MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

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今年も暮れる

2005年12月31日 | 翻訳研究

大晦日である。論文の方はようやく骨格が固まったところで、正月を使って一気に書き上げることにする。まあテーマ自体が面白いので別に間に合わなくてもいいのだ。

で、副産物をもう一つ。

森田思軒が明治25(1892)に、「国民の友」にホーソンの「用達会社」The Intelligence Officeという小品を翻訳している。原文はこう。

At the next lifting of the latch there entered a person with his hat awry upon his head, his clothes perversely ill suited to his form, his eyes staring in directions opposite to their intelligence, and a certain odd unsuitableness pervading his whole figure.  Wherever he might chance to be, whether in palace or cottage, church or market, on land or sea, or even at his own fireside, he must have worn the characteristic expression of a man out of his right place.

「次に戸開けて入り来れる一人は其の頭に戴ける帽子歪みかたふき衣服参差として身に副はず両眼は意にもなき方位を徒らにながめまはしつ全躰の様子すべて一種不安不穏の風を帯べり此の人や之を何の処に置くも王宮に於も板家に於いても寺院に於ても市場に於ても海に於ても陸に於ても将た其家の炉辺に於ても毎ねに必す累々然として未た其所を得ざる人に特有の一種の相をなすへきなり」

いかがだろうか。句読点がないのでちょっと読みにくいが、最後のhe must have worn the characteristic expressionの部分だけが逆転しているだけで、あとは原文に沿ったほぼ順送りの訳になっている。文章の形自体が認知を順番にたどるものなので訳しやすいことは確かだし、思軒はこれ以外のところではオーソドックスな訳し方をしているのだが、100年以上も前にこういう達意の順送りの訳がなされていたことはおぼえておいていい。理論的に言えば、こう訳さないとillocutionary effectを再現できないのだ。

さて今年も暮れ行かんとするわけだが。


国際会議のお知らせ

2005年12月30日 | 通訳研究

2月8日から10日まで、ブリュッセルで「多言語主義と応用比較言語学」Multilingualism and Applied Comparative Linguistics conference という会議があるという。Translation Studiesも含まれる。…今頃言われてもなあ。

こちらは来年の12月だが、Translation, Identity, and Language Heterogeneityをテーマとする国際会議が予定されている。Eugene A. Nida研究所の主催。テーマはいいけど場所がペルーのリマじゃなあ。


「通訳研究」5号送付

2005年12月29日 | 翻訳研究

一昨日はぴいぷう冷たい風が吹く中を、大きな旅行用キャリアと買い物車を使って「通訳研究」5号を郵便局まで運んだ。(目次とアブストラクトはここ。)一回に50冊も運べないので5回往復するはめに。とりあえず国内会員分は発送を終えました。海外会員の方はもう少しお待ち下さい。著者贈呈分もまだ送っていません。年明けに送ります。

論文の方は、修士論文の原稿が五月雨式に送られてくるので一向にはかどらないが、その過程でいろいろと面白い素材に出会えた。そのひとつが横光利一の小説「日輪」の文体。

「我に爾があらざれば、我は死するであろう。我の妻となれ。我とともに生きよ。我に再び奴国の宮へ帰れと爾はいうな。我を待つ物は剣であろう。」
「待て。我の復讐は残っている。」
「我は復讐するであろう。我は爾に代わって、父に代わって復讐するであろう。」

この文体は生田長江訳「サラムボウ」(大正二年)の引き写しである。どこから引用しても同じ調子だ。

「我は彼女を連れて帰るであらう!若しも彼等が出て合ふならば、我は彼等を毒蛇の如く殺してやらう!スパンディウスよ、我は彼女を殺すであらう。」「然り、我は彼女を殺すであらう!見よ、我は彼女を殺すであらう!」

長江は「サラムボウ」の「訳者の序」で「…会話の文章なぞは、日本に於ける特定の時代と、特定の階級とを聯想させることの危険を恐れて、出来得る限りの普遍的なる日本語を用ひることにした」と書いている。彼によればこれが過去の「小日本語」と違う将来の「大日本語」なのだという。もちろんこれは錯覚だと思うが、この錯覚が面白い。この種の文体はマンガか何かでどこぞの王族なり神の眷属の語りの荘重な感じを出すために使われていたような気がする。日本の文学論争史では有名な話だが、生田長江はこのあと、堀口大學訳「夜ひらく」(ポール・モーラン)の翻訳を巡って、「文壇の新時代に与ふ」という文章を書き、新感覚派批判を行うのである。
それにしても大正時代の「サラムボウ」や「夜ひらく」(大正十二年)の翻訳が(復刻ではなく)簡単に手に入るのには驚いた。大正二年は1913年だから90年以上前の本になるわけか。「サラムボウ」などまだ天金が残っている。「日輪」は岩波文庫で読める。


上品な通訳者?

2005年12月23日 | Weblog

論文書きが行き詰まっているので、ちょっと息抜き。
柴田元幸がこんなことを書いている。(「翻訳者は「作者代理」か「読者代理」か」)

「ゲイリー・フィスケットジョンという有名なアメリカ人の編集者がいて、…来日して講演したとき、ゲイリーはそこらへんのオッサンみたいにカジュアルな格好で、「僕はさぁ」みたいにしゃべっているのに、日本語の通訳の方が服装もフォーマル、実に折り目正しく「わたくしは……」という感じに訳されていて、どうもしっくりこないなあと思っていたら、ゲイリーが突然話をやめて、「どうも通訳が上品すぎて、僕の雑なトーンが伝わってないと思うんだよねぇ」というようなことを言ったわけです。そしたら通訳が少しも慌てず、「通訳が上品すぎるためにわたくしの雑なトーンが伝達されていないように思われます」といった感じに訳した。そのプロ根性には感心しましたが(笑)、ここでの問題はプロ根性ではなく、翻訳をする上でトーンを正しく伝えるのがいかに大事かということです。試験の英文和訳としては満点でも、トーンが違うと、全然ちがうものになる。」

長くなるのでこれぐらいにするが、柴田は通訳者を批判しているわけではなく(有能だったと言っている)、日本の翻訳でトーンが軽視されるのはなぜかを問題にしている。ただ、通訳の問題として考えれば、これは通訳者はつねに中立(立場だけでなく表現でも)であるべく努めるべきか、話者に感情移入すべきかという、おなじみのジレンマである。柴田の書いている範囲では通訳者の実際の話し方(レジスタ)がどんなものだったのかはよくわからない。ただ上品だったのか、丁寧すぎたのか、そのあたりが知りたいところだ。何でもかんでも「…なのでございます」調で通訳するのであれば、それは工夫が足りず、技術的に未熟ということになる。かといって、この講演の場で、アメリカのテレビ伝道師の通訳をする通訳者のように、トーンどころかプロソディまで話者に似せて、あまつさえ身振りまで真似るようなことをすればただのバカにしか見えないだろう。少なくとも聞いている方が恥ずかしくていてもたってもいられなくなるはずだ。ではどうすればいいのか。正解があるのかどうかはわからないが、僕ならほんの少しだけ、話者の話しぶりdictionを訳に取り入れ、レジスタを少しだけ動かすだろう。たぶんそれ以上のことはできない。皆さんはどう考えますか。(ずっと前、放送の通訳である男性通訳者が女性話者を訳すときに、女性の声色(こわいろ)を使って、隣にいて耐え難い思いをしたことがある。さすがにあとで局の人からやめてくれと言われていたが。でもこれはちょっと性質が違うか。)


MIIS説明会

2005年12月20日 | 通訳研究

モントレー国際大学翻訳通訳大学院(MIIS)の説明会が行われます。モントレーに留学を考えている人はどうぞ。

モントレー国際大学翻訳通訳大学院の講師・卒業生との交流会

MIISに興味のある方はぜひご参加ください。警備の関係上、事前に出席を連絡していただく必要があります。詳細は川瀬勝(mk333@gol.com)まで。

日時:2006年1月14日(土)午後2:00-4:00

場所:アメリカ大使館宿舎(港区六本木2-1-1)


国際会議の案内他

2005年12月18日 | 翻訳研究

来年の6月、University of WarwickでTranslation in Global Newsという会議がある。Abstractの締め切りは2月15日。詳しくはリンク先を参照のこと。

土曜日は午前中大東の今年最後の講義のあと、いつものように高速道路を通って移動。一コマ授業をしてから8時近くまで修士論文構想発表会の第2回目をやり、その後教員の打合せ。比較的早く終わったがそれでも帰宅は9時半を過ぎていた。まあこれを乗り切れば今年の授業はあとは月曜日だけだ。

神保町の古本屋から電話があって、注文した本に数カ所書き込みがあるがどうするかという。別に構わないと答えたら3千円値引きしてくれるとのこと。良心的でありがたい。ここに来て論文に必要な文献が続々出てくるが、きりがないので今回はイントロダクションと割り切ることにしよう。ちなみに野上豊一郎の『翻訳論』の出物があったので、1冊持っているのだがこれも買っておくことにしよう。


新刊案内3点

2005年12月13日 | 

忙しくて新しいエントリーもままなりませんが、少しだけ新刊紹介を。

稲生衣代・ 河原清志(2005)『VOAスタンダード 「シャドーイング」と「サイトラ」で鍛える ニュース英語トレーナー 』コスモピア)。前著『VOAスペシャル やさしい英語トレーナー』に続いて、今度は中・上級者向けのニュース英語攻略本だ。相変わらず細かく神経の行き届いたていねいな作りには頭が下がります(とてもできない)。きちんと理論的な主張をしているところもえらいと思う(たぶん編集側との軋轢はあったろう)。

Gillies, Andrew (2005) Note-Taking for Consecutive Interpreting - A Short Course (Translation Practices Explained). St. Jerome Publishing.
この著者にはConference Interpreting: A Students' Companion (Tertium)という、前半がポーランド語、後半は英語という本があり、またJean-Francois Rozanの古典的著作Note-taking in Consecutive Interpretingの英訳という仕事もしている。今回のこの本は逐次通訳ノートテイキングのワークブック。もちろん詳しい説明もあるから理論的な方に関心のある人でも買って損はない。ただし'tried and tested techniques'が中心だから理論的に新しい内容を期待してはいけない。特定の言語の組み合わせではなく、英→英で練習する(ただし先生が英語ができれば他の言語の組み合わせにも応用は可能と書いてある。)考えてみればこれだけ詳しい逐次通訳の教科書=ワークブックはないので、逐次通訳の教え方、学び方に困っている人にはいい本だと思う。St. Jeromeから直接買うのが簡単で速い。

安井稔(2005)『仕事場の英語学』(開拓社)。
齢80になんなんとする英語学の泰斗の新刊。タイトルの意味がわからないが、相変わらず面白い。面白いというのはもちろんひとつは内容だが、文体がいいのである。
「早期英語教育に思う」というエッセイには…

「今のところ、英語に上達するための処方箋はない。これからもないであろう。凡そ100年余りの間、現れては消え、現れては消えていった英語教授法の消長が、部分的にはその証明となっている。教育機器もおしなべてだめである。機械任せで本人の努力不在というのでは、今後ともだめであろう。(・・・)しかし、上達している人々はいる。そう、みな自分で努力し、勉強した人々である。そうすると、英語の上達法は、ただ一つ、「自分で勉強すること」である。よい先生はいたほうがよい。悪い先生はいないほうがいい。」

と、何だかものすごく恐ろしいことが書いてあったりする。


新刊案内

2005年12月02日 | 通訳研究

Karoly, K. and Foris, A. (Eds.) (2005) New Trends in Translation Studies: In Honour of Kinga Klaudy. Budapest: Akademiai Kiado.が到着。Part 1がTheory of Translationとして7本、Part 2がAnalysis of Translationで5本の論文を収録している。すべて翻訳研究。

Interpreting Vol. 7 No. 2 (2005)は医療通訳の特集だ。主要目次は以下の通り。
Abstractを読みたい人はこちらを参照。

Introduction: Discourse-based research on healthcare interpreting (Franz Pochhacker and Miriam Shlesinger)
Articles: 
Roles of community interpreters in pediatrics as seen by interpreters, physicians and researchers (Yvan Leanza)
Doctor-patient consultations in dyadic and triadic exchanges (Carmen Valero Garces)
Exploring untrained interpreters’use of direct versus indirect speech (Friedel Dubslaff and Bodil Martinsen)
Dialogue interpreting as a specific case of reported speech (Hanneke Bot)
Examining the “voice of interpreting” in speech pathology (Raffaela Merlini and Roberta Favaron)