こうして‘Word made flesh.’という表現は翻訳によって改善され、ここに逆文化変容reverse acculturationが生じる。
Leenhardtの植民地における翻訳は、Kanakという他者の声とテキストと交差し、対話的な特徴を持っている。この開明的なThird SpaceはBhabhaのpostcolonial hybridityを先触れするものであり、Bhabhaの翻訳不可能性に挑戦する。」

このあとしばらくして水木しげるの『昭和史第6巻』(講談社文庫)を読んでいたら図版のような場面に出会った。水木は「カナカ語」と言っているが、この場面はラバウル(ニューブリテン島)であり、水木がKanakaとKanakを勘違いした可能性もある。はたしてこの聖書がLeenhardt訳聖書だったのかどうかは分からないが、そうであると考えるとなかなか味わい深いものがある。「森の人」たちと友達になり、「パウロ」と呼ばれた水木は食料に困ることもなく、以前よりも太って復員したのであった。


文科省が日本初の翻訳大学院の新設を諮問

2005年07月15日 | 翻訳研究
12日に文部科学省が、認可申請があった学部・学科の新設を大学設置・学校法人審議会に諮問した。その中に「日本翻訳大学院大学」が含まれている。場所は千代田区二番町、定員45人。バベルの翻訳大学院はハワイだから、文科省が認可する(であろう)翻訳大学院としては日本初となる。
リンク:毎日新聞 文科省の該当ページ

ガメラ捕獲 国務省通訳がまた…

2005年07月14日 | 雑想


ガメラが捕まったわけだが。ガメラってこんなに小さかったっけ?子亀か?元ネタはこちら

ライス国務長官の記者会見でアメリカ側通訳がまたやってしまったようだ。元ネタはここ。以前から国務省がつける通訳者については、ちゃんとした訓練を受けていないのではないかとか、どういうルートで採用しているのかとか疑問に思うことがあったのだが。


通訳関連本 新刊

2005年07月14日 | Weblog
ついに國弘正雄先生にお会いしたことなど、いろいろあるのですが、それは後ということにして、とりあえず新刊の案内。
ピンカートン曄子・篠田顕子(2005)『実践 英語スピーチ通訳 式辞あいさつからビジネス場面まで』(大修館書店)。ピンカートンさんからの連絡で知りました。たしかかなり前から構想を練っていたはず。まだまだ通訳教本が少ない中、こういう本が出版されたことを喜びたいと思います。以下は出版社の案内。

フォーマルなスピーチとその通訳の実践教本
内容説明:  ビジネス場面や、団体・自治体の国際交流場面でスピーチをする人、および日本語→英語、英語→日本語の逐次通訳をする人のための実践的入門テキスト。式辞あいさつを含む「日本的」なスピーチの英訳に必要な基礎知識とコツ、通訳に臨むときの準備、現場でのノートの取り方まで、具体的にガイドする。練習用のスピーチと頻出文例を収録したCD付。

講演会情報といただきもの

2005年07月09日 | 通訳研究

7月12日(火)午後6時半から立教大学で公開講演会をやります。講師はイヴ・スウィーツァー先生(カリフォルニア大学バークレー校言語学科教授)で、「コミュニケーションにおける視点とパースペクティヴ:言語とジェスチャーをめぐって」というお話です。詳しくはこちらのページの「講演会情報」をごらん下さい。不肖わたくしの同時通訳がつきます。

近藤正臣先生より『通訳の仕事がわかる本』(法学書院)。日本コンベンションサービスの草柳さんとの共著だ。(他に横田謙さんはじめ9人の通訳者が登場する。)以前にも同じ出版社から通訳のキャリア案内が出ていたと思うが、これは改訂ではなく新しい本。何よりも病から立ち直った近藤先生が書いたというところが感慨深い。

三島篤志・小倉慶郎『BBC World 英語リスニング ボキャビル』(DHC)。同じ著者たちによる「英語リスニング」シリーズの4冊目になる。前半は「ニュース編」で、単語を覚えた後、その単語をニュースの文脈の中で定着させるというもの。後半は「テーマ別単語編」になっている。それにしても立て続けに4冊とはすごいです。


「ユリシーズ」案内

2005年07月06日 | 翻訳研究

北村富治(1994)『「ユリシーズ」案内:丸谷才一・誤訳の研究』(宝島社)
時々日本のネット古書店を使っているが、たまたまあるサイトで見つけ、そういえばそんな本があったなと注文した本。嘘かほんとか知らないが、この本は発売されるとあっという間に市場から消えたという。その後新訳も出ているので、今丸谷の訳がどれぐらい読まれているのか、どんな位置付けにあるのかは分からない。この本の指摘は主に読解と知識が中心になっていて、翻訳技法に触れるところはほとんどなさそうだ。たとえば以下の原文と、伊藤整訳、丸谷才一訳を並べた上で、著者は丸谷の訳を評価している。

Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed.
(伊藤訳)「肥満した堂々たるバック・マリガンが、石鹸壺の上に鏡と剃刀を十文字に横たえたのを持って、階段口から歩いてきた。」
(丸谷訳)「押しだしのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現れた。椀の上には手鏡と剃刀が交叉して置かれ、十字架の形になっていた。」
「このふたつの訳文を読み較べてみて、伊藤訳は、いかにも翻訳調であるのに対して、丸谷訳は、完璧に日本語になりきっていると感じられ、丸谷訳の表現の巧みさにいたく感服したものである。」

この辺りで早くも疑問がわいてくる。どちらの訳もまずくないか。ここはまず、マリガンが階段の上にその堂々たる姿を現す→見ると、石鹸が泡だった容器を持っていて、その上には鏡と剃刀が交叉して置かれていた、というような視点の移動(認識の流れ)があるのだから、それをなぞるように訳すのが自然だろう。丸谷訳はbearing以下を2つに分割して訳していて、一見a bowlに長い形容語句がつくのを避けているように見えるが、読者に「椀を持って」と「椀の上には」の間の結束性を探させることになり、伊藤訳より優れているとは言えない。「交叉して置かれ、十字架の形になって」も冗語だ。「日本語になりきる」前にやることがあるだろうにと思う。

Long, L. (Ed.) (2005) Translation and Religion: Holy Untranslatable? (Topics in Translation 28), Clevedon: Multilingual Matters.
商売柄、一応買ったというだけです。創価学会まで扱っていますが、詳しくはこちら


翻訳の理論と実践・新刊案内

2005年07月03日 | 翻訳研究

Jean Peeters (Ed.)(2005) On the Relationships between Translation Theory and Translation Practice (Series: Studien zur romanischen Sprachwissenschaft und interkulturellen Kommunikation Vol.19), Frankfurt am Main: Peter Lang.
2003年にフランスで行われた会議の記録。21編の論文を収録。翻訳における理論と実践の関係がテーマだが、「翻訳と意味」「翻訳と口頭言語」「文学翻訳」「翻訳教育」のセクションもある。同時通訳の予測に関して、Nelly Chachibaia: On the Mechanisms of Probability Prediction in Simultaneous Interpretingという論文も収められている。文学の翻訳で面白そうなのは、Margarida Vale de Gato: Literary theory and translation practice: Poe's 'The Raven' as a case in pointという論文。主に以下に見られるような脚韻の処理を問題にしているようだ。

"Prophet!" said I, "thing of evil! prophet still, if bird or devil!
By that Heaven that bends above us, by that God we both adore,
Tell this soul with sorrow laden if, within the distant Aidenn,
It shall clasp a sainted maiden whom the angels name Lenore,
Clasp a rare and radiant maiden whom the angels name Lenore."
Quoth the Raven, "Nevermore."

かなり前に『ザ・シンプソンズ』のクリスマス特集か何かのときに、全編この詩だけで作られていたことがあり、その時の朗読というか、ナレーションが最高だった。
ポーの「大鴉」のオリジナルと各国語訳はhttp://www.cordula.ws/p-ravenen.htmlで見ることができる。萩原朔太郎は「詩の翻訳について」の中で「「大鴉」の表現効果は、あのねえばあもうあとか、れのああとかいふ言葉の、寂しく遠い、墓場の中から吹いてくる風のやうな、うら悲しくも気味の悪い音韻の繰返す反響にある。・・・しかるにどんな訳者が、それを日本語に移すことが出来るだらうか。詩の翻訳の不可能は、この一列によつても解るのである」と言い、自分の「鶏」という詩で、鶏の鳴き声をとをてくうるもうるとうといった音韻で表現しようとした。朔太郎の「翻訳不可能」という言葉にもかかわらず、大鴉の日本語訳は日夏耿之介訳はじめ沢山ある。かなり専門的になるが興味のある人は比較分析してみれば。