MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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「おまえはそれでも日本人か」

2017年07月08日 | 通訳研究

朝日新聞(2015)『おまえはそれでも日本人か:米軍元通訳の被爆者、70年の引き裂かれた思い』(朝日新聞社)。長崎で原爆に遭遇し、佐世保の米軍キャンプで通訳として務めた川内豊さんへの取材をもとにまとめた小冊子。戦中もそうだが戦後も、日本人にとっては庶民レベルで否応なく異文化・異言語に接触した、させられた時期だったろう。川内さんはキャンプで英語をおぼえて通訳になる。ベトナム戦争時にはマリファナに手を出した若い兵士の裁判のため、裁判所で通訳に当たり、1968年、佐世保に原子力空母エンタープライズが入港した際、抗議に来た国会議員代表に米軍側の窓口として応対し、議員から「おまえはそれでも日本人か」と罵られる。



川内さんの例のように、通訳者はさまざまなジレンマに直面する。コミュニティ通訳の場合は日常茶飯事だろう。外国の有名な事例ではウクライナの手話通訳者Natalia Dmytruk さんがいる。彼女は2004年の大統領選挙の開票をテレビで手話通訳していたが、突然「ウクライナのすべてのろう者に訴えます。我々の大統領は Victor Yushchenkoです。中央選挙管理委員会の発表を信じないでください。全部うそです。わたしはそんなうそを皆さんに通訳するのが恥ずかしい」と「通訳」した。この選挙では親ロシア派の現職大統領側が票の操作を行っていると噂されていた。結局当選したのはYushchenkoであった。いわゆる「オレンジ革命」である。また、2008年、アイオワ州ポストビルの食肉包装工場で400人ほどのグアテマラ人労働者が不法入国で逮捕されたことがあった。この時罪状認否などの通訳に当たったErik Camayd-Freixasは、甚だしい権利侵害を座視できず、倫理綱領を破ってテレビや新聞でその状況を証言する。ここでその話が聞ける

会議通訳の場合は普通は守秘義務ぐらいしか問題にならないが、先日紹介した『初期原水爆禁止運動聞き取りプロジェクト記録集成』にはスピーカーの話に抗議した森 百合子さんの証言が出てくる。
〇森 「私は1回だけですがこんなことがありました。通訳の鉄則というのは、絶対に自分の意見を話してはいけないわけですね。私は誰かの口なんですから。私自身の口はないわけですから。そしたらですね、北京女性会議のある分科会でアメリカ人の女の人が原爆についての話になった時に、「原爆を落としてやったから戦争が終わった」と言ったんですよ。その時に私は爆発しましてね。それで、「こういうふうに彼女は言いました。だけど通訳は別の考えです。私自身は被爆者ですが、そうは思ってません」って言ったら、それが大問題になりましてね。通訳が個人的意見を言ったというんで。でも私は言わずにはいられなかった。どんなそしりを受けても何て言われてもいいです。クビにして帰れと仰るんなら帰りますと。」森さんのような例は、会議通訳においても倫理規定が人間的現実を掬いとれないことを示している。

 



原水禁運動と通訳者

2017年07月05日 | 通訳研究

戦後日本の通訳者の流れのひとつに原水禁関係者がいる。これについてはあまり証言や資料がなかったが、初期原水爆禁止運動聞き取りプロジェクト編集(2012)『初期原水爆禁止運動聞き取りプロジェクト記録集成』(ピープルズ・プラン研究所)というのがあるのを知った(現在はCD-ROMで入手可能)。この中に原水禁世界大会を担った「通訳団」について詳しい証言がある。日本戦後通訳史の貴重な資料だ。500ページ以上あるがほんの少しだけ紹介しておく。
まず通訳団はほとんどが大学生だったこと。東京外国語大学と津田塾大学の学生が中心だったようだ。ボランティアではなくアルバイトであり、会場案内のような補助的な仕事ではなく、各国代表の演説の通訳だった。募集後、合格者は早稲田大学に借りた教室で2-3週間の特訓を受ける。

「通訳を募集すると、優秀なのがたくさん寄ってきましたよ。落とすのに苦労しましたからね。また、既に活躍していた人たちも参加してきましたね。佐藤敬子さんは、土井たか子の通訳をやって、もう亡くなりましたけれど、すばらしい女性でした。それから、秋葉忠利広島市長もそうですよ。第4回大会のときでしたかね。TV キャスターの山川千秋もいたな。浅野輔や有馬真喜子もそう。サイマルインターナショナルを起こした小松達也もいました。」
「○藤原 通訳講座の時に通訳のツボというか、やるときにはこことここが大事というこう何か秘訣のようなものっていうのは、どう伝えられたんでしょうか。
○森 何を勉強したんでしょう。暑かったことしか覚えてない。
○滝沢 そういうコツというのは特に教わっていないですね。2人の先生が交代で英字新聞とか、英文雑誌のある部分や社説とか読むわけですよね。それで要旨を把握できるかどうかというので、読んだ後、どんな内容だったか言えっということで、それで自分が聞き取れたことを言うと、よしよしって、だんだん当たっていくというふうですよね。
○森 それから、あれは今から思えば逐次通訳の一番基礎を教えられたと思うんですけれど、いったん休んだらそこまでに聞いたことを正確にちゃんと日本語にして。正確に簡潔に言いなさいって言われましたよね。
○滝沢 ゆめゆめ、原水爆賛成ってだけは言うなってね。
○森 そうそう。‥‥賛成ってだけは言うなってことで。
○滝沢 後はもうね、そんなに細かい指導はなかったように思います。」
「福井治弘は、あのときの日英の通訳のナンバーワンでしたね。一番優秀なのは福井と浅野輔、光延。光延はちょっと後ですけどね。とにかく一流だ、能力があった。それから小松ね、サイマルの。」