お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■タイトルは適当です。
先週の金曜日は立教のゲスト講義。翻訳プロジェクトにかりだされた皆さんを中心に10人ほどが受講。扱う範囲に無理があったが仕方ないか。それにしても本格的な通訳研究入門書を一人で書くのはそろそろ限界なのではないかと思った。Pochhackerさんはよくやったというべきだろう。翻訳研究だといくつか強力な「ミーム」を中心に記述すれば筋が通りやすいが、通訳の場合、対象がばらけすぎている。まあ、準備の過程でいくつか新しい発見もあったし、面白かった。(院生のみなさんは消化不良だろうが。)
■日曜日は久しぶりにお茶の水に出たついでに丸善で買い物。そのうちの一冊が水月昭通(2007)『高学歴ワーキングプア:「フリーター生産工場」としての大学院』(光文社新書)。刺激的なタイトルではある。「博士課程に入るのは樹海への最短コース」という言葉があるらしい。皆さん読んでるかな?著者は現在研究員と非常勤講師をしている人で、まじめに書いているのだが、とても論評しにくい本だ。記述を文科系にしぼってはいるが、それでも分野を特定しないとはっきりしたことは言えないだろう。凋落する分野では当然パイ自体が小さくなるだろうし、逆に需要が増える可能性のある分野もある。
そこで通訳翻訳研究だが、Jrec-inを見ていると通訳の場合は数は少ないものの公募がとぎれずにあるようだ。(ただし、大学側がどういう人材を求めているのかは実のところよくわからない。言語学と通訳だったり英文学と通訳だったり。)翻訳となると公募はほとんど見たことがない。翻訳研究の認知度はまだほとんどないためだろう。翻訳は比較文学や語学関連の科目で取りあげるものという認識はいまだに根強いものがある。この状況を変えるためにはあと何発か大きな花火を打ち上げる必要がある。
■『新潮』の2007年3月号に四方田犬彦が書いた「先生とわたし」という由良君美の評伝(らしきもの)が面白かったので、いつか感想を書こうと思っていたのだが、時期を逸してしまった。その後加筆されて新潮社から単行本化されている。面白かったというのはもう少し複雑な意味あいがあって、くだらなくて面白かったと言ったほうがいいかもしれない。筒井康隆『文学部唯野教授』の東大版とでも言おうか、由良の酒乱ぶりとそれに振り回される主人公の話である。リンク先の読者レビューにもあるように、「普遍性をもたない内輪の暴露話」というのが当たっていて、文学的感興に乏しく、著者が変に深刻ぶっているのもおかしい。
由良の名前は70年代の『ユリイカ』などに衒学的な文章をよく書いていたので覚えている。中味は(今でも)感心しないものが多く、業績らしきものも思いつかないのだが、『言語文化のフロンティア』(講談社学術文庫728)(絶版のようだ)に収められている「眠り込む<器官>」という文章は面白かった。由良は大学院を修了したあと、NHK国際局の嘱託になり、短波放送を録音して書き起こす仕事をしていた。ある時、由良はハンガリー動乱の抵抗運動側の地下放送を傍受する。短波であるから受信状態はきわめて悪い。...Soviet government... has been placed at... o... k.... kko... dai... le... mma... by...t his event.... と聞こえるのだが、この「オッッコ・ダイ・レマ」がわからない。結局同僚の白系ロシア人女性の助けで"dilemma"であることが判明する。時代こそ違うがCNNで言語障害のホームレスの発話を聞かされたり、スペースシャトルの船外活動の通信を同時通訳されられた身としては、この聞き取りの苦労には心底同感したのであった。
■Douglas Robinsonによれば、西欧の翻訳理論の主流はアウグスティヌスの伝統を受け継いで、翻訳とは普遍的な意味に貼られた起点言語の言葉というラベルを剥がして、目標言語のラベルに貼り替えることと考えられているという。Danica Seleskovitchのdeverbalizationという考え方も広い意味ではこの伝統の嫡出子と考えられる。この問題についてはすでに考察済みなのだが、本の引っ越しをしていてたまたま出てきた平井啓之 (1988/1992)『テキストと実存』(講談社学術文庫1041)をめくっていたらポール・ヴァレリーも同じような発想をしているのがわかった。心覚えとして書いておくことにする。
平井はヴァレリーの「詩と抽象的思考」(1939)という文章から引用している。
…私が諸君に話す場合、もし諸君が私の言葉を了解したならば、それらの言葉は廃棄されてしまう。諸君が了解したなら、ということは、それらの言葉が諸君の心から消え去ったことを意味するのであり、それらの言葉は一つの代替物により、つまり心象、関係、衝動などによって、置きかえられる。そしてこのとき、諸君はそれらの観念や心象を、諸君が受け取った言語とは大へん異なっていることもあり得る言語によって、再伝達する根拠を所有することになるだろう…。
この部分を引用した後、平井は次のように書く。
「ヴァレリーの言うように、了解ということが、ある言葉による通信を受け取った人の心から、その言葉が消え去ることを意味するとすれば、ある文章を別の国語に移すことによって元の文章は必然的に消え去らざるを得ない翻訳という作業が、このヴァレリーのいう了解の機制と深いところで結びついていることは明かではないだろうか。一たび了解の機制を通過すれば、ものとしての元の言葉は消え去るからこそ、別のものとしての別の言葉、別の国語への転身も可能なのである。」
(ここで平井が「了解」と訳している原語はcomprehensionである。なおこの文章の初出は1973年の『季刊翻訳』2号である。このことは訳文の特徴とともに注意しておいていい。)
Seleskovitchがヴァレリーを読んでいた証拠はないが、deverbalizationという発想を生むようなイデオロギー的な土壌はあったのだろう。しかし別に「神の言葉」-「キリストの身体」といったキリスト教的な伝統がなくとも、この程度のことは誰でも思いつくことではある。それは何よりわかりやすいし、俗耳に入りやすい。しかし、この主張は言葉を廃棄したとたん、翻訳や通訳について何一つ語ることができなくなることに無自覚なのだ。80年代以降の翻訳の理論は、この根強いイデオロギーあるいは「ミーム」に対抗しながら展開するのである。
■ John Benjamins Publishing の Book Gasette (新刊案内)秋の号が届いた。通訳・翻訳分野では Pochhacker and Shlesinger の Healthcare Interpreting: Discourse and interaction, GouadecのTranslation as a Profession, Wolf and Fukari の Construction a Sociology of Translation の3点。Pochhacker and Shlesinger の本は、雑誌 Interpreting 7/2 (2005) を元にしたというか、そのまま本にしたもののようだ。その他の分野にもいろいろと面白そうな本がある。日本でもおなじみの Senko K. Maynard が Linguistic Creativity in Japanse Discourse: Exploring the multiplicity of self, perspective and voice という本を書いている (Pragmatics and Beyond New Seriesの1冊)。意識研究に面白そうなのがあった。To Understand a Cat: Methodology and philosophy というのであるが、人猫同型論(anthropomorphismの拙訳だが)や、猫に意識と自由意思はあるか、心的なもの・計算主義的なもの・神経生理学的なものの複雑な関係を考察するという内容のようだ。われわれが普通に考えれば猫に意識があるのは当たり前だろうと思うが、こういう研究がまじめに行われるというのは、やはり動物を機械のようなものと見る伝統的風土の産物なんでしょうか。
■ベン・ヒルズのPrincess Masako: Prisoner of Chrysanthemum Throneが刊行されたのが2006年11月、講談社が2007年3月発刊予定の日本語版の出版を中止したのが2007年2月のことだった。8月末に第三書館から『完訳プリンセス・マサコ』が出ている。この本と翻訳を巡る騒動は記憶に新しい。内容に興味が湧かなかったが、9月に野田峯雄「『プリンセス・マサコ』の真実」(第三書館)が出たので覗いてみた。野田によると講談社版は原著の180箇所を削除しており、そのページ数はおよそ155ページ、全体の53%にもなるという。他に表現を和らげたり、事実関係を歪曲するような付加も行っているようだ。野田のこの本は、(全部ではないが)どの部分が削除されたかを、(当然のことながら)幻の講談社版と比較しながら明らかにしている。講談社版からの引用以外は自分で翻訳している。ここで当然の疑問が湧いてくる。野田はいったいどこから講談社版を入手したのだろうか。ジャーナリストの取材源は秘匿されるべきであるから、野田が明らかにしないのは当然の権利である。しかし特に極秘文書というわけではないから、入手先は印刷所、製本所から講談社内部の人間までいろいろ考えられる。あるいは翻訳者やヒルズ氏自身という可能性もある。ただ、ジャーナリズムとしてはこれでいいのかもしれないが、翻訳研究に引きつけて考えると、入手先が明らかにされていないことは野田の本のauthenticityにとって大きなマイナスになっている。(但しそのことが野田の本の価値を低めるわけではない。)
■もう一つわからないのがこの場合の翻訳者の役割である。実は講談社版と第三書館版の翻訳者は同一人物、藤田真利子なのだが、藤田は『完訳プリンセス・マサコ』のあとがきでは自分が巻き込まれた騒動について特に何も言っていない。これも様々な事情があるのかもしれない。いずれにしてもこの事件で最も顔が見えなかったのが翻訳者なのである。出版翻訳における翻訳者の置かれた位置をよく反映しているように思う。それにしても講談社の姿勢は最低である。それほど修正や削除が必要な本であればリーダーの報告の時点でわかっただろうし、翻訳出版担当の編集者でもわかったはずだ。(講談社は公式には圧力はなかったと言っているのだから。)なお野田本には巻末に宮内庁の書簡や外務省報道官の記者会見の記録なども収められている。「圧力」や「検閲」(あるいは自主規制)の内容はくだらないの一言に尽きる。人間はいつになったらこうした迷妄から脱却できるのだろうか。
■EST (European Society for Translation Studies)からいろいろ会議の案内がきていますのでまとめて紹介しておきます。
19 October 2007
TRADULÍNGUAS Translation Conference
Lisbon Portugal
http://www.tradulinguas.com/conferencia-en.html
7 November 2007
American Literary Translators Association (ALTA)'s 30th Anniversary Conference
Dallas, Texas, United States
http://www.literarytranslators.org/
9 to 10 November 2007
Language and Globalization AFinLA 2007
Kouvola, Finland
http://rosetta.helsinki.fi/AFinla.html
10 November 2007
Translation as Negotiation
Portsmouth, Hampshire, United Kingdom
http://www.port.ac.uk/departments/academic/slas/translationconference2007
28 November 2007
Betwixt & Between III: Globalization, Interculturalization and Translation
Sharjah, United Arab Emirates
http://www.aus.edu/conferences/bb3/
5 to 7 February 2008
Translators 2008 - From Success to Recognition
Jerusalem, Israel
http://www.ita.org.il
23 to 24 February 2008
Translation: theory and practice
Norwich, UK, Norfolk, United Kingdom
http://www1.uea.ac.uk/cm/home/schools/hum/lit/Events+%2526+News/theorypractice
9 to 10 April 2008
LSP 2008: 6th Language For Specific Purposes International Seminar
Johor Bahru, Johor, Malaysia
http://www.fppsm.utm.my/lsp2008
8 to 10 July 2008
The Novel and its Borders
Aberdeen, Scotland, United Kingdom
http://www.abdn.ac.uk/novelconference/