お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■雑誌 Interpreting Vol.12 No.2 (2010)は、編集部からは何の断りもないが、コミュニティ通訳の特集号である。asylum関連の通訳と法廷通訳に関する論文が各2編収録されている。
Patients as interpreters: Foreign language interpreting at the Friedrichsberg Asylum in Hamburg in the early 1900s (Stefan Wulf and Heinz-Peter Schmiedebach)
The cooperative courtroom: A case study of interpreting gone wrong (Bodil Martinsen and Friedel Dubslaff)
Interpreting reported speech in witnesses’ evidence (Jieun Lee)
“That is not necessary for you to know!”: Negotiation of participation status of unaccompanied children in interpreter-mediated asylum hearings (Olga Keselman, Ann-Christin Cederborg and Per Linell)
最初の論文は20世紀初頭に東欧からアメリカに移住した者の中で、精神疾患があるとして戻された"insane re-migrants"の通訳を、他ならぬそのre-migrantsが行ったという話である。最後の論文はasylum seekerの子供の権利を通訳者が抑圧するケースを扱っている。アブストラクトはここで読める。
■北海道開拓使『蝦夷風俗彙纂前編四』という、明治15年の本に「通詞カリヤシン」という項目を設けて短い記述がある。
「唐太嶋の夷人ども山丹オロツコ人へ対し辞は皆々は通せず。中には通ずるものあるよし。宗谷は夷人カリヤシンというふもの。山丹に行。年々山丹人に従ひ唐太へ来り。通辞をするよし。当時は右カリヤシンは山丹の人になれるよし。」
言葉の解説が必要だろう。唐太嶋は樺太のこと。夷人は未開人や野蛮人、または外国人のこと。山丹は山丹人(沿海州の民族)。明治初年に開拓使が調査したのであろう。言葉がなかなか通じなかったが、そこにカリヤシンという通訳者がいたというだけの話であるが、北辺の地にも当然異文化接触はあり、その媒介者もいたわけだ。江戸時代から山丹人(沿海州の民族)とアイヌとの樺太(サハリン)での交易は行われていたようだ。引用した文章は変体仮名で書かれていて、解読に30分を要したのであった。
■明日は翻訳研究分科会です。詳しくはこちら。
■古井由吉の作品は初期からずっと読んでいたのだが、いつの頃からか、忙しさにかまけて読まなくなって久しい。(「杳子」とか「先導獣の話」とか、実によかった。)読まないくせにぽつぽつと新刊を買っては積ん読状態が続いている。ところで古井は翻訳者でもあった。ロベルト・ムージルの『静かなヴェロニカの誘惑』、『愛の完成』 、ヘルマン・ブロッホの『誘惑者』などを訳している。そしてエッセイで翻訳について何度か書いている。作家が翻訳をすることは珍しいことでもなく、作家による翻訳論(エッセイ)も多いのだが、古井のそれはひと味違うような気がする。わかりやすい所を引用すると、たとえば、
「一頁ごとに、一文章ごとに、いや、ほとんど一言一句に追いつめられ、立往生させられたものだ。訳文の体に格別の注文があったわけではない。入り組んだ原文を、日本語としてどうにか読者の忍耐に範囲内で読みたどれるよう、束ね直すことだけで精一杯になる。とにかく伝わるか、まるで伝わらぬか、そのどちらかであって中間はないという隘路ものべつ渡らされた。それを理不尽として憤る、これこそ理不尽な反応もしばしば起ったが、辛抱するうちに、それでも、物を書くことについて多少悟らされるところはあった。できるかぎり訳文の平明さをこころがけるうちに、複雑な事柄に関する平明さはそれ自体が相応の複雑さをあらわす、でなければ紛い物になる、また、拡散してしまった平明さは平明にもならない、というようなことを。」(「中間報告ひとつ」)
こういうところに翻訳プロセスについてのすぐれた内省がある。「日本翻訳論アンソロジー」の現代編を仮に作るとすれば是非とも収録したい著者だ。しかし解題は書けそうにない。
■しばらく前にKSCIのForum, Vol. 7 No.2 (2009)が着いていたのだった。この号は翻訳の比率が大きくなっている。タイトルを見る限りではいくつか読んでみたいものがある。
Sommaire/Contents
Nizar Qabbani's "Balquis": Translation into English with an introduction (Yasser K. R. Aman)
Globalization and Boudaries in Translators' and Interpreters' Professional Organizations (Graciela Calderon)
Numbers in Simultaneous Interpreting: An experimental study (Andrew Kay-fan Cheung)
Translation in Enhancing National Brand (Choi Jungwha)
Cinquante ans d'interpretation parlementaire (Jean Delisle)
Les enjeux du debat sur l'(in)traduisibilite de la metaphore (Kim Hyeon-ju)
Revisng the Target Text Independently of the Source Text (Kim Ryonhee)
The Impact of Non-native English on Information Transfer in Simultaneous intepretation (Ingrid kurz & Elvira Basel)
Style Shift in Korean Teledramas: A case for the careful consideration of speech style in translation (Jeansue Mueller, Charles Mueller)
Trajectory of Vladimir Nabokov's Literary Translation Practices (Zhanna Yablokova)
Influence of Ideology, Poetics, Patronage and the Prodessional on Rewriting Vanity Fair into Chinese Terms (Yand Shizhuo, Yang Wenrui)
■写真はニコライ堂つながりで、昔のニコライ堂の遠望。お分かりでしょうか。九段坂の上から神保町を見下ろし、彼方に駿河台の森とニコライ堂が見えます。
■ In Other Words... というとMona Bakerの有名なテキストを思い出すが、これはタイトルに[ ... ]がついた雑誌だ。1月の立命館の会議のとき、サンプルコピーが展示されていた。サブタイトルがThe Journal for Literary Translators で、University of East AngliaのThe British Centre for Literary Translationが出している。立命館でも発表していたValerie Henitiukさんが編集しているようだ。名刺をもらったので、メールしたらNo.32(2008 Winter)とNo.33 (2009 Summer)を送ってくれた。
No.32の方が紹介しやすいのでこちらにするが、まずアラビア語の方言やスラングを創造的に翻訳する可能性について、ある種のポルトガル語の話し言葉を英訳すると、リスボンの住民がロンドンのイーストエンド住民やバルチモア市民が話しているようになってしまう問題、エスペラントへの翻訳の問題、オリジナルの言語を読めない読者に向けて翻訳するのはやめようという「挑発的」な提言、文学作品の意味と含意を充分に伝えるために翻訳者は言語の他にどのていど直接的な文化の知識を必要とするのかという問題、ベンガル語の児童文学を翻訳するさいに、教訓主義を避けて読者がそこから理解と喜びを得るために、翻訳者は何をすべきか、というようなテーマが取り上げられている。つまり、内容はかなり実務的なのだ。いわゆるTranslation Studiesの分野の参考文献は一切挙げられていない。というか文献指示のない文章がほとんどである。ただし書評の一部には翻訳研究の本が取り上げられている。ゲーテのファウストの新訳(英訳)についての書評もある。なぜ新訳なのかについては日本とは事情が違うようだ。
■写真は2日前のニコライ堂と明治大学のリバティタワー。以前ここにあったビルが解体されてこの角度から見えるようになったのだが、新しいビルの工事が始まっていて、この2ショットがこの見られるのは短い間だけだ。