たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

優れた作品は普遍性と時代性が両立する

2009-02-27 06:50:49 | 音楽・アート
ふと思ったこと。
絵とか音楽とか小説とか…。これらは芸術でもあるんですが,名作と呼ばれるものは当時多くの人に愛されたものである場合が多い気がします(例外もあるけど)。多くの人に愛される作品というのはエンターティメント性が高いと思います。エンターティメント性が高いものは「時代性」を多く含みます。でも,その作品が芸術となるには,今の時代だけではなく10年後50年後100年後も人に愛される必要があります。つまり「普遍性」が必要だと思います。
逆にエンターティメント性がまったくない芸術作品もあるのですが,そもそもそういう作品は作者が食べていけなくて作られなかったり,誰も見向きもしないので,すぐに破棄されたりします。芸術性だけではなかなか残る作品は生まれません。
つまり芸術作品として後世に残るには,芸術につながる普遍性とエンターテイメントにつながる時代性の両方を持っていることが必要だと思います。
現在芸術と呼ばれる昔の音楽や絵画や,また文学や,そういうものも当時は大衆を喜ばせる人気作品だったのだよなぁと時々思います。今の人がそれらの作品を高尚なものと大事に評するのは悪くはないけど,それだけの作品じゃなかったということだし,逆に今のエンターテイメントから芸術が生まれる可能性もだいぶある気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校で習うことは役に立たないに対する違和感

2009-02-25 22:38:34 | 社会
時々聞くに,「学校で習うことは社会に出ても役に立たない」という人がいますが,わたしには違和感があります。わたしの実感とは合いません。
学校で習ったことが役に立たないという人は,何が言いたいのでしょうか?。
「学校では勉強ができないと評価されたけど,自分は社会では困ってないよ」と言いたいのか?。「自分が今役に立てている能力は全部独学で身につけた」と言いたいのか?。それとも逆に,「学校では成績優秀だと言われたけど,今の自分は社会では役立たずだ」という意味でしょうか?。
わたしの実感では,漢字の読み書きだって,九九だって,面積の求め方だって,移動の所要時間や速度の求め方だって,温度とかの意味やカロリーとかだって結構普通の生活で役に立ってます。県や国の名前も知らないと苦労すると思うし,学校で習ったことで知らないと苦労する事って多いと思うけどけどなぁ。中学や高校の勉強だってだって,まぁ理系は自分が技術系の研究やってるから役に立ってるのは当然として,文系の授業だって,歴史知ってると大河ドラマみても楽しいし,海外にいって観光地をみても楽しい。憲法とか全然知らないと国会の話とかを聞いてももっとチンプンカンプンだろうなぁ。
もちろん中高以降の勉強については知らなくても生きていけるし,生きている人はいるのかも知れないけど,読み書き算数が役に立って無い人ってどれくらいいるんだろう?。また学校にいかなくて,独学や塾で身につけた人っていうのもいるんだろうけど,そっちの方が世の中多いんですか?。もちろんそうだとしても学校で身につけられるんだったら,そっちの方が効率良くないか?どうせ小中は義務教育なんだしと思います。
いやそうじゃなくて読み書き以外にたくさん習ったけど使ってないことあるでしょ?といわれるかもしれませんが,別に学校に限らず,普通は自分が人生のうちに覚えたことって直接使うのは数割じゃないかしら?。でもそういう直接使わない部分が「引き出し」とか「糊代」になるんだと思います。
ちょっと話が変わりますが,パソコンとかを使いこなす能力というのが,今の学校(の授業)であまり評価されない,という話を読んだのですが,確かにパソコンは,今は学校でも教えるんでしょうけど,わたしはこれは「技術」だと思うし一般性がそんなに高くないので,読み書きに比べると,重要度が低いかもしれません。基礎学力というより,ツールですよね。ソロバンとか物差しの類いでしょう。
ソロバンや物差しは数学や物理を勉強する上では必要(有用)ですが,数学や物理そのものではありません。10年20年たっても必要な知識かというと疑問だということです。わたしの20年前はコンピュータを使うというとBASICやUNIXでしたし,LaTeXの時代もありました。emacs lispとかも。
これらを身につける過程でコンピュータを使いこなす思考法を身につけることは重要ですが,BASICの知識自体は今は殆んど役に立ちません。今のパソコンを使いこなす能力だってこうなる可能性があります。ワープロやスプレッドシートを使いこなすとかWebで検索する能力とか,もしかしたら10年後には全く違った概念でコンピュータを使う必要が出てくる可能性だってあるでしょう。ですから,評価するとしたらツールを使えることよりも,コンピュータのより一般的なところを理解できているか?というところではないでしょうか?。
余談ですが,絵を描いたりするのは,確かに技術ですが,絵を描くことによって身につく美的センスはいろんなことに応用が効くと思うので,やっぱり教育にはふさわしいと思います。音楽も。
まとめると,わたしは学校の勉強はそれなりに役に立つから,まぁまじめにやっておいたほうがいいよ,と。もちろんそれに落ちこぼれたからっていってリカバーができないわけではないので,落ち込む必要はないですけど,役に立たないと言い切るのはどうかな?と思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これからは日本のターン?

2009-02-22 22:28:24 | 時事
ネットで「1ドル70円台の日本経済」というフィクションを読む。おもしろかった。
メタでいうと,一次ソースを観ずに,マスコミの論調を信じて,景気が良い悪いというのは愚かしいという話。中身をみると,円高である日本は実は先行き明るいという話になるのだけど,まぁそれぞれ一理あり,そうだと思う。
もっとも円高で日本は明るいというのは,そういう面もあるのかもしれないけど,でもこれまで円安で儲けていた会社には辛いので,損をする人と得をする人が変わるというのが実情でしょう。つまり産業構造が変わるわけで,そういう時はものすごく儲かる人と,ものすごくあおりを食う人が出てくるわけです。特にこれまで儲かっていて,大量の雇用を創出していた業界は,見てのとおり雇用を維持できず,失業者を産むわけです。新しい産業構造が定着したら,そちらにも多くの雇用が発生するので,その臭いをかぎつけて転職する人は吉。そうできずに今までのところにしがみついている人は凶ということなのかもしれません。
まぁ実際はわたしは円高が生み出す産業構造がどうなっていくのかは,今のところあまり良くわかりません。内需を高めればよいとは言いますが,やっぱり外貨を稼ぐ必要があるわけで,価格競争とは違うもので外貨を稼ぐ必要があるんでしょうね。文の中にあった,国債を誰が買ってるかというのは重要なことですが,国が紙幣を発行したらインフレが発生するので,それがいいことなのか悪いことなのか?。よくわかりません。
で,メタな方のマスコミに踊らされるおろかさは,その通りなんだけど,ただし株価とかは,その風説に踊らされて動くので,無視できないというかバカにならない。決して空論というわけでもないわけです。
まぁ,とはいえ,ここ数日のアメリカやロシアの日本へのアプローチをみてると,やはり日本は外国から見たらかなりリッチに見えるんだろうなぁと思います。もしくは省エネ技術をうまく引き出そうとしてるのか?。うぬぼれてそういう国にお金を出さないように,貧乏だと思い込むのはいいのかもしれませんが:-p,まぁあまり悲観的になるのもどうかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発言力を得ること,正しく使うこと

2009-02-21 22:58:32 | 社会
村上春樹氏がエルサレム賞受賞式でガザ攻撃を批判したというニュース。
村上氏がエルサレム賞を受賞したというニュースは先月から聞いていて,Webとかでも賛否両論というか,受賞受けることとか受賞式に行くことに対して否定的な意見,それに対する反論をいくつか読んでました。受賞に行く前にTVでもどこかの団体が反対していたというニュースが流れていて,話が大きくなってるなぁという印象でした。
結果的に村上氏は受賞は受けたけど,しっかりエルサレムへ行ってガザ攻撃を批判するというかなり勇気がある行動をしたと思います。
…と書くのは簡単ですが,わたし自身は村上氏の作品をまったく読んだことがない人なので,まぁこれ以上どうこういう事は出来ません。ただ村上氏のファンは結構多いし,今回のファンの議論とかを読んでいても,たぶんしっかりとした考えに基づく行動であったのでしょう,と思います。
で,どうしてこの話題を取り上げたか?というと,わたしは今回の話を聞いて村上氏が持っている発言力の強さを感じたからです。その発言力はおそらく村上氏の作り出した作品の成功によるもの,また作品の内容によるもの,そして彼の普段の言動とかにもよるものかもしれません。わたしは彼のこれらのものを知りませんので,想像で書いてますが,周りの反応を見ていると,発言力があることだけはよくわかります。
世界の情勢,社会についていろいろ語る人というのは,今のブログ主体の世の中では山の様にいます。気軽に物事を語る人もいれば,しっかりいろいろ調べて意見を持って文章を書いている人もいます。でも,どんなにその文章の質が高くても,その発言が世の中に影響力を持つには,それ以外に,その人自身がもつ影響力が必要で,それを持つためには,長い時間をかけて,その人が何かの仕事で成功しなければいけないということなのだ,と思いました。
人が何のために成功を望むかというと,お金のためだったり,名声だったり,異性に持てるためだったり,作品を後世に残すためだったり…いろいろ人それぞれだとは思いますが,わたしは自分の発言の影響力を高めるため…というのが実は結構,そういう成功欲の根本にある気もします。発言力だけあれば,お金やモテがなくても意外に人は満足を得られるかもしれない…,などと思うこともあります。
なんとなく普段からそういうことを思っていたので,今回村上氏がまさに経済とか政治とかとは別のところで大きな発言力を手にしていて,それを非常に正しい使い方をするために,エルサレムまで行ったのだなと感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットで書く文章力

2009-02-15 22:10:46 | 所感
fujiponさんのところに「ブログに移行すると『文章の質が落ちる』理由」という話が書いてあって,興味もって読みました。
リンク先に「ネットで書いてるとなんで文章力落ちるんやろ」っていうのもあります。
fujiponさんはブログに移行したことによる文章の変化について書かれてます。この方,むかしからWeb上のいろんな媒体で書かれている様ですが,ブログで書くときに何か感じるものはあったのでしょう。
ネットで書くことで文章力が落ちるのかはわたしは解りません。わたしはネットで文章を書き出すまでろくに文章を書いてませんでしたから,ネットで文章を書くことによって,むしろ文章力はついた気がします。もっともわたしがネットを始めた頃というのは,ネットニュースとメイリングリストの活発だった頃でWebなんてまだありませんでした。文章を書くのはパソコンか,ワークステーションの上のエディタの上ということなります。誰かの文章を引用して自分の文章を挟むというのが主流なのもニュースやメイルの特徴です。そうなると結構引用する人の文体の影響を受けます。自分よりうまい人の文体を読んで,影響を受けたなぁという思い出があります。
あと,環境ですがワークステーションと書きましたが,わたしは一貫してemacs上で文章を書いてます。これはこだわりというより,やっぱりemacs,というよりエディタ上で文章を書いた方が,文章を書くことに集中できる気がするからです。Webのフォーム上で書くのは,キーバィンディングとかの関係でどうも,なにかギクシャクしたものを感じます。以前は仕事で論文を書いたりするときもemacsで書いて,TeXにしたり,ワードに流し込んだりしてましたが,最近はいきなりワードで書くこともあります。まぁでもやっぱりemacsの方が楽なので,今でも日記はemacs上で書いて,htmlのタグを打ち込んだり,あとブログにコピペしたりしてます。
わたしはブログ用に文章書いてないのでブログの方が文章力が落ちるかはよくわかりません。でも環境って文章の書きやすさに明らかに影響するし,それによって文章自体が変わるのは当然あるので,文章力が落ちてると実感するのは,文章が書きにくい環境にいるってことじゃないのかな?とちょっと思ったりもします。
わたしは紙の上に直接原稿を書くとかいうのは,ほとんどやってません。もちろん高校まではやっていたけど大学の卒論はもうワープロでした。だから昔の人が紙とペンで多くの作品を書いていたというのはすごいなぁと思いますが,それに慣れている人が他のものに変わればそれなりに何か変わるでしょうねぇ。
まぁWebになってろくに校正せずというか,わたしの場合読み返すこともなく文章をアップしたりしますから,上達することもないよなぁ。メイルの頃の方が,まだ相手を怒らせないようにとか読み返して出したりしてたよなぁ,とかいうわけで,文章力は落ちてるかもしれませんね。最近は論文も書いてないし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

組織長のできること

2009-02-14 23:13:15 | 時事
読売新聞によると「民主に賛成の官僚以外クビ」と鳩山氏が言ったらしい。ガクガクブルブル。
政治家なんて一人一人が選挙で選ばれる人たちだからある意味一匹狼なんですかね?。大きな組織とか運営したことないのでしょうか?。特に野党は。言うことを聞かなかったらくびにする,なんていうのは,会社とかのマネージメントでは最低やり方で,そんなことでまともな組織はできるはずはありません。ビジネス書にそういうこと書いている本なんてないでしょう。
そもそもそういうやり方でしか自分の部下を管理できないというのを示しているようで,組織運営能力のなさをひけらかしているだけです。
一般に組織長が持っている権限というのは,人事権と予算決定権です。だから国会でも予算審議にものすごい時間をかけますし,次官とかを決定することは重要なことでしょう。まぁでもクビにするとか予算決定をむやみに長引かせるのはやぱり権力の使い方を間違っているでしょう。ちなみに人事と予算は大雑把に言うと「リソース」であり,つまり組織長はリソースを制御することしかできません。そのほかにある権限というと,対外的な事項,つまり外部提携とか,文書を発するとか,そういう場合になります。それはいいとして組織長が組織を運営するということは,は決して怖がらせて自分の言うことを聞かせることではなく,組織のメンバーが一人一人ができるだけ本人の能力を発揮するとか,自主的に動いて,なおかつ組織全体が利益を生み出す様にするということでしょう。トップ一人の言うことなんてたかが知れてます。一人一人がトップの言うことを伺わなくても,全体の利にかなった行動をするようにするのをリソースの制御で行うのが優れた組織長だということです。
しかしやってみるとこれがなかなか難しいです。ですからビジネスでは,部下のやる気を出させるためにどうするか?ということがいつも大きな問題となるわけです。予算や人事で組織のメンバーの動きを止めるのは簡単です。でもやる気を起こさせるのはとても難しい。優秀な人材を無理やり集めても,本人達が本気でやる気にならないとパフォーマンスはかなり落ちます。部下の勝手な行動は止めることができても,やらないことを止めることは不可能です。
ということで,いうことを聞かないとクビにするなんて力で管理された組織がまともに動くわけがありません。そういうことをいうのはマネージメント能力がないとひけらかしているのと同じだと思うんですけどねぇ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電子マネーは通貨発行か?

2009-02-10 21:57:45 | 時事
円天という電子マネーを作っていたL&Gとかいう会社の代表が詐欺の疑いで捕まりました。たしかこの円天というのは数年前にも一度話題になっていて,そのときも詐欺か?みたいな話がちょっとあったように思います。わたしもいつか破綻するようなビジネスモデルだなぁ,と思ったように覚えてますが,実際に営業してる企業を名指しで詐欺と指摘するわけにもいかないかなぁと思って日記に書かなかったように思います。たぶんマスコミも,怪しそうに取り上げていたけど,やっぱりそういう風な感じだったのかもしれません。
こういうのは破綻するということが,あらかじめ証明されてないものなんでしょうか?証明されていれば,無限連鎖法とかでも引っかかるような気がしますが,詐欺罪でつかまるってことはこういうビジネス自体は悪いことなのかいいことなのかわからないってことでしょうか?
『社会保険庁』と円天の『L&G』はどこが違うのですか?」と質問があったのですが,別に社会保険庁はまだ破綻してないので,社会保険庁のことを詐欺みたいに書くには誹謗中傷にあたると思いますけど,いいんでしょうか?。
ところで円天の「減らないお金」というのを聞いたときに,これは何なのかなぁ?と思ったのですが,使ったけどまた金額が増えているというのは,結局はその円天自体がお金を発行しているということなのか?と思いました。そういえば,お金を発行するというのは国の重要な業務ですが,国以外がお金を発行して良いのか?というとどうなんでしょう?。
最近いろんなお店にあるポイント制や,あと一時期話題になった地域通貨とかみたいのも一種のお金ですが,これは特に違法とはされていないようです。ですが,ある店のポイントとかは実際に発行されたポイントの1割くらいしか,お金を準備していないとかいう話も聞いた事もあり,これも一斉の取り付けが起きたら破綻する架空のお金という面もあります。
お金を発行するのは国(行政)の独占的な権利ではないのでしょうか?だれでもお金を発行していいのでしょうか?破綻しなければ犯罪じゃないのでしょうか?。国だって発行したお金の価値は保証されてません。昔は金を準備されてましたが,今は国の信用で価値を保ってます。電子マネーも通貨も信用で成り立ってますが,その信用を負っているものの規模の違いなのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「普通」が作る世界

2009-02-08 21:52:18 | 社会
ちょっとデリケートな話なんでリンクはしませんが,ネットで障害がある人を普通高校に入れてほしい,テストの点数が合格点じゃなくても入れてほしいと願う人が文章を書いていて…,ちょっといろいろと思いました。
こういう問題は当事者じゃないので,よくわかりません。家族が障害を持った子供を普通の人と一緒の環境で育てたいという気持ちはわからないでもないけど,子供本人にとってそれは幸せなことなのか?。また一緒になったクラスメイトにはどうなのか?迷惑なのか?それともそういうのはいい経験になるのか,いろいろ考えられて,どれももっともだと思います。だから,特定のケースにはどうこう言えても制度としてこうあるべきというのは決めにくい。ただし制度がないと,一人でその制度に外れたことをするのは難しいとも思います。
その件について,何か答えを出そうとは思わないけど,一方で「普通高校」という言葉が気になりました。普通高校と言うから普通の高校に子供を通わせたいと思うのかしら?。世の中に普通高校なんてなくて,さまざまな色んな高校があって呼び名もさまざまだったら,普通高校に行かせたいと思うのだろうか?と。いや,障害者と健常者を分けていれば,どういう名前だろうが,健常者が行くところが,障害者のとっては「普通」学校だと言うことなんだろうけど。
こういうことを思ったのは,「普通高校」はあっても「普通大学」はありません。まぁ大学全入時代が来てるし,専門大学も合併して総合大学が増えてるから,もしかしたらそういう大学が「普通大学」になるのかもしれないけど,じゃぁ普通会社,普通職場っていうのがあるかというとやっぱりない。社会に出たら,もちろん障害者ということでの苦労は多いとは思うけど,健常者もいろんな意味で人と差別や区別をされて生きていく必要があります。もうそこには「普通」というものはなくて,それでもあるという幻想がなんとなくあって,そんなものの様な気もします。
わたしはだいぶ前に,世界は一様に均等であるよりも,できるだけ細かく分かれていて,それぞれの中で異なる価値観で運用されれば良い,そして人々は自分の好きな価値観の世界に所属し,そのメンバーとして貢献すればいい,と考えていたことがあります。実現は難しいと思いますが,今でもその考えはあまり変わってません。人は一人では生きられなくて,どこかのメンバーや権威に寄り添うことで楽になると思うのだけど,その価値観についていけない人が必ずいるわけで,そういう人は無理してそこに所属するのはしんどいだろうと?,そんな風に考えたりしてます。
わたしは人ががんばるには,競争や評価はあってもいいとおもいますが,そこで劣等感を感じる人も,別の尺度や価値観でなにか満足を得られれば良いと思います。
多様な価値観があったほうがいいと思ってるので,「普通」という概念自体に抵抗を覚えるのです。。
元々この文章を書いたきっかけが障害者がらみの文だったので,多様な価値観ということがその人たちに生きる場を与えることになるのかどうかは良くわかりません,というか逆に一部の人を別の世界に押し込むことになるのではないか?という危険性もあって,だから,デリケートな問題だとは思うのですが,やっぱり「普通高校」とかいうから,まるでそこに「普通」というものがあって,そこにいけないのは「普通じゃないみたい」に思うのかな?と思ったりしました。

あっ,そうそう。自動車の免許って「普通免許」って言うんですよね。変ですよね。「普通」って言葉,結構行政用語でよく使われますが,なんか変な響きを持ってるよなぁと思います。あんまり使わないほうが良いんじゃないかなぁ?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「超人」としての親

2009-02-04 21:49:04 | ココロ
この間の日曜,TVの「目が点」で節分の話をやっていて,小さい子供がいる家では,父親が鬼を追い払うと,尊敬されるという話をやってました。鬼を追い払ったら「強い人」として父親を挙げていたけど,その前はTVのヒーローを挙げていたのが,ちょっとほほえましいというか,逆に豆まきしなかったら,子供は父親を強いと思ってないのか?(^^;),とか少し思ったりも。
先日ネットの匿名日記の中に,父親が子供に対して威厳を失う行動というのが書かれていたのを読みました。まぁそうだろうなという内容でしたが,子供の前でこういう行動をするのか,と思ったりもします。でも子供というのは,親をよく観ていて,大人だったら見逃すような,親の行動の一貫性のなさに気づいたりするものです。わたしも子供の頃に,親の言うことが言うたびに少しずつ変わっていたりすると結構反発を覚えました。大人だったらたぶん気づかないような些細なことだったかもしれません。
そういう意味では親というのは子供に対して反面教師になりやすいものかもしれません。子供に厳しく言うのは,子供にちゃんとした大人になってほしいからですが,その内容と,自分の行動が違っていれば大抵子供は気がつきます。「大人だからいい」と言っても簡単には納得しませんし,他人を批判していて,自分がちゃんとできてないとやっぱりそれは矛盾だったりします。
とはいえ,大人からすると,大人といっても人間,そんなにしっかりした人ばかりではありません。結婚するまでいい加減だった人が,子供ができたら急に考え方が変わって立派になろうとするのはものすごく良く見る光景ですが,そんな付け焼きが刃こぼれしないわけもなく(苦笑)。
大人だって一人の人間,そんな立派に生きられるものでもないでしょう。そう思うと,自分の親に対してたいして腹は立たないのですが,そう思えないのは逆に親離れできてない証拠の様な気もします。
わたしの場合,父親に対しては,尊敬というより反面教師的(わたしが親から一番受けた反面教師的教訓は,「ごめん」と「ありがとう」いえない大人にはならないということかもしれません)になった面と,一方で自分も似てるなぁと思ってしまう面があったり,そんな感じです。高校を出るとすぐに別居したので,それ以降ほとんどぶつかる事はなくなりました。最近は歳を取ってわがままになったり,情けなくなったり,言動に一貫性がなくなったり,そういう面が強く出るような気がしてますが,それはむしろ元々がそういう人間であり,わたしの父親として行動していた頃が,がんばっていたのかもしれないと思うと,少し微笑ましくも思えたりします。
人間はそんなに立派な生き物じゃないと思うけど,子供の前では立派であろうとするし,子供にとって親は絶対的なものだから,親には立派な「超人」であってほしいのでしょう。だからそうじゃないと,子供は親に失望しまします。
というわけで,世の中に文句ばかり言うと,子供から観ると相当失望されますよ:-p。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビートと人間

2009-02-01 21:43:19 | 環境・自然科学
Wired Visionの「音楽」は人間独自の能力?という記事を読んで,あぁ確かに歌は人間以外の動物も歌うけど,ビートを刻むのは人間だけじゃないか?と思いました。いや,確かに音楽のリズムに合わせて踊る鳥とか動物もいますが,あくまでも例外というか,普通に動物同士のコミュニケーションにリズムが使われていることはないのでは?という気がします。
だったらどうして人間にだけリズムを刻む能力があるんでしょう?。リズムというと日本人はリズム音痴で,騎馬民族じゃないから?と以前よく言われてました。その真偽はともかく,じゃぁ馬自体がリズムを刻まないのか?というと,どうでしょう。走る分には刻んでいる様も見えますがだからといって刻んでなにかを伝えることはやっぱりありません。
動物の中で人間だけが持っている能力というとしゃべることですが,以前から良く聞くのは,人間は喉の能力が発達してしゃべれるようになったという話。でも,リズムを刻むのは喉にはあまり関係ないようにも思います。どうもよくわかりません。でもリズムでコミュニケーションする能力が先にあって,そこから言葉を習得したのでしょうか。とても興味深く思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする