お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■昨日は横須賀まで入院している友人の見舞いに。もうひとりの友人と待ち合わせて行ったのだが、…退院してました(L(´▽`L )♪
■今日は午前中だけの出社で37年の会社員生活を終える。夕方から会社主催の送る会に出席。退職予定者9人のうち7人が出席(去年は20人のうち4人しか出なかった)。お花など頂いて帰る。
■明日は院生諸氏による祝う会兼花見(@東大)の予定。せいぜい3分咲きというところか。
■ここ数日の寒さのせいか文京区の桜はまだ一分咲きにも満たない。満開は4月に入ってかも知れない。
■サラリーマン生活もいよいよ大詰めである。あとは月曜日の午前中出社するだけとなった。明日は入院している友人を見舞う。
■Mundayの校正をようやく終えて発送。原文がPortugueseなのに「フランス語」と訳してあったので、われながらあきれた。こういう誤訳はふつうケアレスミスとされるのだろう。それはその通りなのだが、つらつら考えるにこの間違いはどうも直前にフランス語の話があったのに影響されたように思える。言うなれば認知的なキャリーオーバー(と疲労?)が注意を妨害した(あるいは十分に解放しなかった)のではないか。よく言われるような、理解が足りないとか全体を見ていないとかいう話ではないだろう。この他にも、ある箇所が難しかったので、その直後の部分に対する注意が弛緩して誤訳してしまうというケースもありそうだ(*追記参照)。このような、いわば翻訳者の注意の構造から誤訳論を考えることもできそうである。同時通訳で認知資源が枯渇するケースに似ているが、同時通訳の場合は認知資源の配分を間違えたり、別の処理のためにわかってはいても物理的に通訳できないこともあるから、まったく同じではない。誰かこの線で誤訳理論をやってみなされ。
(追記)そういえばDaniel GileがEffort Modelを考えたそもそもの動機も、通訳者がごく簡単な箇所で失敗してしまう現象を説明するためだった。通訳困難な箇所に努力を集中し、その結果使用する認知資源が累積してしまい、後方の何でもないところで認知負荷が最大になるためという説明である。
■Mundayのゲラが出てきているのに余裕こいているわけではないのだが、気分転換にちょっとだけ書いておく。Piccaluga et al.のDisfluency Surface Markers and Cognitive Processing: The Case of Simultaneous Interpretingという論文がネット上にある。(年度不明だが引用文献から見て2005年以降。著者はベルギーの人たち。)タイトルからは内容がわかりにくいが、簡単に言うと同時通訳における「チャンキング」の測り方について(そしてそれだけ)の論文である。チャンクを客観的に検出することは非常に大事な課題なので読んでみた。実際にはチャンク測定の指標として「シラブル間隔」(ISI=Intersyllabic Interval)を提案しているだけである。ISIというのは文字どおりシラブルのピークと後続のシラブルのピークの間の時間のことで、図に示した通りである。見にくいが、双方向に矢印のあるSPの右下がISIである。(ただしこの図はこおろぎの音に関する別の論文から。)
所見のひとつは、「認知的制約が最小の場合、ISIは小さく、逆に認知的負荷が大きくなるとISIの値は増大する」というものだ。結論として、この論文は同時通訳のチャンキングについて何かを明らかにしたというのではなく、同時通訳というタスクを使ってシラブル間隔の一側面を明らかにしたにすぎない。同時通訳のとらえ方が浅いうえに、ISIがなぜチャンクを測れるのかについて説得的な説明もないので理論的価値は小さい。
■昨日は職場の送別会。管理職を含め、自分が最年長である。気楽なよい送別会であった。花束とCrossのボールペンの記念品を頂く。どうもありがとうございました。(このブログを見ている人が意外と多かったので、ここでもお礼しておきます。)
■休暇を消化するためもあり、午後休んで免許証の住所変更のために本富士警察署に行く。帰りに本郷三丁目駅前の薬屋から出たところで、どこかで見た顔に出くわす。内山さんであった。近くに仕事場があるとのこと。彼も立教の任期を終えたところだ。
■『日本語が亡びるとき』は仲俣暁生も言うように「よくもわるくも「素人」」の本なので、これ以上つきあうのはやめることにする。矛盾する論理と間違いだらけで益するところなく、時間がもったいない。ただし、決してお薦めはしないが、興味のある人は読んでみてもいいだろう。
■さて、本来の研究に戻ることにしよう。Fehringer, C. & Fry, C. (2007) Hesitation phenomena in the language production of bilingual speakers: The role of working memory, Folia Linguistica 41/1-2, 37-72.を読んだ。論理的に書かれた文章が与えてくれる快楽を存分に楽しむことができるいい論文である。通訳(同時通訳)におけるためらいの研究についてはポェヒハッカーの『通訳学入門』6.5.2に簡単なレビューがある。このFehringer & Fry の論文は、被験者は通訳者ではないものの、通訳者の言語産出についても大いに参考になる。その内容の骨子は、ネイティブ並の高い言語運用能力を持つバイリンガルであっても、L2の言語産出ではL1よりもためらい現象(有声のポーズや自動的発話(sort of, at the end of the dayなど)、繰り返しなど)が多くなる。このことはL2産出には追加的な認知負荷がかかるためと考えられる。また作動記憶ではかった記憶能力とためらい現象の間には負の相関がある(=作動記憶能力が低いと時間稼ぎのための様々な手法を使う)。さらに、L1でのためらい現象のタイプはL2に転移する(プラニング行動は両言語で同じである)、というのである。
Levelt (1999)を引くまでもなく、言語産出には様々なレベルでの同時的処理が伴う。内容や文法性、構音のモニターと修復、結束性と意味的一貫性の保持、繰り返しの回避、聞き手のニーズに対する考慮、談話的慣習の遵守などである。こうした作業をしながら、同時にシンタックスを計画し、語彙を検索し、L1からの干渉を避けるという作業を行うわけだ。同時通訳の場合にはこれに言語変換(翻訳)のタスクと構音抑制というマイナス要因、原語との同時発話による遮蔽効果への対処といった仕事が加わる。したがって作動記憶への負荷は、通常の発話よりも極めて大きなものになる。同時通訳の言語産出は「意味をとらえれば自動的に進行する」ようなものではないのだ。この論文は直接同時通訳を扱ってはいないが、同時通訳の産出局面の問題について、研究の空白を埋めるための多くの示唆を与えてくれる。
■今日は名古屋でコミュニティ通訳分科会と通訳教育分科会の合同会合があったはずだが、盛況だったろうか。
■3月14日のエントリーでお知らせした吉田理加さんの講演会に行くため渋谷近辺の地図を見たら道玄坂の位置を完全に勘違いしていたことに、40年ぶりに気がついた。青学沿いに渋谷方面に降りていけば道玄坂を通り、渋谷駅前に出ると思いこんでいたのである。(これは宮益坂であった。)これには理由があって、学生時代友人と二人で道玄坂を上っていたとき、坂の上のほうから青学に行った高校の同級生が歩いてきたのに偶然出くわしたことがあったせいだと思う。今日はこの誤りを体感によって正そうと、表参道で地下鉄を降りて青学の方から渋谷に向かった。やはりこちらは宮益坂であり、ハチ公の反対側に出た(当たり前である)。
■講演会の会場は道玄坂の途中にあるヤマハの隣。会場はほぼ空席なしで盛況であった。所用があったので残念ながら途中で退席。
■ でつ ……スヌーピー。
■水村は第7章で、英語が<普遍語>になったことを受けて、日本語が亡びる運命を避けるために3つの選択肢を提示する。
「I は、<国語>を英語にしてしまうこと。
II は、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
III は、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。」(267)
最終的に水村はIIIを選択しなければ日本語は亡びるという。そして、
「日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。」(276)
少数の「選ばれた」バイリンガルを生み出す必要があるというのである。このような人材について水村は不思議なことにこれ以上展開していない。このような人材は国費を使って養成するらしい。しかしこの人材はどういう社会的存在なのだろうか。水村は新渡戸稲造や岡倉天心のような人材を考えているようだが、新渡戸は一高の校長や国際連盟事務次長であったし、天心は東京芸術学校の校長であった。彼等のような社会的役割(肩書き)がなく、「世界に向かって英語で意味のある発言ができる人材」とはいったい何なのか。それは単なる英語屋であり、便利屋であるものとして利用されるだけではないのか。水村はしきりに日本の指導層の英語力のなさを嘆くが、どうもはなから指導者たるものは英語を使いこなせなければならないと思いこんでいるようである。通訳者をうまく使うという発想はど望むべくもない。
ともあれ、英語での発信はそのような人材に任せておいて、一般人のための学校教育では、「英語を読む能力の最初のとっかかり」を与えるだけにして、「その先は選択科目にする」という提言がなされる。そして「日本人はまず何よりも日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきり打ち立てる」こと、「<国語>としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念」とすべきだと言う。そして最後の提言がくる。
「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」(317)
その理由が3つ挙げられている。もはや詳述はしないが、いずれも理由になっていないと思う。総じてこの本は、翻訳に<国語>形成という役割を与えながら、現代における翻訳や通訳の役割をほとんど無視している点、<普遍語>であるという英語の規範性にまったく疑いを抱いていない点が特徴的である。第6章で、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性」があったが、「西洋語は、そのような変化を遂げる必然性がなかった」とし、「西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえない」と言っているところがあるが、これはおそらく、起点言語の「異質性」や芸術性が目標言語の規範(「自然な」英語)によって収奪されてしまうことを意味している。しかし、このような認識はたとえばLawrence VenutiやAntoine Bermanのような翻訳理論家や新しい世代の(支配的言語の規範に挑戦している)翻訳者達の努力を無視しており、とうてい受け容れることはできない。
以上、翻訳(と通訳)という視点から問題点を指摘してみた。それにしてもほとんどの論点が破綻を来していることを考え合わせると、出版のハードルの低さに驚かざるを得ない。
Guardian WeeklyにGlobal English: The European lessonsというフォーラムがある。これをみると、「コミュニケーションとしての共通語(英語)」と「帰属確認のための言語」の分業であるとか、少数派言語話者の間で行われている3カ国語教育(英語、支配的言語、母語)など様々な主張や試みがあるのがわかる。この中で面白いのは、イギリスのJennifer Jenkinsがやがてイギリス英語に規範を求めないハイブリッドな英語アクセントが登場するだろうと述べていることだ。ことはアクセントに限らない。語法や文法さえもハイブリッド化していくかもしれない。端的に言えば英語を壊してもかまわないのだ。それは現代の普遍語、共通語の甘受すべき宿命だろう。
(さらに続く、かもしれない)
■水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)については書評もたくさん出ているようだし、内容も大体見当がついたのでパスしようかと思ったが、翻訳に関係がありそうなので思い直して読んでみた。
大変わかりにくい本だ。「論理の三段飛ばし」を指摘している人がいるが、まさしく論理が簡単にはつかめないのだ。翻訳に関する記述を追いながら、そのあたりを見ていこう。
「翻訳は原文をより高みに引き上げることさえもできる。だが、一歩下がって、人類の歴史を広い視点(ママ)で振り返ってみれば、翻訳の本質は、上位のレベルにある言葉から下位のレベルにある言葉への叡智や思考のしかたを移すことであった。」(134-5)
これはまあいい。歴史的にみればそういう事例は確かに多かった。ただし現代にはあてはまらない。
水村が最終的に日本近代文学の擁護を打ち出すための胚芽となるのが次のような論理である。
「かれら(非西欧圏の学者)が書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西欧語が西欧語に翻訳されたときに失われるものは大きい」(147)
この翻訳によって「失われるもの」が何であるかはここでは説明されない。これをつきとめるには後続の部分を注意深く読んでいくしかない。すると、次のような記述に出くわす。
「言葉というものは、いかに翻訳可能性をめざそうと、閉じたシステムのなかで意味を生産するものであるがゆえ、翻訳不可能性を必然的に内在するものである。<国語>は、その翻訳不可能性を、わざと追求したりするようにもなるのである。それは、ある言葉によってのみ現す(ママ)ことができる。翻訳不可能な<現実>というものを見いだしていくということである。そしてそれは、翻訳不可能な<真理>を見いだしていくということである。」(151)
要するに「仄めかし」、「パロディー」、「言葉遊び」ということのようだ。これはかなり狭い意味での(そしてかなり単純な)翻訳不可能論だ。これは153ページの「真理は文体に宿る」という考え方につながっていくが、これもサルトル風(道具としての言語とモノとしての言語)のかなり古い言語論に思える。翻訳(不)可能性の問題は、Touryが言うように翻訳という具体的な行為に即して考えるべきであるし、起点言語のテクストタイプや翻訳の目的と関連させて論じなければ意味がない。明示化explicitationやパラフレーズ、補償compensationなどの様々な方略を駆使することで、どの程度まで「再文脈化」が可能かを測らなければならない。しかし水村はその前の部分で次のように書いている。
「翻訳という行為を通じて、<現地語>の言葉が<書き言葉>として変身を遂げていく。ついには、<普遍語>に翻訳し返すことまで可能なレベルの<書き言葉>になっていく。<国民国家>の誕生という歴史を経て、その<書き言葉>がほかならぬ<国語>として誕生するのである。」(134)
翻訳不可能なのに「翻訳し返す」もないだろう。明らかに矛盾している。
次は、森有礼の文部省が近代国家の<国語>を作るために日本語の「改良」を目指したことに関する議論の部分。(p.180以下)漢字の制限・排除という理念は実現しなかったが「その鍵は、ここでも翻訳という行為にある」(184)という。
「「文部省がいくら漢字排除論を理念として掲げようと-いくら、日本語を「改良」し、新しい日本語を創ろうとしようと、真に新しい日本語は、もっと緊急な課題からすでに生まれつつあった」(184)
この場合の翻訳とは具体的には「万国公法」などの実用書の翻訳を指している。これらの翻訳が漢字かな交じり文を使ったから文部省の理念は実現せず、ここに新しい日本語が生まれたことになる。するとこの新しさとは漢字かな交じり文ということになる。明治期の翻訳のインパクトはそんなところにはなかったのではないか。問題はいろいろあるが、水村はこの段階で坪内逍遙などの文学者も新しい日本語を作った翻訳者に含めている。そして、
「明治初期、文学の翻訳といえば、日本の読者向けに原文を自在に変えた「翻案」しかなかったところに、ツルゲーネフの「あひびき」の翻訳を著し、初めて文学の翻訳たるものの意味-それが、一語一句正確に訳し、かつ感動を与えねばならないのを世に知らしめたのも、(…)二葉亭四迷である。日本初の近代小説を書いた人物が、日本初の小説の翻訳家であったのは、偶然であるよりも必然であった」(202)
まるで二葉亭四迷以前にはまともな翻訳者がいなかったかのようである。これは事実誤認も甚だしい。丹羽純一郎は?朝比奈知泉は?森田思軒は?事実誤認と言えば、明治時代の<国語>は「巷で流通している書き言葉とは異質」なものであり、それが一般人にとってあたりまえになったのは昭和になってから、というのも間違いだろう。明治時代初期の国語教科書を見ればいいことだ。このあたりはどうも想像と思いつきで書いているのではないか。
これ以降、「日本の現実は西洋語からの翻訳ではどうにも捉えられない」とか、「日本語を通してのみ見える<現実>」といった、先ほどの翻訳不可能論が続く。しかし具体例は一切挙げられていない。
第6章に入ると、インターネットに関連して自動翻訳機による翻訳についての言及がある。インターネットですべての人がすべての言葉を読めるようにするための解決法としての自動翻訳は、「いくら技術が進歩しようと、まずは原理的に不可能である」と断言している。自動翻訳とは機械翻訳のことを指しているようだが、機械翻訳関連分野の最近の展開を無視している。勉強不足であろう。それ以下の行論は「学問」と「文学」とがはっきり区別されないままに展開されるために混乱を極めている。そして、
「英語が<普遍語>になったことによって、英語以外の<国語>は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。すなわち、<叡智を求める人>が<国語>で書かれた<テキスト>を真剣に読まなくなる可能性が出てきたのである。」(255)
という話になるのだが、これを裏付ける証拠なり状況の説明は一切ない。
そして、他の論者も指摘している「現代の日本文学は幼稚で女子どものためのものだ」という主張が出てくる。これもそのような「日本の現代文学」の具体例や説明は一切ない。サブカル(コバルト文庫とか)やケータイ小説だけを指すのか、いま文芸誌に書かれているような作品も含むのかわからないのである。
さて、わからなさの極めつけはたぶんここだろう。
「芸術は、一度は墜ちても、時を待てば、形を変え、ふたたび四方の気運を集めて高みへと昇りはじめる。しかし、英語が<普遍語>として流通するということは、日本語という<国語>が危うくなるかもしれないということである。日本語が危うくなれば、本来なら日本語の祝祭であるべき日本文学の運命は危うい。」(163)
これが「論理の三段飛ばし」なのか。
(明日に続く)
■それにしても花粉症である。ずいぶん手なずけたつもりだったのに、くしゃみ5連発で腰に来た。小ネタはいつも何個か持っているのだが、今日は頭がぼーっとしているので明日以降に。
■池田清彦が『だましだまし人生を生きよう』(新潮文庫)の中で仮説の構想と展開について書いている。面白いので引用しておく。仮説の出所はデータを眺めていて思いついてもいいし、突然のひらめきでもいい。池田の場合はネオダーウィニズムの「突然変異が偶然である」とする考え方が気に入らず、同所的種分岐は突然変異に方向性を与えれば説明できると考えたのが出発点であるようだ。その初発のアイディアをどう展開していくか。
「このような考えに立って、私は発生や進化を司るありうべきルールを構想したのである。ルールは現象整合的でなければならないし、論理的に矛盾してはならない。
仮説を考えるのは、たとえば詰め将棋を創作する作業にちょっと似ているようだ。頭の中で言葉以前の形象みたいなものがまずあって、何となくうまくいきそうな筋と、最初からまったくダメそうな筋は、この段階でわかる。
有望な筋を発見したら、それにコトバを与えていく。矛盾が生じないように細い論理をつなげていく。ほんの少しの論理破綻であっても、それは水の入ったビニール袋に開いた針の穴のようなもので、そこからすべてはもれ出して、元の構想が台無しになってしまう。
あとひとつ穴をふさげばいけそうだけれども、この穴がなかなかふさがらない、といったときが一番悩ましい。やっと穴をふさぐ論理を発見したと思ったら、この論理事態が別のところに大穴をあける元凶だったりする。」(143-144)
仮説は主要には現象を統一的に説明し、予測するものだから、同じ現象に対して複数の仮説が併存する場合は「説明力」や「予測力」が大きいほうが優れた仮説ということになる。池田の『構造主義生物学とは何か』と『構造主義科学論の冒険』などからは大きな影響を受けた。