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■以前、「異文化受容としての翻訳」という単発の講義で、ポストコロニアル翻訳の一環としてMaurice Leenhardtの新約聖書翻訳(1917)に触れたことがある。これはフランス語からニューカレドニアのA'Jie語への翻訳のことで、元ネタは Ramsay, Raylene (2004) Translation in New Caledonia: Writing (in) the Language of the Other: The "Red Virgin", the Missionary, and the Ethnographer. In: Fenton, Sabine (Ed.) (2004) For Better or For Worse: Translation as a Tool for Change in the South Pacific. だった。
Ramseyの論文の大要は以下のようなことである。
「LeenhardtはGod の訳語に聖霊、祖先、死体の意味を併せ持つbaoという言葉を大文字のBaoとして使い、新しい意味を持たせる。しかし、それによりGodは男(複数)と女(複数)から生じるトーテム(生命の力)という意味も持たざるを得なくなり、かくしてGodはモダンな両性具有の形態を取ることになる。またthe Word of God (Logos, parole)は'no' (speech + thoughts and action)と訳され、神の考えと行為の両方を指すことになった。いわばAustinのいうperformativeな言語である。こうして‘Word made flesh.’という表現は翻訳によって改善され、ここに逆文化変容reverse acculturationが生じる。
Leenhardtの植民地における翻訳は、Kanakという他者の声とテキストと交差し、対話的な特徴を持っている。この開明的なThird SpaceはBhabhaのpostcolonial hybridityを先触れするものであり、Bhabhaの翻訳不可能性に挑戦する。」
このあとしばらくして水木しげるの『昭和史第6巻』(講談社文庫)を読んでいたら図版のような場面に出会った。水木は「カナカ語」と言っているが、この場面はラバウル(ニューブリテン島)であり、水木がKanakaとKanakを勘違いした可能性もある。はたしてこの聖書がLeenhardt訳聖書だったのかどうかは分からないが、そうであると考えるとなかなか味わい深いものがある。「森の人」たちと友達になり、「パウロ」と呼ばれた水木は食料に困ることもなく、以前よりも太って復員したのであった。
長々と書いてしまいましたが、最後に水木しげるとは関係ありませんが、この場を借りて質問させてください。
今研究ノート的なものを書いているところですが、Translation Studiesで使われる(Venuti先生もこのあいだ話していたような気がしますが)[gain]という概念。日本語にあえて訳すとするとどうなりますか?gainのままで理解されているのであればそのまま論文に載せようと思っていますが…。あとgain とマイナスのgain としてのlossは、現在ではShiftの議論として扱われているという理解でよかったでしょうか。
突然無関係の質問をしてすみませんが、教えていただければ幸いです。
たまき
gainとlossの訳語ですが、普通に「得られるものと失われるもの」と訳していたと思います。講演の該当部分の日本語訳をあとでメールで送ります。lossに限らず、gainもlossもtranslation shiftsという概念で括れると思いますが。