MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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1950年代の通訳文献-Leon Dostertに会った日本人

2017年06月20日 | 通訳研究

戦後日本の通訳文献は、外務省終戦連絡中央事務局監修・外務省通訳養成所編纂(1946-1949)『日米會話講座』(日米會話講座刊行会)、大谷敏治・五十嵐新次郎・藤本勝(1947)『通譯・ガイド手引きと心得』(語學出版社)、岡崎熊雄(1947)『通訳概論』ライト・ハウス出版部)に始まるが、そのあと福井治弘・浅野輔(1961)『英語通訳の実際』(研究社)が現れる間の1950年代が空白になっている。考えてみればこの10年は、西山ラインはようやく同時通訳に手を染め始め、国務省グループはアメリカで修業中、浅野らの原水禁グループが活動を始めるのは1955年の第1回原子力禁止世界大会以降である。斎藤美津子のICU着任は1957年で、当時は通訳ではなくスピーキングを教えていた。つまり主要なプレーヤーたちはまだ力を養っている時期であり、通訳について何かを書くという状態ではなかったのだろう。

成書は見つからないものの雑誌に書かれたものはある。春木猛は会議通訳者養成の必要性について『英語青年』に書いている。(春木猛(1957)「会議通訳者の養成」『英語青年』103/12)。これは当時青山学院大学法学部の助教授だった春木が、国際ペン大会やICAOの会議などのために来日したジュネーブの通訳者の話を聞き、またアメリカのジョージタウン大学を訪れて見聞した感想として、日本でも、大学、大学院レベルで会議通訳者の養成が必要ではないかと提言したものだ。春木がジョージタウン大学を視察したのは1950年のことで、翌年、青山学院大学文学部紀要『英文学思潮』(vol.24/2)に「米國のLanguage Laboratory」という訪問記を書いている。ジョージタウン大学のInstitute of Languages and Linguisticsに赴いた春木は、DirectorであるLeon Dostert教授に同時通訳ブースに案内される。しかし、このLeon Dostertこそニュルンベルク裁判の同時通訳と国際連合の通訳体制を作り上げた中心人物であることを、おそらく春木は知らなかった。


(右のネクタイの人物がLeon Dostert。これは通訳ブースではなくLL。)




日本初の同時通訳(その2)

2017年06月19日 | 通訳研究

前回、『通譯・ガイド手引きと心得』における大谷敏治の証言を取り上げたが、そこに出てくる米国教育使節団の来日とその報告書は、戦後日本の教育界では非常に重要なものであったらしい。鈴木栄一(1983)『日本占領と教育改革』(勁草書房)、久保義三(1984)『対日占領政策と戦後教育改革』(三省堂)、土持ゲーリー法一(1991)『米国教育使節団第の研究』(玉川大学出版部)といった本格的な研究書も出ている。この中で、久保義三の本の中に、アメリカ教育使節団の詳細な活動日程表がある。それによると大谷の言う「総会」は都合9回開かれている。しかしいずれの本にも通訳についての記述はなく、同時通訳が何回目の総会に使われたのかはわからない。ただし、1回目と9回目だけは除外できる。1回目については、大谷が「第何回かの総会」と言っているし、9回目は京都で行われているからである。従って大谷が「同時通訳」したという総会は1946年3月8日、9日、12日、13日、14日のいずれかということになる。(8日と9日は午前と午後に2回ずつ開かれている。)場所は華族会館だったという。


日本初の同時通訳

2017年06月09日 | 通訳研究

一般に日本における同時通訳は1950年に西山千さんと相馬雪香さんによって行われたということになっている。しかし、大谷敏治・五十嵐新次郎・藤本勝(1947)『通譯・ガイド手引きと心得』(語學出版社)には、すでに1946年に同時通訳が行われたという証言がある。著者の一人、大谷敏治は東京外事専門学校(東京外国語学校(現東京外国語大学)が1944年から一時改称されたもの)の教授であったが、大谷の執筆部分に次のような記述がある。(旧字、旧かなは現代表記に改めた。)



  「国際連盟以来、国際会議の多くなるにつれて、また用いられる公用語が英語とか仏蘭西語であるのに、通訳さるべき言葉は七十幾つの加盟国の言葉全部というのでは、通訳のためにおびただしい時間がかかることになる。そこで新しい通訳技術が発明利用されてきた。それはdictaphoneの応用である。日本でも昭和二十一年三月、米国教育視察団の来朝した時第何回かの総会の席で最初に使われた。そして筆者は、当日、当番の通訳者ではなかったのであるが、担当者の不参で、俄かにその仕事にあたって、大いにあわててそしてそこは心臓なんとかやってのけた―というとすさまじいが、まあお茶をにごした―その経験をお話ししよう。その後用いられたことも聞かないけれど、やがて、各国の代表列席の国際会議など、かならずやこの方法が日本でも採られようから。」(p.16)

この後使用した機器についての説明があり、それに続いて実際の通訳のやりかたを説明する。

  「話し手はやがて開口一番、どんどん話し出す。普通のように途中で切らない。それが標準英語であるところの、Middle-westのspeedyな、intonationの平板な調子で、どんどん語りつづける。通訳者は一方にこれを耳で、じかに聴きながら、その意味を直ちにとって、これを日本語に直して、自分の前のマイクを通じて聴衆にー英語の判らぬ人々へ―送ってゆく。丁度話し手の語り終る時、通訳者もまた通訳し終る。時間はこのために少しも余計にかからない。また語り手の終るたびに日本語の通訳をきかねばならぬという、語り手、通訳者の、間の悪さもなくてすむ。」(p.17)

同時通訳という言葉は使われていないが、これは同時通訳である。「通訳者は話し手の下に席を占め」とあるから、ブースはなかったようだ。「アメリカ教育使節団」は昭和21年3月(第一次)と昭和25年8月(第二次)に来日している。アメリカ側のメンバーは27名、これに協力するために作られた日本側の委員会メンバーは天野貞祐、小宮豊隆など29名であった。「総会」というのはおそらく米日のメンバーの会合であり、同時通訳用機器はアメリカ側がもちこんだのだろう。大谷の文章にはニュルンベルク裁判のことは出てこないが、極東軍事裁判については満州皇帝溥儀のリレー通訳について触れている箇所がある。(なお大谷が同時通訳をしたとされる1946年3月にはまだ極東軍事裁判は始まっていない。)大谷敏治は1939年に東京外国語学校の教授となり、1962年に東京外国語大学を退官している。主に経済英語や貿易論を教えたようだ。この本は国立国会図書館にも所蔵されておらず、CINiiでも出てこない。