MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

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嘉村礒多『崖の下』はどこだったのか

2019年05月29日 | 文学

嘉村礒多に「崖の下」(1918年 昭和3年)という短編がある。食い詰めて夜逃げ同然に安い間借り家に引っ越すのであるが、「(…)家は三疊と六疊との二た間で、ところどころ床板が朽ち折れてゐるらしく、凹んだ疊の上を爪立つて歩かねばならぬ程の狐狸の棲家にも譬へたい荒屋(あばらや)で、蔦葛に蔽はれた高い石垣を正面に控へ、屋後は帶のやうな長屋の屋根がうねうねとつらなつてゐた。家とすれすれに突當りの南側は何十丈といふ絶壁のやうな崖が聳え、北側は僅かに隣家の羽目板と石垣との間を袖を卷いて歩ける程の通路が石段の上の共同門につゞいてゐた」というような崖の下の家なのである。住所は「森川町の橋下二一九號」と書かれている。これが一体どこなのか、長い間疑問で、本郷6丁目の交差点から降る言問通りを歩くたびに崖(の跡)を探したものである。(昔の詳細な地図があればいいのだろうが。)
文学散歩の類を見ても見つからないので検索して見ると、同じようなことをやっている人がいた。本郷通りの東大正門の先にある「こころ」というレトロな喫茶店の主人から貴重な証言を引出している。それは「慈愛病院のあたりの崖下に間借り家がいっぱいあったね」というものだ。また昭和16年頃の古地図で見ると、言問通りはまだ計画線であった。おそらく間借り家がひしめき、間に狭い路地があったのだろう。
言問通りは慈愛病院の手前の清水橋あたりを過ぎるとほぼ平坦になる、つまり谷底になるので、「崖の下」の家はその辺りと見当をつけた。
何カ所か崖の跡らしき場所が舗道からも見える。中央の階段は慈愛病院脇にある。最後の写真も階段になっているが、いずれも高さはせいぜい4-5メートルであり、「何十丈」はない。これについてはカラスヤサトシの「文庫で100年散歩」にも出て来る。結局、特定はできないがこの辺りでだいたい合っているのではないかと思うのだが。