たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

ビンラディンという言霊

2004-12-28 15:52:21 | 歴史
ビンラディン氏、選挙いくな」というニュースでも良いんですが,とりあえず最近のビンラディン関連のニュースをみて思い出すのは足利十五代将軍義昭。
義昭はいろんな豪族や大名に手紙を書くだけで信長をかなり翻弄した人物です。まぁこの手のことは別に足利将軍に限った話ではなく,平安時代や鎌倉時代に上皇や御上が同じように武家や大臣に手紙を書くだけで,国を挙げての騒ぎに発展するというのが当時のよくあることでした。
これは言霊の信仰が強かったというのもあるんですが,とにかく当時は情報伝達手段が未発達だったため,ある人の発言の裏を取ったりとかいうことがほとんど出来なかったのでしょう。だから偉い人が号令を発すると,別にその人がすでに実質的な力がなくても,動いてしまう…と。まぁそれが力といえば力なんですが…,現状だともっといろいろ状況を把握してから,別にこの人に与しなくても大丈夫とわかればしなかったりしますよね…。
なので今当時の動きをみてると,どうして裏も取らずに行動起すかなぁ…とか滑稽に感じていたのですが,今のビンラディンの状況みてるとそっくりですね。
本人かどうかわからないし,本人だとしても本人がどういう状況にいるのか良くわからない…。だけど周りは大騒ぎというか…。
なかなかこういうのって無くならないのだなぁ…と思いました。思った以上に世界は言霊に支配されているようで…。
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ゆとり教育で天才は生まれたか?…。

2004-12-28 10:50:02 | 時事
-憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記さんによる『学力低下がゆとり教育の目的』-」という記事。
なるほどねぇ…。わたしは実はエリート型社会の方がいいんじゃないか?…とおもってる口なんですが,ゆとり教育がそういう目的とは気づきませんでした。というか教育課程審議会会長がそういう事を言っていたことに驚きました。
でも,エリート型がいいと思うから思うんですが…,確かに出来ないやつに投資しても無駄…っていうのはわかるとして,では現在のゆとり教育が才能がある人を伸ばすような教育になっているか?…と言われると疑問です…。平均が下がるのはいいとして,分散が大きくなってないのであれば,その狙いは失敗だったと言うことになります。
どうですかね?…。天才生まれてますか?…。
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イオカード(磁気式)を発売終了

2004-12-27 20:30:08 | 時事
JR東日本、イオカード(磁気式)を発売終了へ」。
マジですか…。未だにイオカードしか使ってないですよ。スイカって私鉄の乗り換え改札に全部対応したんでしたっけ?…。品川の京急は対応したようですが…。
ちょっと早すぎないか?…という気もします。スイカねぇ…,あれは会社の都合でつくってお客さんには対したメリットはない気がするんですけどねぇ…。
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音楽の宇宙

2004-12-24 07:29:19 | 音楽・アート
昨日はほぼ一日自宅にいたわけですが,ちょっと前に買ったマイルスのワイト島のライブを頭から通して鑑賞。すばらしぃ。演奏もすばらしいのですが,キースがインタビューで結構喋ってるに感動…。まぁ考えてみたらキースって多弁らしいんですが,そういえば喋ってる映像ってほとんどみたことないんですよね。現在のライブではしゃべんないし(昔は客に説教してたらしいですが)。しかし,みんなマイルスの言葉を喋るときマイルスの物まねになるのがやたらおかしい…。おまえらふざけてるのかよ?…って感じですが,自然にそうなるんでしょう。
キースが「自分は音楽の宇宙に住まわせてもらっていて,そこで音を集めて音楽をつくらせてもらっている」…って感じのことを言っていて,それが彼の世界観って感じがしてとても良かったです。それにしてもミュージシャンって「宇宙」って言葉を良く使うようで,そういう心境なんだろうなぁ…と思いました。
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パロディはオマージュか?オリジナリティか?

2004-12-21 11:34:25 | 音楽・アート
オレンジレンジ - インタビューで『合言葉は〈パクろうぜ!〉です(笑)。まずはカヴァーするんですよ。で、ここをわかんないようにしようとか、ここ使ったらバレるだろ、とか話し合う(笑)』
「パクル」「カヴァーする」って言葉に過剰反応をしたらいけないのかも知れません。だれだって過去の作品をオマージュしたりします。そしてそこから個性を入れていこうとします。そのことを「わかんないようにしよう」と表現しているだけかもしれません。
でも,こういう風に言われちゃうとちょっとなぁ…という気持ちになるのも事実です。まぁかって永チャンがリッチになるためにスターになりたい…と言ったときも,旧来の音楽ファンは,こういう気持ちだったんでしょうか?…。
まぁ結局のところパクろうが一からつくろうが,安易につくろうが悩んでつくろうができあがった音楽が全てなので,音楽を聴かないで判断してはいけないのかも知れません。でも,もろ底が見える音楽が売れたりするのもマーケットだったりしますんで,音楽ファンであるわたしは結構複雑ですけどね。
一つだけいうと,有名な曲をパロってください。マイナーな曲をだまってパクるのは,その音楽に経緯を示しているわけでもないし,リスナーをだましているとも言えますから。有名な曲をリスナーがわからないようにパロるのであれば,それはリスナーとの戦いというので,もしかしたらありなのかも知れません。…。ちょっと複雑ですが…。
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株式会社も結局個人商店なんですか?

2004-12-21 10:17:43 | 時事
中内氏、資産売却へ」というニュースを読んで。
わたしは経済や法律に詳しくないので良くわからないのですが,これってどういう仕組みなんでしょうか?。個人の財産を自分が株主をやっている会社…,もしくは自分が役員(経営者)をやっていた会社の負債の充填にあてるというのは,どういう理屈なんでしょう?。
いや,もちろん心情的にはわかるのですが,普通は個人資産と会社の資産は明確にわかれているはずなので,その間でお金を移動させる場合は,税金とかがかかったりしませんか?…という辺りの疑問です。
それと,そもそも株式制度って経営者は雇われ経営者だからその範囲での責任を問われるだけで,個人資産を差し出すような仕組みになってるっていうのは余りきかないし(でも,そういう世論は良く出ますが),株主としても株の価格が下がるということでリスクを負うわけで,株の売却益を会社に差し出す…っていうのは株式制度として,どういう仕組みでそういう事をやれるのかが良くわからないのです。
それとも産業再生機構の扱いになっているとそういうことが可能って事でしょうか?。それとも経営者と株主を同時にやった経験がある場合,個人資産を会社の資産扱いにすることが出来るということなんでしょうか?…。
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芸妓峰子の花いくさ (岩崎峰子著)

2004-12-20 18:06:09 | 書評
かって祇園甲部で売れっ子ナンバーワン芸妓であった著者が自らの半生を書いた自叙伝。
著者は祇園甲部の花柳界が海外はおろか日本の国内でも正しく認識されていないことにいきどおりを感じこの本を書いたとのこと。この本は海外でも翻訳され販売されている。
なるほど,確かに日本の中では芸妓さんを遊郭の花魁などと混同している人も多いように思う。しかし祇園甲部の花柳界の舞妓・芸妓はあくまでも舞や演奏等の芸を売り物にしており身を売るわけではありません。もちろん接待も行いますが,それはプロとしての接待術であります。
この自叙伝を読んでいると,その辺の作者のプロ意識,プライドの高さがひしひしと感じられます。幼少の頃から芸妓になるために育てられ,一流の芸,技を習得し,それを一流の環境でお客様に提供するというおもてなしの仕事ということなのでしょう。とはいえ花柳界のシステムが時代にあっていないことも確からしく,その危機感も著者は訴えております。
…とはいっても,なかなかわたしには別世界だなぁ…という印象も受けました(^^;)…。お客様はあくまでも政界や財界,学者,芸術家等であり,単なる企業研究者がおもてなしを受けられるような日が来るんでしょうか?。余談ですが,祇園甲部に行けるような学者ってどういう人なんでしょう?…。やっぱり著作物とかがたくさんある先生なのかなぁ…。
それからシステムが古いと書きましたが,ということは一方でTVや雑誌がない時代のアイドルの売りだし方…みたいなものがそういうシステムだったのじゃないか?…とちょっと想像したりもしました(でも大衆芸じゃないところもミソな気がします)。
いずれにせよ非常に興味深く読ませて頂きました。いつかその芸に触れれる日が来ることを楽しみにしたいと思っております。
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日本人の読解力は本当に落ちているのか?

2004-12-20 13:59:03 | 時事
ちょっと古いのでトラックバックは止めておきます。
極東ブログさんで,日本人が低下したという読解力テストの内容を知りました。
日本人の読解力が諸外国と比べ低下したというニュースは聞いてました。わたしは単純に試験が古い日本語を使ったのではないか?…とか思ってましたが,どうもそれだけじゃないみたいですね。「古い日本語」というのは,現在の若者が使っている言葉と,我々が使っている言葉に乖離があるため,相互理解がしにくくなっているという意味です。そんなのは昔からあったのですが,情報のスピードが早まったりメディアが世代によりことなることにより変化も高速になり,より言葉の世代による断絶感が高まっているということです。
話がそれましたが,極東ブログさんが取り上げてくれた去年のテストの例文を読むと,確かにこれは読解力の試験ではなく,ディベートです。自己の意見を持っているか?,持ってない場合でも,なにかしらのディベートが出来るか?,のテストのように見えます。ですから極東ブログさんがかかれているように,日本人にはもっとも答えにくい問題の一種な気がします。
しかし書かれているようにわたしもこれからの日本人がこういう能力が必要だ…と言われれば,それを否定するつもりはありません。ただ日本人的美学と反する部分もあるので,からなずしも諸手を挙げて賛成するつもりもありませんが…。
わたしは,ここで文章を書いているように,わりとへりくつをこねるのが得意なので,どちらかの意見を元に論理を組み立てるのは出来そうな気がします。でも経験上,自分の信条と合わない意見を述べるのは,だいたいにおいて萎えます。また,どんなことでも白黒つけよう…という考え自体に疑問を感じるので,テクニック的にはディベート出来ても,気合いがついてきません。そういうところはつくづく日本人なのだな…と思います。
まぁ現代の日本人がテクニックはあるけど萎えているのかはわかりませんが,信条として多くの人と逆の意見を強く推すというのはやりにくいのだと思います。
つくづくこの手の比較は慎重に読み取らないとまずいなぁ…とか思いました。まぁ逆にこういう試験問題は西洋での常識が測り知れていいんですけど…。
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愚か者の哲学 (竹田青嗣 著)

2004-12-19 10:04:33 | 書評
プチ哲学は流行ってしばらくたつが,この本も哲学的バックグランドが,現代を我々が生きていくことに対しての助言を過去の偉人の言葉を引用しつつしているという意味ではその類いかも知れない。
人生を「子供」「若者」「大人」の三つの段階にわけ,その時の心情,行動をうまく説明していると言える。わたしもすでに大人になってしまっているから,逆に子供の頃の心情をこのように表現されると強く納得させられるものがある。
たとえば子供がイタズラをするのはルールをおぼえるためのものであるとか,子供には誉められたいという自己愛があるとか…。そういうのを「すべての人間は生まれながらに,しらんことをほっす」というアリストテレスの言葉,「自己愛は,あらゆるおべっか使いの中でもっとも強力」というラ・ロシュウフーコーの言葉など。挙げるときりがないので止めておくが,多くの言葉が引用されている。そういえば,説得力がある文章を書く人は,多くの引用をするが,単純に結論を言うよりも,多くの引用を挙げていくということは重要なのかも知れない。
ところでこの本は序章で「愛せない場合は通りすぎよ」というニーチェの言葉を挙げているが,最後の章の大人の哲学では,多くの失望や怒りに対してどう向かい合うか?…に多くのページを裂いている。それは結局のところ人間は子供から若者という成長を通りすぎた後は多くの失望が待っている…ということで,そこで如何に自分を見失わずに生きていけるか?…と言うことなのかも知れない。事実自分の周りで同じ年代の人達を見るとルサンチマンをもって生きている人というのは意外に多い。そして彼らは決して幸せのようには見えない。そういう意味では,ルサンチマンをもたないため,そしてニヒリズムを克服するために,こういう本を読むということはいいのかも知れない。
そういう意味では体系的なちゃんとした哲学の本ではないが,実践学という意味で,ここに書かれていることを頭にいれておくのはいいことかも知れないと思う。
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自分で考えてね…と言うことは良くないことなのか?

2004-12-16 12:44:01 | 音響
霞が関官僚日記さんでカイワレの裁判の件で結構悩んでおられる件。
音響屋も中央官庁ではないにせよ,とある役所からいろいろ判定を依頼されることはあります(私自身はありませんが…,回りにそういう人を見たことがあるという意味で)。技術屋や研究者なんかやっていると100%断言できる結果なんってでないのが当たり前なので,正直にそう回答したくなるっていうのが人情じゃないでしょうか?。kanryoさんが長々と引用しているところを読むと,確かに「曖昧な表現で,聞く人に判断を託したのが良くない」という風に読めます。曖昧な分析結果しか出なくても,無理やりどちらかと判断して,その全リスクを追うのが行政…ってことなのでしょうか?。結構大変だなぁ…と思います。
確かに「どっちもあり得るよ。だから自分で判断してね」という風に答えるのは無責任なのかもしれません。でも研究者は自分の知見を元に事実に一番近い推論をするので,可能性がどっちにもある場合,そういうのが研究者の誠意だと思います。もちろん,行政がさらにリスクを背負って答えを無理やりだすのはありなのかもしれませんが。
まぁ損害賠償が金で済むなら,行政にリスクを背負ってもらうっていうのはまっとうなのかも知れませんが…。
しかしこの「何が正しいかわからない時代」に無理やり答えを出すのが必要なこととは知りませんでした。マスコミは「情報公開」と声高に叫ぶ割には,結局は「答え」を求めているって事なんですね。実際取材を受けてみるとわかりますが,マスコミは中途半端な回答は物凄く嫌がり,嘘でもいいから白黒つけろ…という態度で聞いてくることが多いです。そして結局大抵の人は自分で考えるのは無理って事なんでしょうか?。

注:カテゴリを「音響」にしたのは「研究者ネタ」だったためです。
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