MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

Facebookはこちらです。

応用言語学と通訳・翻訳

2008年07月29日 | 

山内進(編著)(2003) 『言語教育学入門:応用言語学を言語教育に活かす』(大修館書店)という本がある。全14章構成で、その第4章が「通訳・翻訳」になっていたので買ってみた。応用言語学から見た通訳・翻訳、あるいは応用言語学としての通訳・翻訳の位置づけを期待したのだが、そういう内容ではなく、1) 短い独特な表現 2) 補いと省略 3) 文構造の変容 4) Onomatopoeiaと中間日本語 5) 逐次通訳と同時通訳の違い、という組み立てになっている。文献というか素材が変わっていて、『放送通訳の世界』から僕の作った例文を引用したり、コミュニケーターズの同時通訳資料があったり、岩宮さんがやった集中訓練講座の講義まである。翻訳研究の文献としてはRobinsonのBecoming a Translatorの1点のみ。応用言語学はTOSEL学会から生まれたというから一次的接近としてはこういう内容もありだとは思うが、Journal of Pragmaticsが通訳・翻訳の特集号を出すような時代なのだから、応用言語学としての通訳・翻訳とはどういうものか、通訳・翻訳に言語学からどうアプローチするか、語学教育に通訳・翻訳をどう取り入れるかといった内容がほしい。最先端の言語理論とやはり最先端の通訳・翻訳研究を結びつけないのではinterdisciplineとして成立しないだろう。このことは応用言語学についても通訳研究・翻訳研究についても言える。


「リトルチャロ」に柴原さん出演

2008年07月27日 | 雑想

さて、そろそろ番宣を。月曜日の夜11時半から11時50分にNHK教育テレビでやっている「リトルチャロ 体にしみこむ英会話」に通訳学会の柴原智幸さんが出演してシャドーイングのやり方を教えます。8月5日の放送です。再放送も何度かありますので、見逃さないようにスケジュール表に書き込んでおこう。

 


通訳教育分科会 道に迷う

2008年07月26日 | Weblog

  通訳教育分科会@青学

今日は青山学院大学で通訳教育分科会。参加者が30人を超える盛会であった。

 

行きと帰り、かなり歩いた。行きは青山一丁目で降りて炎天下を権田原、絵画館、日本青年館の横を通って外苑前交差点で青山通りに出て、青学まで。所要時間約1時間。帰りは日が陰り少し涼しくなったので歩いて帰ろうと思ったのだが、道に迷うという予想外の展開になった。地図で確認したところ、外苑前交差点のひとつ手前の南青山三丁目交差点を外苑西通りに入ってしまったようだ。おかしいと思いつつ神宮前三丁目交差点まで進み、右折して青山熊野神社の先の細道を入った。神宮前アパート前を左折して直線道路に出て、臨済宗のお寺と慈光寺を過ぎ、都営団地の中に入る。このあたりで場所の感覚が戻り、思った通り明治公園横の道に出た。写真の猫がそこで夕涼みしていた。

迷ったあたりは青山通りとは対照的な、まるで昭和30年代に戻ったようなところだ。これも何かの配剤か。ボロボロの小さな建物にあるマーケットなどを眺めて楽しむことができた。あとは見知った道を辿るだけ。権田原から明治記念館横の道を下り四谷に出てさらに市ヶ谷まで歩く。この辺で限界を感じて地下鉄に。


描き直しはなかった

2008年07月25日 | 翻訳研究

エントリーがひとつ飛んでしまったが、それにしてもHouseの立論は破綻しているのではないだろうか。翻訳的普遍がないといった後で、あるようなことを言っている矛盾については、言語的普遍の一部として翻訳的普遍なのであろうと好意的に解釈してみるにしても、肝心の「翻訳的普遍は言語的普遍universals of languageが翻訳に適用されたものである」という主張の説明がないし、そもそもどう説明するのだろうか。言語的普遍は最も一般的な言い方をすれば、すべての言語に共通に見られる現象のことである。他方、翻訳的普遍はすべての翻訳に共通して見られる現象のことであろう。Houseの論理では前者から後者を導き出さなければならないはずである。そこがどうも分からないのである。

 

16日にちょっと触れた『うる星やつら』の北米版翻訳 (Rumiko, Takahashi (1989). Lum: Urusei-Yatsura 1, (translated by Gerard Jones and Satoru Fujii), San Francisco: VIZ Communications) であるが、今日届いたのでさっそく見てみた。その前にRota論文の該当箇所を見ておこう。
In the very first episode of this series Ataru, one of the main characters, is scared by the sudden appearance of an oni, a traditional Japanese demon. In the Japanese tradition, oni are kept away by beans, just as garlic is said to keep away vampires in Western folklore. Ataru throws a handful of beans in the face of the oni, in an attempt to chase it away. In the US translation of the comic, however, the beans were re-drawn and replaced with candies, and the oni was turned into a monstrous Halloween mask: Ataru, then, in the US version simply tries to use candies to keep away a more familiar (for the American public) Halloween-masked character. (89-90)
はっきりre-drawnと書いてあり、translated as (into)... ではない。ところが、比べれば分かるように、絵は描き直されていない。豆はどう見ても豆のままだし、鬼もハロウィーンのマスクにはなっていない。書き直されたのはあたるの「お、鬼は~外~!!」のせりふの方で、「WAIT! I GET IT! TRICK OR TREAT, RIGHT?」「OKAY, HERE! CANDY! CANDY!」となっている。英語版であたるの2番目のせりふが入っているふきだしは日本語版では「鬼」=ラムの父親の「いやや!あんさん…」というせりふが入っている。(なお、ごらんのようにこの父親は関西弁であるが、特に翻訳で工夫してはいない。)よく見るとそのふきだしには話者を示す出っ張りが2つある。ひとつ消し忘れてしまったようである。確かにdomesticateされてはいるが、それは絵ではなくせりふ(言語表現)の方である。Rotaがなぜこう書いたのかは分からない。現物を見ていないということは考えられないから単なる勘違いかもしれない。(英語版のversionやeditionが違うということもありえない。間違いなく同じものなのである。)
という報告なのだが、他にもこの翻訳、いろんなことをやっていて、実際、絵にも手を加えていたりするのである。たとえば日本語版ではちゃんと描いてある女性の体の一部を消してしまったり。このあたりも性表現に関する規範の違いが見えて面白い。時間があればさらに詳しく検討してみたい。


ニュース3つ

2008年07月25日 | 雑想

10月17-18日にポルトガルのリスボンでTRADULINGUAS International Translation Conference on Health Sciencesという会議が行われます。通訳のセッションもあるようです。興味のある人は直接サイトをご覧下さい。より詳しいプログラムなどはこちら

7割の人が「憮然=腹立て」と誤用、文化庁の国語世論調査。 文化庁のサイトではまだ要点しか発表していないようだ。 毎年やっている調査で、たいしたものではない。「さわり」「煮詰まる」「檄を飛ばす」「琴線に触れる」などの誤用の調査もしている。「檄を飛ばす」が意外に正用率が高い。こういうものは使った方が勝ちという側面があって、最近は目くじらを立てても仕方がないと思うようになった。やがて誤用が正用になるものもあるだろう。ただその途中の期間は、どちらを使うかで教養の程度が判断されたりもするから、とりあえず「正しい」ほうを使っておいた方がいい。あとは個人的好悪の問題か。「真逆」とか「地頭」とかは何とかしてほしいが。

しかし今日は、また余計なことを…と思うニュースもある。マイクロソフトが自社製品やサービスに使っている外来語やカタカナ用語末尾の長音表記を変更することにしたというのである。 「ブラウザ」は「ブラウザー」、「プリンタ」は「プリンター」にするという。この変更によって、用語が「より身近に感じられる」ようになるというのだが、これは他社やこういう用語を使うコミュニティの追随がなければ無理だろう。もうほとんど定着してしまっているから、パラメータをパラメーターとは誰もしないと思うが。詳しくはマイクロソフト社のサイトを参照。


Juliane Houseの翻訳的普遍否定論

2008年07月24日 | 翻訳研究

Web Journalのtrans-kom 1[1]に掲載されたJuliane HouseのBeyond Intervention: Universals in Translation?は、2006年に行われた第2回IATISのパネルをもとにしており、安易なTranslation Universalsの議論に警鐘を鳴らす内容である。Translation Universalsとは、翻訳された言語(表現)に見られる普遍的な傾向のことであり、さらに一歩進めて「法則」lawsとまで呼ぶ人もいる。以下では仮に「翻訳的普遍」と訳しておく。具体的には、明示化、単純化、曖昧性除去、目標言語の慣行への妥協、標準化といった傾向を指す。Blum-KulkaやTouryのようなケーススタディによる質的分析の手法もあるが、主流はコーパスを使った分析である。以下、House論文の内容を簡単に紹介する。(リンク先で全文が読めるので疑問の箇所があったら参照していただきたい。)

言語的普遍に関してはChomskyに代表される生成文法とGreenbergに代表される機能・類型論からの提案がある。前者は言語的普遍性をアプリオリの現象としてトップダウンで(演繹的に)想定し、後者はさまざまな分析と比較をつうじてボトムアップで(帰納的に)普遍的特徴を発見していく。しかし両者はともに構造分析から出発し、データから抽象を行い、普遍的な、生物学的に与えられた人間の能力から言語的普遍を説明するという点では共通している。違いは機能・類型論が実証的な言語間比較と、形と機能の関係を重視するという点だけである。この形と機能の関係を特に強調したのがハリデーの言語学(選択体系機能文法)であり、これは翻訳の研究にはもっとも有用な言語学である。この言語学のideational, interpersonal, textualという3つのメタ機能のレベルにおいて普遍性が存在すると言っていい。こう述べた上でHouseは翻訳的普遍を否定する。

「しかし率直に言って翻訳における普遍性を追究することは本質的に不毛である。すなわち、翻訳的普遍なるものは存在しないし、ありえないのである。」(11)

その理由として以下の5点を挙げる。
1.言語的普遍性が翻訳にも適用できるにしても、それは翻訳自体の普遍性ではない。ただ言語の普遍性が翻訳に適用されたに過ぎない。
2.翻訳は本質的にlanguage-pair specificであり、その個別性は
翻訳的普遍を求めてさまざまな言語の組み合わせを検討したところで相殺されることはない。それはさまざまな組み合わせの総計以上のものではない。 
3.翻訳の方向:特定の翻訳方向で示唆された普遍性は、逆方向ではそうはならない
4.ジャンル固有性:たとえば一般向け科学テキストのドイツ語への翻訳では明示化(精緻化、拡張、増大)の傾向が見られたが、経済学のテキストではそうではなかった
5.テキストの通時的変化diachronic developmentを考慮すべきである。(人的直示の使い方が過去25年で変化したとか)

つまりHouseは言語的普遍性を想定すれば、そこに必然的に翻訳も含まれてしまうというのである。そして「翻訳的普遍」が見つかるかもしれないとすれば、それはハリデーの言語学の3つのメタ機能のレベルにおいてであり、それより下のレベルではない、と言う(明示化や単純化、標準化などはideational メタ機能のところ、繰り返しの回避や起点言語・目標言語のover-representationあるいはunder-representationなどはtextualなメタ機能ということになる)。しかしこの言明は先ほどの否定と整合しない。

Houseは最後に翻訳における干渉の問題を取り上げて次のように述べる。翻訳における干渉とは、起点言語を言語的に必要な程度を超えて操作することである。しかし、目標言語の受容者の期待が起点言語の受容者の期待と違うのかどうか、またどう違うのかについて実証的な証拠がなければならない。そういう証拠がないところで翻訳者が介入し、テキストの機能を操作したところで、それはもはや翻訳translationではなくversionというにふさわしい。イデオロギー的、社会・政治的、倫理的理由による操作や介入は、それがいかに善意から出たものであるにせよリスキーである。その介入が望ましいと誰が判断するのか。どうやって正当化できるのか。

すっきりと頭に入りにくいうえにいろいろ疑問が生じる論文ではあるが、次のくだりには心底同感したのであった。
「私は個人的にはいつも、言語的・テキスト的側面を社会的側面から切り離すように訴えている。いいかえれば翻訳者(そして翻訳批評家)たるものは、オリジナルの著者とそのテキストへの責任を自覚していなければならない。そして、所与のテキストの再テキスト化、再文脈化のために与えられた力を慎重に使わなければならない。多くの場合―ほとんどの場合ではないにしても―全く介入しないことが賢明であるかもしれないのだ。」(16)


空蝉橋へ

2008年07月23日 | 雑想

Juliane Houseが「翻訳的普遍Translation Universalsなどない」と言っている論文を紹介しようと思っていたが、この暑さで少々疲れ気味なのでそれは明日。

   

久々に東京探訪(散歩)である。いつだったか、池袋東口から本郷まで歩いて帰ろうとして道に迷い、さんざん歩いて空蝉橋という少し侘びしい不思議な感じの場所に出たことがあった。名前が虚無的なので印象が深い。6月下旬に池袋に出る用事があったので、今度は本郷から空蝉橋に向かって歩いてみた。春日通りの1本北の道(小石川植物園の前を通る道)をまっすぐに進むとJR大塚駅に出る。直進して山の手線のガードをくぐり、左にさらに進むと空蝉橋下という信号がある。そこを左折し、空蝉橋通りという坂道を上ると空蝉橋である。下は山の手線が通っている。地名の由来は明治天皇がどうしたとかいうことらしく比較的新しいが、空蝉という言葉自体は万葉集の昔からある。「人、世」を導く枕詞だという。「うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも 」という生のはかなさを歌ったのもあるが、「うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも」のような恋の歌もある。


Translating Selves

2008年07月22日 | 
ESTを通じて新刊案内が来ている。最近翻訳研究関係に力を入れているContinuumの本で、Nicholaou,  P. and Kyritsi, M-V. (Eds.) (2008) Translating Selves: Experience and Identity between Languages and literatures (Continuum)というもの。(詳しい内容と目次はここに置いてあります。)これだけではよく分からないところが残るが、翻訳という行為あるいは翻訳の場において翻訳者の個人的アイデンティティや文化的アイデンティティが意識化され、変容するということか。また面倒なことを…と思うが、変な方向に行かない限りまっとうな問題意識で、嫌いなテーマではない。FITの副会長Peter Bushが 'Essays restoring the centrality (so often willfully ignored) of the translator's multiple selves to the study of the process of literary translation.' という言葉を寄せている。文学だけかと思ったらJuliane Houseがglobal Englishのことを書いていたり、あまり読む機会のない翻訳におけるカニバリズムの論文もあるので、そうでもないようだ。

ファンによる翻訳

2008年07月21日 | 翻訳研究

マンガ翻訳のネタがたまっているのでもう一つ。もっと早く紹介すべきだったのだが、Minako O'Haganさんが Kearns, John (Ed.) (2008) Translator and Interpreter Training: Issues, Methods and Debates (Continuum) (目次はこちら)に、Fan Translation Networks: An Accidental Translator Training Environment?という論文を寄せている。内容的にはたぶん立教にinvited scholarとして来たときにやってくれた講義に重なる。Fan Translation(やFunsub)というのは、要するにネット上でファンがマンガ(やアニメ)を翻訳してしまうことであるが、この論文では実験としてFan Translatorとプロの翻訳者に同じ素材を翻訳してもらって比較した上で、Fan Translationを翻訳教育に関連づけて論じている。結論の一端を述べると、独学のFan Translationは誤りもあるが初心者の域を脱しており、語彙や文法のレベルを超えてもっとグローバルなレベルへの関心が見て取れる。またスタイルやジャンルの約束事も強く意識しており、プロのレベルに近づきつつある、というもの。素材は吾妻ひでおの『失踪日記』である。参考文献も充実しており、今後日本のマンガの翻訳について書く人にとっては必読の文献だろう。


Rota論文について

2008年07月19日 | 翻訳研究

 左がオリジナル

さてRotaのAspects of Adaptationという論文であるが、この論文の基本的前提は、ことばと絵が併用されるコミックスにおいては言語学的アプローチでも記号論的アプローチでも十分ではなく、文化的視点からの分析が欠かせない、というものだ。そこでもっとも大きな問題になるのはフォーマット(判型、ページなど)の翻訳である。著者はforeignizationとdomesticationという分析視角を採用する。domesticationの翻訳方略とは、(1)ページやコマの大きさを変える(拡大、縮小)、(2)白黒原稿に着色する(あるいはその逆)、(3)テキスト削減、(4)ページやコマの再構成、(5)ページとコマの省略、(6)文化的・政治的検閲(『うる星やつら』の例はここで出てくる)、などである。しかし北米の場合はしばしばこのようなdomesticating strategiesを採用するが、ヨーロッパの出版社の場合はforeignizing strategiesになる。その理由はフォーマットに手をつけることはコストがかかるということと、読者がそれを望まないからであるという。このあとRotaは、日本のマンガの翻訳のケースでは、フォーマット維持(foreignization)が読みの方向を維持することによりヨーロッパの読者のテキストと図像の読みの慣習と衝突するはずだと主張する。(これはさほど重要な問題とは思わないのだが。)しかし、左から右へと読みの方向を変えることによりキャラクターはすべて左利きとなり、動きの方向も逆になってしまうという問題が生じる。画像はRotaが引用しているBarbieriのサイトにある「子連れ狼」の拝一刀の動きであるが、Barbieriによると、西欧の読者の眼には逆転した絵は動きが遅くなるという。(ここで先に触れた『無限の住人』の例がまた出てくる。前回は気がつかなかったことがここではっきりする。主人公万治(卍)の着物の柄の話なのだが、鏡像化することで卍はアーム部分の方向が逆になりナチスのシンボルになってしまう。そこでイタリア語版ではオリジナルの方向で翻訳されたという。またアメリカ版は左から右だが、著者の監修のもとコマ単位で逆転させたとされる。)
しかしRotaはいずれにしても日本のマンガの翻訳ではその異国起源性foreign originを覆い隠すことはできないと主張する。その理由としては主に文化的表象の存在が挙げられる。このような他者性alterityの顕現はBermanの言う
épreuve de l’étranger (experience of the foreign)の明白な証拠だというのである。

Rota論文で特徴的なのは、読みの方向や動きの問題を指摘していることに見られるように、動線や視点・コマ割りによる読みの誘導といった作画技法やマンガ文法をコミックスの翻訳理論に導入するまであと一歩のところまで来ていることである。コミックスは静止画であるが、映像表現の映画と共通の要素を持っている。たとえばコマとコマ、ショットとショットの間のlocal coherenceは読者や観客が推論によって作り出さねばならない。断片として編集されたコマやシーンのcoherenceをどのように作り上げるのか、そこにはどのような要素が関与するのか(推論の重要な情報ソースには背景知識や語用論的文脈がある)、翻訳の場合何が問題になるのか。言語的テキストと図像を不可分のテクスチャーと考える立場からは、当然そのあたりが問題になってくるだろう。