MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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七転八倒

2008年10月31日 | 雑想

というほどではなかったのですが、月曜日と水曜日の夜中の3時頃、横腹と背中の激痛に襲われ、朝まで耐えきれず、東大病院の救急外来に駆け込みました。昨日ようやく尿路結石らしいという診断に至り、今は何とか薬でコントロールしている状態です。大学も水曜日は休講にしていただきました。受講生の方々には申し訳ない。というわけですので決してさぼっていたわけではありません。今週は会社も2日しか行けませんでした。様子をみながら徐々に再開します。石がでるまでの辛抱です。

水曜日の受講生でここを見られている方がいましたら、例のサイトに少しやさしくてとっつきやすい論文を4,5本アップしておきましたので見て下さい。


The Nature of Translation

2008年10月22日 | 翻訳研究

Holmes, J. S. (1970) (Ed.) The Nature of Translation: Essays on the Theory and Practice of Literary Translation. Mouton: The Hague. という本がある。比較的有名なJames S. Holmes の 'Forms of Verse Translation and the Translation of Verse' という論文が収録されている本なのだが、実はこのHolmesの論文は後のHolmesの論文集Translated! に再録されているので簡単に読める。ところがTranslated! 収録のこの論文と初出が同じ内容かどうか確認しなければならない事情ができたため、The Nature of Translation を探してわざわざ取り寄せたのである。結局、まったく同じ論文であることが判明し、その意味では何とも無駄なことをやっているわけだが、収穫がなかったわけではない。今では読むことが不可能なMikoやPopovicといったチェコスロバキアの翻訳理論家の論文が収録されているのだ。Mikoは表現の理論と翻訳にについて、Popovicは翻訳分析における「表現のシフト」の概念について書いている。この2つの論文はJeremy MundayのIntroducing Translation Studies (2nd ed.) の第4章で言及されている。Mundayはこの本全体についても'an influential volume'と書いているから、翻訳研究の古典的論文集の一つなのだろう。執筆しているのはほとんどチェコスロバキアの研究者・翻訳者のようだ。1968年5月にBratislavaで行われたInternational Conference on Translation as an Artという会議に提出された論文を収録したとある。


同時通訳支援システム'is'

2008年10月20日 | 通訳研究

㈱パワーシフトというところから大変面白い情報をいただいた。「通訳者支援システム'is'」というソフトウェアの紹介メールである。ニュースリリースはこちら。詳細はわからないが、この9月に日本音響学会で東京大学と共同で研究発表した際のPPTを見ると、どうやらスピーチのスピードが速いところや数字、固有名詞が集中するような情報密度の高い箇所で、通訳者の聞く発話のスピードを緩めて(あるいは録音してある部分を再生して)通訳者が確認しやすくするということのようだ。録音したスピーチをピッチを下げずにスローにするソフトやハードはすでにあるが、これを同時通訳の現場で使えるようにしようということだろう。通訳者自身がPCを操作しながら通訳する。極端な話をすると、スピーカーがずっと先に行っていても、通訳者は少しも慌てず悠然と通訳を続けることもありうる。実際の同時通訳でも、原稿がある場合はそういうことが起きることがある。ただしその場合、通訳者はスピーカーがどこまで行っているかを聴覚的・視覚的に確認することができる(確認しながら訳出している)。しかしこのソフトウェアを使っているとその確認は難しいかもしれない。というのも、通訳者はオリジナルの音声はおそらく無視して、録音された音声に頼るだろうからである。

そこから派生することだが、次の問題は先ほどのPPTでも指摘しているように、訳出時間が長くなることだ。(従来の手法の2倍以上かかったと報告されている。)今後の課題はこのあたりをどう解決できるかだろう。聴衆の反応も無視できないからだ。これまでは情報密度が高い箇所の対処法はもっぱら通訳者の技量と工夫に頼っていた(もちろんパートナーの協力もある)が、この支援システムが洗練されれば確かに通訳者の負荷は軽減される。逐次通訳ではすでにご存じの方がいるかもしれないが、「逐次=同時」通訳(ICレコーダーで録音したスピーチセグメントを再生しながら、通訳ノートもみながら「同時通訳」するという逐次通訳。通訳者はスピーチを2回聴けるという利点がある)の試みがある。なおこのソフトウェアの体験版は㈱パワーシフトのサイトからダウンロードできる(但し動作環境がOS:Windows Vista・XP; HDD:30GB以上; メモリ:1GB以上; CPU:Pentium4 2GHz以上; サウンドカード:HD_Audio搭載カードという条件なので自己責任で)。


法廷通訳の新著

2008年10月13日 | 通訳研究

以前にちょっとだけ紹介したMarianne Mason (2008) Courtroom Interpreting (University Press of America)が到着。ぱらぱら見たが面白そうなのでまた紹介しておく。大きなテーマは法廷通訳者の認知的負荷。とはいえ、BaddeleyやChristoffelsの文献は挙げられているものの、基本的にはフィールドワークによる誤りの分析だ。通訳者の認知的負荷は、話者交代までの発話の長さと量が通訳者の訳出に与える影響で量られるという想定である。予想通り、発話の長さが増大するにつれて通訳の誤り(主に脱落)が増大した。また通訳者はレジスターとスタイルを変えてしまった。スタイルははpowerless styleからpowerful styleへと変わった。このような言語的変数は証人や弁護士についての陪審員の心証に影響を与えるため、重要な意味を持つ。長い発話への通訳者の対抗手段としては、(1) 話を中断する、(2) semi-consecutiveにする、(3) note-takingの3つが挙げられているが、前2者には通訳者のコントロールの点で限界があることが示され、note-takingが提案される。note-takingでは語用論的、文体的、言語外的マーカーが重要になることが示唆されている。Masonはこの他にジェンダーによる誤りの特徴についても調べており、女性通訳者は発話が長くなると敬意を示す言語的特徴を落とす傾向とpoliteness markerをつける傾向があったとされる。逆に男性通訳者は"well"のようなdiscourse markerや"please"のようなpoliteness markerをかなりの頻度で落としたという。
相互作用的な枠組みが採られることが多い法廷通訳研究だが、Masonの研究はやはりこのような言語=認知的な分析が欠かせないことを示しているようだ。司法通訳の関係者だけでなく、逐次通訳を研究する人にも参考になる。


Beyond DTS or Linguistic Re-Turn?

2008年10月11日 | 翻訳研究
2つ担当している講義がなかなか難物で、時間をとられてしまい更新もままなりません。それだけならまだしも、学会名変更にともなう新たな仕事(日本学術会議への変更届とかFIT加盟の準備作業とか)が増え、さらに学会誌の査読手配(「招待」の方はまだ手つかず)や編集関連作業、翻訳プロジェクトなど山積。
そういえば翻訳プロジェクトでたった一箇所の引用を確認するために、Pym, Shlesinger, Simeoni (Eds.) (2008) Beyond Descriptive Translation Studies: Investigations in homage to Gideon Toury (John Benjamins)を買った。2万円を超えるえらい高い本だ。いろいろな人が様々な方向にDTSを超えようとしている(目次はリンク先を参照)わけだが、基本的には社会・文化志向で、DTSとそれほどかわりばえしないという感想だ。(Even-Zohar - Touryがそもそもそうだったわけだし。)自分でも一本書いてみたがあまり長期的な展開は望めないように感じる。素材やテーマが面白ければいいのだが、そうでないとどうにもつまらないのだ。一方で、Vandewegheらのlinguistic re-turn(言語(学)的再転回)の議論があるが、こちらもいまひとつ面白みに欠ける。たしかにBakerが言うように言語的分析は翻訳研究の出発点であり、言語学は翻訳教育、翻訳批評、そして翻訳の実践に重要な役割を果たす(Malmkjaer)のだが、それはわざわざ言うまでもないことで、問題は翻訳固有の問題を解明するためにどういう言語(学)的分析が必要かである。語用論とコーパスだけではこちらも早晩行き詰まるのではないか。というのも、こうした言語学には翻訳に固有の問題構制にかかわる問題(たとえば意味表示)について、意外なほどナイーブな想定があり、それにもとづいて理論を構成しているからである。ちょっと分かりにくい話で申し訳ない。また詳しく取り上げます。

「<盗作>の文学史」

2008年10月03日 | Weblog

栗原裕一郎『<盗作>の文学史:市場・メディア・著作権』(新曜社)は、ジャーナリスティックな関心から発した企画だが、文学研究としても面白く読めるし、資料的価値もあるいい本だ。自分の関心に引きつけて言えば、ビュトールの『心変わり』の方法的模倣であるとされた倉橋由美子の『暗い旅』、サリンジャーのCatcher in the Ryeの文体をパクったとされた庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の項が興味深かった。倉橋は翻訳ではなくフランス語原文を直接読んでいるようなのでちょっと性質が違うが、庄司薫の場合は野崎孝の翻訳文体との関連が問題になる。栗原は丹念に資料を発掘し、紹介した後、「庄司が『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいなかったとは考えにくいから、『ライ麦畑』の邦訳に自分が捨て去った文体の可能性を再発見しブラッシュアップをもくろんだというあたりが模倣疑惑の実情に近いのではないかと推測されるが、庄司が真相を吐露することは今後もないだろう」と結んでいる。このあたりは本来は比較文学の守備範囲だと思うのだが、何しろ1960年代のことなので適当な方法論がなかったのかもしれない。江藤淳の『暗い旅』批判も、「誤訳だらけの岩野泡鳴訳アーサー・シモンズや小林秀雄訳ランボオ」を引き合いに出しながら、理論的に語るべき核心部分は「全人的な体験」とか「血肉の部分」といったわけのわからぬ無内容な表現に終始しているのは、やはり時代のせいか。いずれも今日の翻訳研究の視点から再考すると面白そうだ。
 短い記述だが、『ジャン・ジュネ全集』の「囚人たち」が既訳を盗用した事件も取り上げられている。この場合は第二刷以降、その既訳に差し替えられたという。
 なおこの本の目次と前書きは新曜社のサイトで読める。