MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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歩く

2009年08月31日 | 雑想

今日は台風のせいで歩けなかったが、最近の散歩記録を。
1)東上線の上板橋で降り、懐かしい雰囲気の駅前商店街を抜け、城北中央公園を通って氷川台に出る。ここから池袋までは一本道と思っていたが、そんな道はなく、迷いに迷ってようやく環七に至る。あとは小竹向原、千川、要町と一直線に池袋へ。
2) 中央大学の坂を上って左折、のりピーが出頭した警視庁富坂庁舎のある道を抜けて白鳥橋から目白通りに入り、鶴巻町交差点を左折して、弁天町、市谷柳町を進み、防衛省を左に見て曙橋。四谷三丁目に出ると右に新宿御苑の緑が見えたので新宿到着したこととして帰る。(以上、写真なし)
3) 三鷹~東伏見~保谷:中央線で三鷹まで行き、成蹊通りを進み、成蹊中学校横を通過。何かのお寺かと思った。

玉川上水に出る。こんなところでどうやったら入水自殺ができるのか疑問の方もいると思うが、昔は水量もあり、流れも速かったのだという。ここに太宰と玉川上水が一緒に写っているが、やはりどうみても小川である。早稲田大学のグラウンドを過ぎると右のような風景になる。

 

ほどなく西武新宿線の東伏見駅に到着。鳥居と反対側の変な銅像を見て、北に延々と歩けば、終点の西武池袋線の保谷駅に到着。

 


Anthony Pymの新刊

2009年08月27日 | Weblog

Anthony Pymが9月にRoutledgeからExploring Translation Theoriesというテクストブックを出すようだ。目次は以下の通り。

Contents: What is a translation theory? 2. Natural equivalence 3. Directional equivalence 4. Purposes 5. Descriptions 6. Uncertainty 7. Localization 8. Cultural translation. Postscript: Write your own theory

これと連動して、Pymのサイトにビデオレクチャーがアップされている。なかなか面白い試みだと思う。(ただし、Flash Playerのversionが古い人は新しいのをインストールする必要がある。)


談志師匠に遭う

2009年08月23日 | 雑想
ここ一週間ほど、早朝の散歩を続けている。今日は根津神社まで足を伸ばすつもりで不忍通りを歩いていると、根津小学校入り口のあたりでパジャマ姿の弱々しいじいさんがこっちを見て何か手まねをしている。アブない人かなと思いながら近づくと、手紙を出しに来たのだが自分の名前を書き忘れたので筆記用具がないかという。リュックからボールペンを出して渡したのだが、どこかで見た顔である。果たして、名前を書くのを見ていると「立川談」と書いていたので、「談志師匠ですか?」というと「ああうん」。「この辺りにお住まいですか?」と聞くと、「そ。この先にたい焼き屋があるだろ?・・・」という語り口はまさに談志その人であった。

『立原道造・堀辰雄翻訳集』

2009年08月22日 | 雑想

大会準備にかこつけてさぼってしまった。そういえば先日帰省中の息子に付き合って「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見てきたが、いまひとつ、いやふたつぐらい面白くない。これではコアなファン以外に広がりをもたないだろう。

『立原道造・堀辰雄翻訳集』(岩波文庫)。タイトル通りなのだが、誰がどういう方針で編集したものか分からないという、ある意味珍しい本。どうやら岩波書店の編集部らしい。「葬いの行列が墓地に入った。細長い柩が、花環をのせて、六人の人に担われて、二人の人に伴われて。」(シュトルム「忘れがたみ」立原道造訳)「彼女は高い、暑い煉瓦塀にそうて重苦しそうに歩いていた。まだそれが其処にあるかどうかを確かめるためのように。」「人は自分の持っていた病気に附属している死を死ぬのだ」「人々はその建物に所属している死の一つを死ぬのだ」(リルケ「マルテの手記」より、堀辰雄訳)
倒置法、人称代名詞・所有の他動詞・同族目的語の訳出が目立つ。この二人の翻訳を問題にするなら、それが彼等の文体にどのような影を落としているかを見るべきだろう。それから、倒置法を使うような翻訳はいつごろから始まったのだろうか。


難に遭う

2009年08月14日 | 雑想

理事会を終えて、翌日から1泊で帰省したら帰りに台風のためにひどい目に遭った。特急に乗ろうと駅に行くと土砂崩れのため不通だという。しばらくして途中までの代替バスが出るというのでそれに乗って2,3駅行ったところで運転を再開するという。それではと、ホームで待っていても一向に動く気配がない。鉄道をあきらめてレンタカーで最寄りの高速入り口に着くと、ここも不通でUターン、次の入り口まで行き、ようやく高速に入れた。特急で2時間ちょっとのところが7時間かかってしまった。しかしまあ、こういう機会はめったにないと思い、こんな写真を撮ったのであった。

久しぶりにプロフィールの写真を替えました。同じく実家に「出入り」しているラッキー君。すりすりしてくれるのはいいのだが、びっしりと毛を付けられた。門口を犬が通ると、わざわざ跳びだしていって至近距離で威嚇していた。ただし強そうな犬の場合はじっとしているようだ。


「通訳サミット2009」のお知らせ

2009年08月12日 | 催し

10月11日に「通訳サミット2009」という催しがあります。
詳細はブログ
「通訳サミット2009」にて随時更新とのこと。(あるいは「通訳サミット」で一発検索!)
問い合わせ先:通訳サミット事務局 
tufs@kytrade.co.jp

日時:2009年10月11日(日曜日)
10:00-17:30 シンポジウム(参加無料)
18:00-20:00  懇親会(予定・有料) 

開催概要(予定)
主催:東京外国語大学国際コミュニケーション・通訳専修コース
会場:東京外国語大学府中キャンパス 101マルチメディアホール
     〒183-8534 東京都府中市朝日町3-11-1  

内容:徹底した会議通訳の理論と実践の研究・分析の上に、プロの会議通訳者という高度専門職業人の養成を見据える大学院のあり方は、今、新しいプロの会議通訳者の養成方法として、各方面から非常に注目されています。シンポジウム当日は、東京外国語大学と協力関係にある、アジア/欧州の通訳教育を行っている大学・大学院の先生方によるご講演を通し、大学院からプロの会議通訳者になるための方法を探ります。

講師(予定): 
Daniel Gile (パリ第三大学・ESIT) Clare Donovan、Hiromi Ito-Bergerot (パリ第三大学・ESIT) Nikolay Garbovsky、Olga Kostikova (モスクワ大学) Andrew Dawrant (上海外国語大学) Jugwha Choi 、Hyang-Ok  Lim (韓国外国語大学校) 鶴田 知佳子 (東京外国語大学)  
*敬称略


『日本語は論理的である』

2009年08月07日 | 

明日は理事会のため準備書類作成で忙殺される。事務処理能力が明らかに落ちているのを自覚するこのごろである。

月本洋『日本語は論理的である』(講談社選書メチエ)。「あとがき」の最初の部分が本書の要約になっている。
「多くの日本人は、日本語が非論理的であると思い込んでいる。しかし、日本語は論理的である。その論理は特殊な論理でもなんでもなく、数学で使う形式論理(の中の命題論理)なのである。日本語は非論理的であるという思いこみは、日本語に主語がない場合が多いことに起因している。学校で主語がなくてはいけないと教えられたから、主語がない場合が多い日本語は、非論理的だと思い込んでいるのである。(…)この自虐的言語観を払拭するには、学校文法を見直さねばならないのである。
また、現在進められている小学校英語教育は、生徒の英語力を向上させないどころか、日本文化の将来に対して悪い影響を与えるのではないかと、私は危惧している。母音脳が完成していない小学生の段階で、英語教育を通して子音脳の形成を促進するのは、母音脳の形成を阻害するものであり、日本語の文法や論理に悪い影響を与えるだろう。」
この著者は1年前に同じシリーズで『日本人の脳に主語はいらない』。(この本を紹介したかどうか記憶がない)を出していて、後半の母音脳、子音脳の話はそちがら詳しい。基本的な主張は「主語や人称代名詞が必要な言語現象は脳というハードウェアに依存する」というもので、今回の新著でも「日本人は、発話開始時には母音を左脳の聴覚野で脳内で「聴く」ので、右脳の自他分離を担う部分である聴覚野の隣(下頭頂葉と上側頭溝後部)を刺激しない。よって、自分と他人の識別の度合いがあまり強くなく、自分と他人を識別する人称代名詞をあまり発しない」と述べている。
面白い仮説だがもっとも危ういところでもある。いつも言うように、構造から機能を導き出すことは極めて難しい。また、日本人の多くが、主語を強調する学校文法にもかかわらず主語や人称代名詞を「省略」してしまうのは、たんにそういう言語規範があり、それを社会的に学習するからに過ぎないのではないかという身も蓋もない反論が可能だ。
言語はシンタックスでさえ変化する。それと脳機能との関係はどういうことになるのだろうか。


『物語論で読む村上春樹と宮崎駿-構造しかない日本』

2009年08月04日 | 雑想

しばらく空いてしまったが、この一週間はいろいろ行事があったのだった。皇居一周をしたものの、翌日から院生コンパ(天ぷらなど)、大学時代の友人との飲み会(焼き鳥)、通訳教育分科会の後の信濃牛焼き肉(すべてビールつき)で、体重は元の木阿弥である。そこで脂肪肝の薬を探すが、先般の法律のせいでネット販売中止(離島の住民のみ可能)になっている。ところがネット薬局に電話してみるとすぐに送ると言うのだ。まったく意味のない法律である。

それはさておき、ちょっと必要があって、大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿-構造しかない日本』(角川書店)をざっとみた。ひとことで言うと村上春樹の小説や宮崎駿のアニメが「世界に届いた」のは「(物語、神話)構造」があったからだ、逆に言うと帯にあるように「物語の構造だけが世界に届いた」、というだけの本である。(構造というのはパターンと言い換えてよい。平たく言えばテレビの「水戸黄門」である。)この主張に対しては、そればかりでもなかろうと言えば済むと思う。『1Q84』にも言及していて、この作品も「村上春樹が構造しかない作家であることをより徹底した形で露呈している」と言う。この本で特徴的なのは「世界に届く」ために必要な翻訳についてはほとんど触れておらず、検討した形跡もないことだ。大塚は「(『1Q84』では)あの誰にでも模倣し易く、今や翻訳家の柴田元幸の「文体」となってしまった感さえある翻訳ふう一人称の「文体」を完全に放棄している。つまり『1Q84』の天吾は「やれやれ」と呟くことはない。シンプルな文体は翻訳してもそこから抜け落ちるものは極めて少ない。つまり、敢えていえば「構造しかない文章」がそこにある」というのだが、少しぐらいは北米での翻訳を検討してみればいいのにと思う。ただ、そんなことよりももっと読みやすい文章を書くように心がけて欲しい。いったい誰が次の文章の意味を理解できるだろうか。
「いつか世界に日本のすばらしさをアニメーションやまんがで伝えよう、と夢見ていた「おたく」はぼくらの時代にはいなかったし、今はいるのでとても始末に負えないが、少なくとも、そういう野心とは別のところで異なる文化圏でただの消費財、ただのサブカルチャーとしてぼくたちの表現は求められていった点に特徴がある」(p.13)。