たろの日記ページ,gooブログ版

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二度とこの様な悲劇が

2004-12-01 13:45:44 | ココロ
某隣国(一国に限りませんが)の首脳から太平洋戦争時に当時の日本人がやった侵略行為,および現地の人への残虐行為(まぁ内容において認識が一致してないものもありますが)について,日本の首脳陣が批判されたとき,小泉氏に限らずだいたいにおいて,「過去においてこの様な悲劇が起きたことを遺憾に思う。二度とこの様なことが起きないよう…」というようなセリフを言います。まぁ「遺憾」のところをもう少しストレートな謝罪(例えば「申し訳ない」とか)とする人もいたような気がしますが,だいたいにおいて「この様な悲劇が…」「二度と…」という感じだったと思います。
この回答…,同じ日本人であるわたしも「そういう風に答えるしかないよなぁ」と思いつつ一方でどこか無責任というか投げやりというか,そういう気がするのはわたしだけでしょうか?。
もちろん補償金を払うとか,靖国参拝を止める…とかいってるわけではありません。資金援助を補償金とするのは間違ってるかもしれませんが,そういう過去を省みて払っているものですし,参拝はともかく過去の戦争犯罪人は処罰されています。当時の日本軍,もしくは日本人のやった残虐な行為については規模は議論があるところですが,多かれ少なかれあっていた事でしょうし,その事はもちろん批難されてしかるべくものかもしれません,日本人民間人も当時殺されたことと同じく…。
そう…,なぜ上記コメントが投げやりに聞えるかというと,どうも「この様な悲劇が」という言葉には,「この様な残虐行為は当時の異常状態のせいで起きてしまった」というようなニュアンスが感じられるのです。つまりやった当事者じゃなく,当時の周囲状況によって起きてしまった事の様に取れるのです。
実際残念ながらわたしもそう思います(というかわたしがそう思うからそう感じるんでしょうが)。戦争が起きるまでの経緯はともかくとして,起きてしまって戦闘状態になってしまった後に,民間人への残虐行為が起こしてしまうのは,別に日本人に限った話ではありません。それは,当時はおろか現在の国際情勢を観てもそう思います。
しかし某隣国らの批難は日本人,または日本という国にたいしてのもののように思います。でもおそらく日本人として,当時の批難される行為が「日本人故に起きてしまった」というのはなかなか認められないでしょう。日本人だけが残酷な民族とはとても認められません。ですから当時の状況や,もしくは戦前の教育や国家体制,そして当時の指導者のせいにして,それを否定することは出来ても,日本(人そのもの)のせいには出来ないのです。
考えてみたら,日本は(見かけ上)単民族で,しかも議員内閣制の(ほぼ)民主制の国家です。それは戦前から変わってません。民主国家では古い体制が(対外的に)過ちを犯し戦争に負けた場合に,別の民族が新しい政権を作るわけじゃないし,民主制自体はかわらないので,負けたあとどう変わったのかわかりにくいのかもしれません。日本国内にいると,憲法は変わったし,政権の在り方も変わった,当時の指導者は処刑された。主権者も天皇から国民に変わった…と大きく変わったんですが,外国からみると,変わってないように見えるものなのかもしれません。
民族が変わらない以上,過去の同民族の誤りは未来永劫背負っていかなくてはいけないものなのでしょうか?。だとすれば,やっぱり同じ民族として「あの時が異常だった」と言いたくなる気はします。でも民族のせいではなく状況のせいだと認識してるから,逆に戦争というものが残酷であるって事を良くわかっているともいえるのですが…。
コメント
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