MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

「海潮音」序について

2006年11月30日 | 翻訳研究

今書いている論文で上田敏の「海潮音」の序を取りあげたのだが、本筋とは関係ないところで疑問が生じた。それは「序」の最後の部分。

「譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自國詩文の技巧の為め、清新の趣味を犠牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必ずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲渺々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の楼に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。」

この下線部は『今昔物語』巻第二十四に出てくる話を下敷きにしている。第二十八は「天神(てんじん)、御製詩読示人夢給語(ぎょせいのしのよみをひとのゆめにしめしたまふこと)」という題で、こんな話だ。

○昔、菅原道真が作った「東行西行雲渺々。二月三月日遲々」という漢詩があったが、だれもどう訓読したらいいかわからなかった。ある人が北野天満宮に詣でてこの詩を詠むと、その夜の夢の中で天神(道真)が出てきて教えてくれた。
「トサマニ行キカウサマニ 雲ハルバル、キサラギヤヨヒヒウラウラ」と読むのだ。

物張の尼の方は、第二十七「大江朝綱家尼、直詩読語」という話で、要約すると、

○昔大江朝綱という偉い学者がいた。宰相にまでなり七十余で死んだ。その朝綱の家が二条にあったが、中秋の名月のころ漢詩の愛好家たち十数人が、月を愛でて詩を詠もうと二条の家にでかけた。家は荒れ果て、人の気配とてなかった。
愛好家たちが白楽天が作ったといわれている「踏沙被練立清秋月上長安百尺楼(いさごをふみ ねりぎぬをかつぎて せいしゅうにたつ つきはちょうあんの ひゃくしゃくのろうにのぼれり)」という詩を詠じていると、一人の年老いた尼が現れて「どなたさまでしょうか」と尋ねる。「月見にやってきたのですが、あなたはどなたですか」と聞くと、尼は「故宰相殿の使用人をしておりましたが、他の方々は皆亡くなってしまい、今は私一人です」と答える。そして、尼は「皆様方はいま「月は長安の百尺の楼に上れり」とお詠みになりましたが、宰相殿は「月に依りて百尺の楼に上る」とお詠みなされました。まるで違いますね。月がどうして楼に上ることがありましょうか。」と言った。居合わせた人たちは尼の言葉に感動し、贈り物をして帰った。

『日本近代文学大系52明治大正譯詩集』(角川書店)の「海潮音」に付けられた注では前者が直訳、後者が意訳の例として挙げたものとされているが、これはおかしくないだろうか。前者は、訓読(つまり直訳)なら古典文学全集のルビにしたがって「東行西行雲渺々。二月三月日遲々」(トウカウサイカウクモペウペウ ニガツサンガツヒチチタリ)でいいわけで、教えられた読みは意訳と云うべきだろう。原文は「其読ヲ心得ル人無カリケルニ」であり、「読」に「訓読法」と注を付けてあるのも変ではないか。後者の方は意訳というよりは原文の解釈の問題ではないのだろうか。漢詩の読み方は分からないが、尼の解釈の方に無理があるのではないか。詳しい人教えて下さい。


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